妹は大変変態です
シチュエーション


ふと目を覚ましたとき、聞こえてきたのは切なげな喘ぎ声だった。

(またかよ)

内心ため息を吐きながら、修治は薄目を開ける。
何時かも分からぬ深い闇の中に、目の前に座り込んでいる人間のシルエットが浮かんでいる。
小柄で丸みを帯びた女性のものと分かるその人影。間違いなく、妹の早夜だった。
早夜は、横向きになって寝ていた修治の顔のすぐ前に座り込んでいるのである。その姿勢で何をやっているか、修治にはいちいち確認するまでもなく分かっていた。
自慰である。荒く切なげな喘ぎ声の隙間に、かすかな水音が混じっていた。
修治が黙って見守っていると、早夜の声は次第にはっきりしたものになっていく。

「ああ、お兄ちゃん」

修治はうんざりした。

(近所迷惑だって言ってんのに)

そんな兄の内心も知らず、早夜はその行為に没頭している。よく見ると、寝巻きをはだけさせて露出させた乳房を左手で弄りつつ、右手で陰部をかき回しているようである。
妹の汗と愛液が入り混じったなんとも表現しがたい異臭が鼻腔の奥を刺激する。修治は必死に顔がひきつりそうになるのをこらえた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

早夜は相変わらず自分の体をいじくり回してばかりで、こちらの苦労には全く気付いていない。
それどころか、いよいよ声と指の動きを激しくして、順調に絶頂への階段を上っているところらしかった。

(変態女め)

修治の心にふつふつと怒りが湧き上がってくる。

(人の安眠を妨害するなと何度言えば)

修治は冷静にタイミングを見計らった。怒鳴りつけたくなる衝動をこらえ、タイミングを待つ。
早夜が絶頂に達するサインは知り尽くしていた。嫌なことに。

「お兄ちゃん」

早夜が小さな悲鳴のような声を上げる。今だ、と修治はカッと目を見開く。

「きて」
「分かった」
「え」

早夜が詰まったような声を出すのと同時、修治は布団を蹴り上げながら上半身を跳ね起こす。
そして、右手に握っていたプラスチックのバットを妹の脳天目掛けて思い切り振り下ろした。
実に小気味よい間抜けな音が、夜のアパートに小さく響く。ジャストミートである。早夜は頭を押さえて小さく悲鳴を上げた。

「痛いよお兄ちゃん、なにするの」
「そりゃこっちのせりふだ。なにやってたのお前は」
「ナニやってたの」
「そういう使い古されたギャグを聞きたいんじゃありません」

修治はもう一発妹の頭を叩く。プラスチックの空バットなので、音ほど痛くない。
安心して何発でも妹の頭を叩いてやれる、修治お気に入りの一品である。
早夜はたまらず、寝巻きを乱したまま退避する。

「やめてよお兄ちゃん。妹の頭が悪くなったらどうするの」
「バランスが取れて正常に戻るかもしれんから何発でも叩いてやる」
「もっと悪化する可能性もあるよ」
「じゃあ止めとこう」

とりあえず部屋の隅にバットを放り投げてから、修治は布団の上で立ち上がると、電灯の紐を引っ張って明かりをつけた。
いつもどおりの、狭いが小奇麗な部屋である。こういう状況でほとんど半裸のような格好をしている妹までいつもどおりだ。
修治はため息を吐いた。

「とりあえず、服を直せ」

早夜はわずかに顔を上気させて微笑みながら、立ち上がって修治の体に抱きついてきた。
そのまま、修治の腹の辺りに、露出した乳房をこすりつけてくる。
その感触から妹が乳首を固くしているのが分かって、修治はたまらなく嫌な気分になった。
そんな兄の気持ちなど知らぬげに、早夜は熱っぽく潤んだ大きな瞳で修治を見上げてくる。

「ね、お兄ちゃん。しよ」

とりあえずデコピンしておいた。

辻村修治は、180cmを超える長身であることを除けば至って普通の男子高校生である。
美形と称されるほど整った容姿でもないし、粗暴と称されるほど乱暴な性格でもない。
長身を活かしてバスケ部に所属してはいるが、それほど腕がいい選手でもない。
ただ、明らかに人と違うものを一つだけ持っていた。
変な妹である。いや、変態な妹である。

「さて、それじゃ今日の弁解を聞こうか」

とりあえず早夜に服を直させた修治は、布団の上にあぐらをかいて妹と向き合っていた。ちなみに早夜には正座させてある。
もちろんその程度で反省するような女ではなく、早夜は早くも顔を上気させて布団のしわを指でなぞっていた。

「お兄ちゃん、お布団くんくんしてもいい」
「人の話を聞け」

修治は妹の頭を右手でつかんで、無理矢理自分の方に向けさせる。早夜は悲鳴を上げた。

「いたいいたい。お兄ちゃん、わたしこういうプレイあんまり好きじゃない」
「俺だってやりたくてやってる訳じゃないっつーの」

そう言って頭を離してやると、早夜は瞬時に艶っぽい表情を作って体をすり寄せてきた。

「じゃあもっと楽しいことしようよ。ね、わたし、絶対気持ちよくさせてあげるから」

修治はにっこりと笑った。

「分かった。それじゃあ俺も気持ちよくさせてやるよ」

修治は、予想外の反応にぽかんとしている早夜の背後に回り、彼女の両肩に手を乗せた。

「それじゃ、いくぞ」
「待ってお兄ちゃん、わたし、心の準備が」

急に焦り出した早夜に、修治は笑い声を上げる。

「安心しろ、早夜」
「でも」
「大丈夫だって。準備する暇もなくいけるから」
「そんな超絶テクが」

期待に頬を上気させ、目を輝かせる早夜に、修治はにっこりと笑いかけ、

「ふん」

素早く早夜の首に腕を回し、一息で彼女を締め落とした。

「ひどいよお兄ちゃん」

数分後に目覚めた早夜の第一声がこれである。
いっそ朝まで寝ててくれりゃよかったのにと思いながら、修治は布団に横になったままため息混じりに聞き返す。

「何が」
「気持ちよくさせてくれるって言うから期待して濡れちゃったのに」
「濡れるな。落ちるとき気持ちよかっただろ」
「そりゃ気持ちよかったけど、わたしの求めてるのとあれは違うよ明らかに」
「そうかい、そりゃ残念だったな」

しっし、と手を振って、修治は寝たまま早夜に背中を向ける。
しかし、早夜はすぐさま体を横たえ、修治の背中にぴったりと身を寄せてきた。
肩甲骨の辺りに、早夜の小振りな乳房が押し付けられる柔らかい感触があった。

「お兄ちゃん」

熱い吐息が首筋にかかり、修治は悪寒に身をすくめる。

「どうしてしてくれないの」

耳にかかるような早夜の吐息は、ますます荒くなってきている。修治は妹に背を向けたまま顔を引きつらせる。

「あのな早夜」
「お説教なんて聞きたくないよ。ねえお兄ちゃん、しようよ。ねえ、しようってば」

駄々っ子のようになおも言い募りながら、早夜は修治の首に両腕を絡めてきた。
さっきの仕返しをするつもりか、と修治は一瞬ぞっとしたが、そうではなかった。
早夜は、絡めた両腕を始点にして体を上下に揺さぶり、修治の体に胸と股間を押し付けてきたのである。

「止めろっての」

修治は乱暴に早夜を振りほどくと、体を起こして布団の上に正座した。
振り払われた早夜は、顔を歪めて恨みがましい目で修治を見上げてくる。

「ひどいよお兄ちゃん、女の子に恥をかかせるの」
「お前が恥なんて言葉を知ってたとは意外だったな」

修治は皮肉っぽく言ったが、早夜は怒るどころか頬を染めて口元を左手で隠し、右手でもじもじと股間の辺りを触り始めた。

「やだお兄ちゃん、それならそうと早く言ってくれればいいのに」
「なにが」
「つまりこういうことだよね、わたしと羞恥プレイしたいっていう」

修治はため息を吐いて、再び彼女を締め落とした。

「ひどいよお兄ちゃん」

二度目の絶叫である。もういいから寝てろよお前、とうんざりしながら、修治は縄で縛って部屋の隅に転がしてある早夜に目を向ける。

「なにが」
「縛るならもっといい縛り方してよ、こんな芋虫みたいなのじゃなくて」
「そっちかよ」

一応突っ込んでおいてから、修治は布団に突っ伏してぎゅっと目を瞑った。
早夜が縄でぐるぐる巻きになった体を捩りながら抗議するように叫ぶ。

「お兄ちゃん。ちょっとお兄ちゃん、せめてちゃんと亀甲縛りとかに直してから寝てよ。
ねえ、お兄ちゃんってば。もう、こんなんじゃお兄ちゃんの寝顔でオナニーもできないじゃない」

何も聞こえない、俺は何も聞いていないと心に言い聞かせながら、修治は歯軋りをしながら眠りに落ちていくのであった。

その内真ん中から折れるのではないかと不安になるぐらいに錆ついた外付け階段を上り、二階に出る。
辻村兄妹が住んでいるのは、建物の外側に入り口が作られているタイプのアパートである。
部屋は202号室。二階にある三部屋の内、真ん中の部屋だ。
二階の外通路から住宅街の向こうに沈みゆく夕日を横目に眺めながら、修治は202号室の前に立った。
今日は休日だったが、午後一杯バスケ部の練習があったので、こんな時間に帰宅する羽目になったのである。

「さて」

修治はドアノブに手をかけたまま目を瞑り、気を引き締めなおした。

(今日はどう来る)

ドアについている小さなすりガラスの窓を睨みながら、部屋の中の様子を窺う。
電気はついている。早夜は中にいるらしい。耳を近づけてみたが、喘ぎ声は聞こえないので少なくとも自慰の最中ではないらしかった。
とりあえず一番嫌なパターンは避けられそうだと、修治は内心ほっと息を吐く。
前に一度、妹が自慰をしながら修治を出迎えたことがあったのである。
厳しい練習に疲れ果てて「ただいま」と言いつつドアを開けた瞬間、玄関に股を大きく開いてしゃがみ込んだ早夜が、恍惚の表情で陰部を弄っている姿を見る羽目になったのだ。
兄を慌てさせようとしてやったらしかったが、あまりの衝撃に修治は思わず早夜を蹴り飛ばしてしまっていた。
なお、玄関で修治を待ち受ける早夜の行動は、突進してくるか卑猥な行為をしてくるかのどちらかに大別される。
自慰で迎えられたのが一番インパクトがあったが、それ以外にも早夜はいつもやっかいな出迎え方をしてくれるのだ。
たとえば修治のトランクスに顔を埋めながら出迎えてきたり、いきなり抱きついてきてこちらの腋の臭いを嗅ごうとしてきたり。
抱きつくと言えば、修治の片足に自分の両足を絡めて、

「お兄ちゃんを待ってたら切なくなっちゃった」

だのと、ふざけたことをのたまいつつ股と胸を擦り付けて来るのも定番のパターンだ。
そういうことをされるたびに奥の部屋の布団目掛けて早夜を投げ飛ばしていたおかげで、修治は今や柔道部でもないのに人を投げるのが得意になってしまっていた。

(ああいうことしなけりゃ、手のかかる妹だっつって済ませられるんだろうけどな)

一人ため息を吐く修治である。
だが、たとえどんな罠が待ち受けていようとも、部屋に入らない訳にはいかないのだ。
修治は覚悟を決めると、外開きのドアを一気に開け放った。

まずは目の前に早夜がいないかどうか確認する。いない。ならば突進してくるに違いないと、修治は両足に力をこめる。
しかし、いつまで経っても妹はやってこなかった。
おかしいな、と首を傾げつつ、修治は靴を脱いで部屋の中に入る。
修治が借りているこのアパートは1Kという種類に分類される間取りである。
玄関から伸びている短い廊下の左側に洗面所とトイレ、右側に小さなキッチンが並び、一番奥に洋室への扉がある。
高校生が親元から離れて暮らすという状況からすると、少々高級なぐらいの部屋と言えた。
その、身分不相応な部屋の廊下を、修治は慎重に歩いていく。
念のため頭上も確認したが、「あぶなぁーい!上から襲ってくるぅー!」ということはなかった。
当然のことではあるが、さすがの変態妹も、天井に張りつけるほどには人間離れしていない。
それでもなお警戒しつつ、修治は洋室への扉をそっと開く。
安心して部屋の中に入った瞬間飛びつかれるというパターンも、ありえなくはないからだ。
早夜は部屋の中にいた。
別段こちらを気にするでもなく、床に置いたクッションに体を預けてTVに見入っている様子であった。
何となく信じがたい光景に修治が固まっていると、ふとこちらに気付いたような何気ない動作で早夜が振り返った。

「あ、おかえりお兄ちゃん」

微笑みながら言う早夜に、修治はようやっと気を持ち直して答えを返す。

「ああ、ただいま」

そう言いつつも、まだ気は緩めない。
この妹の場合、何気ない風を装いながらその実自慰していたり、
兄のトランクスを履いて無意味に興奮していたりとか、そういう奇行をやらかしていることがあるからだ。
しかし、見たところ格好も普通だし、顔色も息遣いも平常どおりである。
どうやら、本当にただテレビを見ていただけらしい。

(うさんくせえ)

修治はつい顔をしかめてしまう。そんな修治を見て、早夜は少し恥ずかしそうに目をそらした。

「やだどうしたのお兄ちゃん。ムラムラしてるんだったら、わたしはいつでもOK」
「うんごめん、やっぱいつもどおりだわ」

笑顔で妹の声を遮りつつ、修治は部活道具が入っているスポーツバッグを部屋の隅に放り投げる。
それを見た早夜が目を輝かせた。

「わたしが洗ってあげようか」
「お前が人の汗の臭いに興奮しない女だったら、いくらだって頼んでやるんだけどな」

そんなことをしたら今夜は間違いなく早夜の自慰天国になる。
修治とて、飢えた狼に何の考えもなく生肉を与えてやる気にはなれないのである。

「残念」

早夜は不満げに呟きながら、再びテレビに目を戻す。
スポーツバッグを奪ったり、こちらに抱きついたりするために虎視眈々と隙を窺っているような様子は微塵もない。
人間の性欲にも波というものがあるから、先ほどのような冗談混じりの会話で無事一日が終了する日も、たまにはあるのだ。
どうやら今日は大丈夫そうだな、と修治はほっと息を吐く。
気を抜いた途端に、部活の疲れが一気に襲い掛かってきた。
このまま寝転びたい気分ではあったが、風呂に入らないと気持ち悪くて寝てもいられないだろう。

「風呂沸いてるか」
「あ、ごめん、まだ」

早夜はこちらを見もせずに答える。修治は、今日は安全な日だという確信をますます深めた。
バスケ部がある日、大抵早夜は早めに風呂を沸かしていて、やたらと修治に入浴することを勧めるのだ。無論、覗くためである。
それがないということは、やはり今日は性欲の波が低い日らしい。
今度こそ安心しきって、修治は風呂を沸かした。お湯が溜まるのを待っている間も、早夜は特におかしな行動を起こさなかった。

「それじゃ、先入るぞ」

と言う修治の言葉にも、ぞんざいに頷いただけだった。
風呂は、狭苦しい洗面所兼脱衣所の奥にある。洗濯機もここにあるので、修治は脱いだ先から服を放り込んでいく。
すぐに洗ってしまわないと、汗の臭いが染み付いた服で早夜が興奮する恐れがあるからだ。
ついでにスポーツバッグから取り出した部活のユニフォームなども洗濯機に放り込んだとき、修治はあることに気がついた。

「危ない危ない」

呟きつつ、洗面所の扉に鍵をかける。
普通こういうところの鍵は十円玉で開くようなかなり適当な作りになっているものだ。
しかし、これはちゃんとした鍵がなければ外からは開かないタイプである。
無論、早夜がいつも風呂場に侵入しようとするのに我慢できなくなった修治が、いろいろと無理を言って作り変えてもらったのである。

(そう言えばあのとき、鍵変えに来た人が早夜を見て妙に納得したような顔してたっけ)

そんなことを思い出して、修治は顔をしかめる。

(多分あの人は事実とは逆のことを想像したんだろうな)

さすがに「妹が変態なので鍵を変えてください」などと言ってはいい恥さらしなので、そのときは黙っていたのだが。
とは言え、その人の気持ちも分からないではないのだ。
修治の妹である辻村早夜は、兄の目から見てもなかなか可愛らしい娘なのである。
うなじの辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪、明るく輝く円らな瞳、形のいい小鼻に瑞々しい小さな唇。
そして、小柄ながら高校生にしてはなかなかメリハリのある体。

「まあ、確かにこんな妹がいたんじゃ、風呂に鍵をかけたくなる理由も分かるな」

と誤解される程度には、魅力的な少女なのだ。

(ホント、あんな変態じゃなけりゃな)

修治はため息を吐いた。

汗でベトベトになった体をシャワーで洗い流し、修治は大きく息を吐いた。
湯船に身を沈めてじっとしていると、その日の疲れがどんどん体から抜けていくような気がする。

(あー、やべ、眠くなってきた)

さすがに風呂で寝るのはまずいが、そうなっても仕方がないぐらいの安心感が、ここにはある。
洗面所、風呂と鍵のかかった扉が二つ続いていて、なおかつ鍵は修治が持っているのだ。
下手をしたら居間にいるよりもずっと安全だとすら言える。
とにかく、もう少しゆっくり浸かってから上がろうと考えたとき、修治は不意にあり得ない音を聞いた。
それは、まるで鍵が外されたような音であった。

(そんな馬鹿な)

眠気が一気に吹き飛んだ。
だが、聞き間違いであってくれと、修治は必死に祈る。
しかし、妹のシルエットが扉のすりガラスに浮き上がったことで、その思いは無残に打ち砕かれた。

「何やってんだお前は」

慌てて怒鳴りつけると、早夜は顔を扉の方に向けて笑いながら答えた。

「何って、お兄ちゃんと直にスキンシップしようと思って」
「そういうことを聞いてんじゃなくて、お前、鍵は」
「合鍵作ったの」

早夜の小さな含み笑いが扉の向こうから聞こえてくる。

「お兄ちゃん警戒してなかなか手放そうとしないんだもん、持ち出すのは苦労したよ」

ちくしょう、と修治は己の迂闊さを呪った。
そうしている間にも早夜はいそいそと衣服を脱ぎ捨て、すりガラスに魅惑的な肢体を浮かび上がらせていく。

「お兄ちゃんと一緒にお風呂なんて何年ぶりかなー」

早夜の声はやたらとウキウキしている。

(俺を油断させるために猫被ってやがった。計ったな、早夜)

修治は湯船の縁を握り締めながら歯噛みする。「こやつめ、ははは」などと笑って済ませられるような状況ではない。

(仕方ないか)

修治はほぞを噛みながら、風呂場に持ち込んでいたある物に手を伸ばす。円筒形の物体であった。
服を脱ぎ終わった早夜が、辛抱たまらんと言わんばかりに焦りまくった動作で風呂場の扉の鍵を開けたのは、そのときだった。

「さあ、お兄ちゃんのおにんにんとご対面ー!」

興奮に上ずった声で叫びながら、早夜が風呂場の扉を勢いよく開け放つ。

(今だ)

修治は意を決して、円筒形の物体の上部から伸びるノズルを、扉の方に向ける。

「へ」

全裸で一歩踏み出しかけた早夜が、自分の顔面に突きつけられたノズルに驚いて立ち止まるのが見える。
一瞬躊躇しながらも、修治は己の貞操と観念を守るために、力任せに円筒の上部を押し込んだ。
手に軽い振動を感じさせるほどの凄まじい勢いで噴射された霧状の液体が、早夜の顔面を直撃する。
早夜は顔を両手で押さえて後ろに倒れこんだ。断末魔のような悲鳴を上げて、全裸のまま脱衣所を転げまわる。

「目が、目がー!」

妹の醜態を前に、修治は荒い息を吐きつつ手に握った円筒形の物体を眺める。

「こいつは、強力すぎる」

そう呟いてしまうほどに強力なそれは、言うまでもなく暴漢撃退用の催涙スプレーであった。

「いたいよう、いたいよう」

あれから一時間経っても、早夜は居間の布団の上で顔を押さえて泣きじゃくっていた。
自力で服を着られる状態ではなかったので、とりあえずバスタオルを一枚羽織らせている。
ちなみに修治の方はしっかりと服を着て、早夜の前に座っている。
いくら変態とは言え、妹に催涙スプレーをぶっ掛けた後だから多少罰の悪い思いである。

「いたいよう、いたいよう」
「俺は謝らないぞ。大体な、お前が風呂に入ろうとするから」
「いたいよう、おめめいたいよう」

微妙に幼児退行するほど痛いらしい。早夜はいつものように反論する余裕もなく、目を押さえてひたすら泣きじゃくっている。
さすがに可哀想というか心配になってきて、修治は早夜の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か。ほら、見せてみろ」

早夜はしゃくり上げながらも手をどかして、修治を見上げてきた。
修治はそっと妹の頭を両手で挟みこんで、潤んだ瞳を覗き込む。充血と涙が痛々しいが、腫れたりはしていないようだった。
修治はほっと息を吐きつつ、妹の頭を撫でながら訊く。

「さっき転げまわってただろ。頭ぶつけなかったか」

早夜は小さく頷いた。修治は安心して笑う。

「そっか。見たところ怪我はなさそうだし、大丈夫だろ」
「おめめが痛いよ」
「その内痛くなくなるって。後遺症はないから安心して噴射してくださいって売り文句なんだぜ、あれ」

冗談めかした口調で言ってやる。
修治としては、ここで「そういう問題じゃないよ」と怒鳴る早夜に
「いや、そもそも悪いのはお前だし」とか答えてやって、いつもの流れに持っていくつもりだったのである。

だが、そうはならなかった。
早夜は充血して赤い目に、恨みがましくもどこか悲しげな色を浮かべてこちらを見つめてきたのである。
そして、少し驚く修治に、小さな声で言った。

「お兄ちゃんって、ずるいよね」

そのあまりに沈んだ口調に早夜らしからぬものを感じて、修治はますます驚いた。

「ずるいって、なにが」

早夜は目を伏せて言った。

「わたしの気持ち知ってるくせに、こういうときは優しいんだもん」

一瞬、修治の鼓動が高くなった。それが仕方のないことに思えるぐらい、こちらを見上げる早夜の瞳の色は真剣で、切実だった。

「お兄ちゃん」

今にも泣き出してしまいそうなか細い声で言いながら、早夜が体を摺り寄せてくる。
このときばかりは、修治も邪険に妹を振り払うことはできなかった。

「ねえお兄ちゃん、どうしてダメなの」
「どうしてって」
「わたし、ホントにお兄ちゃんのこと好きなんだよ。あんな変なところ見せるの、お兄ちゃんだけだもん」
「そりゃ分かってるけどな」
「お兄ちゃん」

真っ直ぐにこちらを見る早夜の視線に耐え切れず、修治は目をそらす。
修治だって、理解はしているのだ。
確かに早夜は兄のトランクスの臭いで自慰したり兄の入浴を除くような変態ではある。性欲だって並の女子高生の数十倍は強い。
だが、妹が真の意味で修治に迷惑をかける行動を起こしたことは、一度もない。
異常ではあるが、真剣なのである。
しかし、だからと言って彼女の気持ちをそのまま受け止めてやる訳にはいかないのだった。

「あのな早夜、お前の気持ちは」

分かるが、と言いかけて、修治は不意に固まった。
視線を元に戻してみると、修治の体にぴったりと身を寄せた早夜が、兄の寝巻きのボタンを外しにかかっていた。
顔は興奮に上気しており、息もかなり荒くなっている。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

そう呟く姿からは、先ほどの胸が痛くなるほどの切なさは微塵にも感じられなかった。

「おいこら」

修治は妹の頭を右手でつかんで自分の体から引き離す。早夜はいつものような間抜けな悲鳴を上げた。

「いたいいたい、お兄ちゃん、わたし初めてでこういうプレイは嫌だってば」
「そんなことより、何をしようとしてたのかな早夜ちゃんは」
「あ、その早夜ちゃんて呼び方ちょっといいかも」
「いいから質問に答えなさい」

右手に力をこめると、早夜は再度悲鳴を上げながら答える。

「いたいいたいいたいよう。だって、お兄ちゃん黙っちゃったから、てっきりOKってことなのかと」
「誰もそんなことは言ってない」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。あ、初めてで不安ならわたしがリードしてあげてもいいよ」
「お前だって初めてだろうが」
「じゃあしてくれるんだ、嬉しい」

かなり強引にそう結論づけつつ、早夜は頭をつかまれたまま笑う。完全にいつもの調子である。
修治はふっと笑って早夜の頭から手を外した。

「そうか。分かった、してやるよ」
「え、本当」

早夜は急に慌て始めた。体の前で思い切り両手を振りながら、真っ赤な顔で叫ぶ。

「ちょっと待って、わたし、心の準備が」
「いいから俺に任せとけって。ほら、俺の膝の上に乗れ」

修治が両手を広げると、早夜はおずおずと兄の胸に体を寄せた。

「ああ、お兄ちゃんの臭い」

呟きながら、はだけた寝巻きの隙間から覗く修治の胸板に頭を埋める。修治は顔をひきつらせながら言った。

「ほら早夜、そんな格好じゃいつまで経ってもできないだろ」
「うん」
「ちょっと向き変えるぞ」

何気なく言いつつ、修治は自分の腕の中に収まった体を前に向かせる。ちょうど、修治からは早夜の頭が見える格好である。

「え、初めてなのにこんな格好で。お兄ちゃんって案外ケダモノかも」

思わず殴りそうになったが、修治はこらえた。

「よし、それじゃやるぞ」
「え、もう」
「安心しろ、全部俺に任しときゃいいから」
「分かった。あの、お兄ちゃん」
「なんだ」
「優しくしてね」

そう言ったきり黙りこんだ妹の頭を見て、こいつってホントに馬鹿だよなあと思いつつ、

「ふん」

と、修治はいつものように妹を絞め落とした。

「ひどいよお兄ちゃん、ってあれ」

叫びながら跳ね起きた早夜は、自分の目からずり落ちた物を見て目を瞬かせた。
それは、タオルでくるまれた熱冷まし用の保冷剤だった。

「お、起きたか」

自分の布団に座った修治が、笑顔で言う。ふと見ると、早夜自身も兄の布団の隣に敷いてある、自分の布団に寝かされていた。

「だいぶよくなってきたみたいだな」

早夜の瞳を覗き込みながら、修治が言う。

「痛くないか」

優しい口調でそう問われて、早夜は少し言葉に詰まりながら答えた。

「まだ、ちょっと痛いかも」
「そうか。じゃあもうちょっと冷やしとけよ」

どうも、絞め落とした後に早夜を寝かせて、目を冷やしてくれていたらしい。

「とりあえず服着ろ。俺はもう寝る。全く、無駄に疲れちまった」

愚痴りつつ、修治は早夜に背中を向けて布団に横になる。兄の広い背中をじっと見つめて、早夜は微笑んだ。

「お兄ちゃん」
「なに」
「ありがとね」

修治は横になったまま片手を上げた。

「これでおあいこだ」

その夜、修治は早夜が規則的な寝息を立て始める頃になってもまだ起きていた。

「早夜」

一応呼びかけてから、返事がないことを確かめて静かに身を起こす。
窓から差し込む月明かりに照らされて、妹の小さな顔が薄らと青白く光っている。
普段の奇行ぶりなど想像もつかないほどの穏やかな寝顔を眺めて、修治は微笑んだ。

(ごめんな、早夜)

心の中で謝りつつ、修治はそっと妹の頭を撫でる。

(お前がこんなになったの、きっと兄ちゃんのせいなのにな)

早夜は少しくすぐったそうに微笑んだ。

(だから、お前がちゃんと好きな人見つけられるまで、一緒にいてやるからな)

早夜の頭を優しく撫でながら、修治はふと窓の外に目を移す。
外では、夜の闇がいよいよ濃くなりつつあった。






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