囚われの身の、お姫様 4(非エロ)
シチュエーション


「ひっ……うっ……うう……ッ……」

枕に顔を埋めて、麗華は泣いていた。汚れの一つも見当たらないシーツの上に広がる金の髪は、彼女がしゃくり上げ
る度に揺れている。華奢な体も、細い手足も、全てが彼女を儚く見せるには事足りていて、今にも麗華の姿は霧散して
消えてしまいそうだった。そして、そうなってしまえたら良いのに、と彼女自身思わずには居られなかった。
黒川が部屋を出て行ってから、幾度自分を怨嗟したか分からない。幾度、自分に怨言を送ったか分からない。彼女は
ただひたすらに自己嫌悪を繰り返していた。けれども、だからと云って何かが変わる訳でもなく、ましてや、彼の記憶
も自身の記憶も消せる訳でもなく、やはり泣く事しか出来なかった。

「なんで……こんなッ……!」

麗華の性格の淵源は、誇り高くあった。
いち財閥の一人娘として生まれ、早々に出産を望めぬ身体になってしまった母親は跡取りとして息子を残す事は出来
なかった。だから、彼女らの家系――進藤家の跡取りは彼女が務める事になったのである。幼い頃からそう云い聞かさ
れてきた彼女は、過去から今日まで、そう云った情緒を確立して行くに至った。
何をするにも気高く、誰にも屈する事なく、常に人を導くように振舞い、一家の恥にならぬようにと心掛けてきた。
勉強も他人に追随を許さぬくらいに励み、運動も彼女に敵う者は居なかった。類稀なる俊才を持ち得る彼女は他人から
敬遠されそうな立場ではあったが、その篤実さと豪放さはそのような念を取り巻きに思わせなかった。

正に神童と呼ばれるに相応しい彼女は、個人的な能力だけでなく、社交的な能力も兼ね揃えていたのである。誰から
も愛され、誰をも愛するその性格はともすれば荘厳なものであったが、ともすれば仏陀のように慈悲深かった。
しかし、だからこそ彼女は自分を赦す鷹揚さを持ち合わせていなかった。
彼女が積み上げてきた自分への自信は先刻を以て酷薄にも崩れ落ちたのだ。自分が晒した姿がどれだけ醜かった事だ
ろうか。一家の跡取りとして有るまじき醜態をあろうことか使用人――そして彼女の想い人に晒してしまった事が、ど
れだけの失態だっただろうか。否、それ以前に、あのような行為に耽る自分がどれほど淫乱な姿だったのか。
全てを見られたのだ。誰にも見せた事のない下着に隠れた秘部までも、淫靡な嬌声を上げてよがっている様も、絶頂
の果てしない快楽に身を委ねて恍惚としている姿も。全てを見られたのだ。他の誰でもない――あの、黒川に。

「こんなッ……こんな事になるなら……!」

腕を振り上げて、麗華は枕を拳で叩いた。少しだけ形を変えるそれだったが、それでも柔らかい枕は直ぐに元の形を
取り戻して、彼女を嘲笑しているようだった。抑え切れない激情は溢れ出し、どうする事も出来ない現状は意味のない
暴力を無機物に与える。麗華は枕を鷲掴みにすると、部屋の壁の方に投げ付けた。壁際に置かれていた棚に直撃したそ
れは、その上に在った花瓶を落とし、砕けさせる。それでも彼女の自身への怒りは収まらなかった。

息を荒げて怒りに震える唇を噛み締める歯には、既に赤い液体が付着している。止めどなく溢れる涙はシーツに薄黒
い染みを作り、濡らしていた。白く細い糸と、赤く濁った糸とが彼女の綺麗な顔の中に忽ち線を引いて行く。錯綜する
思考はむしろ統一されているようでもあった。そこにある全ての感情は自身を蔑むと云う目的に於いて、見事だと思え
るまでの統一を成している。それに反発するかのように乱れた服装は、或る意味で的を射ているようであった。

「こんな身体になるくらいだったら……ッ!」

ぼやける視界で自分の白い手を見てみれば、そこには彼女の情事を思い起こさせる、既に固まりつつある液体が付い
ていた。ぎり、と奥歯を噛み締めた麗華は、片方の手で思い切りそこに爪を立てた。

「……生まれて来なければ……良かった……!」

涙が混じり、消えそうな言葉を呟いた彼女は立てた爪に更なる力を込める。爪は表面の皮膚を突き破り、肉すらも抉
り、赤い液体を滲ませた。透明な液体に朱が入り混じり、混沌とした色の液体が彼女の手を伝ってシーツを汚す。感じ
る痛みは最早毛ほどもなく、彼女は自身の手を何度も何度も掻き毟った。
そこに纏わり付く、汚れを必死に流そうとするかのように。涙を流しながら、掻き毟った。
そこから流れ出る血液も、同じ彼女の体液だと云う事にも気付かずに。
何も、洗い流せはしないのだと云う事にも、気付かずに――。

窓の外には絵画を模したかのような青空が、窓枠に飾られて映し出されている。時折横切る鳥達は颯爽と飛び去り、
微かな歌声を残して行った。漂う雲はただゆっくりと、風に流されて宛てのない目的地を目指して進んでいる。その下
に煙る屋敷の庭に植えられた木々は、大自然の恩恵を喜ぶようにして風にその身を委ねて揺れていた。遠く見渡せる街
々の光景は太陽にその煌びやかさを奪われて、地平線を歪めていた。
その中の小さな空間で、一人の少女の慟哭は絶え間なく響き続けた。



「……」

麗華は茫然としながら包帯の巻かれた左手を蝋燭の揺れる火に翳して、見つめ続けていた。美しく光り輝いていた青
玉のような瞳は土耳古石の如く翳っている。僅かに傷の残る唇の柔らかな肉は、瑞々しさを孕んでいた少し前の時分と
は打って変わって乾き、潤いが見えない。丁度良い具合に整っていた頬は心なしか少しばかりの肉が削げ落ちたように
も窺える。時折僅かに動く細く切り揃えられた眉毛は、物憂いげにその根を垂らしていた。

思わず見違えてしまいそうになる彼女の容貌の変化は、まるで夏が終わった後に秋を飛び越えて唐突に冬が出迎える
ようなものである。猛暑に適応した人々の身体はその急激な変化に付いて行く事が出来ず、舞い降りた極寒に身を震わ
せ、それをもたらした神を恨む。そこに信仰の有無などは関係ない。ただ、不幸に見舞われた時に八つ当たりの対象が
必須なのが、人間と云う生き物なのである。神様とて人々が生み出した偶像なのだから、そうに違いない。
けれども彼女は自身の怒りの捌け口を知らなかった。神を怨嗟する者は愚者である。他人や物を八つ当たりの対象に
選ぶ者も愚者である。しかし、その全てが何もかも無意義であると大悟する人間は愚者よりも確かに高位な人間である。
それ故に苦しむ。内にただ溜まり続ける濁った水はその許容量を超えても尚止まらない。偶像を捌け口にする愚者は、
或る意味で利口な存在かも知れなかった。果たして麗華は、利口でありながら紙一重の愚者である。

薄暗い部屋の中を照らすのは一寸の光しか提供し得ない小さな蝋燭の燈火のみである。麗華は揺らめく小さき焔の向
こうに自分の世界を見た。煌びやかな光に照らされた外界の、中心に存在する暗き牢獄。彼女はその中の格子が付いた
小さな小窓から炯々と輝く外界を、恋々たる想いで眺めている。幾ら願おうとも牢獄の重い鉄の扉は開かれず、一筋の
光を見遣りながら彼女は頬に白い糸を引く。その様子を、一人の男が黙然と眺めているのだ。悲しき光を瞳の奥に携え
て、憐憫たる想いに唇を噛みながら、ただ眺めている。牢獄の扉を開く鍵は彼の手に握られている。

牢獄と外界とを隔てる扉は腕一つ通すだけの幅を持った格子によって造られている。彼女はその僅かな隙間から手を
伸ばす事が可能である。男は扉の直ぐ前に立って、宛然と麗華を見詰めている。その手に握られている、男の体温で温
められた鉄の鍵に触れる事の出来る距離に彼は居るのに、それでも彼女は手を伸ばせない。牢獄の中に住まう悪魔が、
伸ばそうとした彼女の白い腕を掴んでしまう。麗華は懇願する。離して、と湿った目で悪魔に訴える。悪魔は醜悪な笑
みを浮かべながら、彼女を組み敷き、好き放題に犯し、嗤う。それを、男はただ見ている。

蝋燭の火が根元まで達すると、揺らめく小さな焔は静かに消えた。燭台に残るのは白い蝋の残滓のみで、他には何も
ない。麗華は蝋燭の焔の向こうに垣間見た自分の世界が静かに消えた事に安堵しつつ、薄暗い室内の天井に自身の手を
翳す。左手の包帯に薄く赤が滲み出て来ていた。影で暗くなった血液の色は麗華の自身への憤りである。彼女は綺麗に
揃う五指を曲げて、力強い拳を形作るとそれを閉じた瞼の上に被せた。闇の広がる瞼の裏に映るのは、執拗に焼き付い
たあの日の記憶ばかりである。彼女の追憶は、左手の痛みと共に心を痛め付けていた。

あれから一週間と云う日数が経過したが、麗華は部屋から滅多に出て来なくなった。彼女が部屋から出る時と云えば、
手洗いや入浴時だけのもので、部屋は常に施錠されている状態であった。食事は黒川が持ってきて、扉の前に置いて行
く、と云った風に、まるで引き籠りになったかのような生活が続く事になったのである。
その間に彼女達の間で交わされる会話と云えば、黒川が食事を持ってきた時に「食事をお持ち致しました」と云って、
それに麗華が「扉の前に置いて」と短く答えるくらいのものだった。

彼女がこの屋敷で唯一多くの言葉を交わす者と云えば、彼女の病気の事など少しも知らない家庭教師だけで、その家
庭教師とだけは彼女は会話せざるを得なかった。これまでの生活の中で勉強中にだけは発作が起きなかったのは、不幸
中の幸いと云えるだろう。一人になると煩悶してしまう彼女にとっては、勉強に集中していられる間のこの時間が一番
安閑としていられる時分であった。

今日もまた、黒川と麗華は殆ど会話を交わす事なく、麗華は部屋で茫然自失とした時分を、黒川は屋敷でこなさなけ
ればならない仕事をする時分を、それぞれ物憂いげな表情を浮かべながら過ごすはずだった。けれども、今日ばかりは
勝手が違ったのである。二人にとって思わぬ来客が、屋敷の呼び鈴を高らかに響かせたのだった。
雲が広がる低い空から落ちる雨粒が窓に当たり、五月蠅い音を奏でている日、軽快な音は麗華にはとても久し振りに
感ぜられた。そして、それは黒川も同様の思いであった。

麗華は相変わらず部屋に籠っていた為、応対に応じるのは黒川の役目だったが、覗き穴から来客の顔を見た時に彼は
あからさまに眉を顰めた。中からの対応を待ちながら腕時計を見たり、髪の毛を弄ったりしているのは、少し癖の
掛かった髪の毛を外に跳ねさせている、顔立ちの良い少年であった。
何処かの学校の制服を着こなす彼の印象は清楚で清潔、そのようなものだろう。制服を着崩す事なく、形式通りに着
るその少年は、大きな家の一人息子と思わせるには充分であった。しかし、やはり黒川は複雑な心持のまま扉を開いた。
屋敷に招き入れるには、少しばかり抵抗があったのである。だが、黒川は自分の心持がどうであろうと、彼を屋敷の中
に招かねばならない。彼の抵抗は、間もなく扉を開けて、直ぐ前に立っている少年の前に蹲踞した。

「こんにちは。今日は雨の中、いかが致しましたか?」

黒川は形だけの笑みを浮かべながら彼に訊いた。水滴が滴る癖のある髪の毛は、それでも外に跳ねている。困った風
に人の良い笑みを浮かべながら、少年は目の前に佇む自分よりも幾らか背の高い男を見上げた。同じ漆黒の瞳が、しか
し違う光を湛えながら交錯する。けれども、それを意識しているのは黒川のみである。少年は無邪気なようで人の心を
見透かすような瞳を細めながら、黒川を見据える。雨の音は絶え間ない。

「こんなに濡れて、申し訳ないのだけど、麗華の様子が気になってね。
聞けば近所からは囚われた姫君の城≠ネんて呼ばれているみたいだし、実際滅多に外出しないって話だから心配に
なってしまって」

照れ臭そうに濡れた頭を掻く少年の頬は僅かばかり朱が差していた。黒川は、その様子が気に入らないとでも云うよ
うに仮初の笑顔を顔に張り付けた憮然とした態度で立っている。しかし、目の前で誰からも好かれそうな柔和な笑顔を
浮かべている少年は、自分よりも格段に立場が上の者だった。

その少年――白水優(しらみずゆう)は進藤家と縁の深い家系の者であった。それ故に幼い頃から懇意な間柄の麗
華に会いに来るのも多く、慳貪な態度で迎えるなどあってはならない事である。ましてや、屋敷に仕えるただの使用人
がそのような態度を取った暁には、首が飛ぶのは必然である。
横柄な態度を取らない優はそのような事をする人間では無かったが、その闊達な性格が黒川には気に入らなかった。
誰をも懐柔してしまいそうな危うさを秘めた優に、麗華がどうかされてしまうのではないかと不安になる。杞憂だとは
云えない心配だけに、それを分かっていながら何も行動を起こせない自分に対して歯痒さを噛み締めている。
実際、優が麗華に対して懸想の念を抱いているのは傍目から見ても確かなものであったし、それを両家とも快く
思っている。元より、いち使用人でしかない黒川が間に入る余地など、存在しなかった。余りにも自分勝手な想いでは
あったが、麗華に長く仕え、そして特別な感情を持っていてはそれも仕方のない事であった。

「すぐにタオルをご用意しますので、客間にてお待ちになって下さい。お嬢様も呼びしますから」
「ああ、ありがとう。それじゃあ、遠慮なく上がらせて貰うよ。ええと、黒川君で合っているかな」
「はい。……それが、どうかされましたか?」
「いや、長い事一人でこの屋敷の管理をされているって聞いていたから。
僕の所の使用人が聞いたら絶句するだろうね。こんなに広い屋敷を一人で管理するなんて」
「お嬢様が直々に、私を℃cして下さいましたので、大した苦ではありません」
「はは、こんなに主人を思ってくれている使用人が居るなんて、麗華も幸せ者だよ」

優は黒川が強調した部分には触れる事なく、飽くまで鷹揚にその場をやり過ごすと屋敷の敷居を跨いで客間の方へと
歩いて行った。彼が歩く度に髪の毛から滴る水が、絨毯に染みを作る。黒川は余裕綽々と云った風に歩む優の姿を一瞥
すると、三階へと続く階段を登って行った。やはりその顔は、物憂いげなそれだった。

麗華の部屋の目の前に立つと、彼は二回扉を叩いて中からの反応を窺った。彼がノックした後、暫しの逡巡を置いて
中からは細い声が聞こえてくる。暗い影が差すその声は、彼の心臓を中に置いて蜷局を巻く毒蛇の尾に込める力を増さ
せて、締め付けた。

「お嬢様、優様がお見えになっています」
「……優が……?」

彼女が優を名前で呼んだ事に、彼は人知れず苛立ちを募らせた。立場が同じと云うだけで、お互いに何も知らないは
ずなのに、あたかも懇意だと振舞う様が彼には気に入らない。かと云って口出しする事も出来ず、やはり使用人として
の態度を保ち続ける彼だったが、今日はそれがとても辛く感ぜられた。
先日の事があったからなのは明白であった。あの日から複雑になってしまった互いの心境は融和する事が出来ないま
ま、今日を迎え、未だに変化を知らない。けれども、優と麗華は普通に言葉を交わせるだろう。まるで久方振りに出会
う親友に気軽な挨拶を交わすのと同様、胸の内に燻ぶる暗き影を見せないだろう。麗華は何も彼に教えてはおらず、彼
もまた、彼女が他人に痴態を晒した事を知らないのだから。

「……分かった。支度してから、すぐに行くわ。黒川はお茶でも出してあげていて」

優の事だから、傘も差してきてないでしょうし、と最後に付け加えて、それきり麗華から何かを云う事はなかった。
黒川と麗華とが、此処まで長い対話をしたのは久方振りであったが、それでも彼の心境は怏々とした靄が晴れないまま、
心の軋む不協和音を頭の中に響かせている。
優の事なら何でも分かる、それを示唆するかのように付け加えた麗華の言葉は、存外彼を不快にさせた。長い使用人
の生活が、そのような感情を抱かせはしないと信じていた彼にとってそれは石で頭を叩き付けられたかのような衝撃を
伴った。彼女の口から他の男の名が出る事が、これほどまでに自分を不安に、そして不快にさせると云う事を、彼は改
めて思い知る事になったのである。

「……承知致しました」

今にも消えて無くなりそうな乏しい声量で云って、彼は心なしか行きよりも重くなった肩を少しばかり下げて、踵を
返した。長い廊下には、彼の靴音と喧しい雨音が静かに響き渡り、何処か蕭条とした様を漂わせていた。

黒川が客間の扉を開くと、そこには上着を脱いでワイシャツ姿になっている優の姿があった。あの雨の中、傘も差さ
ずに庭を門から玄関へと駆けて来たのだろう彼の体は、上着は勿論水が滴るほどに濡れていて、それはワイシャツも同
様の事だった。濡れている所為で、肌の色が透けてしまっている。黒川は手に持ったタオルを彼に差し出した。

「ああ、済まないね。君には昔から世話を掛けているような気がするよ」
「そのような事はございません。進藤家の使用人として有るべき事をしているのですから」

苦笑を浮かべて云った優に、憮然とした態度でそう返した黒川はその後何かを云う事は無かった。
詰まる所、優の来た事に不安と不満を同時に感じているのである。優が此処に来た目的も、彼が麗華に対して抱く気
持ちも――何もかもが判然としない。判然としている事にはしている。しかし、何か逃避的な猜疑心がそれを確信へと
変えてくれない。黒川自身の気持ちは判然としているのに、何かを出来る事もないその現実に苛まれて、彼はただ意気
消沈するばかりであった。
けれども、黒川はまだ自分の顔に仮面を被せる事が可能だった。優が何事かを云えば、当たり触りのない返答を流暢
に紡ぐ事が出来たし、怏々とした態度を発露する事もない。長年の使用人生活で培ってきた彼の性質は思わぬ所で彼に
助けの手を差し伸べ、救いにならない救済を与えたのである。

優はタオルと同時に差し出されたお茶を一口喉に流し込むと、ほう、と長い溜息を吐いて何処か遠い目をした。その
様は彼が滅多に見せる事のない緊張の表れでもある。黒川には何故こうして優が緊張しているのか分りかねた。

「どうだい?君から見て彼女の病状は。結構深刻だと聞いていたのだけれど」

図らずも呆然としてしまっていた黒川は、突然掛けられた言葉に即刻返事を返す事が出来なかった。
否、例え彼が万全の準備をして如何なる優からの問いを待ち受けていたとしても、黒川は答えられないだろう。麗華
の病気を知る事は、彼にでさえ無理であったのだから仕方がない。面と向かって頼み込んでも麗華はそれを拒否するの
だから彼にはどうする事も出来なかったのである。

「……私は存じていませんが、お嬢様は生死の問題ではないから心配するな、と申し上げておりました」
「そうか、それは何よりだ。しかし、――君が知らないとなると、どんな病気なんだろう?」

優は顎に手を当ててその理由を黙然と考えていたようだったが、やがて何も思い付かなかったのか嘆息すると、先刻
よりも温くなったお茶を啜った。黒川は終始気の落ちた表情で、憮然と佇んでいた。無配慮な優の言葉は、今では黒川
の心を抉っているかのように、痛みを与えている。
それもこれも、全て麗華のあの行為を目にして、耳に入れてしまったのが原因である。あれさえ無ければ、今頃黒川
は優と談笑を交わしていた事だろう。優は使用人とも気兼ねなく話し、そしてその相手も話し易いような雰囲気を作る
才能に長けていたのだから、今の優は黒川が醸し出す一触即発の空気を読み取っているとしか思えなかった。

「――遅れて、ごめんなさい」

そのような何処か――少なくとも黒川にとっては――気まずい時分が暫く続いた頃だった。
唐突に客間の扉が開けられ、そこから金の美しい髪の毛を真っ直ぐ腰まで流した麗華が姿を見せた。彼女の姿は、
一見すればワンピースのような服装にも見えたが、よく見てみればそれは着易そうなドレスであった。それが、窮屈な
のを好まない麗華が自分で購入した服である事を知っているのは此処では麗華と黒川のみである。

そして、それが黒川の胸にちくりと針を刺した。
普段は何も反発せずに自分が選んできた服を着てくれていたのにも関わらず、この場ではわざわざクローゼットの中
に埋もれていただろう服を取り出してくるなんて――と。それだけではない。彼女の顔には薄く化粧が施され、普段よ
りも長くなった睫毛や、瑞々しい桜色の唇も艶やかに電灯の光を受けて光っていた。白い肌はそれを際立たせ、何処か
儚げな印象を人に与える、新雪のような美しさを存分に放っていた。

「……いや、別に気にしなくても――」

そう云って振り返ろうとした優は、しかし呆然としたまま口元に近付け掛けていた湯呑を中途半端な位置で固定して、
何処か夢心地で言葉を紡いでいた。唐突に目に入れるには、彼女の姿は余りにも美し過ぎたのである。優は呆けながら
も彼女の姿を爪先から頭頂まで眺めた。そして、最後に麗華に会ったのは何時だっただろうか、と考える。記憶を
遡って行くと、それは実に二人が中学校に入学した祝いの席の事であった。
扉の前に立つ麗華は、その細く整えられた眉の根を下げて、眉間に皺を寄せて優を睨み見た。癖のある髪の毛から未
だ滴り続けている水滴は絶え間なく下の絨毯に斑模様を作っていて、着ている白いワイシャツは先ほどよりも乾いてい
るものの、まだ透けて地肌が窺えるくらいだった。麗華は嘆息を一つすると、大きく足音を立てながら彼に近寄った。

「れ、麗華……?」

戸惑ったように彼女の名を呼ぶ優の声に耳も貸さず、彼の手からタオルを引っ手繰ると乱雑にそれを優の頭に押し当
てた。癖のある髪の毛が麗華の操るタオルに潰され、代わりに水気を吸い取られて行く。がしがしと云う擬音が適切に
も見える麗華の頭の拭き方は傍目から見ても乱暴なものだったが、それでいて母親のような恩倖を含んでいるようにも
感ぜられた。その様子を、冷然とした目で眺め遣る黒川は、やはり身体の前で手を組んだまま微動だにしなかった。

「全く……傘くらい何時も備えておきなさいよ、って繰り返し云ってるじゃない」

彼の頭を拭く手は休ませず、動かし続けたままで彼女は云った。されるがままの優は照れ臭そうに笑いながら、
「ついつい忘れてしまって」と零している。麗華は再び嘆息を落とすと、随分と水気を吸い取ったタオルを彼の頭から
退けて、膝立ちになって真正面から彼の目を見詰めた。蒼穹を映したかのような碧眼と、月の掛かる夜の闇を彷彿とさ
せる優の目が交差する。そうして一拍の間を置いて、麗華は嫣然と微笑みながら久闊を叙した。

「久し振り、……優」
「久し振り、麗華」

云って互いに微笑んだ所で、とうとう黒川は自身を苛める心の渦に耐えかねてその場から逃げ出すように、
「お茶を入れて参ります」と云って客間を出ると、早足で台所に向かって行った。突然の彼の行動に麗華と優は怪訝な
眼差しを彼が去って行った扉に向けたが、優が言葉を発した事により強制的にその場の空気はがらりと変わる事と
なった。
但し、扉を見詰めていた彼女の目には今も寂寞と懊悩を漂わせてはいたが。

「それにしても――麗華、君は随分と綺麗になったものだね」

紳士が恥じらいを持つ事なく云うような科白を聞いて、麗華の新雪のような真白な肌は、突然夕陽が差したかのよう
に赤くなった。何か云い返そうと彼を見て口を開けても、安閑たる様子で柔和な微笑を湛えている優の姿を見ると、喉
まで出掛かっていた言葉も尻込みして奥の方に逃げてしまう。
結局何も云う事が出来ず、彼女はただ愧赧の念を表している表情を隠すようにして、俯いた。

「なに、照れる事はないさ。僕だって驚いたくらいなんだから」
「……お世辞なら、お断りだけど」
「僕の目がお世辞や社交辞令を云っているように見えるのかい?君のその眼は」

そうして俯く麗華と無理やり視線を合わせようと、彼女の顔を覗き込んでくる彼の目は、麗華に猜疑の念を入り込ま
せる余地もないほどに澄んだ黒をしていて、そこに虚偽などは微塵も窺えなかった。だからこそ、彼女は更に顔を熟れ
た林檎のように赤らめて、出来るだけ優の目から逃げようと顔を背ける。
そのような、普段は怜悧で荘厳な様子を見せている麗華が見せる可愛らしい一面を満足そうに見遣ると、優は穏やか
に微笑んで彼女から顔を引いた。安心したように溜息を吐いた麗華の顔は、まだ赤かった。

「そうじゃないけど……」
「じゃあ、なんだと思ったんだ」

諧謔を弄するように、気軽に言葉を紡いだ彼は、しかし呆気に取られる事となった。
理由など彼女の今の姿を見るだけで一目瞭然であるのに、それでも何故≠ネんだと問い質す彼の質問に、麗華は健
気にも答えを返そうとしたのである。それはやはり彼女が普段の――と云うよりは昔だが、それとは掛け離れているも
のだった。麗華は羞恥に震える可憐な唇で、彼に返答を寄越した。

「……恥ずかしいのよ」

その様たるや、どうやって形容出来ようか。
膝の辺りのドレスの生地を両手で掴みながら、顔だけではなくドレスから伸びる肌すらも赤らめさせて、必死の思い
で紡いだ彼女の言葉と今の姿は重なる事で形容し難い楚々たる様を見せていた。その姿に彼が言葉を失うのも無理はな
い事である。この場に黒川が居たとしても、同じ反応をした事だろう。
最後の麗華と会った時などは、こうして恥じらう姿を彼女が見せるなどとは優は考えてもいなかったのである。常に
凛とした面持ちで悠然と人の前を歩く、或る意味で狷介だった彼女がこのような姿を見せるなど、優は初めて知った。
そして、初めてにも関わらずその強烈な映像の一枚一枚は網膜に焼かれ、保存されたのであった。

「……」
「……」

そのような奇妙な時分が長らく続いた時であろう。お茶を淹れに行っていた黒川は通常の倍以上の時間を掛けて漸く
戻ってきた。彼が扉を開けて一番に目にしたものと云えば、そこには俯いて真っ赤になった顔を金の長い髪の毛で隠し
ている麗華の姿と、またもや湯呑を中途半端な位置で持ちながら呆けている優の姿だった。
しかし、彼らの間に流れていた沈黙も、黒川が来た事によって吹き飛ばされたようである。徐々に元の新雪のような
色の肌を取り戻しながら、麗華は黒川から差し出された湯呑をぎこちない礼を云いながら受け取って、一口だけ喉に流
し込んだ。優は、すっかり冷めてしまっているお茶を飲み、顔を顰めていた。

それから彼らは何事かを話していた。
当たり障りのない会話を誰もが選んでいるようであった。黒川と麗華は勿論、そしてそれは何故だか優も同じで
あった。彼は何処か節操がないように見えた。何かとそわそわと落ち着かない事が時々あり、そうなると必ず何かしら
の話題を振る。そうして今の時間は成り立っていた。
けれども、その背景には常に暗幕が張られているかのように、殺伐としたものを漂わせ続けていた。揺蕩う暗幕の裏
に燦と輝くは、白き太陽である。その光の全てを遮る暗幕は、丁度空に広がっている雲と同じ役割を果たしていた。

「――あのドライヤーの熱さはまだ覚えているよ。あの日も今日のような大雨が降っている日だった」

枯渇した湯呑を手に持ちながら、優はそのような事を云った。先刻まで昔話をしていた事から考えてみても、それは
同じように過去の思い出の話だったのだろう。彼は癖のある自分の髪の毛を指先で弄りながら麗華に視線を向けた。
探られるようにして視線を向けられた麗華は、思い当たる節があったのか目を高い天井に巡らせた。既に薄暮を過
ぎた今の時分では、窓の外から入り込むのは騒がしい雨音のみで、外には黒洞々たる暗闇が広がるばかりである。その
所為か、天井に吊るされた豪奢なシャンデリアが降らす光は平生より明るく感ぜられた。

「ええと、何の事かしら」

判然としない様を見せたまま云われた彼女の言葉は、むしろ優が話した出来事が本当の事であったと証左するものに
他ならなかった。優はここぞとばかりに唇に歪曲を描くと、意地悪く微笑んだ。そうして、その視線を今度は黒川に向
けると、わざとらしく確認するように、云った。
困った風に視線を彼方此方に巡らす彼女の姿は、彼の嗜虐心を煽るには充分過ぎる効力を持ち得ていた。そのような
事に麗華が気付くはずもなく、唐突に自分から視線を外した優の姿を彼女はただ怪訝な眼差しで見遣っていた。優の後
ろに立っている黒川の姿は、故意に視界に入らないように努めていた。

「君は覚えているかな。ずぶ濡れの状態でここに転がり込んで来た時――ドライヤーで髪の毛を乾かしてくれると思ったら、いや、予想もしてなかった。麗華は僕の頭に躊躇なくそれを押し付けたのだからね」

そのような諧謔を弄する彼に、思わず麗華は顔に血が昇ってくる感覚を覚えた。
確かに、彼女が記憶する優との思い出の中にはドライヤーを押し付けた記憶が残っている。あの時は、何度も風邪を
引くかも知れないと注意していたにも関わらず、また雨に濡れて訪れた彼の無頓着さが、子供心に彼女を怒らせたのだ
ろう、気付けば乾かそうと彼に向けていたドライヤーの先端は焦げた臭いを室内に撒き散らしていた。
大事には至らなかったが、衝動的に優の頭を燃やし掛けてしまった事は未だに彼女にとって遣り切れない思いが残る
過去であった。今でも、優は彼女との間に出す諧謔にそれを使うのだから、麗華に忘れる事が出来ないのも道理なので
ある。けれども、今はそのような優の冗談でさえ、この屋敷に住まう二人の男女には素直に楽しめないでいた。

「ええ、存じております。あの時は確か、優様が頭を押さえて離さなかったもので、火傷の治療に手間が掛かりました。
その様子を、お嬢様は狼狽致しながら見守っていましたね」

黒川はそう云って、笑った。但し、その笑みはとても感情の籠っている風には聞こえないものであった。否、或いは
郷愁の念に思わず零してしまった失笑に見える事であろう。しかしそれも、優に対してでしか大した効力を発揮し得な
かった。黒川が喋り終えると同時、殆ど無意識下の状態で麗華は彼を見遣った。
果たして、そこには憮然とした表情を崩して笑う黒川が居た。見事なまでに精巧な造りの仮面を被った彼が、能面の
ように無機質な微笑を湛えていたのである。
思わず、彼女は身震いした。
余りにも、そこで微笑んでいる彼の様子が尋常でないものに感ぜられたのだ。何時もなら柔らかい物腰で微笑む彼が
そのような表情をしているなどと、彼女には信じられなかった。そしてそれがもたらすものと云えば、やはり自身の醜
態を晒したあの日の事なのである。麗華はこの瞬間でさえ自戒の念に苛まれていた。

「……黒川まで、よしなさいよ。あたしが覚えてないんだから、そんな事も無かったのよ、きっと」
「あのドライヤーの熱さは忘れようにも忘れられないものだったがね。僕は今でも君がドライヤーを持っている所を想
像するだけで、頭から血の気が引いて行くくらいなのだし――」

そうして、三人は誰からともなく哄笑した。
優は彼女の云い訳の苦しさに、そして黒川と麗華はこの場のどうしようもない滑稽さに。
彼ら三人が話しているこの場は、どうしようもなく滑稽だった。何処か粗相が無くても談笑を純粋に楽しむ優。対し
てお互いを牽制し合うように窺う黒川と麗華は、常に心の何処かに影を忍ばせていた。三人が談笑するこの場の明るい
表面の裏には、暗澹たる錯綜が渦巻いているようだったのである。兎角、その様は滑稽であった。

仮に優と麗華の二人だけだったならば、――或いは使用人が黒川一人と云う状況さえ無ければ、均衡は何事もなく保
たれていた事であろう。しかし、現実には黒川はその場に居合わせているし、他の使用人達も存在しない。最悪とも取
れるこの状況はありありと現実の峻峭さを示唆していたのである。

「まあ、あの時僕が晒した醜態と云えば情けない限りだった。今思い出しても恥ずかしい思い出だよ」

この話題に一通りの区切りを付けた優の言葉を筆頭に、活き活きとした沈黙は彼らを包み込んだ。猛然たる雨音はそ
の熾烈さを更に増し、今では外から聞こえる音など他に聞こえるものは無い。そのような、何処か居心地の悪い沈黙は
暫くの間続く事になった。そうして、三人はそれぞれの思量に耽っていた。

麗華は考えていた。
自分が返していた言葉は恐らく適切なものであっただろう。久し振りに出会った幼馴染と交わす会話としては、彼女
が発していた言葉はこの上なく適切だった。久し振りに会えた喜びを密やかながら水面下に映し、談笑を楽しむ笑顔も
見せていた。けれども、その深海の奥深く、彼女は別の事を考えていたのであった。

自分とは全く違った鷹揚さと闊達さを兼ね揃える優は、とても優しい。自分の云った事に対して正直な気持ちを返し
てくれる。それは彼女が長らく忘れていた至極当たり前の日常であるはずであった。
しかし、麗華はそれを忘れていた。自分が蒔いた種とは云え――黒川以外の使用人を辞めさせるなどと、そのような
事をしてしまったからこうした場でさえ懊悩に陥ってしまう。

恐らく、彼女は気が付いていたのだろう。
自分が優と言葉を交わし、笑顔を作り――、そうする事で、黒川がどのような表情をしているのか。一見すれば瞭然
の変化なのである。多くの人間はそれを理解する事だろう。黒川は、嫉妬の炎に身を焦がされながら、耐え兼ねた苦痛
にその端正な顔を歪めていたのである。けれども、それが云い訳染みた感情を麗華に与えるのだ。そのような事は許さ
れない。いずれは進藤家を引っ張って行く自分が、どうして使用人との恋を優先出来よう?

彼女は自分が累々と積み上げてきた尊厳を損なう訳には行かなかった。徐々に秩序を構成しつつある自身の世界に亀
裂を走らせる訳には行かない。黒川に対して取る行動に寸毫の変化でもあったなら、忽ち彼女が唯々として作ってきた
世界は音を立てて崩れる。ましてや、得体の知れぬ、しかし確かな病魔に蝕まれている自分がそのような事をした所で、
誰彼をも不安に陥らせる事は分り切っている事であった。そして、そのような思いがそれ≠フ入り込む僅かな隙間と
なってしまったのである。

麗華は自分の胸に新しい風が吹き抜けるのを感じていた。今まで生暖かい空気ばかりが蔓延していた自分の心に、爽
快さをもたらす感情が芽生えているのを理解していた。
優の優しさは人を惹き付ける。もしもそれが身を焼くほどの恋慕に苛まれている者に対して吹いたなら、何も起こら
なかった事であろう。けれども、麗華の恋はむしろ消極的で塵労を伴うものだった。それだから、彼女の胸を颯爽と吹
いて行った柔らかな風は、彼女を躍らせるのである。
散った木の葉が風に吹かれて、抵抗など出来はしないように、それは至極当たり前の事だった。そうしてそれを嫌悪
する自分自身が、更に畏怖嫌厭を彼女にもたらすのであった。
――ともすれば、優に近付くのも好い選択肢かも知れない。

黒川は自ら恃んでいた。
今、この沈黙の真只中でさえ優を追い出したいと思う自分自身の存在を。
しかし、それを上回る彼の使用人としての誇りは必死の阻止を見せていた。けれども、彼の心の奥に静かに燃ゆる嫉
妬の炎は、その赤黒い血のような火をは時折油を差されたかのように、火柱と化して燃え上がるのだ。
例えば、優が麗華を羞恥に染めさせていた時。黒川は云い知れぬ優越を感じているのを見逃せなかった。彼女が真赤
になって俯いている様を見れば、あの日彼が目にした快感に打ち震える彼女の淫乱な姿が過り、麗華をからかう優を、
彼女が少し小突けばその手が誰を想って濡れていたのかを思い出す。麗華が優の名を呼ぶ時などは、切羽詰まって余裕
のない声が誰の名を愛おしそうに呼んでいたのかを思い出した。
それらが混ざり合って生まれる優越は、しかし彼を救っていたのだ。けれども、想いを知っていても彼にはどうする
事も出来ない。対して優が彼女にどのような感情を抱いていたとしても、彼にはそれを実現させる能力と社会的立場が
ある。その自分との差異が生む焦燥は絶え間なく彼の嫉妬の炎に油を差し込み、猛らせるのだった。

彼はそれを露呈してしまう事を何より恐れ、そして何処かでそれを望んでいた。
そのような相反する感情の挟撃が、黒川に能面のような表情をさせる所以だったのである。

「――随分と話し込んでしまったけれど、僕がここに来たのは他に理由があるんだ」

彼らがそれぞれの思案に耽って暫しの後、優はそう云って話を切り出した。それは前後の会話から察すれば唐突なも
のであった。つい先刻は昔話に花を咲かせて、明るい哄笑を振り撒いていた彼が謹厳にそう云ったのだから、違和感は
拭い切れるものではなかった。
黒川と麗華は、彼のただならぬ雰囲気に何か尋常ではないものを感じ取っていた。否応なしに湧き上がる不安がそう
するように、焦燥が彼らの心に蔓延する。優は先刻とは打って変わった真摯な眼差しに荘厳な光を湛えながら麗華を見
詰めている。背後に突き刺さる黒川の視線も彼に何ら影響を与えていなかった。

「……なに、かしら」

麗華は重々しい空気に押し潰されまいと、必死に言葉を紡ぎ出した。優の目には一塊の炭火のような赤い光が揺らめ
いている。静かに揺れるその焔は、彼の決心の表れでもあったのだろう。そのような重大な何かを彷彿とさせる光は、
その様子を裏付けるようにして彼の唇を震わせていた。麗華の目にも映る彼の緊張の様子は、やはりかつてない不安を
巻き起こす。その場に立ち込める雨音は静謐な室内に浮き彫りになって響き続けていた。
一閃、稲光が黒洞々たる夜の闇に走ったかと思うと、後続に轟音が木霊した。それを合図とするかのように、優は重
い空気を肺に取り入れると漆黒の瞳の中に更なる勢いを以て揺らめく焔を強くした。

「君に――麗華に、」

内心その場から直ぐにでも逃げ出したい衝動に駆られながらも、黒川は何とかその場に突っ立っている事が出来た。
彼の目は一心に優の背中に注がれている。その瞳の中に憐憫たる弱々しい光を湛えながら、優が紡ぎ出そうとしている
言の葉を摘もうと殆ど無力な努力に心血を注いでいた。
そして、それは麗華でさえも同様であった。言い知れぬ不安が芽吹いていくような、そのような感覚を覚えて優の真
摯な眼差しから目を逸らしたかった。けれども、優の瞳には魔術でも施されているかのように、彼女の碧眼を捉えて離
さない魔力が込められていて、麗華はただ彼が続ける二の句に耳と目を傾ける事しか出来なかった。

外に立ち込める雷雲は熾烈な勢いの雨粒を落としている。何も見えはしない漆黒の闇にまた、一筋の稲光が亀裂を入
れた。その頃には丁度、優の唇は既に言葉を形成しようと開きかけていた。

「白水家の次期後継者である僕に、嫁いで貰いたい――」

それはまるで詩を吟するかの如くの長嘯で紡がれているようであった。その言葉を、黙然と謹聴していた麗華は言葉
を失い、それでも徒に炯々と輝いている碧眼の双眸を見開くばかりである。
活き活きとした沈黙が領する室内、それを殺すかのように数刻遅れて遣って着た雷鳴は、黒川の忍従の歯軋りの音を
消し去っても、優の想いの全てが込められた言葉を刹那の光の内に掻き消してはくれなかった。
後には、何処からか集まってくる雨音が室内に蔓延る静寂の中に虚しく響き渡るばかりであった。






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