この春に、桜と君と(非エロ)
シチュエーション


僕は、夢と言う希望に溢れるものを持っていなかった。やるべき事も見付からず、かと言ってやりたい事も見付
からず、ただ惰性的に毎日過ぎて行く時の流れをぼんやりと眺めるばかりで、生きていると言う実感が希薄だった。
けれど、僕には此処に来ている回数が皆目見当も付かないのだ。
僕は白い壁に囲まれた長い廊下を歩き、そして一つのドアに辿り着きながらそう思う。この扉を幾度見たのか分
からなくなるほどに僕はこの場所に通い続けていた。
その扉に刻まれた傷や、少し汚れている所など、そんな細かな所まで覚えてしまっている。愛着すら湧いて出て
来そうだったけれど、僕の心にはそんな余裕は無いようだ。
何故なら、この扉の取っ手を掴んでいる今でさえも平常の心臓が刻む心拍数を遥かに上回っているし、緊張の所
為か唾液が異常に分泌されている。焦っているのか、怖気付いているのか、それでさえも分からない。
しかし、それでも僕はこの扉を左に引くのだ。それこそが僕が此処に来ている目的なのだし、その後にどうなる
かなんて考えない方が気が楽だ。
そうして、僕は扉を開けた。
廊下を照らしていた蛍光灯の白い光とは違う柔らかな陽光が差し込むのと同時、僕の眼は一瞬眩んだ。視界が白
に覆われて、何とか視力を取り戻そうと眼を擦ると次第に靄が掛かっていた視界の中に鮮明な映像が映り始めてく
る。

開けられた窓から入り込む暖かな風、それを受けて靡く真白なカーテン、その脇に置かれたベッドの上に座る、
少女。
彼女は扉が開けられたのを不審に思ったのか、僕が立っている所を凝視しているようだった。風で躍るように暴
れる彼女の黒く長い真っ直ぐな髪の毛がその切れ長の鋭い眼に掛かる度、彼女は手でそれを退ける。
貴族のような上品さを感じさせるその行為に、僕は何故か呆然とした。ふわりと、柔らかな風に乗って彼女の匂
いが漂ってくる。甘い、桜の香り。窓の外に咲き乱れる木の所為なのかも知れないけれど、やはりこれは春香の香
りだ。僕は、彼女との間に流れる暫しの逡巡を余す事無く楽しむ事にした。
僕に夢と言う淡い響きを持つ甘美なものは無かった。
それ故に、生きていると言う意識が希薄だった。
それでも、彼女の姿を見る度に僕は自分が生きているのだと、これ以上にないくらいに実感するのだ。
ともすればそれは、機械の原動力を彼女が与えてくれているようでもあった。



この春に、桜と君と



「それで、何でまたここに来ているのかしら」

抑揚のない声が僕の鼓膜に突き刺さる。僕が腰掛けた丸椅子の前のベッドに坐している少女は、まるで僕の方を
見ようともせず窓の外の景色に眼を向けていた。僕などはお呼びでない、と言う態度をその体全体で表現しつつ、
彼女は尋ねてきた。けれど、毎度お馴染みのこのやり取りには既に慣れてしまっていた。
もう何度、この病室に足を運んだのか、それが分からなくなるほどに此処に通っていて、そして同じように繰り
返されるこのやり取りにも慣れないはずがない。僕は何時もの調子で答える事にした。

「別に……幼馴染の義務?みたいな」

そう答えると、彼女は窓の外に向けていた眼を僕へと変える。その睨みだけで蛙から油を取り出せそうだったけ
れど、此処で退いては男が廃る。僕は極めて堂々とした態度で彼女の視線を見返した。

「そんな義務なんて、ないはずだけど。むしろ来ない方が有り難いわ。私は一人で過ごしたいの」

鋭い眼光が僕を射抜き、彼女の言葉が相変わらず淡々と紡がれる。
彼女――南条春香は僕の幼馴染だ。
何時からの付き合いかと言うと、それは生まれてからずっとと言っても過言ではないだろう。事実、僕達は同じ
病院で生まれて、そしてそれを通じて親同士が仲良くなって、更にそれを通じて僕達が仲良くなって――と言う風
に育って来たから。最早、僕と春香の関係は幼馴染と言うよりも兄妹のような関係に近いのだ。

けれど、僕が中学に入る頃、唐突に変化は僕達の下に訪れた。
呆気ないほどに、そして僕が自分の無力感を呪う暇も与えられないほどに、春香は突然倒れたのだ。その時は、
小学六年生最後の授業の日だった事を鮮明に覚えている。春香は、その日に倒れた。
僕は何が起こったのか分からなかった。ただ、慌てて駆け寄って彼女を抱き起こした事は覚えている。焦燥と混
乱の所為でまともな思考を築く事が出来なくて、ただ僕は彼女の名前を叫び続けていた。けれど結局彼女は生徒に
呼ばれた先生が駆けつけて来てからも目を覚まさず、そのまま病院へと搬送された。
僕は何が何だか分からなくて、ただ春香が死んでしまうかもと最悪の場合ばかりが頭の中に浮かび上がってし
まって、その度に大声を出して泣いた。とても授業を受けれる状態ではなく、僕は終業の鐘が鳴るまで保健室で泣
きながら過ごしていた。
その後、学校が終わってすぐに母親が迎えに来てくれて、そのまま病院へと急いだ。
子供だった僕にとって、マイナスのイメージばかりが蔓延する病院と言う建物は恐怖以外の何物も与えてくれは
しなかったけれど、春香の顔が早く見たかった。僕が完全に安心するには彼女の元気そうな顔を見る事以外に手段
は無かったのだ。
そして、僕は母親が歩く後を"彼女が無事でありますように"と願を掛けながら付いて行った。
そうして僕は歩き続け、一つの病室へと辿り着く事になった。
今、僕が居るこの病室こそが正にそれなのだけど、当時の僕が扉を開けて見たものは今思えば苛立ちさえ感じて
も良かったのではないかとも思えるほど、拍子抜けしたものだった。
僕が連れられた病室の中――彼女は呑気に、彼女の母親が剥いたのだろう、瑞々しい果肉が付いた林檎をしゃく
しゃくと音を立てながら食べていた。
心配させるなよ。呑気にするな。体は大丈夫なのか。そんな、幼いなりに気を遣った言葉を事前に用意していた
僕なのに、彼女はもう何ともない風に、それはそれは美味しそうに林檎を頬張っていた。そんな春香に掛ける言葉
も見付からず、また苛つく余裕もなく、僕は衝動に逆らわずただ春香の身体をひたすら抱き締めた。
羞恥などは無かったのだろう。それだけ心配だったのだから、僕はあんなにも大胆な行動に出た。今もその事を
思い出すと不覚にも顔に体温が集まってくるのだが、当の本人はそれを全く覚えていないらしい。子供の頃の話だ
から、と説明されれば納得も出来るが、それでも何だか寂しいような安堵したような、微妙な心境だった。

「――見舞いに来ておいて、一人で黄昏てるなんて男がする事なの?」

ふと、昔の事を思い出していた僕に彼女からお言葉が掛けられた。春香は、いかにも不服だと言いたげなジト目
で僕を見下ろしている。そしてそんな様子の春香を見て、思わず笑みが零れてしまった。

「何が可笑しいのよ」
「くっ……、くく、あはははは!」

また、不服そうに拗ねた声が僕の鼓膜を震わせる。僕は堪え切れずに盛大な笑い声を病室の中に響かせる事に
なってしまった。自分でも何が面白いのか分からなかったけれど、とにかく可笑しかった。
いきなり笑いだした僕を茫然と見ている春香は、やがて僕から視線を外すと再度、窓の外へと視線を向けた。
放っておかれていじける、幼児のように頬を膨らませて、「……もういいわよ」なんて可愛い事まで言ってくれて。

「あはは、ごめんごめん。つい、ね」

未だ笑いを抑える事が出来ない僕に、春香は不満の気持ちを不機嫌な表情で表わした。
拗ねている様が可愛いだなんて、何だか言うのが気恥ずかしくて、僕は笑った理由を敢えて教えない。教えれば
また面白い反応が見れるのだろうけど、今度は拳まで飛んで来るかも分からない。春香の拳は洒落にならないくら
い強いんだから、それはご勘弁願いたかったのだ。

「相変わらずなのね。なんにも変わってない」
「春香は変わったかな。何だか棘が出てきてる」

触れれば痛い、そんな表現が今の春香にはぴったりだった。自身の病気の事を考えているだろう事は火を見るよ
りも明らかな事だけれど、僕には何も出来ない。医師でもなければ、医師を志しているつもりでもなく、そう言っ
た知識などまるで別次元の事のように感じる僕にはどうしようもない事だ。
だから、春香の病気の事は何も知らないし、知ろうとも思わなかった。

ただ、生きていてくれれば、そして僕と話してくれたなら、それだけで十分だ。多くは求めないし、多くをあげ
られる事もない。僕達の関係は小さなギブアンドテイクで成り立っている事務的なものなのかも知れなかった。

「病院生活を五年も続けていれば、捻くれもするわ」
「でも生きてるよ、春香は。僕はそれが嬉しいんだ」

そんな、自分の狂悖した言葉に気付いたのは直後の事だった。今まで何処かぴりぴりしたような態度を取ってい
たのに、こんな言葉を返してしまうと何だかこれまでの時間が無駄に浪費されていたような気になってしまう。
そして僕が自分の過ちに気付いた時には既に事は後の祭りになっていた。春香は、何時もの仏頂面ではなく口元
に嫌な歪曲を描き、切れ長の澄んだ漆黒の瞳に愉快そうな光を称えて僕を下から覗き込むように見ていた。
丸椅子に座っている僕と春香が座っているベットとでは高さが全然違うから、実際は覗き込まれると言うよりは
見下されていると言う感じになっているのだが、それはそれで腹立たしい。いや、むしろこちらの方が腹立たし
かった。

「へえー……私の事がそんなに心配だったの?」
「……ほら、あれだ。幼馴染の義務というか」
「"でも生きてるよ、春香は。僕はそれが嬉しいんだ"」
「……分かった。分かったから僕の台詞を忘れてくれ。恥ずかしくて死にそうだ」

手も足も出ないと言うのはこの状態を言うのだろうか。僕はただ愧赧する事しか出来ず、視線を何処かしらに彷
徨わせていた。
自分の台詞を反復された僕は羞恥と屈辱とで何とも煮え切らない感覚に陥っていた。そんな僕を愉しんでいる春
香は久し振りに楽しそうな表情をしているが、それでも本当に楽しんでいる訳ではないだろう事がその顔の半分に
掛かっている影から容易に見て取れた。
春香の顔は、まるで面白いと言う感情と、得体の知れない負の感情とが真中で判然と別れているかのようだった
のだ。少なくとも、僕にはそう見えた。そして、どちらの色がより濃いのかと言うと、それは後者だっただろう事
も。

「彬がそんな事言うなんてね。可笑しくて泣いちゃいそう」
「だったら泣いてくれ。その方が幾らか救われるよ」

本当に可笑しそうに腹を抱えている春香の姿は元気そうだ。
それなのに、その顔に時折影が差すのは何故なのだろう。まるで、嫌な事でも聞かされたみたいな――。
と、そこまで考えて僕の頭の中に嫌なものが浮かんだ。考えたくもない嫌な事が、すんなりと。一度思いついて
しまえば、それはもう払拭する事の出来ないものだった。もしかすれば、彼女の命の刻限は間近に迫っているのか
と、そう思ってしまったのだ。

「……っ」

そんな思案に僕が暮れている時だった。
春香の座っているベッドの方からすすり泣くような声が聞こえて来たのだ。嗚咽を必死に堪えようとしているよ
うな、そんな声。僕は、それが先ほどまで考えていた嫌な事を裏付けるものなような気がして、慌てて春香の方を
見遣る。春香は、手で顔を覆って時折身体を震わせていた。

「は、春香……?泣いてるの?」

そう言って、手を春香に向けて伸ばす。でなければ春香が二度と触れないような気がして。今の春香には、そう
思わせるだけの儚さが付き纏っていた。だからか、僕の不安は更に増幅する。押し潰されてしまいそうな暗く重い
思念が徐々に徐々に僕を追い詰めて行く。自分でも驚くほどに春香が心配だった。

「春香……」

もう少しで手が届く。春香の、人の温もりを保つ体に触れる事が出来る。僕は緩慢な動作で手を伸ばし、そんな
自分の行動に焦れったさを感じながらも段々と近付けて行った。
残り数センチ――そこまで僕の手が行った頃、春香は不意に顔を覆っていた手を退かし、その表情を露わにし
た。
そこにあるのは、悪戯が成功した時に見せる悪餓鬼のようなあどけない無垢な顔。涙など何処にも伝っていない
し、鼻を啜る事もしていない。僕が呆気に取られて口をぽかんと開けている数秒の間、春香は我慢できなくなった、
と言いたげに一度人を小馬鹿にしたような笑いを吹き出すと、それに続いて大きな声で笑い始めた。

「あはははっ!こんな簡単に引っ掛かるなんて、笑えるわ!」

腹を抱えて笑う春香。僕の手は未だに春香に触れようと彼女の目と鼻の先で止まっている。騙されたと、そう事
態を嚥下するまでに、僕はたっぷり数秒の時間を設ける事となった。それがまた可笑しかったのか、春香は止まり
そうにない笑いを続けている。先刻、僕が笑ったのをお返しするかのようだった。

「……お前な、人が心配してやってるのにからかうなよ」

爆笑中の春香を咎めるように言ってやると、春香はひいひい言いながら笑いの余韻に浸って、落ち着けるまでの
暫しの逡巡の間に息を整えていた。そして、漸く落ち着いた声音で僕の言葉に対して返答した。

「あら、心外ね。義務をこなす為に嫌々見舞いに来る人に言われたい事ではないわよ」

しっぺ返しとはこの事だ。
殆ど冗談交じりのつもりで言った言葉はこんな所で裏目に出てしまった。確かに、義務の為に見舞いに来る人が
本気で心配しているようには思えないだろうが、長い付き合いの僕の言葉さえ信じないと言うのだろうか?
先ほどの言葉が冗談だと、僕は春香がそう受け取ってくれるものだと確信して止まなかった。それともそれは、
僕が傲慢なのだろうか。

「あのな。さっきのはほんの冗談だって」
「どうかしら。大体、私は心配してくれなんて頼んだ覚えは無いけど」
「……」

言い返す言葉もない。
春香の言う通り、僕は自己満足で此処に通っているのだと随分前から気付いていた。春香が病気で、五年も入院
しているのだからその病が重い事は誰にだって分かる。それを分かっていながら、そして春香を失いたくないと
思っていながら、僕はただ此処に毎日のように通い続けているだけだ。
それに効果などあるのだろうか?

――あるはずが無い。

ならば、僕自身が春香の病気を治す為に医師になる努力をしたら良いではないか。そう思った事もあった。だが、
何もかも中途半端な年で、今から意志を志してどうなるだろうか?春香はそれまで持たないのかも知れないのに、
勉強に没頭する事など僕に出来るだろうか?
不可能だ。
僕はそれを確信している。何故ならこの五年間の中で、色んな事があったからだ。
春香にはある一定の周期で発作がやってくるらしい。その発作の苦しみが僕にはどれほどのものなのか分からな
いけれど、眼の前で春香が苦しみ喘いでいる様子をみた時には、生半可な痛みではないのだと言う事を理解した。
それこそ、僕では想像も出来ないような凄まじい苦しみがあるのだろう。春香はそれを五年もの間幾度も受けて
来たのだ。そして、その発作の周期も時が進むにつれて短くなっていて、症状も悪化しているらしい事は、既に悲
痛な表情で語った、春香の母親から聞いて知っていた事だった。
だからこそ、この事実があるからこそ、僕は此処に通う事しか出来ない。最初は安易に彼女を元気づけられたら
と言う素直な気持ちで此処に来ていた。そして、彼女はそんな僕を喜んで迎え入れてくれた。本当は面会だって親
族以外には出来ないのも、春香とその両親のお陰でどうにかする事が出来た。
けれど、思春期に僕達が入る頃の、丁度去年くらいの事だっただろうか。
彼女は突然、前触れもなく僕を拒絶した。何時ものように病室に入った僕に向かって、ただ一言「もう来ないで」
とだけ呟いてベッドに潜り込んでしまうようになった。当然それで僕が納得出来るはずもなく、拒絶されようとも
僕はめげる事なくこの病室に通い続けた。

時には花瓶を投げられ、彼女自身が掴みかかって来た事もある。酷い時には、窓から自身の身を投げ出そうとし
た事もあった。その理由を、僕は未だに知らない。そして知らないからこそ、此処に通い続けている。そして、そ
れが何時しか無機質な習慣になってしまっていた。
最初は酷い対応をとっていた春香だったけれど、その内にそれは身を潜めるようになった。喚き散らす事も無く
なり、物を投げて来る事も無くなり、自分の命を粗末に扱うような事もしなくなった。だが、その代わりにもっと
酷い仕打ちが僕を待っていた。何処かの偉人が言っていた言葉――正に、それを表したかのような。
"愛する事の反対は憎む事ではありません。無関心になる事です"
彼女は、その言葉通りになった。
僕に対して、幼い頃からの友人としてではなく、全くの赤の他人として接するようになったのだ。会いに行って
も「どうしたの」と無機質で冷たい声でしか返してくれず、何を話しても返ってくるのは冷え切った一言の返事の
み。触れようとすれば、全力で拒絶された。見舞いに持って行った品物なども、翌日になってから病室に備えられ
ているゴミ箱の中を見てみればその中にぐしゃぐしゃな姿になった見舞い品が入っていた。

最初は泣く事もあった。
僕を忘れてしまったかのような対応を彼女が取る事が信じられなくて辛かったから。けれど、人間の順応能力と
言うものには驚くべき速さと、性能がある事を知った。それが少しの間続いてしまえば、もう諦念にも似た感覚が
沁み渡ってしまい、少しの胸の痛みを残して、その他の感情は泥の混じった川の如く流されて、終いには間違った
澄み方をしてしまうのだ。
だから、僕は此処に通い続けている。何時か、僕と以前のように接してくれるかも知れないし、彼女が本心を表
わせないだけで本当は僕が此処に来ている事に喜びを感じてくれているかも知れない。そんな淡い期待と希望を込
めて、自身が満たされる為に僕は此処に通っているのだ。卑怯で脆弱、僕はそんな人間だった。

「また、だんまり?私を元気付かせようとして来てるんでしょう?何か話してくれないのかしら」

そんな僕を嘲笑うかのように、春香は冷たい声で言った。
先刻、春香が大笑いしてくれたのは嬉しかった。何時もはこうやって冷たい声での対応だけで、笑ってくれる事
などありはしなかったから。だから、今日は何か変化が訪れてくれるかも知れないと、そんな期待を持っていた。

「……」

僕は何も答える事が出来なかった。
彼女の声は何時もと同じ冷たいものに戻っていて、僕はそんな彼女を見て失望にも似た感情を持ってしまってい
る。そんな自分が許せないのだ。余計なお節介を焼いて此処まで来ている癖に、"こんなに来てあげているのに、
その態度は何だ"などと片鱗でも思ってしまっている僕自身が許せなかった。
何時もなら、学校であった出来事などを一方的に話しているのに、今日は何も話せなかった。口を開く気にもな
らなかった。けれど、未練がましい僕は此処から出て行くのを躊躇っている。どうしようもない事なのに、どうに
か出来ないかと必死に思考を巡らせている僕が頭の中に居た。

「……もういいわ、帰って。私は一人になりたいの」

彼女は黙りこくる僕を冷たい目で見下ろして、そう言い放った。
その言葉に跳ね飛ばされるかのように、僕は座っていた丸椅子から立ち上がり、病室を出て行こうとした。白い
リノリウムの床を僕の靴が踏みしめる度にコツ、と固い音が鳴る。それが沈黙の続く病室内に響き渡り、妙に物哀
しく思えた。春香から、僕を引き留めるような言葉は発せられなかった。
扉の前に立った頃、僕は一言だけ、彼女に向けてではなく独り言を呟くようにして言った。
それすらも、自分を思わず殴りたくなるくらいに胸糞悪く、吐き気がするような言葉だった。

「また、来るよ」

閉まる扉が、埋まる事のない僕と春香の間にある溝と、重なった気がした。

冷たい印象を受ける病院の廊下を、一人肩を落として歩いて行く。病室を出て左に真っ直ぐ。その突き当りにあ
る階段を一階まで下って行けば、病院のロビーに出る事が出来る。今の時間は丁度六時くらいだから、受付を待つ
人も疎らだった。僕はそんな人気のないロビーから正面玄関に向かって歩いて行き、漸く消毒液の匂いが蔓延る病
院の空気ではなく、濁ってはいるけれど、病院の中よりは澄んだ外の空気を吸い込んだ。
それは、まるで山奥で深呼吸をしたかのような開放感に満ちており、僕はもう一度大きく空気を吸い込んだ。
そして僕はそうだ、と思い立つ。
気持ちが沈んでしまったのなら、それを少しでも晴らそうと。寂寥に満ちた心の鬱積を晴らすには、此処には充
分な物がある。この病院の裏手にある、綺麗な桜の木々達だ。あの何処か不思議な怪しさを放つ桜を見れば今のこ
の気分も少しは晴れてくれるだろうと、僕はそう思う。
その理由は桜が綺麗だから、と言うだけでなく、色んな思い出が詰まっているからでもあった。
たまには綺麗な花を眺めながら昔の思い出に浸るのも悪くない。我ながら爺臭いと思わずにはいられないけれど、
昔の思い出だけは何時だって輝いて僕の心を離さないから。虚弱な僕が日々を送るにはその輝いた想い出の日々が
必要不可欠であり、ある意味では空気と同じような存在意義を放っていた。
少しだけ楽しくなって、僕は多少軽くなった足取りで病院の裏手に回ろうと、この時間では人気の全く無い散歩
道を辿って行った。季節を彩る穏やかな風が、僕を撫ぜて過ぎ去った。






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