シチュエーション
![]() 膝の上に手を置いて、右手の薬指を持ち上げてみる。 1cmだけは浮くけれど、それ以上は上がらない。 きっと、薬指はあまり持ち上がらないようになっているのだろう。 調べたことがないから、詳しくはわからないけれど。 もう一度、今度は左手の薬指を持ち上げてみる。 右手と同じぐらいしか上がらないけれど、こちらは少し違う。 軽く、とても小さな指輪だけど、指にはまっているだけで重たく感じてしまう。 結婚指輪の代わりに買った安物の指輪だけど、込められた想いは同じものだ。 僕は今年、昔から仲の良かった女性と婚約をした。 彼女は、大学に通うために1人暮らしをはじめた僕を気遣って、同棲してくれた。 同棲とは言っても、最初はそんなに甘いものではなかった。 喧嘩はするし、お互いの趣味はぶつかるし、2人とも部屋の掃除はしなかった。 けれど、長く一緒に住むうちに、お互いの距離感や譲り合いの心を思い出していった。 そして僕は、彼女――あおいと結ばれた。 僕とあおいは、幼稚園に入る前から仲が良かった。 お互いの家は近所で、両家の親の仲もいい。 自然と、僕とあおいは一緒にいることが当たり前になっていった。 しかし、僕があおいと一緒にいようとしなかった時期が、一時期だけある。 それは僕が高校2年生になったときのこと。僕に初めての彼女ができたのだ。 当時を思い出すと、僕は舞い上がっていた、と思う。 あおいと一緒にいるときは、恋人の話ばかりをしていた。 恋人ができた。恋人と一緒に映画館へ行った。恋人と初めて手を繋いだ。 他愛もないことから、言いにくいことまで。僕はあおいに全てを話していた。 当然のように、あおいは僕を避けるようになった。 今思うと、なんとひどいことをしていたのだろうか。 あおいは言った。 「あの頃のあんたが無事でいられたのは、あたしのおかげ。 あんたがあの子の話するたびにどれだけいらついていたか、知ってる?」 この言葉だけでも、自分の馬鹿さ加減を思い知ることができた。 初めてできた恋人との別れは、なんともあっけないものだった。 親の引越し。それも海外への移住だった。 僕も彼女も別れたくはなかったから、日本に残れるように色々とやった。 しかし、現実はドラマのようにはいかず、彼女は海外へと引っ越していった。 僕は家にこもり、学校へ行かず、布団から這い出さず、部屋に鍵をかけて閉じこもった。 いっそのこと、死んでしまおうか、とまで考えた。 部屋に閉じこもる僕を引っ張り出したのは、あおいだった。 その後で、あおいは何も言わず、何もせずに立ち去った。 僕はあおいが去った後で、立ち上がった。立ち上がると、不思議なことに寝ようとは思えなくなった。 それだけで、僕は立ち直った。もう彼女のことは諦めよう。そう思えた。 恋人のことを忘れて高校に通うようになった僕は、大学を受験して合格し、卒業した。 それが今年の3月のこと。今はもう8月後半。思い返すとあっという間だ。 あくまで、思い返せばの話だ。あおいと過ごした数ヶ月は実に濃い日々だった。 今、僕は両親が住む実家へついたところだ。 移動手段はバイク。あおいは連れてきていない。 あおいはバイクの後ろに乗るのが嫌いだ。 バイクが嫌いなわけではなく、単に運転する方が好きなのだ。 車であっても、バイクであってもあおいは運転することを好む。 なんとも彼女らしいことだ、と思う。 僕が実家に帰ってきた理由は、両親と、あおいの両親に結婚の挨拶をするためだ。 とはいえ、あまり緊張はしない。既にあおいから連絡がいっているからだ。 あおいが言うには、両親は大歓迎とのこと。おそらくうちもそうだろう。 両親も僕とあおいのような関係だったらしいし、両親もあおいを気に入っている。 これほど緊張感のない結婚の挨拶は、意味があるのだろうか。 わざわざスーツをバッグに入れて持ってきた僕が馬鹿みたいだ。 実家には誰もおらず、車もない。おそらく仕事にでかけているのだろう。 家の前に建つアパート前のベンチに座り、日陰に入る。 空は真っ青だった。雲の存在をあえて排除した絵画のように青一色だった。 聞こえてくるツクツクボーシの泣き声は甲高く、一定のリズムを刻んでいる。 他のセミの鳴き声は思い出せないのに、ツクツクボーシたちの声だけは耳に残る。 きっと、僕は不快なものだと思っていないのだろう。 夏が終わる合図、ということで特別扱いしているのかもしれない。 不意に、喉が渇いた。 そういえばバイクで出発してから3時間、僕はなにも口にしていない。 立ち上がって、自動販売機を探しにいこうとしたら、後ろから声をかけられた。 「あの……なおき、君?」 名前を呼ばれたので、振り返る。 後ろに立っていたのはブラウスとジーンズを着た女性だった。 はて、この人は誰だろう。この近辺で僕の名前を知っている人はたくさんいるけど、 僕と同年代の女性はあおい以外にはいないはずだ。 そのあおいも僕の後を追って、今頃はバスの中にいるはず。 だとすると、この人は? 「覚えてないのかな?ほら、私だよ、私」 そう言って、女性は長い髪を手で掴み、ポニーテールの形にした。 途端、僕の思考を風がかすめた。落ち着きをなくした考えが一箇所にまとまっていく。 覚えている。覚えているけど……なぜ今頃僕の前に姿を現したんだ? 「なおき君が帰ってくるのを、ずっと待ってたんだ。このアパートで。 だって、今どこに住んでいるのかわからないんだもん」 それはそうだ。海外に行った彼女に、僕は連絡をしていない。 だって、連絡先を交換する前に彼女は僕の前からいなくなったから。 懐かしさと、少しの後ろめたさと一緒に愛しさが湧いてくる。 高校時代に付き合っていた女性、みのるに対して。 「会いたかった。なおき君」 みのるは近寄ってくると、僕を抱きしめた。 軽くのしかかってきた体に押されて、僕は少しだけ後ろにさがった。 柔らかな体の感触を服越しに感じられる。不快にならない程度の香水の匂いがした。 みのるの肩を掴み、一度距離をとって話しかける。 「……みのる?」 「うん、私。なおき君の彼女の、みのる」 「……彼女?」 「そうでしょ?」 ね、と言いながら首を横に倒すみのる。 そういえばそうだった。僕はまだ、みのるに向けてはっきりと別れを告げたわけではなかった。 「でも、2年ぶりかあ。ほんと長かった」 「……あのさ、みのる。そのことについてなんだけど」 「まあまあ、つもる話もここじゃなんだから、私の部屋へ行こう」 みのるはくるりと後ろを向くと、僕の手を引いて歩き出した。 僕は、みのるの手を振り払うことができなかった。 自分が、みのるを一方的に捨ててしまっていた、ということに今さら気づいたのだ。 彼女は、僕のことをずっと恋人だと思っていたのに。 みのるの部屋は、アパートの2階にあった。 ドアは僕の家がある方角を向いていて、庭の様子がよくわかった。 部屋の中は外とは違い、クーラーのおかげで涼しかった。 みのるは僕を畳とテーブルのある部屋に招くと、何も言わずに台所へ向かった。 僕は部屋に入って立ったままでいるのもおかしいと思い、胡坐をかいた。 部屋の中を、目と首を少し動かして観察する。 ベッド、テーブル、ペン立てが乗った机、立て鏡、壁にかけてある時計、 それ以外の雑多なものが自己主張しないようにして置かれてあった。 窓の外にはベランダがあった。物干し竿にかけてある洗濯物は、風に煽られてかすかに揺れていた。 みのるは台所から戻ってくると、小さなテーブルの上にウーロン茶を置いた。 隣に座ったみのるがウーロン茶を飲んだので、僕もそれにならった。 テーブルの上にコップを置いたところで、みのるから話しかけられた。 「なおき君は、今何をしてるの?」 「ここから離れたところに住んでる。大学に通ってるんだ」 「ふーん……何を勉強してるの?」 「物理の勉強をしてる」 「そうなんだ」 みのるは僕から目を離すと、ウーロン茶を飲んだ。 今度は僕の方から質問をしてみる。 「みのるは、海外に行ったんじゃなかったのか?どうして日本に?」 「どうしてって、そんなの決まってるでしょ。なおき君に会うために。 ……というのは冗談。両親の出張が終わったから帰ってきたの」 「じゃあ、どうしてこのアパートに1人で暮らしてるんだ。ご両親と一緒に住めば楽なのに」 「それはさっきも言ったでしょ。……なおき君を待ってたの、ここで」 みのるは僕に近寄ると、肩に頭を乗せた。 「会いたかった。イギリスに行っても、ずっとなおき君のことを想っていたの、私。 あのとき、引っ越すときに何も言わずに行ってしまってごめんなさい。 せめて連絡先だけでも教えていればよかった。そうすれば手紙だけでもやりとりができたのに」 「……僕は、あの……」 「ただで許してもらおうとは思ってないよ。私のこと、好きにしていいから……」 そう言うと、僕に顔を寄せてくる。 みのるの目は閉ざされていて、唇は軽く結ばれていた。 その行動の意図を悟ったとき、僕はみのるの肩を掴んで動きを止めていた。 「どうしたの、なおき君」 「……実は、僕には恋人がいるんだ」 「え?」 「婚約まで、してるんだ。……もう」 左手をみのるに見せる。 みのるは僕の左手を掴むと、薬指にはめた指輪を凝視した。 「嘘でしょ、そんなのって……」 僕は沈黙をもってみのるに応えた。 罪悪感のせいで息が重くなって、胃がちくちくする。 みのるは僕のことをずっと想っていてくれたというのに、僕はそれを裏切った。 純粋な彼女を傷つけてしまったということを、はっきりと理解できた。 みのるは僕の手を離すと、下を向いて問いかけてきた。 「相手は、誰なの?」 「……あおい」 「幼馴染のあの女の子?」 「うん」 「そうなんだ……あの子が……」 みのるはそれっきり黙りこんでしまった。 窓と玄関を閉ざした部屋に、クーラーから噴き出す風の音だけが響く。 あれだけ甲高いセミの声は、どこかへ行ってしまったかのように思えた。 僕は下を向いて、罵声、もしくは張り手を浴びせられるのを待った。 けれども、みのるは黙り込んだままで、何かしてくる気配はなかった。 気まずくなった僕は、みのるに声をかけようとして顔を上げた。 「ごめん。僕はもう、みのると付き合うことはできない」 「嫌」 「……え」 「嫌だよ……別れるなんて。ずっと会える日を待っていたのに。私、別れようなんて言ったかな?」 僕はゆっくりと2回、頭を振った。 「言っていないでしょう?じゃあ、まだ別れていないよね、私達」 「みのる、何を言って――」 「まだ別れない。まだ別れたりなんか、しないから」 みのるは俯いて、僕に表情を悟らせようとしなかった。 泣いているのか、泣いていないのか、僕にはわからない。 みのるの声ははっきりとしたものではあったけど、嗚咽が混じっていなかったから。 みのるに背中を押されて、僕は部屋の外へ追い出された。 重そうな鉄製の扉から鍵をかけるような軽い音がした。 ため息をついてから、アパートの階段を降りる。 一段降りていくたびに、気温が高くなっていくような気がした。 アパートを出て自宅へ向かうと、玄関の前にバッグを置いて、 腰に手を当ててまっすぐに立つあおいが見えた。 僕が近寄ると、あおいの愛嬌を振りまこうとしない眼差しが向けられた。 整った顔立ちをしているのだから、もっと穏やかな瞳をしていればいいのに、と思う。 せめて、僕だけにでもいいから愛嬌を振りまいて欲しい。 「あおい、なんで僕の家に来てるんだ?自分の家に帰ればいいのに」 「出張」 「出張?って、誰が?」 「お父さんが出張に出かけてて、お母さんはそれについて行った」 「お前、合鍵とか持っていないのか?」 「玄関の鍵をついこの間変えたばかりらしくてね。あいにく持っていないのよ」 「ということは……どうなるんだ?」 あおいはため息を吐きながら大き目のバッグを肩に担いだ。 「2日もすれば帰ってくるらしいから、それまではあんたの家に泊まらせてもらうわ。 別にいいでしょ?昔からやっていることだし」 「うん、まあ別にいいんだけど……」 僕は路地を挟んで向かいに建つアパートの2階、みのるの部屋を見上げた。 あんな会話をした手前、なんとなく気まずく感じてしまう。 「どうかした?」 「いや、なんでもないよ」 家の裏手に回り、倉庫から合鍵を取り出す。 玄関の鍵を開けると、数ヶ月ぶりの我が家の玄関を拝むことができた。 「お邪魔します」 一礼してから、あおいが玄関に入ってきた。 あおいにしては珍しく、緊張しているようだった。 「なんで、人の顔を見て笑ってんの?」 「いや……あおいも緊張することがあるんだな、って思ってさ」 「……別に緊張しているわけじゃないわ」 あおいはそう言い残すと靴を脱ぎ、居間の方へ向かっていった。 僕はバイクに積んだ荷物をおろすため、もう一度外へ出た。 右手を眉の上につけて、空を見る。 容赦なく照りつける日光は、かなり低い位置にまで下りていた。 なぜ僕が今、実家の居間で両親を目の前にして正座しているのか。 これから両親に向けて、僕に関する重大なことを話すためだ。 しかし、父の笑いをこらえたような顔と、母の嬉しそうな顔を前にすると真剣さが薄れてくる。 首を左に曲げて、僕と同じように正座しているあおいを見る。 黒のショートヘアがまっすぐに伸びているのと同様に、目は泳ぐことなく両親の方を見ている。 いつもと違う眼差しは、誠実さを物語ろうとしているようだった。 あおいはこの部屋にいる人間の中では一番緊張感のある顔つきをしていた。 その顔の真似をする気分で真剣な顔を作り、父親の顔に向けて言う。 「父さん、母さん。僕はあおいと結婚したい。結婚の許可をください」 「お義父さん、お義母さん。必ず幸せにします。なおき君を私にください」 打ち合わせをしたわけでもないのに、僕たち2人は一緒に頭を下げた。 僕はあおいの言葉に多少の違和感を感じたが、何も言わないことにした。 「頭を上げなさい、2人とも」 母の言葉を聞いて、顔を上げる。 父は目を閉ざし、上下の唇を固く結び、小刻みに肩を震わせていた。 「あー、うぅん!……なおき。本当にあおいちゃんを幸せにできるんだな?」 と、笑いの色を混ぜ込んだような声で父が言った。 僕は声を出さず、頷くことで応えた。 「あおいちゃん、本当に後悔しないかい?こんな頭の緩そうな息子と結婚しても」 「絶対に後悔しません。私にとって、なおき君は初めて一緒にいてもいいと思えた人ですから」 きっぱりと言い放たれたあおいの言葉。 両親は顔を見合わせると、同時に首を縦に振った。 「よしわかった。結婚を許そう。二人とも、幸せになれよ」 「ありがとう」 と僕が言うと、あおいが口を開いた。 「ありがとうございます!……本当にありがとうございます!」 あおいは大きな声で喋りながら、何度も頭を下げていた。 その後で、母親が大量の料理を居間のテーブルの上に並べた。 手首から肘ぐらいまでの直径をした大皿には、揚げ物と揚げ物を囲むようにしてレタスが乗っていた。 大皿の上の料理と、揚げ物以外の料理を食べ終わるころには、時刻は夜の8時になっていた。 食後のお茶を飲みながら、4人で会話をした。 「実を言うとな、2人が結婚の挨拶をしにくるっていうことは知っていたんだ。 2日前にあおいちゃんの両親から電話があって、結婚の話と出張に行くという話を聞かされたよ」 父の言葉を聞いて、僕はやっぱりな、と思った。 「でも嬉しかったわ。2人が一緒になってくれて。これで孫の顔を拝めることは決まったようなものね」 母は両手で湯飲みを持ちながら言った。 あおいは積極的に口を開こうとはしなかった。 もじもじと体を動かしながらテーブルの上に乗った湯飲みをじっと見つめていた。 10時になったころ、両親はいつもより早めに寝ると言って部屋へ入っていった。 なんとなく気になったので理由を聞いてみたところ、 「それは、2人の邪魔をしたくないからに決まってるだろう」 「なおき。励むのはいいけど、計画的にするのよ。じゃないと後悔することになるから」 両親が何を言いたいのかは、すぐにわかった。 私達は早めに寝るからゆっくりと2人の時間を過ごしなさい、ということだ。 同じ屋根の下に両親がいるのに、そんなことできるはずがない。 思ったことは口にせず、僕は両親に「おやすみ」と言った。 あおいは今夜に限らず、この家に泊まる間はずっと僕の部屋で寝ることになった。 押入れの中から取り出した布団を2つ並べる。僕とあおいの分だ。 電気を消し、布団にもぐってから、僕はあおいに話しかけた。 「あおい、今日はいつもより大人しくなかったか?」 「当たり前でしょ。いくら知り合いって言っても、結婚の挨拶は緊張するものよ」 「そんなものかな……」 「言っておくけど、あんたもちゃんとうちの両親に挨拶するのよ。あたしが言ったのと同じように」 「あおいさんを僕にください、って?」 「全く同じじゃ駄目。少しはひねりなさい」 「……考えておくよ」 ひねりを加えろと言われても、どうすればいいのだろう。 英語に翻訳してから再翻訳すればいい台詞ができるだろうか? 「なおき、向かいのアパートに行って何をしてたの?」 「あ、あー……」 正直にみのると会っていた、と言うべきか? あおいはまだみのるのことを覚えているだろう。 高校時代のあおいはみのるのことを快く思ってはいなかった。 それは僕が原因でもあるのだが。 「正直に言った方が、身のためよ。あたしに嘘が通じると思う?」 あおいが、僕のいる布団に入ってきた。 僕の部屋にはカーテンがないので、月明かりは部屋に入り込む。 月明かりのおかげで、あおいの目が僕をはっきりと捉えていることがわかった。 「みのるに会った」 「……海外に行った、なおきの昔の彼女?なんで向かいのアパートに住んでるのよ」 「僕に会いたかったから、って言ってた」 「なにそれ……あの子、まだあんたのこと諦めてなかったの?」 僕は、みのるが別れ際に言った言葉を思い出しながら、頷いた。 「で、あんたはあの子に対してなんて言ったの?まさか、よりを戻そうとか言ったりしてないわよね」 「言うわけないだろ。……はっきりと断ったさ。君とはもう付き合えないって」 「そう、それならいいんだけど」 あおいは安堵したのか、ため息を吐き出した。 いや、昔の記憶を思い出してため息が出たのかもしれない。 けど、あおいの表情からは考えを読み取れない。 僕の考えはあおいにはお見通しなのに、これではフェアではないような気もする。 「目、閉じなさい」 「へ?」 「いいから!」 強制的にあおいの手によって視界を遮られた。 僕が驚いているうちに、あおいはもう片方の手で僕の頭を掴んで、僕にキスをした。 かなりの早業だったが、あおいは僕の唇を的確に捉えていた。 目隠しをされたまま、僕はキスをされ続けた。 時々、あおいは唇を強く押し付けてきた。 そして息が続かなくなると、一度離れて息を吸い、また僕にキスをする。 いつもキスするとき、あおいはあまり積極的に動かない。僕の動きを受け入れてじっとしている。 けれど、今日は立場が入れ代わったようにあおいの方から積極的に僕の唇を奪っている。 あおいは僕の体の上にきても、顔を近づけたまま離さない。 「なおきの恋人はあたしだけ。わかってる?」 「もちろん、わかってるよ。でも心配しなくても僕はあおいと別れたりなんか……」 「黙りなさい」 言葉を遮られて、再びあおいに唇を奪われる。 たっぷりと僕の口内を舌で嘗め回してから、あおいは僕から顔を離した。 「あの子には、渡さないから……」 あおいは僕のパジャマのボタンをを外すと、舌で舐めてきた。 「あおい、ちょっと……くすぐったいって」 「んん?……んん……ぁ……」 僕の声は届いていないのか、あおいは体を舐めることをやめようとしない。 いつまで経っても止みそうにないので、僕からあおいを脱がすことにした。 重なった体の間に手を入れて、パジャマのボタンを外し直接肌に触れる。 あおいの体はすでに汗をかいていた。 「ちょっと……くすぐったいよ」 「おあいこだろ」 「あ、ちょっと……そこは……」 あおいは下着をつけておらず、肌を直接さらしていた。 乳首を弄る僕の指から逃れようとして、あおいは体を起こす。 あおいの腰を抱き寄せて、下から乳房を揉む。 手のひらで隠れそうなあおいの胸は、僕の指に挟まれて形を変える。 「ぁ……そんな強くしちゃ……」 「こういうの、嫌か?」 「そうじゃなくて……恥ずかしいでしょ」 あおいの腰に手を回して、パジャマの下に手をかける。 あおいは一瞬体をこわばらせると、僕の手を掴んだ。 「……ねえ、目をつぶったまま、してくれない?」 「どうして?」 「だって……あたし、今……」 あおいは腰を軽く浮かして僕から体を離した。 パジャマの上から、あおいの秘所に手を当てる。 「んぁっ?!あ……そこ、は」 「もう濡れてるのか、あおい」 「あ、ちょ、っと……動かさないで……」 軽く撫でているだけでも、あおいは敏感に反応する。 僕が手を当てている箇所、あおいの秘部は湿り気を帯びていた。 軽く指を曲げて、パジャマの上から押し上げる。 「ぅあっ!……馬鹿!……そんなことしたら、声がでちゃうでしょ」 「いいだろ、もう親も寝てるって……」 「――あんた、いい加減にしときなさい」 あおいに指をつかまれた。そして、指を曲げたままの状態で強く握られる。 手心を加えないあおいの握力が指の神経を圧迫する。 「いいっ!……ちょっと、強すぎるって!それは!」 「これ以上やったら、途中でおあずけにするわよ」 「……ごめん」 あおいは片足を浮かせてパジャマを脱ぎ、次いでショーツを片足だけ脱いだ。 僕も手と足を使い、パジャマと下着を脱いだ。 勃起したペニスにゴムをつけて、あおいを仰向けに倒して、両足を開く。 「もういれるの?いつもより早くない?」 「今日はこうしたいんだ」 本当はもう少し前戯を重ねてからやりたいけど、あおいの様子を見ているとそうはできない。 あおいはいつもより、ずっと興奮していた。 掴んでいる足が小刻みに動いているところから、そのことがわかる。 「いいけど……あまり荒っぽくしないでね」 「うん、わかってる」 あおいの濡れそぼった秘所に、亀頭を当てる。その動作だけでもあおいの呼吸は乱れた。 少しずつあおいの中にいれていく。途切れ途切れに喘ぎ声をあげながら、あおいは僕を受け入れる。 腰がくっつくと、あおいは小さなうめき声を上げた。 口を閉ざしていたようだけど、くぐもった声は僕の耳にも届いた。 腰を離し、折り返し突き上げる。いつもより濡れていたあおいの体は抵抗をしない。 しかし、肉棒を離すまいと締め付ける力だけは、僕の動きに抗っていた。 あおいは口を閉ざしていたけど、喉の奥から漏れる音だけは隠すことができなかったようだ。 浅く数回突き、強く打ち付ける。そうするとあおいの声が漏れた。 「ん!……ぁ……あぁ……ふっ……だ、め……」 僕の耳には、あおいの声よりも腰がぶつかり合う音がよく聞こえた。 次第に見えるものが狭まっていって、あおいの体しか意識できなくなった。 僕の呼吸も、あおいの呼吸も、体のぶつかる音も遠くで聞こえる。 快感が腰の動きを早める。射精の兆候があらわれた。 「あおい……出すよ……」 口を閉ざしたままのあおいは、頭を何回か大きく振った。 僕はひとつずつ、理性の枷を外していった。 そして、あおいがより強く締め付けてきたところで、こらえていたもの全てを吐き出した。 腰をくだかれそうな快感を味わいながら、僕はあおい体を抱きしめた。 脱力したあおいは、僕の肩に手を乗せてキスをすると、頬ずりしてきた。 お返しのつもりで、僕はあおいの頬にキスをした。 身なりを整えて、2人で向かい合って話をする。 「あおい、明日どこか行きたい場所があるか?」 「そうね……特にないけど、ひさしぶりに帰ってきたんだからどこかに行きましょ」 「わかった」 「それじゃ、おやすみ」 「おやすみ、あおい」 あおいは自分の布団に戻ると、僕に背中を向けてタオルケットを被った。 セックスの後で僕から離れようとするのは、あおいの癖だ。 前に理由を聞いたら、顔を背けながらこう言った。 「なんだか壁を壊しちゃいそうでね、こうしないとだめなのよ、あたし。 別になおきを嫌っているとかそんなわけじゃないから、気にしないで」 初めて結ばれたときも、あおいは同じ事を言っていた。 それから何度体を重ねても、あおいは情事の後で僕に背を向ける。 理由はわからないけれど、きっとあおいにとって大事なことなんだろう。 僕は納得してから、頭の中であおいの体を一度抱きしめて、眠ることにした。 一気に睡魔が押し寄せて、気持ちよく意識が抜け落ちた。 目が覚めたとき、隣の布団は片付けられていて、あおいはいなかった。 部屋の時計で時刻を確認すると、8時になっていた。 あおいはいつも7時前には起きているから、今日もいつもと同じように起きたのだろう。 布団を畳み、部屋を出ると朝食の匂いがした。 顔を洗ってうがいをして、台所にいくとあおいがいた。 「おはよ、なおき」 「おはよう。僕の分のご飯は?」 「自分で用意しなさい――じゃない。今から用意するからちょっと待ってなさい」 「うん」 居間へいくと、母が朝の連続テレビドラマを見ているところだった。 父はいない。8時前に会社へいくのは変わっていないようだ。 「遅いわよなおき。あおいちゃんは6時には起きてご飯を作る手伝いをしてくれたわよ」 母は顔をテレビの画面から逸らさずに僕に言った。 「向こうでもあおいちゃんに迷惑ばかりかけているんじゃないの?」 「うーん。たぶん、お互い様だと思う」 「どんなところで?」 「まあ、色々と」 僕と同棲しているアパートでも、あおいは早く起きる。そして朝ごはんを作ってくれる。 僕が大学に行っている間、あおいはアルバイトへでかける。 向こうでの生活が逼迫されていないのは、あおいのおかげだ。 だが、あおいだけのおかげで僕がまともな生活を送れているわけではない。 あおいにだって欠点がある。それは微妙な金銭感覚のズレだ。 あおい1人で買い物に行かせると、間違いなく余計なものまで買ってくる。 百円ショップにでかけたら食器やハンガーなど、すでにあるものまで買う。 スーパーにでかけていつもより安い値段で売られているものがあったら買い込んだりする。 浪費癖というほどひどいものではない。あおいは高価なものを好んで持とうとはしない。 しかし、小額でも塵も積もれば山となるというやつで、バカにできるものでもない。 だから買い物には僕が必ずついていくことにしている。 持ちつ持たれつというやつだ。 そんなことを考えていると、件のあおいがやってきた。 「お待たせ。……なに?人の顔をじっと見て」 「いや、なにも」 僕がそう言うと、あおいは台所の方へ戻っていった。 今日の朝食はごはん、味噌汁、目玉焼きとキャベツとレタス。母の作る朝食と同じメニューだ。 味噌汁から口につける。……ん?いつもより美味いな。 「その味噌汁ね、あおいちゃんが作ったのよ。料理上手よね」 「ああ、そうだね」 母が見ていたからいつもより上手に作ったのだろうか。 贅沢な要求だけど、毎朝これぐらい力を入れてくれたら嬉しい。 でも何かおかしいな。あおいは点数稼ぎのためにこんなことをする人間じゃない。 何かあったのだろうか。 「じゃあ2人とも、留守番よろしくね。家を出るときはちゃんと鍵を閉めてね」 テレビドラマが終了すると、母は席を立った。 仕事にいくときに使うバッグを手に持つと、玄関へ向かっていった。 しばらく足音が聞こえたが、足音が突然止まり、母の声がした。 「なおき。ちょっとこっちに来て。あおいちゃんは座ってていいわ」 「はい」 母の言葉に頷いたあおいを残し、僕は母の後についていった。 母は玄関を出たので、僕も一緒に外へ出る。 朝の8時でも、太陽は残暑を記念したセールでもしているようにフル稼働していた。 母は通勤用の軽自動車に乗り込むと、窓を開けた。 「なおき。言っておくことがあるわ」 「なに?」 「今度こそ2人きりだからって、無茶なことをしちゃだめよ。たまにはあおいちゃんを休ませてあげなさい」 「あー……ああ、わかってるって。今日は一緒にどこかでかけるから。 あおいが行きたい場所に行ってゆっくりしようと思う」 「そういう意味じゃないんだけど……まあいいか。じゃあ行ってくるわね」 「うん」 仕事へ出かけた母を見送ったあと、もう一度家の居間へ向かう。 あおいがテレビを見ながらじっとしているところだった。 いや、テレビというよりは漠然と空中を見ているかのようにも見えた。 もしかしたら、母に気を使って疲れているのかもしれない。 僕はコーヒーを2人分淹れてから、居間に戻り、あおいの前にコーヒーカップを置いた。 コーヒーを飲みながら、新聞の折込チラシを見る。 目が自然と結婚式場、家のモデルルーム、車、電器屋のチラシに目がいく。 僕とあおいはいずれ結婚するから、そのことを意識するとなんとなく見てしまうのだ。 僕はまだ大学生だから、結婚式を挙げるわけにはいかない。在学中に披露宴などもってのほかだ。 せいぜい身内、両家の両親に挨拶を済ませて婚姻届を提出するくらいしかできない。 あおいは婚姻届を役所に提出する必要すらない、と言っている。 結婚の約束があるだけで充分らしいのだ。 それならば親に挨拶をしに行かなくてもいいのではないだろうか。 あおいは僕がさっきまで見ていた自動車のチラシを手にとった。 テーブルに肘をつき、ぼんやりと眺めている。 「軽自動車。一番安そうなやつで……90万。新車は高いわよね。やっぱり中古車かしら」 「車買うつもりだったっけ?」 「いずれはね。今でもそれなりに貯金はしているし。でも不思議と貯まらないのよね。どうしてかしら」 あおいはため息をついてから、コーヒーを飲んだ。 僕もコーヒーを飲む。あおいのお金の使い方がおかしいとは言わないでおく。 「なおき、夏のアルバイトでいくら貯まったの?」 「えーと……5万くらいかな」 「あたしが今貯金している分と合わせても10万か。先は長いわ」 僕はもう一度コーヒーを飲んだ。 ……前途多難だ。 あおいはコーヒーを飲み干すと、僕のカップも一緒に持って立ち上がった。 「それじゃあ、出かけましょうか」 「どこに?」 「どこにって、なおきが昨日デートに誘ったんでしょ。どこに行くかまだ決めてないの?」 「どこかに行くっていってもな……たかが半年程度いなかっただけなのに、懐かしむものもないし」 「仕方ないわね。じゃあ、歩きながら考えましょ」 「うん、先に外に出ておくよ」 玄関に座り、靴を履く。 両足の靴紐を結び終えたところで顔を上げると、玄関の向こうに人がいるのがわかった。 郵便か宅配業者か、と思って待ってみてもチャイムすら押さない。 扉にくっついたり離れたりする姿だけが見える。 待っていても埒が明かない。こちらから出迎えることにしよう。 ![]() ![]() ![]() ![]() |