日記(非エロ)
シチュエーション


一月末の空は灰色の重たい雲に覆われている。
寒風に粉雪が舞う中、高野信彦は一人坂道を歩いていた。
山の中腹まで伸びる坂道の先には、薄く雪化粧を施された木々と、その間にとけこむように立つ真っ白な壁の建物があった。
大橋記念病院。
この地域で医療の中心を担う病院の一つだった。
信彦は白い息を吐きながら坂道を上り、数分で病院の入り口に着いた。

「ふう……辛かった……」

呟いて、自動ドアに向かって歩き出す信彦に、背後から声をかける者が居た。

「あら、信彦君」

信彦が振り向くとそこには、看護婦が一人立っていた。
病院の職員は大抵の人は顔を知っているが、その中でも特に見知った人物であった。

「深山さん……どうも」
「どうも。珍しいわね、信彦君」

深山恵は、そう言って笑いかけてくる。

「何がです?」
「『辛かった』って言ってたでしょう。あの坂道」
「ああ……いや、そうじゃないんです」

信彦は困ったように両の手を擦り合わせた。

「寒さが辛くて。いや、本当、今日の冷え込みはたまりませんね」

なるほど、と恵は頷いた。

「そうよね。あんな坂、もう慣れっこよね」
「まあ、ずっと上っているわけですからね。さすがに慣れます。もう何年だろう……」

指折り数え始める信彦に、恵が言った。

「私がこの病院に来てからだから、六年になるわね」

六年間――
高野信彦は毎日のように、この大橋記念病院に至る坂道を上っていた。

高野信彦には妹が居る。
高野千鶴。
一つ年下の妹で、現在十五歳。
幼い頃から心臓に病気を抱え、人生の半分以上を病院のベッドの上で過ごしている。
手術もしたがどうにもうまくいかず、何とか治せないものかといくつかの病院を巡り、六年前にこの大橋記念病院にやってきたのだ。
以来根気良く治療を続けてきたが、今も病状は思わしくなく、いつ命の灯火が消えてもおかしくはないという。
細い細い生命の糸をよろめきながらたどる、そんな日々を送っていた。
その妹に会うために、信彦は毎日この病院を訪れているのだ。
病室に向かう道すがら、窓の外に降る雪を眺めながら、信彦は尋ねた。

「今日はどうです、千鶴の様子は」
「うん、体調はいいみたいよ」
「良かった……この寒さだし、少し心配だったんです」
「あのね、仮にもここは病院なのよ? 野ざらしと同じ環境にするはずないでしょう」

呆れたように言う恵に、信彦は「すみません」と謝った。

「どうも、変に心配性で……」
「ま、信彦君はそうよね。昔から千鶴ちゃんのこととなると、夢中だものね」
「お恥ずかしい……」
「そんな、恥ずかしがることはないわよ」

恵は笑顔を見せた。

「あなたたちを見ているとね、私はほっとするの」
「え?」
「ああ、家族だなって。すごく安心するのよ」
「……? まあ、そりゃあ、俺と千鶴は家族ですけど……?」
「お互いを損得抜きで心配できる関係って、とても貴重なものなのよ」

恵の声は、どこか悲しい響きを持っていて、信彦は覗き込むように恵の顔を見てしまう。
そこにあるのは相変わらずの笑顔だった。

「ほら、千鶴ちゃんの部屋よ。早く行って喜ばせてあげなさい」
「あ、はい。いや、でも、喜んでくれるかな……」

首を捻る信彦の背中を、恵が勢い良く叩いた。

「何言ってるの。こんな優しいお兄ちゃんが毎日来てくれるんだから、嬉しくないわけないでしょう」
「だといいんですけど……」

恵の激励に、やはり信彦は自信なさげに呟いた。

病室の中は静かだった。
雪が降っているせいだろう、一切の音が掻き消えて、外部から隔絶した別の世界のように感じられる。
点滴の台と、小さな棚と、窓際の花瓶。
それ以外に余計な物は一切ない、真っ白な部屋。
その中で少女はベッドから上半身だけ起こし、枕に寄りかかるようにして本を読んでいた。
艶やかな黒髪が、背まで流れている。
それとは対照的に、肌は日の光を知らないのではなかろうかというほどに白い。
端正な顔立ちのその少女は、華奢ではあるが、つり目がちの目からはどこか強い意志のようなものを感じる。

「やあ」

高野千鶴――高野信彦の妹は、病室に入ってきた兄には目もくれず、呼びかけには答えなかった。

「元気にしてたか?」

信彦はベッドのわきに置かれていた椅子に腰を下ろし、また問いかけた。
が、やはり千鶴は答えない。
無言のまま本のページをめくり、小さく紙の擦れる音が病室に響いた。

「おーい、答えてくれなきゃわからないぞ」

やはり千鶴は反応しない。
ふむ、と信彦は頷いた。

「どうやら千鶴には俺の姿が見えていないようだな……ちょうどいい機会だから、今までずっとやりたかった、頭なでなでをしてみよう」

そう言って信彦が伸ばした手を、千鶴はそれまでの無反応から一転、素早く打ち払った。

「やめてください。気持ち悪い」
「お、反応した。良かった良かった」

嬉しそうに笑う信彦を、千鶴は鋭く睨みつけた。

「何しに来たんですか、一体」
「何って……いつもと同じ。お見舞い」
「お兄様……私、つい昨日に言ったはずなのですけれど」
「何を?」
「何を、ですって?」

千鶴は俯き、細い肩を小さく震わせた。

「もう来ないでくださいと、そう言ったでしょう!」
「言ってたか? そんなこと……」
「確かに言いました! お兄様……外見と頭と性格は悪かったけれど、ついに耳までおかしくなったんじゃないですか!?」
「おお、良かった。毒舌は健在だな。元気そうで何よりだ。いや、昨日は急に神妙な顔して、『もう来ないでください』なんていうから、兄ちゃん心配したぞ」
「やっぱり聞こえていたんじゃないですか……!」
「まあいいじゃないか」

軽く流そうとする信彦に、千鶴は不快感を露に言った。

「よくありません。来るなと言ったのに、なぜ来るんです?」
「千鶴の顔を見たいからに決まってるだろう」
「私はお兄様の顔は見たくありません」
「どうやら話は平行線のようだな……」
「人と猿じゃ話はできませんものね……」

千鶴は嘆息して首を振った。

「話の通じない生物に通じるのは、力によるコミュニケーションのみ……わかりました。ええ、嫌になるほどわかりましたとも」
「なあ、独り言の最中に悪いけど、ひょっとして猿って俺のこと?」

信彦の問いを無視して、千鶴は笑顔で尋ねた。

「お兄様、ここは病院ですけれど、ちゃんと携帯電話の電源は切っていますか?」
「ん? ああ、もちろん」
「一応見せていただけますか?」
「いいけどさ」

ポケットから携帯電話を取り出し、千鶴に渡す。
確かに電源は切られていた。

「な? ちゃんと切ってあるだろ?」
「そうですね」

つれなく言って、千鶴は信彦の携帯電話を開き、そのまま力任せにへし折ってしまった。
一瞬の出来事で、信彦は止める間もなかった。

「……! おま……お……!」

驚きのあまり唖然とする信彦に、千鶴は冷たく言い放った。

「私のことは放っておいてと言いましたでしょう。関わると、このようにお兄様の人生にとって良くないことが起こりますよ」
「……まあ、人間、携帯電話なんて無くても生きていけるしな」

信彦は昇天した携帯電話を手に、自分を納得させるように言った。

「しかし、相変わらず厳しいな、お前は」
「そう思うなら来るのをやめればいいでしょう」

かつては千鶴も兄の毎日の訪問を喜び、心待ちにしていた。
しかし、いつの頃からか、もう来ないでほしいと漏らすようになり、信彦に対して厳しい態度をとるようになったのだ。
読書が趣味とだけあって、言葉の回りは早く、毒舌はかなりの威力を誇る。
冗談では済まない嫌がらせをして、信彦を追い返そうとすることもある。
それでも信彦は毎日この病室に通い続けていた。

「……来たところで何があるわけでもないのに。本当、どうかしているんじゃないかしら」

小さく鼻を鳴らして、千鶴は顔を逸らす。
そのままベッドに横になってしまった。

「そこに居たいのなら勝手にしてください。ただ、席料として、私のつまらない話を聞いてもらいますからね」
「よしきた」
「今日は相談にのってもらおうかしら」
「おお、相談か。頼りにされてるみたいでちょっと嬉しいな」

笑顔を浮かべる信彦に、千鶴は言った。

「自分が嫌われていると気付かない人間に、嫌っていることを気付かせるにはどうしたらいいか、です。お兄様ならどうします?」
「……相変わらず厳しいね、お前は」

油断したところへの不意打ちに、信彦は正直傷ついてしまったが、それでも席を立つことは無かった。
しばらく無言で信彦を見詰めていた千鶴は、やがて小さくため息をつき、微笑を浮かべた。

「……お兄様、マゾなのかしらね」
「そういうわけじゃないんだけど……」

窓の外には、真っ白な雪が勢いを増して降り続いていた。






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