囚われの身の、お姫様 5(非エロ)
シチュエーション


――白水家の次期後継者である僕に、嫁いで貰いたい。
ここ数日降り続いた雨の水滴が窓に玉を作っている。麗華は、濡れる窓の先に広がる雲の蔓延る低い空を見て、先日
優に告げられた求婚の言葉を思い出していた。あの日から一週間が過ぎた今でも彼女には優の言葉を細部に至るまで思
い浮かべる事が出来た。それは、例えば彼の真摯な瞳であるとか、心持ち震えた声であったとか――兎に角、そのよう
な普段なら数刻も経たぬ内に忘れてしまうような事も頭の中に焼き付いて離れないでいた。

優は麗華に猶予を与えた。彼女にとってそれは恩賜にも相当する有り難い言葉であった。突然の求婚に混乱する麗華
を見兼ねたのか、前もってそう決めていたのかは定かでは無いが、麗華は少なくとも前者だと思っていた。何時でも柔
和な笑みを絶やさない鷹揚な彼が見せる優しさの一つだとしか、彼女には結論付ける事が出来なかったのである。何と
か乱雑に散らばった自身の想いの断片を整理する時間を与えられた麗華は、彼から受け賜わった猶予の代償に、絶えず
煩悶を繰り返さねばならない苦痛を受け取った。

麗華は物憂げな表情のまま、長い睫毛から降りる影に悲しげな光を湛え、彼の求婚をどうするか悩乱していた。
しかしその一方で、既に決断は出来ているとも云えた。彼女の立場からすれば、それは他には有り得ない選択肢であ
る。彼女は進藤家唯一の娘なのだから、当然だった。
麗華の母君は、彼女をこの世に産み落としてから早々に出産を望めない身体になってしまったと云う。男尊女卑――そ
う云う訳ではなかったが、昔から進藤家の後継ぎは男性であると云うのが古くから続いてきた進藤家の習わしであった。
しかし、母が生んだのは麗華であり、それから新たに子を身籠る事もなく、已む無く麗華が進藤家を継ぐ事となってい
た。
それは彼女が幼い内から聞かされていた事である。だからこそ、麗華には迷う余地など無かった。二つに分かたれた
世界に、それぞれで光り輝いている太陽のどちらかを選ぶ二者択一の権利などは持っていなかった。
彼女が聞かされていたのはそれだけではない。麗華が病魔に蝕まれた頃、事態は急速な変化を遂げたのである。麗華
が患う病気は或る意味でとてつもない重さを秘めている。進藤家当主として下の者を率いる立場にある彼女があのよう
な淫蕩極まれりの病気に苛まれている事を誰彼が知ったら、どのように思うかは、聞くまでもなく判然している。
そこに生まれるのは、不安、憫然、不満――それこそ負の方向に傾く事はあっても正の方向に傾くなど到底有り得な
い事である。それを彼女の両親が知った時、彼らは一つの決断を下した。その結論に至るのは線路の上を列車が行くか
の如く滑らかであった。そしてそれを受け入れざるを得ないのも、彼女はよく理解していた。

進藤家の次期当主が不安定ならば、進藤家と懇意な仲である白水家の当主と添い遂げさせるより他はない――彼らが
下したのはこのような判断であった。いずれにしろ、女性当主では何かと便宜が良くない世の中である。それだけで白
水家の令息を許嫁にする事に迷う余地などは無かったが、強制的な結婚を強行する時代ではない上に、本人達の気持ち
も無視する訳にも行かず、彼女が病を患うまでは最終的には優と麗華次第であった。
けれども、彼女が更に不安定になれば、それは必須と云えるほどの事になった。何時発作が現れるかも知れない彼女
に進藤家の全てを任せるのは心許ない。麗華は自分が病気に侵されているのを知った時にはもう大悟していた。そして、
白水家との結婚は両親からも切に願われた事柄であった。

そして、一週間前に彼女はとうとうその時を迎えたのである。優は麗華に求婚をした。そしてそれを是と取るか非と
取るか、彼女は今二者択一を託されている。しかし、迷う余地などは元より存在しなかった。彼女は自身の尊厳と、進
藤家の行く先とを考えて、彼の求婚を快い返事で受ける事を決めかけていたのである。

「黒川――……」

しかし、麗華は彼女の人生で一度きりの分岐点の前で、立ち往生していた。
その理由が黒川だった。彼女が懸想を寄せる相手、しかしその想いを告げる事など許されるものではない。それ故に
彼女は何時までも同じ所を低回しているのであり、そしてそのような自分に憤りを感じているのだった。
けれども、麗華は憤りよりもむしろ、自分を見たくなくなるほどに自分が醜く思えた。それこそ食糞餓鬼よりも醜く、
卑しく、低俗な人間のように思えた。それは要因は説明するまでもなく、彼女が天秤に掛ける二人の男性の存在に関係
する。一人は黒川、一人は優、その二人を麗華は天秤に掛けているのである。
勿論、それぞれに寄せる想いの内訳は似て非なるものであった。
麗華が黒川に寄せるのは恋情であり、対して優に向けるのは親しい友人に抱く思慕だった。
それだから、麗華は自分がどうしようもないほど醜く感ぜられたのだった。

優は麗華に想いを告げたあの日、言葉にはしなくとも静かに燃ゆる自身の想いを彼女にぶつけた。優は進藤家の存亡
であるとか、そう云うものに興味を持っていなかった。ただ、彼の想いを優先して彼女に告げたのであり、そこには麗
華への憐れみも無ければ偽りなどは畢竟あるはずがなかった。
しかし、麗華は違うのである。彼女が本当に気に掛ける人間は黒川以外に有り得なく、優に向けるのは親友としての
想いである事にも何ら変化は無かった。
けれども、優は云ったのだ。そして、望んだのだ。
嫁いで欲しい=Aそして言外に、この想いに対して本当の気持ちで応えて欲しい――と。
それを天秤に掛けるなどと、失礼極まりないではないか?
黒川と添い遂げる事が不可能だからと云って、不本意な結婚をするのが許されるとでも?
自身の気持ちは?優の気持ちは?そして、黒川の気持ちは?
彼女の心の中に種々様々な自問が錯綜する。そしてその錯綜の果てに、漸く彼女は答えを見出したのである。それは
奇しくも、窓の外に見える雲に入った僅かばかりの裂け目から、爛々と輝く太陽が面を見せた時と同時であった。まる
で、彼女の決断の表れであるかのように、太陽から差す一筋の光は彼女の白い中に青味を帯びた憂い顔を照らし、薄暗
い室内にぼんやりと浮かび上がらせた。その瞬間に、彼女の部屋には二回ばかり、扉を叩く音が木霊したのであった。

「お嬢様。朝食の用意を致しました」

その低くも細い声が、一層彼女の決断を堅固なものとした。
彼女は何時になく荘厳な声音で、ただ一言「入って」と云った。

「……失礼致します」

戸惑うようにおずおずと扉を開いて中に入った黒川は、窓際に置かれた椅子に腰かけている麗華の姿を見遣ると、目
を足元に落とした。この部屋を見るのは何日振りだったか、それすらも分からない。ただ頭に描かれるのは彼女がよが
るあの姿のみで、やはり彼は表情を曇らせた。
そして、今日が何の日であるか、それを考えても黒川は気分が消沈するのを感じた。今日は優が求婚の返事を伺いに
来る日であったのだ。彼は一週間の猶予を麗華に与え、そうして出た結論を結果の良し悪しに関わらず享受すると云って
立ち去った。けれども、それだから彼には部屋に招かれた理由が一つしか思い当たらなかったのである。
恐らく、別れの言葉を云われるのだろうと、何となく彼はそのような気がしていた。彼女が進藤家の為に白水家に嫁
ぐのは、殆ど義務に近いものがあったのだから、それも仕方がない。食わねば殺す、と目の前に置かれた飯を誰もが食
べるように、恫喝に酷似する強制的な選択を、諫める事などは出来るはずもないのだ。彼は諦念感を携えたまま、麗華
の部屋の中、扉の前に立ち尽くした。

「私の前に、来て」
「……」

黒川は麗華の命令にただ聴従するだけであった。重い足取りのまま彼女に近付くと、その間に鳴った靴音ですら重々
しいものになっている気がした。彼女の目の前に立つと、彼は物も云わずにただ足元に視線を注ぐばかりであった。
そのような黒川の姿を一瞥して、麗華は黙然と窓の外を見遣った。太陽は何時しかその全貌を雲の裂け目から覗かせ
ている。差す陽光は眩しかったが、しかしこれからの自身の行動を後押ししてくれている気がして、彼女は深く呼吸す
ると項垂れる黒川を真正面から見据えた。

「黒川に、云いたい事があるの。良いわね?」

麗華は強い物云いで釘を刺すと、彼の顔を上げさせた。そうして今度は暗い声で「はい」とだけ云った黒川の漆黒の
瞳を見詰めた。ありありと寂寥を漂わせる彼の姿は憔悴し切っているようである。
何処か翳った瞳も、下がった眉根も、どれもこれもが何時もの使用人≠フ彼の姿を眩ませる。しかし、だからこそ
彼女は決断した事を敢行するのである。麗華は大きく深呼吸をすると、やけに落ち着いた声音で話し始めた。

「あたしは先日、優に結婚を申し込まれたわ」
「……存じております」

何を分かり切った事を、とは黒川は云わなかった。ただ彼女の言葉に胸を突き刺され、心臓が抉られるかのような凄
まじい苦痛に表情を歪めた。それでも、話を聞かなくてはならない。例えそれが最も耳にしたくない言葉だとしても、
それに耐え兼ねて耳を塞ぐ事は許されないのだ。
これが最後に受ける命令なのだろう、黒川はそう思わずには居られなかった。そして、その途端この屋敷の存在がと
ても大切な物に見え出した。

「あたしは、それを受けなければならない。……それは分かるわね?」
「……はい」

不安定な人間を当主に就かせるのは忍びない、それは黒川もよく理解している事だった。だから、麗華がどのような
物言いで、例えそれに仕方がない≠ニ云う響きが含まれていたとしても、口を挟む事は出来なかった。
彼らの間に聳える壁は、刻薄なまでの高さを以て麗華と黒川とを懸け隔てている。最早それを越えて接する事などは
不可能な領域になってしまったのだ、と彼は半分諦念にも似た喪失感を感じていた。今までの時間は失われる。同時に
彼らを懸け隔てる壁の意味も意義を無くすだろう。それが酷く惜しく思えた。

「でも、あたしは最後に黒川――あなたに伝えるのと同時に、尋ねるわ。……本当の気持ちで答えて」

――嗚呼、彼女は何と眩しい光を碧眼の双眸に秘めているのか。その光の眩しさたるや、太陽でさえも裸足で逃げ出
して行くかのような神々しさと共に光り輝いている。そしてそれを肯定するかのように、雲影から慈顔を出した銀河の
栄華の象徴たる太陽は、その恩賜を躊躇する事なく大地へと乾坤に注いでいた。
麗華の瞳がそうして慇懃な様を漂わせた一瞬間、黒川は身体が強張るのを感じた。
恐怖がそうさせたのではない。ましてや怯えでも悲しみでもない。それらを上回る正体不明の感情が、そうさせたの
だ。例えるならば――そう、積み重ねてきた今までの時間が成す山が、崩れそうに揺れたような、とてつもないほどの
不安だった。それと同時に、彼らの間を分かつ壁に瓦解の兆しが見えたのを、彼は感じ取っていた。

「はい」

その予兆と不安と、麗華の瞳とが、彼に怖気づいた態度を取らせる事を許さなかった。黒川は先刻の見るも痛々しい
表情を自ら掻き消し、彼女の慇懃な視線に応えるようにして漆黒の瞳に一点の焔を燈した。
広大な雲影が蒼穹を覆う灰色の空には僅かな隙間から顔を出す太陽でさえ息を潜めているようである。燦々と煌めく
光が窓から差し込み、彼ら二人の姿を朧げに映し出していた。輪郭を何処か不明瞭にさせるその光は何処となく儚く、
触れようとすれば煙となって消えてしまいそうだった。

――幾何かの逡巡が巡り、麗華は先日優がそうしたように重々しい空気を吸い込むと、言葉を紡いだ。

「あたしは――」

疎らに散らばった感情の破片を糸で紡ぐように、彼女が人生を送る中で見付けてきた感情はそうする事によって形を
露わにして行く。冥々とした場所で燻るだけだった感情も繋ぎ合わせ、緊張に暴れ狂う心臓がもたらす手の震えも必死
に堪え、一つの言葉を創り出して行く。積年の想いは酷く脆い。繋ぎ合わせてもたった一言の言葉で一瞬にして崩れ
去ってしまうだろう。けれども、彼女はもう後に引き返す事は出来なかった。

選ばなくてはならない人生のたった二つの分岐点。その道の分かれ目に存在する古ぼけた看板に指し示される道の内、
彼女はどちらか一つを選ばなくてはならない。
片一方は草莽が覆い尽くす限りなく見え難いが、それでも爛々と輝く太陽が白い光を捧げる道、片一方は月の冴える
漆黒の夜の帳が降りた寂寥の漂う道。彼女はその分岐点の目の前で、看板に一つの問いを掛けるのだ。
――明るい道に、行く事は出来ますか。
その問いを、彼女は震える唇で、けれども先刻と変わらぬ慇懃たる様を振舞おうと尽力しながら、ただ、静かに、熱
く滾る感情を垣間見せながら、彼へと紡ぎ出した。

「――黒川と、添い遂げたい」

縹渺とした弱々しい風が窓を叩いた。僅かに雲霞を払う太陽が、彼女に向かって光を注ぐ。心持ち濡れている彼女の
碧い瞳が輝いた。未だかつて、誰彼にも向けた事が無いであろう、身を灼く恋情を携えて。

驚愕と、混乱とが綯い交ぜになり、思考を鈍らせる。しかし、纏まらない思考の裏に、常に大切に安置されていた
一つの言葉の塊は、彼女が告げた言葉の意味を咀嚼するよりも早く、姿を現した。そこに刹那の逡巡すらあったのかど
うかでさえ分からない。少なくとも、黒川は自身の思考が、今し方云った言葉を理解する前に云ったのだから、その速
さがどれほどのものだったのかは想像に難くない。
それはあらゆる感情を無視し、それと同じだけの猛然たる痛みを伴いながら、沈黙ばかりが勢力を上げる室内に轟く
凄まじさを以て、彼女の鼓膜を震わせた。

「お嬢様の告白に、私は答える事は出来ても応える事は――到底、叶う事ではありません」

そこに含まれた意味に、恐らく麗華は気付いたのだろう。
みるみる内に、慇懃な態度を崩して行く彼女を、黒川は残酷な優しさが突き動かすがままに抱き締めた。小さな体躯
に感じる体温はどうしようもなく温かく、手に降り掛かる金の糸はどうしようもなく柔らかく。胸の中から聞こえてく
る蕭条たる慟哭はどうしようもなく愛おしい。
灰燼と化した彼女の想いは、心に吹き抜けた突風が残さず浚って行き、後に残る荒寥たる有様に同情する事さえも黒
川には叶わない。彼はただ武骨な手で彼女の髪を梳き、自身の中で渦巻く激情の嵐を収めようと背中に回した腕に力を
込めた。胸に抱かれる麗華は、阿蘭陀の涙のように儚く脆い、そして且つ堅固だった想いと共に涙の雨を碧い瞳から降
らせていた。黒川のスーツに縋るようにして、顔を押し付けて、濡らし、ただ、泣き続けていた。

ふと、黒川は窓の外を見遣る。
蒼茫たる蒼穹が広がっているはずの空には重苦しい灰色の低い空が空々と雲域を広げている。そこに雨は無かったが、
それよりも中途半端に雲の膜の向こう側に身を隠し、滲んだ白い光を放つ太陽が鬱陶しく思えた。一思いに豪雨でも降
らしてくれたなら、少しはこの騒ぎ立てている胸の内を鎮めてくれるかも知れないのに、ことごとく黒川の嘆願を跳ね
のける大自然の理は無変化の中に世界を抱くばかりである。
何故だか、大した明るさも放っていない今にも消えてしまいそうな太陽の光が、目に染みた。






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