僕と。(非エロ)
シチュエーション


遥との出会いは、正直よく思い出せない。
思い出せないほど一緒にいたわけじゃないのだけど、何故か思い出せないのだ。
僕の知ってる遥はいつも白い服を着ていた。理由を訊いたら、同じパジャマを数着持っているらしい。成程、長い入院生活の中ならそういうこともあるだろう。

…そう。遥はずっと入院している。

…ずっと、という表現は言い過ぎかもしれない。三年間入院しているのだ。
中学校を卒業する、その年の二月に。試験が終わった二日後の朝には入院していた。
最初は風邪をこじらせた、と説明された。そうして進学間近になった時は(遥と僕は無事同じ高校の試験に受かっていた。) 肺が弱ってる、と説明された。
その後はずっとそんな感じだったと思う。その時は遥の表情が暗いまま数日が過ぎていたので、説明を鵜呑みにしていた。

…こう言うとまるで僕が「嘘をつかれている」と語弊を招くかもしれない。予め言っておくと、遥や彼女の母は僕に嘘をついていなかった。逆上して**したあの時の僕にさえもそう言ったのだから、きっとそうなのだろう。
だとしても、それが「好いか」と問われれば首を横に振るしかないわけで。

…ここからの話は今はしない。僕も自分の傷口に塩を塗るなんていう被虐的趣味は持ち合わせていない。

…だから、少し戻ろう。

心という曖昧極まる場所の中心でそう呟けば、僕の意識は白亜の個室に引き戻されるのであった。


「…起きた?」

目を開けての第一声はそんな感じだ。
意識を覚醒させて周りを見回しても、自分を見ている人は一人もいない。でも別段探すわけでも驚くわけでもない。

「うん。…結構寝た…みたいだね。」
「…二時間ちょっと。」
「わ、そんなに…。」

窓の外に目を向けると傾きかけてた日は完全に傾いていて、白しか無いと思われた空間に橙の光を溢していた。

「部活…疲れてるの?」

その橙の光を体一杯に浴びて黙々と読書を続けているのが遥。湊川 遥。

「…そんなつもりじゃなかったけど、多分疲れてるんだと思う。」

彼女は僕の方を一切向かずその書物の上の言葉に溜め息を溢した。それが彼女の人を案じる仕草。

「…無理は体に毒…。」
「そだね…。ありがと。」
「………。」

僕の礼の言葉には反応せずにぽん、と読んでいた本を閉じた。本のタイトルは…「こころ」夏目漱石か。
そうして一息吐くと天井を見上げた。僕は彼女の読んでいた本の冒頭をぺらぺらめくっていた。
その間に僕がちらりと見た遥は、背中の真ん中ほどにまで届く黒髪を全く気にせずに枕に頭を投げ天井を見上げていた。
投げ出した手が当たり前かもしれないが、普通の同年代の少女よりずっと細かった。
白く、日焼けしていない肌に細い体、山奥の湖のように澄んだ眼に黒髪だけが彼女にコントラストを与える。
本を読むふりをしながら遥を見ている。そんな時間が数分と過ぎた。

「ねえ。」

不意にかけられた言葉に対して少し慌てた僕の仕草はどう思われただろうか?

「どうかした?」
「暇だから何かしてよ。」

…本が僕の手元にあるから、彼女は真っ直ぐに僕を見つめてる。

「は?どうして?」
「暇だから。…じゃあ、見舞いに来たのに私をさしおいて二時間も寝た罰。」
「じゃあって…。」

こういう時の遥が何故か頑固なのも僕は知っていた。もう僕に選択肢はない訳だ。

「例えば?」
「自分で考えて。」

僕の当たり前の疑問についての回答は、即座に返される。…最近知ったけど、僕を困らせるのが彼女の娯楽の一つみたい。なんとも迷惑な話だ。

「じゃあ、アメリカンジョークを一つ。」
「うん。」

興味を持ったのか、先程より感情の篭った瞳を僕に向ける遥。…話す内容がくだらないと自分で理解している分、そのキラキラした視線が痛い。

「『先週、パパが井戸に落ちたの』『なんだって。それは大変だ。パパは大丈夫なのかい?』『平気よ。だって昨日から「助けて」って言わなくなったもの』」

…一気に言ってみた。

「……うん。…そうだね。」
「頼むから哀れむように見ないでくれ…。」

「じゃあさ、屋上行こう?」

そう言った彼女の中ではもうその案は可決されたのか、たまに外に出る用の防寒着を探し始めた。

「もう真っ暗になるよ?」
「いい。」

こちらを向かないでの返事。その声はどこか弾んでいる。
外は暗いし、寒いし、それに屋上への扉はもうすぐ施錠される。
そんな正当な理由で反対しようかとも思ったけど、やめた。
なんだかんだ言っても結局こういう時は僕が折れる。無駄な抵抗をしない方がお互いの為だ。

それに、今、遥の機嫌を損ねたら、きっとさらに無理難題を要求され、断れない僕はこの前のように看護士方の笑いの種にされてしまうに違いないのだ。

「じゃあ、車いす乗って。」

足は別に悪くはない。
ただ、三年間一切運動していない体にはいろいろ弊害がつきまとう。肺というデリケートな部分が病に侵されている遥だ。その辺は看護士の方も注意を払っている。
けど、遥は小さく唇を尖らせる。

「…屋上に行くくらい大丈夫。」

上目遣いに睨む遥。でも、ここは折れることはできない。

「ダメ。車いすじゃないと行かないよ?」

もちろん遥だって分かってる。僕だって分かってる。ただ、たまにこんなやりとりを交してみたかったから言ってみただけなのだ。

「…分かった。」

ぽつり呟くと、自分の要求を却下されたにも関わらず優しく笑ってくれる。これが、証拠。
じゃあ行こうか?
そう車いすに手を掛けて訊けば、目の前の黒髪が穏やかに揺れた。

「…なに?」
「なにって、だっこしようかと思って。」
「いい。」
「階段だけさ。」
「……。」

階段の上から降り注ぐ橙色の明かりは、音も無くただ静かにゆっくりと藍色に移り変わる。…施錠まであと残りは三十分くらいだろうか。最近は日が落ちるのが早いから、よく分からない。

そんな屋上へ登る階段の下での会話だ。
車椅子では行けないから僕は遥をいわゆるお姫様だっこと言われる体勢で連れていこうとしたのだ。
おんぶよりましかな、という僕なりの配慮だったのだが遥は首を縦に振らない。…これが初めてなわけではないけど、僕は毎度毎度横に振られるその首に悩まされる。

「この前もだっこしたでしょう?」
「この前は仕方なくて…!」

この言い訳も何度聞いただろう。

「じゃあ、部屋に戻る?」
「…それは……やだ。」
「じゃあ、…ね?」

ある程度慣れてきた問答。彼女はうつ向き下唇を噛む。僕としては遥は軽いから持ち上げるのを苦と思わないし、変なとこには触ってないつもりだから遥の躊躇いの感情があまり理解出来ないけど、やっぱり恥ずかしいのかなとも思う。

「……。」

僕が「そんな顔」をしていたら、蚊くらいなら殺せてしまいそうな剣幕なオーラを漂わせて遥がにらんできた。…地雷踏んだ?

「…しょうがないから。」

不機嫌そうな彼女に苦笑しながら彼女の膝の裏に手をさしこむ。

「遥が行きたいって言ったんじゃん。」
「これは、二時間寝てた罰。」

子供みたいなやりとりの裏で遥は僕から顔を反らす。
彼女は他の人には絶対こういった態度を取らない。
その照れているであろう顔と、なんだかんだでだっこを了承した事実(言い出したのは遥だけど)を感じて、暖かい心の波を感じる。
とりあえず、今は遥が望んでいるであろう通りに彼女の顔は覗かないことにしよう。

「……。」

それでもどこかいつもより暖かいのは、彼女の体温か、僕の体温か。

…小さな金属音が響いた後、ドアが小さな叫びをあげる。
僕達はその扉を抜けて、夜に向かう空に臨んだ。

「…もう下ろして。」
「あそこのベンチまでね。」
「……。」

こういう時はやたらと子供に見える。そのギャップが見たくて、先程ゆっくりベンチに向かう。
彼女も分かったのだろう。目を合わせなくても不機嫌な様子が伝わる。
とりあえず苦笑する。意味は…よく分からない。

外側を向くベンチ。数歩歩いてたどり着いた。

「到着ー。」
「…ありがと。」

その語気から察するに、怒りは収まっていないらしい。そうして、やっぱり苦笑するのだ。

そんな小さな子供みたいなやりとりでさえ、群青の空には唯一の絆。
嗚呼、僕達が開けたドアが音を立てて閉じる。

「ゴメンね?」
「…いい。」


隣に座って呟いた言葉への返答は間に間を置かない簡潔なものだった。

お互い見つめ合うわけでもなく、空と街が交ざる辺りをぼんやり眺めた。

「ありがと。」

二回目は一回目より穏やかに。

「ううん。僕もこういうの好きだし。」

遥が好きであること前提の質問。
その確かめられてもいない前提に柔らかく笑い、投げ出していた僕の右手に左手を合わせる。

「…ロマンチックなこと訊いていい?」

握った手はそのままに、唐突に言う遥。
僕は一度遥の方を向くのだが、彼女の前に向ける視線の凛々しさにしばし見とれた後で視線を戻すのだ。

「ロマンチックな回答は期待しないで欲しいけど、それでよければ。」

いつのまにか、重ねていただけだった手は、確かな力で握っている。
だから溢さないよう、握り返した。

「神様っていると思う?」

その質問の時だけ、彼女はこちらを向いた。
黄昏の群青が瞳に張り付いたように、澄んだ瞳。


「…ロマンチックっていうより、哲学的だよね…。」
「分からないものを分かろうとする点で、同じ。」
「紙一重で違う気もするけど…。」
「いいから。」

僕は少し煮えきらなかったのだけど、深く考えなければ同じ。そうなのかもしれない。この問答だって、同じく答えが出ない問答だ。

「いても、別にいい。かな?」

僕の回答に遥は不思議そうな顔を隠さずに返す。

「それは、都合?」

考えずに言葉に出したらこうなったのだから、きっと今の僕の回答は僕の深層心理とか言うやつなのかもしれないが、生憎当事者の僕でさえも今の回答は意味不明だった。

「っていうか、いても関係ない…っていうか。」
「頼らないってこと?」
「……分かんない。何か勝手に口が動いてた。」

正直にそう告げれば、納得したような納得しないような表情を浮かべ考え込む遥。
地平線を臨むのは、暫し一人。

「じゃあ、遥は?」

神様はいると思う?

些細な事。それは本当に。

でも

どうしてか、その時彼女の顔が見れなかった。



「いる。」


断言した後はいつもの顔。

違うのは、僅かに力が強まる繋がった手だけ。

地平線を臨むのは、また一人に。

そうして、十分くらい沈黙が続いただろうか?
別に気まずいと思うほどちんけな関係では無いつもりだし、これはこれでいいのだが左手の時計を見たら、針は施錠十分前を差していた。

「遥。」
「…ん。」

時間が迫ってるのは分かってる。改めていう必要も無い。

橙を塗り潰す群青は街に光をもたらして違う場所に染める。
遠くに見えていたビルの改修の為の車両から人がいなくなっていく。通りを歩く人がいなくなっていく。

「…じゃあ、帰ろっか?」

こくんと頷いたのを見て、立ち上がる僕。遥は未だ群青を見つめている。
そんな彼女をいきなり上げるのも嫌なので、一言断りを入れる。

「持ち上げるよ?」

こくんと頷いて、僕はそれを見てまたお姫だっこをしようと思っていた。

「…おんぶでいい。」

けれど、遥はそんな事を言う。

「え?どうして?」
「腕、疲れたでしょ?」
「まだ大丈夫だけど…。」
「…疲れたでしょ?」
「う、うん…。」

体を反転させて彼女の前に差し出す。…おんぶの方がいいのかな?

やがて加わる体重は羽のように軽い。易々と立ち上がった僕はそのまま扉に向かう。

そうして

「ねぇ。」

耳元で囁く。

「なぁに?」


「お願い…いい?」

ドアがゆっくりと閉まる。

「看護婦さん。」

そう呼ばれたその看護婦が振り向いた先には一人の少女が立っている。

「ああ、遥ちゃん。こんばんは」

三年前から入院している遥を知らない看護婦は、この病院にはいない。
ちなみに、看護婦達の楽しみの中に、『遥の無理難題をこなそうと頑張る「彼」を生暖かく見守ること』と、『「彼」を遥に関しての話題でからかうこと』等が挙げられる。いろいろ見ていて癒されるわけである。
だから、と言うわけではないのだが(彼にとっては「願いたい」のだが)遥と彼は病院ではちょっとした有名人。下の名前で呼ばれるのも、まぁ当然だ。
もう一つ、この看護婦と遥とで浅くは無い絆があるということも確かだろうが。

「あの子の具合、どうですか?」

白いパジャマのように来やすく寝やすい服の上に鼠色のコートをはおった遥。看護婦は質問を受けながら、屋上にでも行ったのかな、とぼんやり考えていた。

「あぁ、あの子ね相変わらずよ。いつも何かわからないけど、漫画を読んでるわ。」

その「予想通り」の返答に遥は笑みをこぼす。ついで、看護婦もクスりと笑った。

「あの子も遥ちゃんを少しは見習って欲しいわね…。」
「いえ…そんな…。」

遥の隣の病室に、彼女とあまり年の違わない少女が入院している。
この看護婦はその少女の担当で、いつも少女に漫画をせがまれている。らしい。

「この前も地図渡されて買いに行かされたんだから!」

看護婦は頬を膨らませて一枚の紙をポケットから取り出す。地図だった。

「…どこですか?ここ。」
「全然分かんないわよね?私もあっちで散々迷ったんだから…。」

主要な建物や通りは書き込まれているから辿り着けないわけではない。だが、辿り着くには相当の土地感が必要。そんな地図だった。
地図の適当さや『その少女』について軽く議論する。これが、こんな半閉鎖的なこの場所での娯楽。
そんな暖かく楽しい時を過ごした後で、別れ際に遥は告げるのだ。

「…さっきの、お願いします。」

それは確認。
失敗してはならない―しかしその要素は拭いされない―事態に対しての最重要事項。看護婦の仕事が全てを変える、なんて、言い過ぎでもなんでもなく、事実であった。
しかし、当事者は軽い笑みを浮かべ

「大丈夫、大丈夫!」

と、親指を立てる。

「私だって、少しは二人のこと分かってるつもりだしね。」

彼女は、どこか、どこか遠い現在以外のどこかを見つめるような瞳で夜を見つめる。
過ぎた日は、ただ綴られるだけであり。紡ぐことは出来ない。

だから

「うん。頑張りなさいよ!」
「…はい!」

彼女は送り出す。

…それは何でもない、唯の親子にも似た会話。

夜になった。
最初は今の自分の状況がよく分からなくて、二秒後に掛けられる声で僕の意識は覚醒するのだった。

「起きた?」
「…もう大丈夫?」
「とっくに。」
「…あ、そう。」

そんな短い会話をして暗闇に慣れてきた目を凝らすと、目の前には板のようなものがある。
冷たかった床は、僕の体温と混ざり合い緩やかに熱を発する。
僕は遥のベッドの真下で寝ていた。
…というより、隠れていた。

「こんな都市伝説あったよね…ベッドの下に斧持った男がいるやつ。」
「空気読んで。」
「…むう。」

暇だったのだ。それくらい多目に見てほしい。
そんなことを頭の中だけに留めて、僕は彼女と相対するのだ。

「本当に大丈夫なの?」

闇に慣れた目は確かに彼女が頷くのを捉える。
小さな嘆息と共に近くにあった椅子に座ると、遥の声が届く。

「…そっちこそ大丈夫?」

…心配しているような顔だった。

「大丈夫だよ。結構寝たし。」

時刻は午前零時を回り。遥は首を横に振る。

「そうじゃなくて…」
「家? 大丈夫だよ。連絡入れたしさ」

夕方、電話口に出た姉に伝えてある。そこらへんの心配は不要だろう。…だとしても、帰った後にいじられるのは覚悟しなければならないが。
「………。」

遥は真面目な子だ。
今でも後悔…というか、遠慮や戸惑いの気持ちでいっぱいなのだろう。皮肉の一つや二つ言ってみようかと思ったけど、椅子から立ち上がりベッドに座った僕のとった行動は、出来る限り優しく遥の頭を撫でることだった。

「………。」

うつ向く彼女は何を思ってるのだろう。暗闇の中でさえ煌めくその黒色の瞳は、いったいどこを見ているの?

「…………。」

知らずに肩に回していた僕の左手に、小さく重なる君の右手。
肌寒く、四角い、白く、暗いその部屋。
無機的な空間。過ぎる無機的な時間。
与えられて、奪って、重なって、混ざって、一つになって、
優しく、愛おしく、甘美に、幽幻に、
唯だ、幾千の情と
唯だ、一握の心で
そんな詩的な感情と
「それ」とは正反対の感情で

僕は
右手は優しく撫でたまま、左手は肩に温もりを伝えたまま。

遥にキスをする。






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