遠い海から来たHOO
シチュエーション


夕日が海を朱に染めていた。
規則的に見える波も、どれ一つ同じものは存在せず、一度として同じ夕焼けもありはしない。
ほどよい疲労感に包まれながら、彼・犬山 乾(いぬやま いぬい)はその風景を船上から眺めていた。
カモメたちが自分たちを迎えるように飛び交い、白い砂浜にはまだ人影もみえる。
桟橋にクルーザーが到着すると、乗っていた人々は昼間の興奮や好奇心とは違った様子で下船する。
この島の珊瑚礁は美しい。
都会の喧噪を離れ、その自然の作り出した芸術品の中を肌で感じ、手に触れ、心に世界の記憶を得た彼らは、皆一様に満足した表情を浮かべ、談笑しながら荷物を降ろしている。
この仕事をしていて、心底やりがいを感じることだった。
乾はわずかな時間だが、かけがえのない友人になれた観光客たちに向き合った。

「それじゃあ皆さん、今日はこれで解散です。お疲れさまでした」

今の彼らに言葉は多くなくていい、乾はそう思って短く締めくくった。

「だいぶ慣れてきたな」

桟橋から客が遠ざかっていくのを見送ると、船から一組の男女が降りてきた。
男は筋骨隆々の日に焼けた肌をした三十半ばほどの人物で、女も同様に褐色の肌だったが、体つきはほっそりとして締まっている。

「ええ、おかげさまで。社長」

男はこのスキューバダイビング会社の社長で、女はその妻である。
社長、といっても自営業なので、社員はこの三人だけだ。
乾は海洋大学を卒業した後に彼らに拾われた青年だった。
青年、といっても信じてもらえない童顔が悩みの種であったが、それが原因で割りと客商売には向いている。
性格は至って真面目で、海に対する愛情と合わさった純朴さが顔に出ているかのような若者だった。

「後のこと、任せていいな?」
「はい、今日はどうぞごゆっくり楽しんできてください」

一週間ほど前から聞かされていたことだった。
社長こと利根 真一郎と、その妻 舞子の結婚記念日である。
今日はこの後、島の三つ星ホテルでそれを祝うらしい。
社長らしいや、と乾は思う。
ベリーショートがよく似合う妻の舞子は、そんな愛妻家の夫を心から愛しているらしく、そっと腕を絡める。
恥ずかしがりながらその場を去っていく二人を客のときと同じく見送り、彼はひとりため息をついた。
この島へやってきて半年経つ。
こうして一人で大丈夫だと、いろいろと仕事を任せてもらえるようになったことが彼には嬉しかった。
この島は太平洋の群島地帯、アヌエヌエ公国の本島である。
名前をブルースノー島≠ニいった。
砂浜に押し寄せる波がはじけると、その飛沫が雪のようであることからつけられた名前だ。
乾たちの会社はここへやってくる日本人観光客向けにスキューバ体験や講習を行って生計を立てていた。

「……さて、と」

乾は後片付けを済ませると、ウェットスーツも脱いで帰り支度をする。
明日からはしばらく特に予定もない。
日本人向けに仕事をしている関係上、オフシーズンに近いものが生じることがある。
島の大学で趣味の民俗学や考古学の本を読んだり、水産研究などで請け負える仕事があればそれをこなして過ごすのもいいだろう。
そんなことを考えながら、彼はバッグを担いで桟橋を後にする。

格安で買った中古のピックアップトラックが彼の足だった。
島の外周沿いの道路を走る頃には、すっかり夜の帳が降りていた。
時折、空港に着陸するハワイやサイパン方面からの飛行機が、翼端灯を点滅させながら頭上を低空飛行していく。
このアヌエヌエ公国の主産業は観光だ。
アヌエヌエという国名も、原住民たちの言語で虹≠意味するように、
季節や見る場所によって飽きることのない美しさを持った自然が今もなお残っている。
おそらく、あの飛行機の乗客のほとんどは世界各国からの観光客だろう。
近年では日本人も多く来るようになったので、乾たちのような日本人向け観光産業も成立するようになった。
彼はそんな島の穏やかな宵闇を楽しみながら車をゆったりと運転する。
その時だった。

「あれ?」

市街地へ続く道で、女性が立っている。
夜目にも眩しいウェーブのかかったプラチナブロンド、
少し濃いめの化粧、そしてシルバーアクセ、加えて南国とはいえ露出の多い服装の若い女だ。
彼女は大きな旅行鞄を足下に、親指を立ててこちらを見つめている。
それがヒッチハイクなのは一目瞭然だった。
この道は空港からのシャトルバスやタクシーがよく行き交うが、この時間帯ではそれらをのぞけば普通の車の行き来はほとんどない。
自分が素通りすればあの女性は随分と待たされることになるだろう。

「どうしました?」

彼は持ち前の親切心から路肩に車を止めた。
ヒールの高いサンダルを鳴らし、女が走ってくる。
女が腰を折って運転席の彼を見る。

「あらぁ! ありがとう、ミスター」

艶のある声と、どこか蠱惑的な香りのする香水の匂いが彼の耳と鼻をくすぐった。
思わずぎょっとする。
無理もない。毎日を船と港で過ごす彼にとって、その感覚は刺激が強かった。
何より、運転席からは、もろに女の胸の谷間が見える。驚くほどの巨乳の持ち主だった。
どぎまぎするのを悟られないよう、できるだけ平静を装って彼女に尋ねる。

「ヒッチハイクですよね?」

女の円らなアンバー色の瞳がぱっと開かれた。

「はいー! あのぉ、ハウオリ市パール通り三丁目のマーメイド≠チていうお店まで行きたいんですけどぉ?」
「パール通り?」

ハウオリ市はこの先にある公国の首都だ。リゾートホテルやレストラン街、国営カジノなど、自然以外の観光の目玉が集中している。
しかし、パール通りという地名は聞いたことがない。バックパッカー向けの安宿通りだろうか。
彼は少し記憶の糸をたぐった。

「だ、ダメですかぁ?」

祈るように手を合わせる彼女に、はっとした乾は慌てて助手席を促した。

「ああ、いいですよ! どのみちハウオリ市は通りますんで」
「本当!? 良かったわぁ〜」

彼女は荷物を荷台に放り込むと、助手席に入ってくる。
錆びた鉄と、潮の臭いの中、若い女の甘い香りが車内に充満した。

ひとまず車を出し、横顔をちらりと見やる。

(綺麗な人だけど、観光客なのか?)

それにしてはそう高くもないハウオリ市までの運賃さえ持っていないとはどういうことだろう。
バックパッカーにしては服装が派手だし、ネイルは美しく手入れされている。
どこか、この穏やかな島には不釣り合いな印象を持った女だった。

「あぁ、あったわ、この地図の場所なんですけどぉ」

間延びした口調で彼女は取り出した地図を彼に渡す。

「ああ、はい、ここですね」

地図を見ると、繁華街の外れに記しがついていた。
今まで用事がないので繁華街は少しカジノなどを観光ついでに見て回っただけで、奥の方へは行っていない。
だが、大まかな道順は覚えているので、少し遠回りだが彼女をそこまで送ることにした。

「お店までいいの〜? 助かるわぁ〜!」

屈託のない笑顔に、乾は思わずドキリとしてしまった。
乾には恋人はいないし、大学時代も自分が好きな研究に没頭していたせいで女性には免疫がない。
善意とはいえ、こんな美人を助手席に乗せることができて嬉しくないはずがなかった。
自然と口の弾んでしまう。

「そういえば、空港からあそこまで歩いてきたんですか?」
「そうなのよぉ〜 もうクタクタだわぁ〜」
「島へは旅行で?」
「んーん、仕事よ。元々はベガスで働いてたんだけど、どうしてもこの島に来たくて」
「へえ、アメリカから?」
「公用語も英語だし、私でもなんとか住めそうだったのよぉ」
「やっぱりあれですか、スローライフに憧れて?」
「そんなところかしらぁ〜、私、海のない州で育ったから、海辺で暮らすのに憧れててぇ」
「なるほど」

市街地に入ってネオンの煌びやかさが目につくようになってきた。

「僕も日本から南の島に憧れてこの島に来ましたからね、わかりますよ」
「あら、お兄さん日本人だったの?」
「ええ、そうなんですよ」
「へぇ〜……」

じぃ、と彼女が乾の横顔を見つめる。
ちょうど信号待ちだったので、不意に目が合った。
ネオンの光が、彼女の琥珀色の瞳に反射している。

(綺麗な目だな……)

彼はお世辞ではなくそう感じた。
化粧の濃さをのぞけば、日本人好みのする愛嬌のある顔なのかもしれない。
しかし、そこには何か違和感のようなものも潜んでいる気もした。

「な、なんでしょう?」
「んふふ、お兄さん、キュートねぇ……」

ピンクのルージュの引かれた彼女の唇は、熱い吐息を漏らすように言葉を紡ぐ。
その光景だけで、彼は彼女に邪な感情を抱いてしまいそうになり、慌てて目をそらし、前を向いた。

「そ、そりゃどうも……」
「日本かぁ、いつか行ってみたいわぁ」
「アメリカにくらべればちょっと狭い国ですが」
「ちょっと、なのぉ?」

二人で笑ったところで信号が青に変わった。

慌ててクラッチを入れて車を出す。彼女と話していて気づかなかったが、周囲の風景が次第にみすぼらしいものに変わっている。

(この島にこんな寂れた場所があったのか……?)

海以外は社長の知り合いの雑貨店や大学を行き来する私生活を続けていたため、夜の繁華街を見る機会がなかったせいだろう。

「あった、パール通り……」

見た目こそ違うものの、日本でも港町で目につく場末の酒場通りというものが、この島にもあったことに彼は小さな驚きを感じていた。
酒場通りとはいえ、そこは酒以外のものも提供する場所も多そうだった。
猫をあしらった毒々しい色の点滅を繰り返すネオンや、網タイツの女性の足の看板がデカデカと乗った店がある。
服装からして現地人ではなく観光客らしい中年男たちが赤ら顔で歩いているのが目についた。
だが、穏やかな島とはいえ、元々は大航海時代に海賊が拠点にしていた歴史のある街なので、そういった店があってもおかしくはない。

「あっ! あったわぁ! マーメイド=v

少し古く、趣を感じさせる四階建てのビルの前で彼女が叫んだ。
見ると、確かにマーメイド≠ニ入り口には他と比べてそれほど派手ではない看板が立てられている。
一見すると普通のマンションのように見えるその建物だが、彼女はここのことを店≠ニ呼んでいた。
はっと彼女を振り向くと、彼女は妖艶な笑みをたたえてシートベルトを外した。
ゆさ、とその大きな胸が揺れる。

「ここがぁ、明日からの私の職場なのぉ」

助手席を降り、荷物を荷台から取り出す。
呆然としている彼の顔を乗ってきた時のように外から腰を折ってのぞき込む。

「今日はここまで送ってくれてありがとうねぇ〜」

彼女はその白魚のような指先を彼の頬に這わせた。
触れられただけで、何か背筋がゾクゾクとするような感覚に襲われる。

「これは……お・れ・い」

ちゅ、と頬にキスされた。
彼女の唇は、頬に触れただけでも柔らかく、淫らな吐息を孕んでいた。
突然のことに硬直していると、彼女は何かを思い出したのか、際どい丈のホットパンツのポケットからカードを一枚取り出した。

「あ、そうだわぁ、コレ、私の個室番号だから、お兄さん、機会があったら是非きてね!」
「え、あ、ああ、うん……」

カードを受け取ると、にっと屈託のない笑みを彼女は浮かべた。

「じゃあねぇ〜、おやすみぃ〜!」

彼女は重そうにバッグを担ぐと、彼に背中を見せて玄関へと歩いて行く。
歩く度に肉付きの良い尻が揺れて、微かな潮を含んだ風が彼女の背中にかかった銀髪を靡かせる。
彼女はドアを開け、中へ入る前にもう一度彼に向かって手を振った。
そして、建物の中へと消えていった。
彼はしばらく呆然としていたが、手元に残ったカードに視線を落としてみる。

(405号室Fiona=c…フィオナ……か)

それが本名なのかどうかは判然としない。
彼はもう一度マーメイド≠フビルを見上げてみた。
ほとんどの窓は閉め切られているか、ブラインドから刺激的な紅い光が漏れ出ている。
マンションとの決定的な違和感はそこにあったのかもしれない。

そう、そこは売春宿≠セった。

からん……

グロサリーカナカ・マオリ≠フドアをくぐると、バンダナを巻いた朝黒い肌の店主がカウンターで笑った。
店内は椰子の木を組んだログハウス調で、天井では年季の入ったシーリング・ファンがやる気のなさそうに回転している。
正午にもならないこの時間帯は、まだ食材を購入に来る人もいないためか、店内に人影はなかった。

「よおイヌイ、仕入れか?」
「うん、まあね」

このグロサリーは乾の会社の桟橋と近い小さな集落にある。
すぐ近くには珊瑚礁の砂浜が広がり、穴場と聞きつけた観光客が時折泳いでいるのをのぞけば静かな村だ。
集落内には会社の事務所が入った建物もあり、実質この集落が彼の生活範囲といってよかった。

「ボンベなら裏のいつもの場所にまとめてあるぜ。空のボンベ、俺が降ろしとこうか?」
「ありがとう、頼むよ」

カナカ・マオリ≠ヘダイバー関係の商品も扱っており、乾の会社は主にここで必要な機材を揃えていた。
昨日は客が多かった上、かなりの時間潜ったので消費された酸素ボンベも多い。
ストックが少なくなる前に仕入れに来たのだった。

「よっ!」

乾は一見華奢な身体つきだが、伊達にダイバー資格を持っているわけではなく、重いボンベを抱えるその姿は力強い。
店の裏と駐車場を何回か往復し、汗をタオルで拭うと店内へ戻った。

「終わったよ、カイルさん」

カイルは店主の名だった。
引退した前の店主から店を受け継いだ、気前の良い男性である。
年齢的にもまだ若く、乾も兄のように慕っていた。

「じゃあ、請求はいつも通り会社に」

仕入れの手続きを済ませると、カイルが尋ねた。

「あいよ。そういやあ、この時間帯に来たってこたあ、今日はオフか?」
「ええ、そうなんですよ」
「じゃあちょっと茶でも飲んでけよ。俺も今日は暇なもんでな」
「あはは、じゃあごちそうになります」

ゆったりと時間が過ぎる、この島らしい光景だった。
二人はドアの外のベンチに腰掛け、アイスコーヒーを飲みながら世間話を始めた。
この集落の人間はほとんど知り合いのようなもので、店番をしていなくともそれほど心配はない。
田舎を絵に描いたような場所である。

「今日は昼あたりからまた大学か?」
「そうしようかなって思ってます」
「ふーん、やっぱ日本人は勤勉だなぁ」
「趣味ですよ」
「俺も午後は店締めて沖に釣りにでも行くかぁ」
「こないだもそんなことやってましたよね? カイルさんは怠けすぎです」
「るせーやい! ちゃんと市場に卸す副業だ副業。俺だってたまには女遊びの一つもしてえんだよ」

ドキ、と昨日の記憶がフラッシュバックした。
思わずあの女性にキスされた頬をなぞってみる。
同時にあの甘い香りを思い出すと、どうしようもなく心がざわめいた。

(そういえば……)

確か彼女は個室番号≠ニか言っていた。
売春宿になど入ったことのない彼には、それが何の意味を持つのかいまいち分からない。

「あ、あのさ、カイルさん」
「んー?」
「パール通りって、知ってる?」
「ああ、あのピンク街のある通りだな」

やっぱりそうなんだ、と彼は思わず顔を赤くしてしまう。

「なんだぁ、やっぱそういうの興味あんのか?」
「う、い、いや、その……」
「いいんだいいんだ、そっかぁ、まあイヌイは奥手だかんなぁ、そういう場所をそろそろ知ってもいいよなぁ」

カイルは心底楽しそうにしみじみと語り始めた。

「よぉーしいいかぁ? ちゃんと女には選び方ってのがあってだなぁ……」



仕事の仕入れでもしていれば劣情が紛れるだろうと考えたのが裏目に出た気分だった。
ボンベを事務所の倉庫に積み込み、アパートへ戻り、汗を流すためにシャワーを浴び、昼食をとったが、ダメだった。

「……行ってみる、か」

具体的にどうすればいいかをグロサリーで知ってしまった上、今日が休日という条件が重なってしまった。
まだ日は高いが、下見だけでも、と自分に言い訳して外へ出る。
もし誰か知り合いに見られたら厄介なので、パール通りには直接乗り付けず、近い駐車場を探して止める。

(うう……どきどきする)

歩いていると、絡みつくような視線をしばしば感じた。

「ボウヤ遊んでいかなーい?」

路地裏から褐色の若い女性や、

「ミスター、ワンタイム30ポッキリネ!」
「あんたチャイニーズか?」

路地にたむろしているけばけばしい女性たちが、フレンドリーだったり、険しかったりと様々な視線や声を投げかけてくる。
それを振り切るように足早にマーメイド≠目指した。
路上で声をかけてくる女性の中には実際結構な美人もいたりしたが、
カイルの注意で、初心者がストリートガールを誰かの紹介なしに相手するのはやめておいた方がいい、
というのを肝に銘じて振り切ってきた。
それに、やはり昨日の女性……フィオナのことが気になったのだ。

「ふぅ……」

マーメイド≠フ前に到着する。
ネオンに彩られた夜ではないからか、昨日よりも一層普通のマンションかアパートに見える。
しかも、閉じられた窓が多いせいもあってが、営業中なのかどうかも怪しい。
立ちつくしていても始まらないので、今日はここが締まっていたらすぐに帰ろうと決心してドアに向かう。

(う、開いてる……)

ドアを開け、中へ入ると、目が慣れるのに少し時間がかかった。室内が暗かったのだ。
昼でも薄暗い内部の廊下には赤色燈が灯り、いかがわしい雰囲気や、どこか情欲をそそる香水じみた香りが漂っている。

(受付とかないのかな?)

それらしいものは見つからない。

フィオナのいるらしい四○五号室は四階だから、階段を探すことする。
廊下を歩くと、そこはホテルかマンションのように部屋のドアが等間隔に並んでいた。
大半はドアが閉まっているが、いくつかのドアは開けっ放しにされている。
そして、その中の一つの前を通った時、彼は度肝を抜かれた。

「ハァイ、昼だから安くしとくわよ」

際どいドレス姿の娼婦がドアの入り口で椅子に腰かけ、こちらに微笑みかけてきたのだ。

「お客さんここは初めて? 今日はシケてるし、ナマOKよ。どう?」

金髪を結い上げた、驚くほどの美人だった。
そんな女性に、ストレートな性関係を迫られ、彼は咄嗟に返答したが、声が裏返ってしまった。

「え、遠慮しておきますぅ!」
「あらあら……」

逃げるように階段へと向かうい、途中出会う娼婦たちとはなるべく目を合わせずに四階まで上った。
しかし、ちらりと見たマーメイドの店内は、客がいないせいかうっかり欠伸をするのを見られて苦笑いする娼婦や、
仲が良いのか三人ほど集まって談笑している年若い者同士の娼婦たちなど、様々な娼婦たちが建物の中でそれぞれの日常を営んでいることがうかがえた。
どうやらここはそれぞれの娼婦に個室があてがわれ、直接彼女らと値段やプレイ内容を交渉するシステムらしい。
締まっているドアは、出勤していないのか、あるいは現在使用中ということなのだろう。

「すぅー……」

フィオナの四○五号室を探す。
道すがら、心なしか一階に比べて娼婦の質が落ちているような印象がした。
そういえば、カイルが言っていた。
売春宿にはヒエラルキーがある、と。
なるほど、わざわざ四階まで上がる客は少ない。つまり、娼婦の部屋番号とは指名率を表しているのだ。
おそらく、新人や質の悪い娼婦は上の階に集められているのだろう。
こちらを見るなり忌々しげにタバコの火を踏み消した中年の娼婦に、彼はそれを確信した。

(四○五号室は突き当たりか……一番悪い立地じゃないか)

彼は角を曲がり、おそらく玄関から最も遠い部屋へと向かった。

「あれ……?」

突き当たりにはブラインドが下ろされた窓がある。
その窓の前に、椅子を置いて座る娼婦がいた。
彼女は半分ほどブラインドを上げ、頬杖をついて外の景色をじっと眺めている。
白く透き通るような肌、ウェーブがかった銀のロングヘア。
椅子に座り、組まれた足は、すらりと長く美しい曲線を描き、その白い肌は純白のガーターベルトで飾り付けられている。
木漏れ日のように差し込んだ日光と合わさって、その姿には神々しささえ感じられた。
今まで彼が見てきたどの女性よりも、綺麗で、そして淫らだった。

「フィオナ……?」

後ろ姿だけでも間違えるはずもない特徴に、彼は思わずその娼婦に声をかけていた。

「はい〜?」

間延びした声で、彼女は振り返った。
やはり、フィオナだった。
首にランジェリーと同じ純白のファーマフラーをかけ、高級感を演出している。
彼の顔を認めると、ややあってパッと表情を輝かせた。

「あらぁ〜! ボウヤ昨日の」
「は、はい」
「私に会いに来てくれたの?」
「う、うん……」

今まで女性に会いに足を運ぶということをした経験のない彼には、どこかこそばゆい会話だった。

「うれしいわぁ〜!」

彼女は立ち上がり、ハイヒールの踵を鳴らしながら彼に歩み寄る。

「ボウヤがこの島に来て、初めてのお客さんよ」

きゅ、と彼女は彼の手を両手で包んだ。
彼女のほのかな香りが、彼には心地よく感じられる。
しかし、じっと潤んだ瞳で見つめられるのには慣れていない。

「ぼ、ボウヤってほどの歳じゃないですけどね」
「んふふ、そうだわ、名前、聞いていい?」
「イヌイです。イヌイ・イヌヤマ」
「……舌噛みそう」
「イヌイでいいですよ。ダメそうならイヌイットって覚えてみてください」

英語圏の人に名前を教えるときの定型文を彼女にも伝える。

「オーケー、じゃあ、イヌイくん……」

彼女が片足を彼の腰に回し、股間を密着させて囁いた。

「今日はどんなプレイをご所望かしらぁ?」

彼女の柔らかな肉感が全身に絡みついてくる。
特に、腰を当てて密着させた股間では、既に情けなく勃起した彼の怒張と、薄く白い下着一枚の彼女の丘が触れあっていた。

「プ、プレイ……?」
「そぉ、プ・レ・イ」

そこに至って、彼は自分がここに何をしにきたのかをはっきりと意識した。
この女性を、フィオナを買いに来たのだ。
彼女に金を払い、その身体でサービスを受ける。当然のことで、当然ではない行為をするためにやってきたのだ。
しかし、いざどうしたいかを尋ねられると、すぐには答えが出なかった。
それを見て、彼女が赤い唇を舌なめずりした。

「んふふ……ねえ、イヌイさん」

今度は腕を首に回され、完全に抱き合うような形にされた。
その巨大な胸が、彼の胸板に押しつけられ、弾力を与えながら潰れる。

「童貞くん卒業コースってのはどうかしら?」
「うっ!?」

なぜそれを、と彼女を見ると、彼女は苦笑いを浮かべた。

「職業柄分かっちゃうものよぉ? でも安心して、私はそういう人相手にするのも嫌いじゃないの……」

とろけるような声で囁かれ、彼は腰が抜けそうな気持ちになった。

「一通り込みの60分で、USドルで150でどう……?」
「あ……う」
「ど・う?」

股間を指先でなぞられ、もう彼女に何か抗うための理性など彼には残っていなかった。

「わかり、ました……」
「んふふ、じゃあ商談成立よ」

ちゅ、と首筋にキスをする。
そして、そっと彼の頬に両手を添え、うっとりとした表情で言った。

「最高の初体験にしようね」



通された部屋でまず目についたのは大きなダブルベッドだった。
というより、部屋の大半をベッドが占めているのである。
抑えめな照明は、建物の古さを隠すのと、娼婦の身につける下着の色を際だたせる効果を狙っているようだ。

「さ、イヌイさん、服脱いで」
「あの、シャワー、とかは……?」
「イヌイさん、ここ来る前に入ってきたんじゃないの?」

どうしてそんなことまで分かるんだろう、と疑問に思うが、ふと彼女が自分に会ってからした一連のスキンシップを思い出した。
手を握ったのは爪が伸びてないかの確認、身体を密着させたのは身体が清潔かどうかを知るためだったのかもしれない。

(さ、さすがはプロだなぁ……)

そんな人を相手に、自分はどこまで虚勢を張れるのだろうか。

「私は昼前に一度入ったんだけど……気になるなら入ってくるけどぉ〜?」
「い、いえ! いいです、フィオナさん、とってもいい香りがしたし」
「んふふ、ありがとう。じゃ、始めようかしらぁ」
「は、はい……」

女性の前で服を脱ぐことに抵抗感があったが、上着を脱ぐと彼女がそれを受け取り、ハンガーにちゃんとかけてくれた。

既に固くなっている自身のものを見られないよう、一応彼女には背を向けて下は脱ぐことにする。
が、これからすることを考えれば無意味なことに違いなかった。

(こりゃあ童貞ってバレるか……)

自嘲しながらベッドに腰かけ、靴と靴下も脱いで完全に一糸纏わぬ姿になる。

「そこに横になって」
「うん」

こんな広いベッドに全裸で横になるのは新鮮だった。
シーツは綺麗なものだし、これだけでもちょっと開放的な気分になれる。

「わ……」

フィオナがベッドに入ってきた。
仰向けの彼の上に跨るその身体には、ガーターベルト以外何も着けられていない。
その大きな乳房はブラ無しでも一切形を崩さず、挑発するように淡い色の乳首を乗せている。
抑えめの照明に浮かび上がる彼女の裸身は、まるで芸術作品のように整っていた。
その光景は非現実的で、まるで夢の中にいるように錯覚してしまいそうだ。

「触っていいのよぉ……?」

熱っぽい声で彼女は身をかがめ、自分の双乳を彼の鼻先に差し出した。
ぷるん、と彼女の二つの果実が彼の前で揺れる。
彼は恐る恐る、その豊かな実りに手を伸ばした。

「ああん……」

揉みしだく彼女の乳は、指が沈み込むほどの容量を持っていた。
柔らかく、それでいて弾力も十分。
彼は揉むだけでは飽きたらず、頭を起こしてその乳首を口に含んだ。

「あひぃっ!?」

彼女の白磁のように白い身体がビクンと反応した。
彼はその獲物を逃がさないようにしっかりと抱き寄せた。

「ちゅっ……ちゅぷ……ちゅっちゅっ……」
「あぁ……あふ……いいわぁ……」

しばらく彼女は彼のなされるがままだった。
しかし、ややあって徐々に硬度を増して自分の下腹部に押し当てられるものに手を伸ばした。

「ふふ……でも、イヌイさんのも」
「あうっ!?」
「こんなになっちゃってるわぁ……」

すりすりと彼のペニスをさする。
その度に、彼のそれはビクビクと刺激に反応した。

「あはぁ……凄いわ、こんな固いの初めて……」
「うっ……ダメだよ、そんなされたら、で、出ちゃう」
「ああん、まだ出しちゃイヤよぉ!」

彼女はしごきを緩め、彼の頬をぺろりと猫のように舐めた。
そして、奪うように唇を重ね、唾液を交換する。

「んちゅ……くちゅ……んはぁ……」

初めてのキスだが、フィオナが舌を積極的に彼の中へ入れ、そして絡ませあいながら自らの中へも誘ってリードする。
熱く、溶かされそうなキスだ。
意識が朦朧としてくるような快感が彼を襲った。
しかし、彼女は彼が限界を迎える前にすかさず舌を引き抜いた。

「出すならぁ〜……」

彼女が枕元へ手を伸ばす。

「……私の中でドピュドピュしなくちゃ」

彼女の手にはコンドームが一枚握られていた。
ピリリと封を切ると、中身を口にくわえてしまう。
そして、彼の先走りの滲んだペニスの先端へ口を合わせ、器用に被せていった。

「ん〜……ぷはっ」

ニチニチと二三度しごいてゴムをなじませ、挿入の準備を終える。

「じゃあ、いくわよ……?」
「は、はい!」

彼女は腰を浮かせ、彼の男性器を自身の膣口にあてがった。
熱い愛液の感触が、ゴム膜越しにも彼には感じ取れそうだった。

「あ……入ってくわぁ……」

ゆっくりと、彼女が腰を降ろしていく。
熱く、柔らかく、それでいて締め付けるような感覚が敏感な部分を包んでいく。

「うぁぁ……」

根本まで彼女の中へ収まった時、射精してしまわなかったことにまず驚いた。
もし彼女がもう少し素早く挿入していたなら、堰を切ったように彼は果てていたことだろう。
完全に男のことを知り尽くした者だけにできる芸当だった。

「どうかしら……初めての感想は?」
「フィオナの中、あったかい……」
「ふふ……」

彼女はもう一度彼に口づけをした。
今度は、恋人同士がするような確かめ合うキスだ。

「我慢しなくていいからね……」
「はい……」

二人はどちらともなく、両手を互いに合わせて律動を開始した。

「はっ はっ あっ あんっ んっ」

ベッドが軋み、二人の結合部からは粘着質な音が漏れてくる。
小刻みな行為だったが、童貞の乾にとってはそれだけで絶頂を迎えるのには十分だった。
握り合った手に思わず力が入り、天井を仰いで射精感を必死でこらえる。
しかし、もう限界だった。
自分の膣内で膨張する男性器を察知した彼女は、ピストンを早めてそれを受け入れる。

「イクの? イクのね? いいわ、いっぱい出して! 私の中でイッてぇ!」

ガンガンとベッドのスプリングが悲鳴を上げ、それに合わせて彼の尿道を塊となって精液が駆け上ってくる。

「うぁああっ!?」
「あっ あぁぁーーっ!!」

最後の一突きを撃ち込んだ瞬間、彼女が律動を停止した。
刹那の静寂。
いや、正確には絶頂だった。
彼女はその最も深い場所に男をくわえ込み、その射精を受け止めていたのだ。

「………はぅ」

しばらくして、彼女が彼に身を委ねた。

「いっぱい……出たね?」

耳元で囁き、彼女は最後にもう一度膣内に力を入れた。

「あくっ……!?」

痙攣するように最後の一滴が彼女の中にはき出される。
二人はしばらくの間、余韻を楽しんだ。
乾は握り合った彼女の手をじっと見つめていたのだった。






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