この春に、桜と君と 3(非エロ)
シチュエーション


「はあ……何してるんだ、僕は」

一人呟いて桜の木を見上げてみると、自分の小ささが浮き彫りになった気がした。
風に揺られて鳴る梢の擦れる音が、ひらひらと舞う花弁が、その美しさが。何の悩みも持たないかのように悠然
と佇む桜の木を見ているとこんな所でうじうじと悩んでいる僕が馬鹿らしく思えてくる。それどころか、こんな所
で低回している僕を桜の木が哄笑しているかのようにさえ思えた。
春香に酷い事を言った事、未だに素直になれない事、その全てが僕を苛めている。解消するのは簡単な事なのに、
それが出来ないでいるのは僕が弱いからだ。結果がどうなるのか、恐れて怯えている僕の所為だ。此処まで分かって
いながら未だに何もしない自分に嫌気が差す。彼女の元に居て、情けない顔をしている自分を殴りたくなる。
けれど、それはただの逃避だ。
自分を嫌悪しても何も変わらない。自分を殴っても、それは春香の感じている痛みに比べれば足元にも及ばない。
何も変わらない悪循環に嵌って、一体何が変わると言うのだろうか。自分から抜け出す事の出来ない袋小路に逃げ込
んで、何が救われると言うのだろうか。
此処に来ると、春香と約束を交わした日の事を今でも鮮明に思い出す事が出来る。それ故に辛い。あの約束を僕
は未だに果たせていないのだ。今でも彼女は期待して待っていてくれているのだろうか。春香の所に行く事を"義務"
だと、そんな酷い言葉をぶつけてしまった僕に。
だとしたら、僕は本当に最低な人間だ。
あの日の約束を守る事を、何時も引き延ばしている僕は、本当に。

「……でも、どうすればいいんだよ」

彼女が居るだろう病室を見上げて一人ごちる。
その問いに答えてくれる者など此処に居るはずがなく、その呟きは木々のざわめきに溶けて消えて行った。
幾ら考えてもそれは堂々巡りになってしまい、一向に答えは導きだせない。それは何故だ?そう自問すると、
何時も同じ憶測が僕の頭の中に浮かび上がる。それは常に思っている事でありながらやろうとしなかった事だ。だ
が、今度ばかりは、本気でそうする必要があると思った。でなければ、進展は望めないだろうと、そう思ったのだ。

――春香と距離を置く。

それが僕に出来る唯一の手段だと思った。
彼女に近付くのが怖い。
彼女に優しい言葉を掛けるのが怖い。
それら全ては結果が恐ろしいからに他ならない。何時も冷たい態度で邪険に接してくる彼女だからこそ、もう昔
のような関係には戻れないのだと、僕は思う。だから、彼女と距離を置く事で何か見えなかったものを見出せると、
ある種の確信を僕は抱いていた。
それは罪悪感と恐怖とで苦しめられるだろう手段かも知れないけれど、そこに僕が乗り越えなければならない大
きな壁がある。その余りにも大きな壁が恐ろしくて今まで立ち向かわずに逃げていたけれど、今度こそは。
僕は桜の木の根元に降ろしていた腰を持ち上げると、その大きな木を見上げた。揺れる桜の花と、悠久の時を感
じさせる頼もしい幹が聳え立ち、僕を見下ろしていた。この木があの日の僕に勇気を与えてくれたのだ。
あの日、何時もあの病室から見えるこの桜しか見た事のない春香を、もっと凄いものに会わせる勇気。それは彼女
の体の事を考えると中々出来る事ではなかったけれど、あの桜しか見た事のない春香を見ているのが不憫に思えて、
どうしても連れ出したくなった。結果的に何も無かったから美しい思い出として今も心に残っているけれど、それ
でも約束を守れていない事が今も僕の心を締め付けている。
だから、僕は決心した。

「そしたら……もう一度、行こう」

そして、僕は歩き出す。最後に彼女の病室の方を見遣れば言い様のない不安が襲ってきたけれど、その痛みに耐
えて大きな一歩を踏み出した。
さっと風が吹く。春の香りを乗せた、心地の良い風が僕の歩みを後押ししてくれている気がした。

一日目、僕は心のそれなりに浅い所で常に渦巻いている不安に、どうしようもない焦燥に駆られていた。
二日目、僕はそわそわとしながら、友人のからかい文句も聞き流していた。
三日目、授業の内容が頭に入って来なくなった。先生が、不協和音を垂れ流しにしているかのようだった。
四日目、何時しか時計の針が進むのを眺めて、頭の中で時の進みを数えている自分が居た。
五日目、学校に向かっていたはずの足が、何時の間にか病院へと続く見当違いの道を歩こうとしていた。
六日目、もう直ぐこの時間が終わるのかと思うと、心臓が五月蠅く鳴り続けていた。ふと、僕の前を横切った桜の
花弁を見ると、春香の事を唐突に思い出した。
七日目、体が落ち着かない。体を掌る脳に反して、僕の体は何時も何処かしらを彷徨するようになった。

――そして、僕が春香から距離を取る事を決心して一週間が過ぎた。
僕は今、彼女の病院のベンチに腰を落ち着けて物想いに耽っている。この一週間の事を思い出すと、今になって
も連日感じていた不安と焦燥が身体の中を駆け巡った。
春香から距離を置く事は、予想以上に辛いものだった。
何かあれば春香の親が僕にも知らせをくれるだろうけど、それでも今まで毎日のように彼女に会いに行っていた
僕にとっては充分過ぎるほどの不安を与えてくれる。そんな中、学校の授業もまともに聞かず、家に居ても上の空
の状態を経験した僕は改めて彼女の大切さを思い知った。
彼女に会いに行く事で安心を得ていたのは、僕の方だった。
生きている証として最も濃い春香の声や容姿を見る事が、僕の安心だった。彼女にとって僕と言う存在がどんな
影響を与えているのかは分からない。けれど、僕には信じる事しか出来なかった。
春香と距離を置いて僕が辛かったように、彼女もまた辛い思いをしていたのだと。何時もの、僕を暗に拒絶して
いる態度は大切な人からいずれ永遠に離れてしまう事になる寂しさを知らないようにする為なのだと。
そう思わなくては、もう僕はあの病室には入れない。
知ってしまったのだ、本当の自分の気持ちを。
本当に、自分が春香にしてあげたい事を。
それは"義務"などと言う陳腐な言葉では到底括れないような感情の証だった。何にも縛られない、僕の、僕だけ
の気持ちが今はこの胸の中に秘められている。それ故に今の僕なら素直になれると不思議な確信があった。
意地っ張り同士の意地の張り合いを終えるにはどうすれば良いのか、この一週間ずっと考えて、漸く答えは見出
せた。どちらか一方が素直になれば良いのだ。それはとても簡単な事で、とても難しい。こと、春香に関しては僕
の想像以上に物事を難しく捉えているだろう。
だから、僕が。
春香の事を誰よりも知っている僕が素直になれば、きっと彼女も素直になってくれる。想いが通じ合えるかどう
かは誰にも分からないけれど、それでも伝えたい言葉がある。
彼女が何故僕にとって大切なのか、今まで気付こうとしなかった僕が漸く気付いたのだ。

――春香の事が、好きだと、そう伝える為の決心はもうついた。

これを伝える機会を引き延ばしていては、もう何時伝えられるかの保証はない。僕は大きな一歩を踏み出さねば
ならないのだ。例え、それが彼女に踏襲される結果となっても。それがこの一週間で気付けた一番大切な事だった。

「――行くか」

そして僕は立ち上がった。この想いを告げる為に、見慣れた病室へと向かう為に。

そこは、一週間前と何も変わっていなかった。
扉に刻まれた傷跡や汚れ、その全てが僕の記憶と合致する。その扉の取っ手に触れようとすれば心臓が早鐘のよ
うに五月蠅く鳴り響くけれど、僕が怖気づく事はなかった。
冷たい扉の取っ手に触れる。冷えた金属が僕の手に当たり、じんわりと体温を奪った。
少し、ほんの少しだけこれを左に滑らせれば彼女の姿を見る事が出来る。期待と緊張が綯い交ぜになった僕の心
持は決して落ち着いているとは言えないけれど、僕は手に力を込めた。
軋んだ音を立てて扉が開き、病室の光が僕の眼に映る。一思いに一気に開くと、そこには目を丸くして僕を見詰
める春香の姿があった。
彼女は嬉しそうな、悲しそうな、そんな微妙な表情をしたまま固まっていた。僕が来た事が意外だったのだろう
か、硬直したままぴくりとも動かない。そんな春香の様子につられたのか、僕まで動く事が出来ないでいた。
沈黙が白い病室の中に木霊する。
立ち往生していても何も始まらない、そう思い立った僕は意を決して一歩踏み出した。壁に掛けられた時計は午
後六時を指している。もう、薄暮の時間だった。

「来ないで」

唐突に、冷たい言葉が僕を貫いた。
誰がこんな言葉を予想しただろうか?長年一緒に居た僕ですら、こんな言葉を言われるなどと、予想してはい
なかった。理由ならあるかも知れない。一週間も放っていたのだ、何時も僕が来ていた事を考えれば彼女が怒るの
も無理はない。けれど、怒っているにしてはその言葉は冷た過ぎる響きを持っていたのだ。

「どうしたんだよ、いきなり」

焦る心を宥めて、そう問い掛ける。こんな所で退く訳にはいかない。それでは、此処に来た意味がない。一週間
も此処に来なかった意味がない。
きっと、癇癪でも起こしたのだろう。前の春香の様子を考えれば別段不思議な事ではないし、僕は極めて冷静な態度で彼女を見据えた。けれど、それでも彼女は冷たく凍てついた視線を崩す事はなかった。

「来ないで、と言ってるの。もう二度と、ここに」

僕を突き放そうとする、絶対零度の言葉。それが急速に僕の不安を大きいものへと変貌させる。何故だか冷たい
汗が背中を伝い、鳥肌が立った。
春香の言葉は本心以外の何物でもなかった。偽りなど片鱗すら見受けられない。それ故に僕は焦燥に駆られる。
本当にこのまま彼女に拒絶されるだけになってしまうかも知れないと、怖くなる。
しかし、諦める訳にはいかない。僕は勇気を出さねばならないのだ。それはもう決めた事。止まってしまった一
歩をもう一度踏み出せ、そう自分に強く言い聞かせると、何とか震える足は言う事を聞いてくれた。
コツ、と靴が病室の床を踏み鳴らす。それと同時に春香の目付きがより一層鋭くなり、更なる冷たさを以てして
僕を射抜き、竦ませる。それでも、僕は歩みを止めない。
やがて二歩ほど歩いた所で、春香は傍らに置いてあった花瓶をその手に掴んだ。その途端、嫌な予感が頭を過ぎ
る。昔の映像が脳内にフラッシュバックされて、それと同時、春香は手に花瓶を持ったまま腕を振り上げた。

「それ以上近付いたら、投げるから」

春香は本気で言っていた。
その眼に宿る光がそれを僕に確信させる。手に持っている花瓶は蛍光灯の光を受けて、輝いている。僕を傷付け
ようとする硝子の造形が恐ろしい痛みのイメージを頭の中に構築して、僕は生唾を飲み込んだ。
一体どれほどの時間が経過したのか、既に僕は覚えていなかった。果てしないほどの時間の中を彼女の鋭い視線
と向き合った気がする。止めていた足はがくがくと震え、前に進もうとする事を拒んでいた。

その一方で怖気付いている自分を必死に励ます僕が居た。
どんな痛みと引き換えにしても、彼女に伝えたい言葉があるのだと、言い聞かせる自分は何時になく必死で、春
香に拒絶される事を恐れていた自分もそこでは押され気味だった。

「……」

また一歩を、僕は震えながら踏み出していた。その間にどんな葛藤があったのか分からない。自分が何をしよう
としているのか、それですら漠然とした意識の中でぼんやり捉えているに過ぎなかった。
だが、更に一歩を踏み出そうとした所で危惧していた状況は訪れた。春香は、手に花瓶を持ったまま勢い良く腕
を振りかぶって、彼女が持てる渾身の力を込めて花瓶を宙に投げ出した。回転し、中に入った水をばら撒きながら、
光を次々に反射させてそれは僕へと迫る。避けようと、反射的に足が動きそうになるが、僕の足は棒にでもなって
しまったかのように動かない。徐々に迫る狂気の塊が、何故か僕の頭を冷静にしていた。
病室に響き渡った甲高い音が、何の音なのかを理解するまでには暫しの時間を要した。
鈍く痛む頭。飛び散る破片。舞う花弁。春香の、悲痛に歪んだ表情。
それら全てがスローモーションになっていた。
何故僕は花瓶をまともに喰らったのか、理由は分からない。けれど、避けてはならない気がしたのだ。彼女の痛
みはきっと僕が受けた痛みよりもずっと苦しいものだから。
せめて、それに近い痛みは受けるべきだと思ったのかも知れない。それがただの自己満足だったとしても。
硝子が辺りに散乱した。次々と、床に打ち付ける破片はさながら銀色の光を放つ雨にも見える。それは全てに恵
みをもたらす慈雨のような温かいものではなかったけれど。
僕は額から生暖かいものが伝うのを感じた後、再び歩を進めた。パキ、と破片が割れる音が脳内に響き、視界を
ぐらつかせる。意識ははっきりしているのに視界は歪んでいて、足に伝わる接地感も曖昧だった。

「春香」

春香の名を呼んだ僕の声は自分でも驚くほどに凛と響き渡った気がした。色んな感情が混ざり合った結果の声は
とても澄んでいて、この静かな病室に綺麗に浸透し彼女に届く。
春香は息を荒げて、俯いていた。

「どうして――」

春香が発したその声は悲しみの一色に染まっていた。僕が口を出す隙間もない空気の中、彼女の悲鳴のように聞
こえる声が僕の鼓膜を震わせる。

「こんなに来ないでって言ってるのに、あなたは来るの!?」

それは、彼女の叫びであり慟哭だった。
言いたい事を言えない。春香の事情が重なって、言う事は許されないと思っているような、そんな声。彼女は続
ける。病室の静寂を打ち破る叫びが、僕の世界に木霊した。

「痛いでしょう!?思い切り投げたのよ!思い切りあなたを拒絶したの!最低な事をしたのよ!だから、
もう私に構わないで!こんな私を見ないでよ!!」

彼女の感情に歯止めをかけていた理性は打ち砕かれているようだった。聞いているだけで悲しくなるけれど、聞
いているだけで救いたくなるけれど、今の春香がそんな事を望んでいない事は一目瞭然だった。
故に、僕は押し黙る。
彼女の思いの丈が全て吐き出されるまで、掛けたい言葉を押し留めた。

「もう嫌!彬を見るのも、彬の声を聞くのも、全部!」

その声には涙が混じっていた。震える声で、それでも懸命に、彼女は叫ぶ。もう自分が何をしたいのかも分から
ないのかも知れない。暴走させるまま、自分を解き放つ事によって鬱積を晴らしているだけかも知れない。
春香は眼に涙を溜めて、すうと息を吸い込んだ。そこに先刻までの荒々しさは感じられないけれど、何となく拒
絶されるんだな、と思う。そして、彼女が続けた言葉は僕の予想通りの物だった。

「だから……もう、来ないで……ッ」

そよ風にすら?き消されてしまいそうな弱々しい声で、彼女は伝えた。
その想いの全てを僕に、余す事無くぶつけ尽くした。春香の懇願に、以前の僕ならば応えていただろう。けれど、
今は違う。以前のように、胸糞悪い捨て台詞を吐いて病室を出て行く僕とは、決定的に違うのだ。
この病室から逃げる事よりもやらなければならない事を知っているのだ。
僕は、最後の一歩を踏み出した。
目の前にある、春香の姿は酷く脆そうで、隠れた表情は泣きそうになっているだろう。
けれど、僕は言う。それは彼女にとって疎ましいものかも知れなかったが、言わなければならない言葉だった。
何故なら、僕は何時だって往生際が悪いのだから。

「嫌だ。何度でも来るし、何度拒絶されたって僕は諦めない」
「……」

舞い戻って来た静寂は春香の先刻の叫びと比較されて余計に静かに思えた。外から聞こえる木々の囁きさえも聞
き取れるほど静かな空間を沈黙が包み込む。
その静謐な空気を先に打ち破ったのは、春香だった。

「……ねえ、どうしてそこまでしてくれるのよ」
「え、」

いきなり呟かれた言葉は僕の気持ちを伝えるには充分な切欠を持っていたはずなのに、僕は豆鉄砲を食らった鳩
みたいな表情をして佇んでいた。じんわりと熱くなっている手の平に滲む汗が気持ち悪く、渇いている口の中はそ
れに拍車をかけているようだった。春香の言葉は、震えていた。

「――ああ、私の事好きなんでしょう?だからここに来てて、こんなに拒絶しているのに帰ろうともしない」

春香は僕の心の内を読むかのように言葉を紡いだ。けれどその声音は何処か卑屈で、そして弱々しく、僕が聞き
たい凛と透き通る声はそこには窺えない。ただ、悲しみに濁らされた嘲弄のようにさえ感じられる響きしか、そこ
には存在しなかった。
春香はゆっくりと顔を上げると、妖艶な微笑を称えて僕の眼を見つめた。先刻とは違った、鋭い目付きではなく、
僕を挑発するかのような淫靡な視線。そして何処か、虚ろだった。
春香がこんな眼をしている所なんて今までに見た事がなく、それ故にこれから春香が何をしようとしているのか
僕には見当も付かなかった。

「……こっちに来て。ね?彬……」

春香はそう言って手招きをする。潤む瞳が上目使いに僕を覗きこみ、じんじんと痛む頭の事すら忘れて、僕は夢
遊病患者のような覚束ない足取りで春香に近付く。そして今までに一度として座った事のない、春香の座るベッド
に腰掛けて、春香の表情を窺った。
先刻と一変した態度は僕に縋り付いてきているようで、それでいて何か危ないものを感じさせるものだった。

「春香……?」

春香は僕がベッドに腰掛けるのと同時にベッドから降りて、僕の前に立ちはだかった。俯く顔に掛かる春香の長
い髪の毛はその全てを覆い隠していて、その意図は全く読み取る事が出来なかった。春香は何がしたいのだろうと、
僕が疑問に思っている時、彼女は余りに唐突に、行動した。

「……っ!」

春香はベッドに座る僕の肩を、重い病に冒されているとは思えないほどの力で掴むと、僕よりもずっと軽いだろ
う全体重を掛けて僕を押し倒した。座っている僕がいきなりそんな事をされて、抵抗できるはずもない。僕はされ
るがままにベッドに寝かされ、春香に覆い被される形にされていた。
上から春香が潤んだ瞳で僕を見つめている。先刻の影響か、息を多少荒げてもいる。驚くほどに妖艶で綺麗な姿。
彼女の頭から降りる糸のように細く黒い髪の毛が僕の鼻先を掠めていて、擽ったかった。

「春香?どうしたんだよ。こんな事されたら幾ら僕でも襲っちゃうかもしれないだろ」

なるべく、この余りに重い空気に呑まれないように、冗談交じりに呟く。僕の視線の先に彼女の顔は無く、それ
は僕が春香の今の表情を見るのが怖いからだと悟る。代わりに僕の視界に映っていたのは無機質な色の壁だった。
僕の心臓は五月蠅く暴れていて、その音が春香にも聞こえてしまうのではないか、と要らない心配までしてしま
うほどだった。けれど、春香は僕の冗談を笑い飛ばすような素振りも見せず、ただ僕を見詰めていた。恐怖さえ感
じさせるほどの、翳った瞳は、彼女の正気を垣間見させるには及ばなかった。

「ふふ、冗談でしょ?襲うのは、私なんだし」

春香はさもおかしそうに微笑んだ。その笑みは僕の思考を奪うには充分過ぎるほどの要素を含めていて、僕は驚
きと戸惑いに苛まれて動く事が出来なかった。自分の意思の問題じゃなく、彼女の僕を見つめる瞳が、僕の腕を抑
え付けている細い腕が、僕を圧倒して僕の行動を拒んでいる。
振り放そうと思えば簡単に出来たけれど、何故だか僕にその気はなかった。
根本的な所で僕は何かを諦めていて、その上で春香の事を軽蔑している。だからこそかも知れないが、僕はこれ
から春香が行おうとしている行為を止める気は毛頭なかった。この状況で、興奮しているのだろうか?
答えは否、だった。
偽善にも程があるけれど、僕は見えない痛みに苦しめられた末の彼女の行動の全てを、気持ちの全てを受け入れ
るつもりでいたのだ。
そこに、下心など微塵も存在していない事はこの僕が一番理解していた。

「……」

春香の言葉に返答は返さない。
受け入れるつもりでいても、それを喜び褒め称える理由などは何処にも存在しないのだ。僕はただ、彼女を軽蔑
したままその行為を受け入れる。卑怯かも知れないが、それが春香が一番望んでいる事のように思えた。そんな体
の良い言い訳が頭の中を巡っている。その間にも、春香は僕の着ていた白地のシャツを乱暴に脱がせていた。
肌を覆っていたシャツが脱がされ、僕の肌が露わになる。ベッドのシーツの上に幾つか、シャツのボタンが散ら
ばっていた。

「抵抗しないのね。こういうのが趣味なの?」

意地悪い笑みを浮かべて春香が言った。
僕は何も返さない。
僕が好きだった彼女の面影は今では片鱗も存在せず、そこには何もかも諦めたかのような女の、悲しい姿がある。
僕はそんな春香を一瞥して、それから目を閉じた。
暗幕に包まれた視界の中で感じられる感覚。五感の内、最も重要な役割を持つ視覚が失われた状態で感じられる
のは、春香の細い指が僕の胸に押し当てられている触覚と、香しい甘い彼女の香りと、衣擦れの音だった。



――続






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