第三の人生
シチュエーション


「こんばんはー、はじめまして。ほのかでーす!」

元気な挨拶、にっこりスマイル。予約を入れて下さったお客様を、明るく出迎える。第一印象は重要だ。特に、初対面の人には
久々の若いお客様。見た目は二十代前半か、半ばくらい。緊張しているのか、若干汗ばんだ手を取り、こちらへどうぞ、と個室へ案内する
部屋に入ると、早速お仕事開始。お客様の胸にそっと手を当て、握った手に指を絡ませる

「お客様は、こういう所にはよく来るんですかー?…………えー、そうなんですかぁ?じゃあ今日はぁ、私の事、いっぱいスキにしていいですよ?…………はい、お客様って私の好みですから、もう一生懸命頑張っちゃいますね!」

背伸びをして、お客様の首に腕を回し、潤んだ瞳で目と目を合わせれば、いつものご挨拶タイム
最初はちゅっ、と軽い接触だけ。今度は目を閉じて濃厚なキス
経験が少ないのか、少々動きがぎこちない。それに、タバコの匂いも、食べ物の匂いもしない。それどころか、歯磨きの、独特の清涼感ある匂いがする

(この人は当たり…かな…)

ちょっと嬉しくなって、強めに舌を吸ってあげる

悪くない
今日という日に、仕事に没頭するというのも……





「じゃ……はるかちゃん、本当にお疲れ様でした」


「はい、今までありがとうございました」


社長に頭を下げると、これまでの事が脳裏を駆け抜けて行った


一年前の今日、私は、アイドルを引退した

昔から、顔とスタイルには自信があった。高一の時、友人の勧めで、女の子向け雑誌のモデルになった。それがきっかけだった
童顔細身で巨乳の私は、ほどなく社長の目に止まり、スカウトされた
社長の事務所がグラビア系を中心に売り出しているのは有名だった為、両親は当然、反対した。だが私はそれを押し切って、高校も辞め、彼氏とも別れ、家出に近い状態で、社長についていった

色々なレッスンを重ねて、十七の時に念願のアイドルデビュー

美嶋はるか
それが、私に与えられた、新しい名前だった

自分で言うのも恥ずかしいけど、結構派手に売り出されていたと思う


数え切れない程の雑誌に載った。写真集もPVも、結構売れた。撮影で色んな国に行ったし、しょっちゅうテレビにも出た。熱愛報道もされた。イベントには、沢山のファンが集まってくれた
私は、一生懸命仕事をこなした。真剣に、熱心に、夢中でアイドルに打ち込んでいた

私はあの時、自分が輝いている事を実感していた

二十一歳の時、私は移動中の車内で倒れた。あまりの激痛に気を失って、そのまま病院に運ばれた
診断の結果は、子宮外妊娠。原因は、当時付き合っていた男だった

もちろん、現役のアイドルが倒れた原因が、これではまずい。周りの人達は、隠蔽と火消しに、躍起になっていた
手術と治療は極秘裏に行われ、男は二度と私に近づかないように、私と付き合っていた事を絶対口外しないように、と念を押され、去って行った

手術は案外長引いたが、セックスも妊娠も、問題無く可能であると告げられた
そして、肉体へのストレスが予想以上に大きい為、長期の療養が必要だという事も

私は狼狽した。入れ代わりの激しいグラビアの世界で、長い休みを取ってしまえばどうなる事か。そんな前例を、いくつか見てきた
まさか自分が、その前例の仲間入りをするなんて…

いや、違う。絶対違う。そんな風には決してならない。私は、ベッドの上で、拳をぎゅうっと強く握り締めた

負けるもんか
私は必ず復帰する
あんなくだらない、一時の遊び心で、事務所の人達の、ファンの、そして私自身の期待を、自ら裏切ってしまった。心の底から申し訳ないと思う
だが、これからは違う。この状況を必ず乗り越えて、今まで以上にアイドル打ち込む。余計な遊び心なんて一切起こさない
そして、みんなの前に、美嶋はるかは再び舞い戻ってみせるんだ
そう心に固く誓った

建前上は海外留学となっていたが、事務所には私へのファンレターがまだ沢山届いていて、それが、何よりの元気の源になった

医者の言う事は何でも聞いた
体に良いと言われた事は、何でも試した
それが、復帰への道なんだと信じて…

何ヶ月か経って、医者に全快を告げられた。確かに、健康にはなった
だが、私は納得なんてできなかった
どうして、何でこうなったんだ

これが肉体的ストレスの影響なのか、療養中、私の身体には、物凄い速さで脂肪がついていった
私はうろたえたが、すぐに気を取り直した
これは過程なんだ。健康な体に戻る為の。元気でなければ、アイドルなんて務まらない。太ったならば、後で痩せればいいんだ。今は、治療を受ける事が重要なんだ
そう、自分に言い聞かせ続けた

果たして、私の体型は、もう元に戻るのは不可能なんじゃないか?と思ってしまう程に変わった
誰かに見られれば、陰口を叩かれてしまうような体格。はっきり言ってしまえば巨デブだ。グラビアアイドルとはあまりに掛け離れた、贅肉だらけの肉体
顔の変化は更に深刻で、いくら太ったとはいえ、鏡を見ても、自分で自分が認識できない程に変わっていた

だが、健康であれば、いくらでも巻き返しはきく。私は、重くなった体を引きずって、美嶋はるかに戻る為に、必死に努力した

過酷なダイエット、食事制限、肉体改造
何度も泣いた
何度も吐いた
何度も逃げ出したくなった
ファンレターも、いつしか届かなくなっていた

それでも、諦められなかった
何としても返り咲いてやるんだ
その決意だけを支えにして、私は耐え続けた

一年後、何とかプロポーションは取り戻す事はできた。…完全に元通り、とはならなかったが
問題は顔だった。ほとんど以前通りに戻らなかった
これは体型以上に致命的だ。このままでは、復帰など望めない

私は整形手術を受けた
何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、顔中至る所にメスを入れ、昔の自分を取り戻すまで、手術を受け続けた
だが結局、そうはならなかった。目も、鼻も、唇も、輪郭の形も、以前のそれとは全く変わってしまい、それどころか、何度も手術を受けたせいで肌はボロボロとなり、髪はストレスで荒れ放題になった
童顔キャラを売りにしていた美嶋はるかは、もう見る影もない。老けてやつれた女の顔になっていた

そのうち、私を訪ねてくれる人は誰もいなくなった
こんな風になってしまった女を、一体誰が必要とするのか
私にはもう、商品価値が無い
自覚はあった。ただ、はっきりとしたきっかけが欲しかったのだ


そんなある日、事務所から手紙が転送された
母からだった。両親にも、『海外留学』の真相は話していない

内容は、地元の近況、父の昇進、そのお祝いに夫婦で旅行に行った事、本当は両親も、私の仕事を応援してくれているという事、海外で頑張っている私を応援してくれる言葉…
そして、手紙の中には、デビューしたての頃の、眩しいばかりに可愛らしい、私のグラビアの切り抜きが同封されていた

『竹本晴奈ちゃんがんばれ!!美嶋はるかちゃんがんばれ!!』

切り抜きには、母の字で、そう書かれていた

私は、本当に久しぶりに笑った

「もういいよね……。もう……」

解放という名の喜び
蜘蛛の糸のように纏わり付ついていた、私のしがらみ。それを断ち切ってくれたのは、優しい母の励ましの言葉と、過去の自分の姿だった



引退会見も、新聞報道も無く、人知れず芸能界を後にした

一年前の今日、二十三歳の時、私は、美嶋はるかから、竹本晴奈に戻ったのだった

ぱん、ぱん、ぱん、とお客様の腰と、私の尻がぶつかる音が部屋中に響く

「あっ、あっ、あっ、あっ、あんっ、いいっ、いいよぉ〜、あんっ、あぁ…」

やっぱりこの人、経験少なかったみたい。バックでするのも初めてらしく、入れるのに少し手間取った
まあ、テクニック自慢をされたり、偉そうな態度を取られるよりは、こういう人の方が遥かにいい
サービスでちょっと声を大きめに出してあげると、嬉しそうに腰を速めた


引退してからは、職を転々とした。居酒屋、喫茶店、パチンコ屋、スーパーのレジ係…。人と接する機会が多かった私は、何となく、接客業が向いているんじゃないかと思い、そういう仕事ばかりを選んだ
幸い、私がアイドルだった事に気付く人はいなかった。その点、容姿に変化があった事は、ありがたかった

だが、仕事はどれも長続きしなかった。普通の生活に慣れていない、というのもあったが、何かが物足りないという感じが、頭を離れなかった
もちろん、こんな事では金が貯まるはずはない。私は、その日の食費にも事欠くようになっていた

今から三ヶ月ほど前、コンビニで働いていた時、最近まで風俗で働いていたという、バイトの子と知り合いになった。この子は大学生だったが、親にバレて仕方なく店を辞める事になったという。女の子の風俗嬢時代の生活ぶりを聞いて、私は即、決断した
私はその子に、店の連絡先を教えてくれるよう頼み込んだ。未経験の人が、いきなり本番アリの所はキツすぎる、と忠告されたが、私は何度もお願いした
何の仕事も上手くいかず、半ばヤケになっていた、というのもあるが、何より収入がいい。とにかく金が欲しかった。こんな生活から、どうにか抜け出したかった
やがて女の子は、私のしつこさに折れ、渋々ながら連絡先を教えてくれた

それが私の今の仕事場、エロティックパレスだった



顔が変わっと言っても、前とは違ってしまっただけであり、別にブサイクになったというわけではない。肌も髪も健康な状態に戻っているので、メイクをきちんとしていれば、なかなか見れる顔だ
全盛期、とまではいかないが、自慢のプロポーションは健在だ
最大の売りであった巨乳は、パイズリ、マット洗い、胸枕と、いまだに男の人達の人気を集めている


「んっ、はっ、はっ、はっ、はあっ、イ、イク?イキます?はあぁ、イッて、イッていいよ、イッて、イッて下さぁ〜〜い!」

お客様がくぐもった声をあげると、私の中でオチンチンが跳ねる

「ああぁ〜〜〜っ!!はぁっ……、ああん……」

絶頂の痙攣を膣内で受け止め、一際大きな声を出す

とりあえず、今回も何事も無く終わった…
一仕事終えて、私の胸に訪れるのは、安堵感、開放感、そしてちょっとした達成感…

やはり私には、接客業が向いているらしい
自ら裸になって男を迎え入れる、究極の接客業

セックスは嫌いではない。むしろ好きだ
体力には自信がある。元アイドルなめんな、と言ったところだ
テクニックにも自信がある。色んな人に、散々仕込まれてきた事だ
何といっても、男に求められているというのがいい

男の視線を、欲望を向けられる度、私は身も心も喜びに震える
だから私は、あんなにアイドルに固執していたのだろうか。今になると、そう思う


楽しい。第三の人生は、結構楽しい
アイドルを辞めて一年、私は、この仕事が好きになっていた

あの後、40分のお客様が一人入った
疲れた体に気合いを入れ、笑顔でお出迎え。笑顔で接客。笑顔でお見送り。これで本日の業務は終了
正午から夜八時までで、今日は結構客が取れた。悪くない。疲れたが、いい稼ぎだ

後は使い終わった部屋を掃除。ちゃんとした清掃の人がいるから、嬢はサッと片付ける程度でいいんだけど、私は綺麗に掃除する事にしている
昔の癖だ。仕事場をずさんに扱う事は出来ないし、スタッフへの覚えもよくなる。客の事だけを考えてはいけない、という事を徹底的に教え込まれていて、今だにそれが抜け切れない

掃除も済んで、大きくひと息。お疲れ様、と心でつぶやく。それから首と肩をコキコキさせながら、ロッカールームに向かう


「あれっ、ほのかちゃん?お疲れ様ー」

入ると、先客がいた

「あっ…、ああ、まやちゃん、お疲れ様ー」

中にいたのが友達だったので、ほっと一安心。思わず笑みがこぼれる

「ほのかちゃん、今日どうたったー?」
「うーん、そういえばオジサンが一人ねー、チップくれたよ、五千円。もっとくれつっーの。はは」
「へー、でもいいじゃん。私、チップなんてもらった事ないよ。私なんかねー、今日の最初のお客さんがさ、デジカメ持って来ててさ、私の事隠し撮りしたんだよぉ!ま、ソッコーで突き出したケドね。アハハ」
「え〜、マジで?最初でそれってキツいねぇ。…あ、お昼に騒がしかったのって、それ?」
「うん。ゴメンね、やっぱうるさかった?」
「うーうん、今日はそれほどでもなかったからさ、気にしないで?…でもそういう人ばっかだね。まやちゃんにつくの」
「う〜ん、そうかもねー。私、突き出したのってもう七人目くらいなんだけどさ、これってやっぱ多いよね?アハハっ」

若干すまなさそうな様子の、まやちゃんの笑顔。正直、女の私から見ても、本当にかわいいと思う
まやちゃんは、入ってまだ一ヶ月半くらいしか経たない、一番新しい子だ
長くすらりと伸びた手脚、豊かな胸、引き締まったウエストに、小さな、整った顔。現役のモデルです、と言えば、恐らく誰もが信じるだろう



風俗嬢同士、ましてや同じ店舗で働く同士は、あまり友達にはならない。そんな話を、どこかで聞いた事がある

私も、そんな物だろうと思っていた
こんな仕事をするなんて、何かよっぽどの理由があるのだろう。そういう人達が、わざわざ他人と仲良くするだろうか
しかも人気商売である以上、みんな商売敵なんだし
そうでなくても、一日中セックスをして男に尽くすのが仕事なのだ。疲れきってしまって、他人を気にかける余裕なんてないはずだ

でも、私にはその方がありがたい
元々、友達を作るのが下手な性格だ。幼稚園から高校までに、できた友達なんて十人もいない
アイドルになると決めた時も、両親から「こんな性格で芸能人が勤まるはずがない」と言われたほどだ。まあ、結果的にはこの性格が功を奏したと思う

必要最低限の人間関係

誰とも深入りはしない
同業者であるアイドルや、その他芸能人とは仕事以外では口をきかない
事務所やスタッフにも、プライベートには一切立ち入らせない
休日でも、極力外を出歩かない
男は作らない

まあ、大体そんな感じ。私は孤独が苦にならないタイプなので、何の不満もなかった。実際、芸能生活は上手くいっていた。……結局、欲求に負けて男を作ってしまった為に、あんな事になってしまったが

とにかく、この仕事についた時も、今まで通り、孤独に、一人を貫こうと思っていた
私は女の子達の輪の中には入らず、控え室の隅っこで、黙って座っているのが常だった
ロッカールームで、呼び出しがあるまで立ち尽くしていた事もあるし、店の裏口で、一人でタバコを吸う事も多かった
そんな状態で、ひと月、ふた月と過ぎていった

まやちゃんと知り合ったのは、そんな頃だった

この頃の彼女は入ってまだ一週間ばかりで、しょっちゅう問題を起こしていた
客との揉め事はほぼ日常茶飯事、三日に一度は遅刻をし、ある日などは、全裸状態の客を、プレイルームから廊下まで蹴っ飛ばし、店中に響くような怒鳴り声で説経していた事もあったという

いわば問題児だった

私は女の子達の顔も名前も興味は無かったが、この子だけはあまりに騒ぎを起こすので、嫌でも彼女の事を知るようになった
よくクビにならないものだ。てゆうか何でこの仕事を選んだんだろう。私はつくづく疑問だった

とりあえず、こんな子とは係わり合いにならない方がいい。それにあんなに気性が荒い子、一緒にいれば騒ぎに巻き込まれかねない
どうせそのうちクビになるか自分から辞めるだろう。それまでの辛抱だ
私は、まやちゃんと同じ空間にいる事を避けた。あからさまに視線を合わせなかった
控え室には極力立ち寄らないようになり、ロッカールームと店の裏口だけが、私の居場所になった


そんなある日、いつものようにロッカールームに入ると、そこには先にまやちゃんがいた

これは気まずい…。さんざんシカトしてきた相手と、密室で二人きり。それどころか、客が相手でも大喧嘩を起こしてしまうほど、気の強い子だ。今までの私の態度について、因縁を吹っかけられるかも知れない
体中に恐怖と緊張が走り、生唾をごくりと飲んだ

お互い何秒間か無言で固まっていたが、先に沈黙を破ったのは、彼女だった

「あのっ…、ほ、ほのかちゃん…だよね?お疲れ様ー。へへっ」
「…あ、う、うん」
「ほのかちゃんと話するのって、初めてだよね?なんか避けられてたし…。ごめんね、私、騒がしくしてばっかりだから」
「………」
「私さぁ、演技とか、男の人に合わせるって、全然わかんなくってさぁ…。アハハっ、ごめんね?」

私が想像していた彼女とは全く真逆の、人懐っこい、かわいらしい笑顔
大きな目は赤く充血していて、周囲はシャドーが剥げて汚れている

「…お化粧、直した方がいいと思うけど…」
「あ…、うん、ありがと…」

まやちゃんは、室内の片隅にある、簡易的な、こぢんまりとした化粧台で、目元を直し始めた

「ごめんね、変な顔見せちゃって。時々ガマンできなくなっちゃうんだけどさ、とうとう人に見られちゃった。アハハ、ごめんね」
「……」
「ダメだよねー。いつも明るい私がこんな顔してちゃ。…ごめんね?」

鏡を見ながら私に話し掛けるまやちゃんの声は、ひたすらに明るかった
その明るい声で、謝る必要のない私に、何度も何度も、ごめんを繰り返した

「……ねえ、泣くほどキツいんなら辞めたら?」

私は久しぶりに、自分から他人に声をかけた

「ん……」
「向いてないんだと思うよ、多分……」
「……」

まやちゃんは私の言葉に返事をせず、メイクに集中した
私は腕を組んで立ち尽くし、彼女の姿を見ながら、返事を待った。何でこんな事してるんだろう、と思いながら

「ん…、もう大丈夫かな…」

まやちゃんは、鏡で何度か目元を確認すると、カチャカチャと化粧道具を片付けて、晴れやか…に見える顔で、私に近づいてきた

「どお?」

にこやかな笑みを小さな顔に張り付け、ずいっと私の目の前につき付ける

「…う、うん、悪くないよ…」
「アハハ、ありがと。…でもよかったなぁ、ほのかちゃん優しい人で」
「やっ……?」

予想外の事を言われて、私の体は思わず硬直した。はこんな風に言われるのは、生まれて初めてかも知れない

「……何で、私が優しいのよ……」
「だって、私を心配して、ずーっと一緒にいてくれたでしょ?……ありがとうね」
「………」

善意に解釈されてしまうと、逆に困る。だが無邪気に感謝してくれているまやちゃんへの反論が思い浮かばず、やり場のないもやもやが、ため息となって口から漏れた

「それにさ、さっき『辞めれば』って言われた時、ちょっと、嬉しかった、かな…」
「……そう?」
「うん。周りのみんなはさ、頑張れ頑張れって応援してくれるの。ありがたいんだけど…ちょっとプレッシャーかな、って…」
「………」
「…よしっ。じゃあほのかちゃん、そろそろ行こっか?」
「……は?行くって?」
「みんなのとこだよ。今日はね、ともちゃんがドーナツ作ってきてくれたんだよ」
「い、いいよ、私は…」
「いいからいいから。一緒に行こうよ。…友達でしょ?」

まやちゃんは、私の手を無理矢理引っ張って、ロッカールームを出た

「ちょ、ちょっと放して!何で友達なのよ…!」
「人が泣いてるとこ見といて、それはないんじゃない?」
「いや、別に見たわけじゃ…」
「ねっ?」
「………」


それからというもの、まやちゃんは私と顔を合わせる度に、馴れ馴れしく声をかけてくるようになった
最初はうっとうしかったけど、それがいつもの事になってしまえば、まやちゃんの他愛のない話が、私の楽しみになっていった

いつしか、私からも彼女に話し掛けるようになっていた
まやちゃんは、それに笑顔で応えてくれた

何でもない話
どうでもいい話
何の実りもない話

そんな事を一緒に語り合って、笑い合う
それが、私の当たり前になっていた

悪くないかも知れない

私みたいな女にも、一人くらい友達がいたって……

「ねえ、ほのかちゃん、今日これから何かある?」

まやちゃんは、すでに私服に着替え終わっていた
彼女もこの仕事に少しずつ慣れてきたのか、近頃は以前のようにしょっちゅう問題行動を起こす事は無くなった。まあ、時々は起こすんだけど…

「ん〜、別に無いけど。何で?」
「何も無かったらさぁ、一緒にご飯食べに行かない?私、こっち来てから外でご飯食べた事ないんだぁ」
「ふ〜ん…。あ、じゃあさ、お酒も飲める所がいいかな〜。ね、悪くないでしょ?」
「お酒?え〜、どうしよ……。ん〜と……そうだねぇ、じゃあ…たまには飲もうかな……?」

やや歯切れが悪かったが、まやちゃんは私の提案に応じてくれた

「ふふっ、じゃキマリだね。今日はい〜っぱい飲もうねー」
「ほのかちゃん、お酒好きなの?」
「ん〜、それもあるんだけど…。今日はねぇ、飲みたい気分なんだ。パーッと楽しく飲みたいの」
「なに?ムカついた客でもいたの?」
「そうじゃないの。何かねぇ………もう一つの誕生日?ってゆうの?そんな感じかな」
「アハハ、なにそれ」
「ちょっと昔さ、色々あってね〜。……居酒屋でいい?新しいお店があってさ、行ってみたかったんだ」
「…うんっ」

誰にも言えないけど、祝杯でもあげたい気分だった

一年前の今日、私はアイドルを引退した
三番目の人生が始まった日

大手を振って自慢できるような職業ではないけど、私はこの仕事が楽しい。素敵な友達もできた


私は今、充実している
三度目の人生は、なかなか悪くない…






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