この春に、桜と君と 2(非エロ)
シチュエーション


私は、私以外に誰も居なくなった病室の中を見渡した後盛大に溜息を吐いた。
薄暗い病室に電気を灯すと、蛍光灯が白い病室を明るく染め上げる。私はその光景が大嫌いだった。私の家にあ
る部屋は、こんなに白くない。もっと、お洒落な壁紙があって、私が好きだった縫いぐるみもあった。
けれど、この病室には私の好きなそれらが全く存在しなかった。

「……はあ」

再び、憂いを含んだような溜息が漏れ出る。そもそも、この溜息が出る理由はこの病室が気に入らないなどと言
う下らない理由でない事には前々から気付いている。それに気付かないようにしているのは、私の強情な部分がそ
うさせているのだろう。本当は、あんなに冷たい対応を取りたい訳ではないのだから。

彼――北条彬がこの病室から肩を落として出て行ったのは、つい先刻の事だ。
彬は最初こそ私をからかって笑ったりしていたけれど、少し時間が経てば何だか様子がおかしくなった。思案に
暮れて、黙りこくり、浮かない表情を作る。私にはそれが酷く不快だった。
彼が何を考えているのか、薄々気付いてはいた。昔の事を思い出して、そして今と過去を比較して落ち込む、そ
んな所だろう。事実、私がそうであるから彬もそうなのだ。
誰も居ない病室の、ベッドの傍らに置かれた丸椅子を見ると何時だって彼の事を思い出す。それが何故なのかは
知る由もないけれど、五年間何時も此処に通っていた彬が居るからかも知れない。
彬が此処に来た時には必ずこの丸椅子に腰掛けるのだ。別にベッドに座っても良いのに、それを言うと彼はそれ
を頑なに断った。だから、何時しか彬の定位置はこの古びて少し薄汚れた丸椅子なのだ。
その丸椅子に沁み込んだ汚れを見て、数分前に彬が言い残した言葉を私は思い出した。

"また来るよ"

彼はそう言って丸椅子から立ち上がり、病室を出て行った。それが私に微かな安堵と、喜びを与えてくれていた
事を彬は知っているのだろうか。きっと、気付いていないのだろう。彬は、昔から鈍感な朴念仁だったから。
昔の事を思い出すと、自然と頬が綻んだ。
今になって思えば私の記憶には常に彬の姿があった。何をするにも一緒だったし、困った時に真っ先に助けを求
めるのもお互いだった。
彬が思い付いた悪戯をする時。
勉強が出来ないと、私に縋り付いてくる時。
二人で遊びに入った山で揃って遭難した時。
思い出せば、溢れかえるほどの思い出が私の中に蘇る。そして、私はこの事を考える度に胸が針にでも刺された
かのようにちくりと、けれど深く痛むのだ。
彼との記憶は小学六年生の後半までが殆どで、それからは白い病室を交えた光景しか記憶の中に残っていない。
私が病魔に蝕まれた時期から、私の思い出は白いものに変貌を遂げて行った。
何時も、白い病室の中で彬の話に耳を貸している自分の姿が思い浮かぶ。そしてそれを羨ましく思いつつも、彬
が体験した事、私が体験するはずだった事を耳にする度に楽しくなった。
けれど、時が経つにつれてそれらは楽しいものでは無くなった。辛い発作に耐えて、彬の話ばかりを生きる糧に
していたのに、その話こそが私を苦しめるものとなってしまった。
だから私は、突然彬に対して邪険な態度を取り始めたのだ。
去年の何時だったか、私は私の担当医と、母さんに告げられた。私の病状は深刻で、二十歳までは生きられない
体になっている、との事だった。それは唐突に私の未来から光を奪い、絶望と言う暗闇だけを残して立ちはだかった。
自分の体が長くない事を知っていて、それでも尚人と関わりを持つ事は余計に辛い事だと、思い知った。
それだから私は彼を突き放そうとした。
長くない命の、何時消えるかも分からない灯火をゆらゆらと揺らしながら、誰かに深く思い入れてしまえば私は
死ぬのが辛くなってしまうから。もっと、多くを望んでしまうから。
けれど、私の体は次第にそして確実に、病魔が蝕んで行って、どうしようもない。ならば私から関係を断ち切る
しか、自分を守る手段が思い浮かばなかった。
それは幾度も泣いた後に決断した、苦渋の選択だった。

"また来るよ"

私の心が荒んで、病気によって溜まった鬱積を彼にぶつける度、彬はそう言って次の日もまたその次の日もこの
病室に訪れた。何度も拒絶して、何度も突き放そうとしたのに一向に彬は諦めてくれなかった。花瓶をぶつけても、
自分の命を投げ出そうとした時も、彬は此処に来ると言って聞かなかった。
その内に私は諦めた。ある種の喜びを備えた諦念感が私の中で生まれている事に気付いてしまった。私の為に会
いに来てくれる。私を元気付かせようとしてくれている。一緒に生きようと、態度で示してくれている気がした。

「……駄目よね。……そんなの」

私は彬に何をしただろうか?そして、そんな私に今日、彼は何と言っただろうか?
度重なる暴力と言う名の拒絶――義務感に転じた、彼が此処に来る理由。最早喜ぶべき事など何処にも見つかり
はしない。私が今更掛ける言葉も無く、彼が此処に来る理由も、本質を見極めればとっくに無いだろう。私はそれ
を望んでいたはずなのに、どうしようもなく泣きたい衝動に駆られてしまった。
傍らに備えられた窓から外を眺めると、春を代表する桜の木がほんのりと色付いた花弁を散らせている。此処か
ら見る景色は何時だって綺麗で妖艶だ。私の過去の記憶のように美しく、羨ましく、そして儚い景色。
それを眺めている内に、今も鮮明に蘇る過去の情景が頭の中で再生されてきていた。

「どうしたの、そんな浮かない顔して」

その時、不意に病室の入口の方から声が掛けられた。よく通る活発そうな声。細く頼りない私の声とは一風
違ったその声が誰のものであるか私はすぐに理解する事が出来た。
私の担当医の、島原由貴先生だ。

「……少し、昔の事を思い出してました」

そう言うと、島原先生は眉を八の字に下げて何処か憂いを秘めた瞳で私を見つめた。
あの日、私が残りの命の残量が少ない事を知らされたあの日も、この表情をしていた。
医師故に必ず立ち会わなければならないだろう、必然的な死を抱える患者。彼女はその患者を診る時は何時だって
本当に辛そうに顔を歪めさせるのだ。それは悲哀とも同情とも違う、自分自身を責めているかのような、自虐の表
情だった。医者としての形としては間違っているのかも知れない。けれど、私はそんな先生が嫌いではなく、むし
ろ好感を持っていると言っても良かった。

「へえ、どんな想い出かしら?」

静かに私に歩み寄り、彼女は丸椅子の上に腰掛けた。私は視線を窓の外の桜に向けながら、自分の想い出を話そ
うかどうか決めあぐねている。思い出しても辛いだけで、それを溜め込むのも辛いだけ。そう考えると話してみる
のも良いかも知れないと思う事が出来て、私は僅かな逡巡の後ゆっくりと唇を開いた。

「昔、約束したんです。ここに咲いてるよりもずっと大きい桜の下で」

そっと瞼を閉じる。
先生は何も言わずに私の言葉に耳を傾けてくれているようだった。
春風が桜の梢を揺らす音と私達の静かな息遣いだけに満たされた病室の中、私は何処か心地良い感覚を覚えなが
ら自身の過去を紡ぎ出して行った。頭の中に浮かぶ、過去の情景と一緒に照らし合わせながら。



中学二年生くらいだっただろうか。私はその時にはとっくのとうに入院生活を強いられていて、彬は学校に行き
つつ放課後に此処に来ると言う生活を繰り返していた。勉強をしなければならない学校よりも、此処に居た方が
ずっと心持が良いと言って、学校を一番放っていたのもこの時期だった。

そのお陰で此処に足を向ける事も多くなって、嬉しかった。
毎日、何時来るか分からない発作の恐怖に怯えながら一人で時を過ごすのはとても慣れる事の出来るものではな
かったから、彬が来てくれた時は本当に心の底から安心する事が出来たのだ。
そんな四月の中旬、桜が満開で一番美しく咲き誇る時期に彬はまた学校に行かずにこの病室へと訪れた。後で聞
いた話だけれど、最早彼が明らかに中学生の服装で平日の昼間から此処に入れたのは由貴先生の気遣いだったらし
い。医師としてそれは駄目だったのだろうけど、私の気持ちを汲んでくれたのは素直に喜べる事だった。
そうして彬が此処に来て、彼は一つの提案をした。
私からしてみればとんでもない事ではあったのだけれど、些か興味のそそられるものでもあった。

「桜、見に行ってみない?」

極々何時もの調子でそんな事を言い出した彬は平然と私を見据えてそう言った。
発作が何時出るか分からない絶対安静の人間に何を言っているのだろうと、最初は冗談で言ってる程度の認識し
か持っていなかったけれど、話をしている内に彬が本気でそれを言っている事を理解した。
病院の人に見付からずに此処を抜け出すなんて無理だと言う事は重々承知しているだろうに、その時の彬は無謀
な悪戯に意気揚々と望む悪餓鬼のようなきらきらと輝いた眼をしていた。
そんな彬を見て、私も何を血迷ってしまったのか「行きたい」などと呟いてしまった。
それを私が言ってしまった後の彬の行動は驚くほどに早いものだった。何処からか調達してきた可愛らしい服を
持って来て私に着させ、ベッドのシーツやカーテンやら、とにかく色んな物を結んで一本のロープを仕立てあげて、
それをベッドの柵に結んで窓の外に投げ出した。
この病室は病院の裏側、何故か殆ど人が寄りつかない場所に面しているので私達の挙動に私達以外の第三者が気
付く事は無かった。良い匂いを運んでくる春風が吹くこの日に、私達の度の越えた悪戯に近いお出掛けが始まった
のだ。
まず、彬が自家製のロープを使って下まで降りて、次いで私が降りる。二階から降りるのは怖かったけれど、下
に彬が居るのだと思うと不思議と恐怖は薄れていた。

「此処の桜だって、凄く綺麗だと思うけど」

私は下り終えると開口一番にそう言った。
久し振りに降り立った土の地面は何だか暖かい気がした。靴を履いているのに――これも彬が何処からか持って
きた――不思議な話なのだけれど。それだけでなく、外の空気は病室の中で吸う空気よりも美味しい事は勿論、世
界を照らし出している太陽の光も私を祝福してくれているように感じた。
とにかく、その時の私にとってそこは病室とはまるで別次元の所にあるように思えたのだ。

「春香は知らないからね。この街にはもっと凄い場所があるんだよ」

含ませぶりな笑みを称えて、私の手を取った彬は嬉しそうな足取りで歩き始めた。病院の敷地を出る方法は正門
から堂々でもなく、裏門からこっそりでもなく、本来は侵入者を防ぐために備えられた鉄柵を乗り越えて、だった。
そんな事でさえ病室に閉じ込められっぱなしの私にとっては程よい背徳感に変わっていた。
久し振りに出た外界は、本当に別の世界のように思えた。
外界の刺激を受けず、淡白な生活がそれだけで瓦解して行くようだった。
病院と言う閉塞された空間に長い間閉じ籠っていた所為か、歩道を群れて歩く人の波は想像以上に大きく、道路
を走る自動車の排気ガスの臭いは新鮮にさえ思えた。昔よく行っていた駄菓子屋を見つけた時には、お金を持って
いた彬に駄菓子を買ってとせがんで困らせた記憶まで残っている。
私達は、談笑を交わしながら彬しか知っていない目的地を目指して歩き続けた。

「――ねえ、何処まで歩くのよ。病人には少しだけ辛いわ」

数十分ほど歩いても、まだまだ周りにある景色は都会色。長時間の運動なんてもう随分とやっていなかった私に
は、日が照っている下を歩き続けるのはしんどいものがあった。一向に見えない目的地に想いを馳せつつ、彬に文
句を垂れる。彬はそんな私を見て呆れ気味に溜息を吐くと、何を思ったのか私の前で背を向けてしゃがみ込んだ。
幸い、人通りの多い場所は抜けていたから目立ちはしなかったけれど、私には彬の意図が測り切れなかった。突
然目の前でしゃがみ込まれて、私はどんな反応を取れば良いのだろう?そんな事を思いつつ、私も足を止めて彬
の背中をぼーっと見詰めてみた。しゃがみ込んでいる男と、それを見ている女。第三者から見たらさぞかし変な二
人組に見えたのだろう。そんな馬鹿げた逡巡が数刻ばかり続いた頃だった。

「……早くしてくれ」

疲れた、そう言うように彬は言った。
何を?と聞き返す前に私は漸く彬の意図を理解したけれど、どうにもそれを実行するのには多少の恥じらいを
捨てる必要がある。その時の私にとって、その"多少"は十二分に大きいものだ。彬が私を急かしてから、また幾ら
かの時が流れ始めた。待たされている彬にとっては結構辛かっただろうと、今になって思う。

「……」

焦らす私。待つ彬。
間抜けた構図で佇む二人だったけれど、やがて痺れを切らしたのか彬は一つだけ私に頼み事をした。何の捻りも
なく、意味も分からない頼み。その意味を完全に咀嚼するのは頼みを受けてから、直後の事だった。

「春香、ちょっと僕の肩に手を当ててみてくれ。何故か痛いんだ」

そう言ってしゃがんだ体制のまま彬は肩を自分で叩いた。いきなり言われた事もあって、何も考えていなかった
からか、私は素直に彬の肩を見てあげようと手を当てようとした。それが迂闊だった。
彬は私が肩に手を置いた瞬間に腕で私の足を捕まえると、一気に持ち上げた。

「きゃッ!……ちょっと、何のつもりよ、これ」
「おんぶ」
「そんなの知ってるわ」
「じゃあ聞くんじゃない」

悪びれもなく私を背中に担いで歩きはじめる彬。人通りが少ないとは言え、公衆の面前でおんぶされるなどこの
年になってから考えても居なかった。私は出来る限り顔を彬の背中に埋めて、その羞恥に耐えようとしたけれど彬
から香ってくる匂いの所為で混乱は一向に解けず、それどころか増して行く一途を辿るのみだった。

「恥ずかしいんだけど」

背中に頭をもたらせて、そう呟く。
耳元に近い所為か、彬の体が少しだけ震えた。そんな反応をする彬が可愛く見えて、私は彬に回している手に力
を込めてしがみ付く。一層体が温かくなった。

「僕は恥ずかしくない」

彬はすたすたと歩き続ける。私の気持ちなどお構いなしに、無遠慮に。ただ、あまり負担を掛けさせたくないの
か、ゆっくりと歩いてくれている気遣いは嬉しかった。だけど、本当に動じていない風の彬が少しだけ恨めしい。
私はこんなに恥ずかしいのに、平然と彬が歩いているのが気に入らなかった。
そんな事を思ってしまったものだから、私は少し、悪戯をしてやろうと思い立った。

「ねえ……彬は私の事好き……?」

耳元に口を近付けて、そう囁くと彬は分かりやすいくらいに初心な反応を見せてくれた。私の身体を支える為に
足に回した手が、不自然に強くなっている。それでも平然を装うとする彬の本当の様子は、真っ赤に染まっている
耳を見れば強がっているのだと一目瞭然だ。いよいよ面白くなってきた私はもっと彬を攻め立てたくなった。

「ね、どうなのよ」

言いつつ、彬に回した腕に力を込めて体を押し付ける。私の平均並みはあるだろう乳房が彬の背中に押し潰され
て、形が変わっっているのが分かった。彬の表情は窺えないけれど、多分目をあらゆる場所へと彷徨わせているだ
ろうと思った。それは狼狽する彬が、よく見せる癖だった。

「どうしたんだよ、いきなり」

何時もの冷静な声も、今だけは少しだけ震えている。彬がすんなりと答えてくれるとは思っていなかったけれど、
私にしても興味があった事だから何としても答えさせたかった。

「……知りたいのよ」

そう言って、背中に顔を埋める。鼻孔を擽るのはよく知る彬の香り。春の陽気もあってか、それは今までのどん
な香りよりも魅力的に思えた。答えを待つ私に、彬は沈黙で返す。何時の間にか歩いている場所は木に囲まれた林
道を行っていて、すれ違う人も居なかった。何処からか聞こえて来る鳥の囀りに耳を澄ましてみれば、程よい眠気
が私を微睡ませる。それに抗いながら、私は彬との間に流れる静寂を心地よく享受していた。
一歩、彬が足を進める度に訪れる震動が眠気に拍車を掛けている。次第に濃くなっていくそれに意識を奪われそ
うになっていて、眼を開けているのも億劫に感じるようになっていた。
懸命にそれに抗おうとするも、それは細やかな抵抗にしかならなかったようで、私を眠りの世界に誘おうと睡魔
が手招きをしていた。重い瞼が閉じるのも最早時間の問題だった。

「よく分からないけど」

半分、眠りに落ちた意識の中で彬の声が子守唄を吟するかのように私を微睡ませる。それでも、漸く聴く事が出
来る彬の答えを聞き逃すまいと、閉じかけた瞼を何とか開けば視界に映る景色ももう朧気で。
彬が続けた二の句は、夢の世界に落ちた私の耳では捉える事が出来なかった。

「多分――」

ただ、それだけの言葉が、抵抗を続けていた私の意識を根こそぎ奪って行った事だけは今も鮮明に覚えている。
私はそれを最後に、起きている事を諦めた。


「――ん」

気持ちの良い冷たい風が私の頬を撫でて、吹き抜けた。
それに呼応するようにしてあちこちから木々の喧騒が絶え間なく響き渡る。閉じた瞼の中で見えるのは私の赤い
血潮。外から受けている光の所為で、それが際立って見えていた。
何時の間に眠ってしまったのだろう?そう思案すると同時に瞼をそっと開く。寝起きで霞む視界に真っ先に映
り込んだのは、優しげな眼差しで私を見下ろしている彬の顔だった。

「……?ここ、何処なの?」

寝ぼけている所為か思考が上手く回らない。おまけに寝起き特有の御し難い倦怠感が圧し掛かっている所為で体
を動かす事もままならず、私はそのままの体勢でそう尋ねた。

「目的地。春香は大分前に寝て、そのままだ」

短く告げて、彬は私に向けていた眼を空へと転じた。
つられて私も空を仰ぎ見ると、そこには美しい朱色に染まる空と、綺麗に色付いた雲が穏やかに流れていた。私
の最後の記憶にはまだ青空が残っていたから、随分と長い間私は眠っていたのだろう。時間が過ぎるのは早いもの
だと、そう思う。病室に一人で居る時はどうしようもなく時間はゆっくりと過ぎ去って行くから、こんなに時の流
れが速く感じたのは久し振りの事だった。
そんな事を考えた後、ふと気付く。私が仰向けになって寝転がっている事、そして頭に柔らかい感触を感じる事。
耳を澄ませば木々のざわめきが、鼻を利かしてみれば花のようなほんのり甘い香りが感じられた。

「――って、何してるのよ。これじゃ私がお子様みたいじゃない」

この状況が膝枕をされているのだと気付いた時、私は無性に恥ずかしくなって、彬の顔を見ないように顔を背け
た。良い年になってこんな事を、しかも幼馴染にされているのだと思うと意味の分からない悔しさが湧き上がって
くる。強がってそんな事を言うと、彬は不貞腐れた風に言いながら、退こうとする私を腕でさり気なく抑え付けた。

「勝手に僕の背中で寝たのは誰だよ。そこら辺に放って置く訳にもいかないじゃないか」

――そう言われてしまえば反論の余地もないのだけれど、それでも素直にこの状況を享受する事など出来はしな
かったから、私は顔を背ける事によって返事を返す。すると、頭上から溜息が聞こえてきた。呆れたような、その
ような意味を含ませた溜息だった。

「……まあ、良いわ。特別に膝枕されてあげる」
「春香の台詞は病人が言う事じゃないな」
「あら、お互い様だわ。病人をこんな所に連れて来るなんて、見舞いに来た人がする事じゃないもの」
「そうかな」
「そうよ」

そうして、二人してらしくないと笑った。
本当の事を言えば窮屈な病院から抜け出す事が出来て嬉しかったし、何より私の為に彬がここまでしてくれる事
が本当に嬉しかった。それでもそう簡単に素直にはなれないから、口ではそんな事を言い合っている。昔から何も
変わらない関係が微笑ましかった。何故だか、胸には空虚なものを感じていたけれど。

「それよりも、起きて回りを見てみなよ。でないと病院から抜け出してまでここに来た甲斐がない」

そう言って、彬は風に弄ばれている私の髪の毛を指先で梳くと、自身も周りの風景に目を遣った。そうして暫く
して頬を緩める。私はそんな彬を見るのが楽しくて、そして彬がここまで評価する景色がどれだけ凄いのかと、早
く見るのが勿体ない気がして、自分を焦らしていた。

「僕の顔を見てばかりじゃ、ここに来た意味がないよ」

そんな私を不思議に思ったのか、彬が怪訝な眼差しでそう促した。
そろそろ見ても良い、そう思った私は眼を瞑る。立ち上がって、眼を開いた時には目を見張るような絶景がそこ
にある事を期待して、最後の最後まで眼は開かないつもりだった。

「彬、私を立たせて」

眼を瞑ったまま頼むと、再び頭上から溜息が聞こえて来る。「我儘」とそう一言彼が呟いてから手に温もりが伝
わった。そうして一気に引き上げられる私の体。私は眼を閉じたまま立ち上がり、春の爽やかな風に当たっていた。
何処からか集まってくる木々のざわめきも、甘く香しい花の香りも、早く眼を開けと私を急かしている。けれど、
我慢した分だけそれを解放した時の喜びは大きい。私はそんな子供染みた思想で散々自分を焦らしていた。
こうして眼を閉じていると、彼が隣に居てくれている事がはっきりと分かる。彬の存在が、確かに伝わってくる。
それが何だか嬉しくて、私は唇に緩やかな曲線を描きながら目を少しずつ開き始めた。
微かな瞼の隙間から、差し込んで来るのは赤い夕日の光。そして、そんな光の中で次第に姿を現して行く林の木
々達と私達を覆う大きな影。
まだ、その全貌は窺えない。まだまだ、息を呑むほどの絶景には出会えていない。逸る気持ちを抑えつつ、飽く
までゆっくりと、裸眼を外気に晒して行く。そうして最後まで瞼を開き切った時、文字通り私は息を呑んだ。
感想なんて、浮かんで来なかった。
ただ、私が見た光景の美しさが思考を奪う。ただ一つ、"美しい"と感じる私の情操は感嘆している。その景色の
美しさを表すのに、陳腐な言葉など不必要だった。沈黙こそが私に出来るこの景色への最大の讃辞に思えた。今は
ただ、静かにこの景色を眺めて、その雄大さに体を任せていたい気分だった。

「綺麗……」

ほう、と溜息を落として、私は無意識にそう呟いていた。
やっとの思いで紡ぎ出した感想はとても単純で、それでいて最大の感動の表現だ。私は、そう呟いた後も目の前
の景色から目が離せずにいた。その言葉の意味通り、私の目はその景色に完膚なきまでに奪われていたのだ。
私の目の前に広がっていたのは、病院に生えている桜の木よりもずっと大きな桜が生えた景色だった。周囲に他
の桜は無く、一本の桜の木がその存在を優雅に聳えさせて誇張している。風が吹く度に舞う桜の花弁は甘い香りを
辺りに振り撒いていて、桜の木の下はさながら桜の花弁が暴れる、吹雪の真っ只中のようだった。
茜色の空に舞う桜色。お互いがお互いを補って、それはよく映えていた。
私達はその美しい光景に目を奪われ、暫く声が出せずにいた。否、最早奪われていたなどと言う表現は正しくな
いだろう。私は私の意志でその桜の木から目を離したくなかったのだ。そして同じように、私が声を出す事でこの
景色に対する感慨が失せてしまうのが恐ろしくて、声を出したくなかったのだ。

「……約束しない?」

暫くの静寂を先に破ったのは、彬だった。
私の隣に立って、桜を眺めていた彬は唐突にそう持ちかけた。桜に眼を向けたまま、私は聞き返す。

「どんな約束?」

さっと、春の暖かな風が私達の間を吹き抜ける。私の長い黒髪を乱れさせ、彬の短めの髪の毛を揺らす。その風
が吹き去った後、彬は一呼吸置いてからそっと言った。穏やかな時の流れに合わせるかのように、囁かれたそれは
とても嬉しくて、今ではもう、辛い記憶となってしまった言葉だった。

「またここに来よう、かな。勿論、二人で」

それは私の命の残量を気にしての発言だったのだろうか。"また"と言う言葉が私に与える重量はとてつもなく大
きい。未来の確証がない私にとって、それを示唆する言葉はとても怖いのだ。
けれど、彬はそれが分からないような男じゃない。私が何時だってその事で懊悩している事を知らない訳がない。
だからこそ、私は信じる事が出来た。彬が言っている意味は、私に"生きて"と伝えているという事を。

「……破ったりしたら、彬は一生私の奴隷だからね」
「そりゃ怖い。絶対に守るしかないね」

おどけて笑う彬につられて私も笑う。
さっと吹く風が心地良い。鼻孔を擽る甘い香りは未だに健在で。赤い赤い太陽に照らされている桜の木は、この
世に比較出来るものなどないのでは、と思えるほどに美しかった。



「――病院から抜け出したのは、流石にやりすぎだと思いましたけど」

長い私の口上が、今漸く終わりを迎えた。
話している途中でも当時の事を思い出すと頬が綻び、そして胸が痛む。けれど、それら全てが混ざり合って一体
の幸福感を私に感じさせていた。由貴先生は、そんな私を見て笑顔をその顔に浮かべながら静聴してくれていた。
先刻まで胸に掛かっていた靄が爽やかな風に吹かれたかのようにスッキリとしている。改めて、由貴先生に話し
て良かったと、そう思った。

「ふふ、春香ちゃん、その子の事好きだったのね」

私が想い出を語り終えた後、由貴先生は何の前触れもなくそんな事を言った。事もあろうに、あの彬を私が好い
ているなどと。それは余りに予想外で、そして核心を突かれたかのような感覚がじわりと波紋が広がるように私の
心の内に浸透して行く。静謐に満ちた私の心を一瞬で掻きまわすそのたった一言に、私は恥ずかしいくらいに動揺
していた。

「……そんな事はないと思いますけど。断じて」
「素直になれてないだけよ、春香ちゃんは」

面白そうにけたけたと無邪気に先生は笑って、そしてその笑顔に僅かな影を差し込ませて言った。私にとって逃
れようもない現実が今一度突き刺さる。何度聞かされた所で、その痛みに慣れる事はやはり出来なかった。

「……色々、あるからね」
「……はい」

朗らかな空気が一瞬の内に重いものへと変貌を遂げてしまった。
そして、それを合図とするかのように、私の体に異変が起きた。何よりも私が恐れている痛みが、突如として私
の体に走ったのだ。嫌な予感に対する不安で、私の心臓は大きく一度、跳ね上がったようだった。

「――っ!」

それは、最初は胸の辺りが針で刺されたかのようなちくりとした細やかな痛みだったけれど、その後続に続く痛
みはそこから広がるようにして私の体を蝕んだ。痛みの箇所が何処にあるのかさえ曖昧な激痛。それが私の身体を
ベッドに横たえさせて悶えさせるのは数秒と掛からない事だった。

「い……たっ……!せん……せ……い……」

最早呂律が回っているのか自分でも分からなかった。私を苛める激痛がずきずきと体内で音を立てているようで、
鼓膜がその音に支配されているかのように外部の音が何も聞こえない。ノイズと誰かが叫ぶ言葉の断片が断続的に
脳に響いていた。
薄れゆく景色の中、弱まる気配を見せない激痛の中で不意に窓の外を見遣った。そこには、桜の木の根元に寄り
掛かっている彼の姿があって、舞い散る花弁の中で一人佇む彬の姿はとても儚く見えた。
ノイズが入り混じる先生の叫び声も私の意識を繋ぎ止める事は出来ず、それを最後に私の視界は暗幕に包まれて
消えて行った。暗澹たる、静寂の広がる世界へと、微かな、本当に微かな安堵を残して。



――続






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