あたしに必要なのはニケくんだけ
ニケ×ククリ


めずらしいな、と彼は思った。
彼女が自分よりも早くに起きていないなんてことは長いこと一緒にいるが殆どなかったから。
彼の名前はニケという。職業は盗賊。実際はプー同然。何故かと言えば平和な世界で彼の技術が役に立つことと言えば、鍵を忘れて困っている人の家に行って鍵を開けるという様なことくらいだからだ。
それでも生活できているのはひとえにここが人々の言う理想郷だから。
食べ物は豊富で、争いもなく、温暖な理想郷。
退屈な天国。
ニケは刺激がないと生きていけないタイプではないから、その場に合わせてのらりくらりとやっていた。
それに、刺激なら一応あるし。
なんともいえない表情でニケがドアを見る。ドアにはプレートが掛かっていて、ククリ、とファンシーな文字で書かれている。
一年前に“下界”へ旅行に行ったときに旅先で3枚作ったうちの一つだ。
もう一枚はニケの部屋のドアにメタリックカラーで『NIKE』と記されていた。

……あともう一枚は……
この家の玄関に『ニケとククリのおうち』と彩られてぶら下がってたりする。

「もうじき一年になるな」

ダイニングテーブルに頭を預けて呟いた。
彼女と暮らし始めて一年が経つ。いわゆる結婚つーものをしたのではない。もっと幼くて、ままごとの延長みたいな、そういう生活。自分たちがしてきた冒険の続きをしてるみたいな。
この関係がいいものかどうかはニケにはよくわからない。友人に何故そうするのか?と幾度となく尋ねられたが、明確に答えることはついぞ出来なかった。
ククリが寂しがるから。これが自然だから。何かあったらすぐに二人で動けるから。
頭の中でわだかまる言い訳じみた答えが浮かんでは消えて胸を悪くする。
なんだろう、嫌な感じ。
ときどき顔を出すレイドが彼女を連れてどこかへ行くのを見てるような。
あんなに彼女の身体を抱きしめたのに、まだ足りないような飢えた感覚が残っている。

彼女はてくてく歩いている。
気付いたときにはもう既に道を歩いていた。よく知った帰り道、自分たちの住む家への道。
彼女の名前はククリという。職業は魔法使い。実際は見習い。今まで使えていた魔法は封印されてしまったので、新しく闇魔法を習得せんと目下修行中の毎日だ。
平和極まるこの世界で攻撃を主とした闇魔法を習得することに違和感はあったが、光魔法は系統が違うので使えないし、占いなんかの基礎になっている理論は同じなので特に気にしないことにした。
それに火の魔法とか、お料理に便利だし。
にこにこしながら自分の手を見る。呪文を唱えて炎を具現化させた。
安定した火がちろちろと数秒だけ現れて消える。

「今日の夕ご飯はなににしようかなぁ」

次第に見えてきた自分の家。レンガの家の玄関先には色とりどりの文字がちりばめられたプレートが下がっている。

『ククリのおうち』

ククリはそれを見てそのまま家に入ったが、数呼吸置いてどたばたと玄関先に戻ってきた。

「勇者様の名前がない!」

プレートは二人で作った。自分の名前を自分で貼って。なのに彼の名前の部分の空間さえなかった。
嫌な予感がしたのか、ククリは家に戻って自分の部屋のプレートを確認する。『ククリ』。ちゃんとある。
振り返ってダイニングの突き当たりにある彼の部屋にゆっくり視線を移す。
そこにはドアさえなかった。

「ゆーしゃさまが消えたー!!」

ダイコンランですダイコンランです。耳元で妖精が大根を持って踊っているのにも構ってられない。

「いやー!食器があたしのだけー!勇者様のお風呂アヒルがないー!歯ブラシもないー!」

部屋中をかき回してククリが混乱したまま片手にスリッパ、片手にエプロン、頭に伝説の鍋、とよく分からない格好で走り回っていると、ククリは何かに足を取られてけつまづいた。

ごん!

頭にかぶっていた伝説の鍋と床が大きな音を立て、ククリはその音に気を失った。

目が覚めるとベッドの中にいた。夢か、とククリは目を擦ってベッドから降りる。ぼんやりする視界はなつかしの我が家。魔法理論の古い教科書と、おばあちゃんの作ってくれたキルト地のベッドカバー。

「……ベッドカバー?」

振り返ってドアの方を見る。大きな姿見に映る自分の姿は3年前に見慣れていたピンク色の寝巻きを纏っていた。

「わ、若返ってる――――――!!」

声なき声で引きつっていると、物音を聞きつけたおばばが何事かとドアをあけ顔を出した。

「ククリや、起きたなら顔を洗っておいで」

懐かしい目線の高さにあるおばばの顔は、いつかと同じように笑っている。
どうなってるのどうなってるのわからないわからない。ククリが固まりながらパニックを起こしていると、怪訝な表情でおばばが彼女の顔を覗き込んではっとした表情になった。

「お前さま、ククリじゃないね。どこから来たんだい?」
「ちっ違う!わたし本物のククリよ!正真正銘のククリなんだけど、中身だけもっと後のククリで、つまり今ここに居るのはククリなんだけど多分おばーちゃんの知ってるククリじゃなくて」

頭の中がぐるぐるして気持ち悪い。自分の中に巣食う違和感を他人に説明できない焦燥だけが全身を急かしている。苛立ちが支配して動けないククリの頭をおばばは何度かゆっくり撫で、そうかい、と小声で言った。

「わたしにゃよくわからないが、お前さまがそう言うのならそうなのだろう。
でも私にはあの子が必要なんだ。どうか返しておくれでないか。お前さまの居るべき場所はここではなかろう」

お前さまを待つ人の所へ帰るがいい。
おばばにそう言われ、ククリは全身が軋むような音を聞いた。そうだ、帰らなければ。大切なあの人の下へ。あの人の所へ……でも、それはどこ?あの人って誰?
体の隅々までくまなく走る焦燥感はどんどん加速してゆくのに、記憶がどんどん断片化して手におえない喪失を実感する。
帰らなきゃ、帰らなきゃ……でも、一体どこへ?

はっと気付くとそこはどこかの町の広場のようで、小さな子供が母親と遊び、野良仕事を一段落させた夫婦が昼食を取っていた。
ククリはきょときょとと合点が行かない様子であたりを見回していたが、見慣れぬ風景よりも自分の着ている服に驚いた。

「こっこれは……闇魔法結社の教祖さま衣装!!」

あの馬鹿馬鹿しい歌が蘇ってくるような気がして身震いすると、不意に背中から誰かに声をかけられる。しかも、聞き慣れた、あの、大好きな、声で。

「ククリさまククリさま、どうかお祈りをさせてください」

振り向くとそこに居たのは……予想と寸部違わぬ金髪の、よく見知った釣り目の少年だったのだ。

「ゆ、ゆーしゃさま!!」

思わず声を上げるククリに、少年はきょとんとした顔をしてから少し微笑んで訂正する。

「??勇者さま?いえいえそんな大それた方じゃありません。オレはジミナ村のニケといいます。ククリ様の話はオレの村にも伝わっていて、今日はお祈りに来たんですよ」

淀みなく使う敬語はククリにとってひどい違和感と絶望をもたらしたが、それに気付く様子もなく、少年は一心に祈りを捧げている。

「……ゆ、ゆーしゃさまじゃないの?」
「へ?……えーと……オレは魔法使いになる修行をしながら旅をしているだけで……大体勇者ってガラじゃないですよ」

あはははと声を上げて笑って、お探しの方と早く会えるといいですねと言葉を残して少年は一礼の後にすたすたとどこかへ向かって歩き出した。
呆然とその背中を見送るククリが放心から立ち直った時には、既にその姿はなかった。

「ゆ…ゆーしゃさ…ま…ぁ………」

……置いてかないでよ…置いてかないで、ククリのこと、知らないなんて言わないで……ククリ様なんて呼ばないでよぉ……
拭き取る間もなく次から次に涙が溢れ出てくる。止まらない熱い雫が教祖の衣装を濡らして、地面には丸い水滴の跡がいくつも砕けていた。
ククリはそれを見て、こんなに悲しい水玉模様はないと思った。

ゆっくり目を覚ますとそこは何かの乗り物の中だった。次第に冴えてくる頭の中とは別に、ぼんやりする視界はなかなか拓けない。
自分の手元を見るとプラトー教の十字架を握り締めていて、着ている服は真っ黒で上等なビロードのワンピース。

「……今度は何の夢なの……」

独りごちてククリが顔を上げると、そこにはたくさんの見知った顔が同じように俯いて並んでいた。
ジュジュやトマはもちろん、魔法おばばやニケの両親までいて、遠くにはあのキタキタ親父さえ仕立てのいい黒いスーツを着て座っている。
何事かと声を上げようとしたら、後ろの席から声をかけられた。

「ククリちゃん、もうじきお墓に着くわ。危ないから座ってなさいな」

振り向くと蛇のおねーさんがエキゾチックでオリエンタルな切れ長の瞳で優しく笑っている。

「……お墓?」
「そうよ、ニケくんが眠る場所」

それだけ言うとルンルンは口を噤んでまた俯いてしまう。乗り物の中の雰囲気はずーんと重くておまけにじっとり湿っぽくて、とてもそれ以上声を出すことなど出来そうもない。

『勇者様のお墓ですって?どうして?ここはどこ?どうしてヘンなことばかり起こるの?』

大混乱したククリが頭を抱えていると、乗り物は目的の場所に到着したようで、みんながゾロゾロと乗り物の外に出てゆく。ククリはそれを放心の表情のまま目で追っていると、乗り物の窓から皆が集まる光景が見えた。

“勇者ニケに永遠の安らかなる休息を与えたまえ”

誰かの甲高く耳障りな声が聞こえ、大勢の人の声がそれに続く。誰もククリがその場に居ないことさえ気付いていないかのように。
ククリはそれをぼんやりぼんやり眺めながら、きっとみんなの足元には大きな穴があって、そこには勇者様の入っている黒い棺桶があって、最後はみんなでそこに土をかけるのだろうなと痺れる頭の端っこで思っていた。

「どうしてこんな悲しいことばかり起こるの?」

そんな自分の声に驚いて目を覚ますと、そこは彼と住む自分の家の自分の部屋だった。頭がうまく働かない。体がだるい。口の中が塩辛い。顔が痛い。手で頬を拭うとべったりと塩水で手の甲がびしょぬれになった。
泣いていたのか。ククリがそう理解するまでに数秒を要する。ようやく納得したところでふと隣をみると、くすんだ金髪の少年が大口を開けて寝ていた。

「……今度はどんないやな夢?」

沈みきったその声が部屋中に細かく乱反響して砕け散ったのを最後に、少年のいびきだけが聞こえるだけになった。

「今度は勇者様は生きてちゃんと隣に居るのね」

ほっとしながらも揺り起こそうとするククリの手が止まる。触れたら消えてしまわないだろうか、果たして起きるのだろうか、もしかしたら別人ではなかろうか。
もし、もしそんなことが起こったら――――――もう立ち直れないかもしれないな、とククリは手を引っ込めて彼の幸せそうな寝顔を凝視する。
自分はきっとこの人が居なきゃダメだ。ダメなのだ。
ずっと先送りにしていた答えの殻がククリの中で弾け飛んだ。面白おかしい冒険の延長じゃもうダメなんだ、自分の心が決着をつけなければいけないと言ってる。ぬるま湯の先にあるのは悪夢だと。
でも怖いの、でも勇気が出ないの。グルグルを封印されて、もうあたし普通の女の子だから……嫌われたらどうしよう!
零れた落涙がニケの手に降る。ぱらぱら、ぽとぽと、たくさん落ちる。
不意に彼の手がぬっと持ち上がって彼女の頬に触れた。

「――――――何―――泣いてんだ?」

驚いて声のするほうを見ると、あの声で、あの声で、あの顔で、ニケが億劫そうにククリを見ている。まだ眠気が残っているのか、ぼーっとした調子でククリの頬に流れる涙を拭った。

「……ゆ…ゆうしゃさまぁ……」

ふえーん、と泣き出したククリが寝そべるニケを押し倒すような格好で彼の胸に飛び込んだ。ニケはなんだなんだと内心多少は動揺したが、寸分もそんな素振りは見せない。

「さては怖い夢でも見たな。」

「そんでね、次はね、勇者様のお葬式でね……」

ククリがしゃくり上げながらニケに細かく話をする。恐怖と悪夢の。
うん、うん。頭を撫でながらぼんやりぼんやりニケがククリの話に相槌を打ち、背中をさする。

「怖かったの、とっても怖かった」

震える声で何度も恐怖を訴える彼女の長い三つ編みを弄びながら、ニケは彼女の口からふっとつい出た言葉に赤面した。

「……そういえば勇者様どーしてククリの部屋で寝てるの?」
「へぁっ!?……いやっ!そのー……あの!えと!」

【ゆうしゃはこんらんしている!】








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