翼或鬼異聞<かげろうのひ>前編(非エロ)
シチュエーション


180センチ近い自分の体がふわりと宙に浮いたかと思うと
これ以上ない位の勢いで地面に叩きつけられた。

「がっ……はっ!!」

メキリと体のどこかにヒビが入ったような嫌な音がした。

ぱっと見に中肉中背の冴えない中年相手なのにその力の差は圧倒的なもので
背中に走る激痛に身動きが取れなくなった身体を、革靴で思い切り踏みつけられる。
ギリギリと靴の先を鳩尾にめり込ませる非情な相手の顔を見上げれば
まるで感情の見えない表情で、非道を強いているのにまるで生気が感じられなかった。

「な……何なんだよ…おっさん……」

男は何も答えない。
悠然と見下ろした男は言葉を発しないまま、動けない俺に手を延ばした。

殴られる!
本能的に目を閉じ顔を背けたが、拳は来ない。

不審に思った俺の耳に飛び込んだのは、
ぶちぶちと太い糸を何本も引き千切る様な不可解な音。
その違和感を感じた瞬間、今まで感じた事のない様な激しい痛みが肩口に走った。

「っが!!!!!があああああああああっ!」

見開かれた眼に映ったのは俺の身体から、離れていく俺の右腕。
男の手には、力無くダラリと下がった俺の右肩から先が握られていた。

未だ踏みつけられる足によって大きく身動きは取れない。
しかしそのあまりの激痛に、唯一動かせる足が勝手にバタついた。
心臓の鼓動に合わせて肩から大量の血が噴き出している。
顔はその大量の血と、勝手に溢れ出した涙と鼻水と涎でドロドロになった。
誰にも届かない助けを求める喉からはヒュウヒュウとした音しか出ない。

地上に打ち上げられた魚の如く無様にのたうち回る俺を嘲笑うかのように
それまで全く表情が無かった男の口が大きく醜く歪んだ。

俺は、死ぬ。
機能が停止しかけている脳が
唯一理解したのは、目前に迫った、死。

大きく開かれたその男の口は一気に耳まで裂け、
血のように赤く垂れ下った長い舌が、
動かなくなった俺の右腕をまるで飴でも旨そうにしゃぶった。

「ば……バケモ…ノ……」

ようやく音に出来た言葉は、ただその事実

俺は、今、ここで、死ぬ。

背中に感じるアスファストの籠った熱
噎せ返るような鉄の匂い
吐き気を催すような、人じゃない何かの気配
目の前は、血の赤

ヒ ト じ ゃ な い 、ナ ニ カ に 殺 さ れ る。


俺に、はっきりとした意識があったのはそれまでだった
それが俺の、ただの高校生だった神山司狼の、最後の記憶。

「という事でー、最近巷じゃ無差別連続殺人事件なんて物騒な事件が起きてるー
まぁとにかくーそんな物騒な事件のー、被害者になるのも困るがー
加害者になられるともっと困るー、まぁという訳だからー、
遊んでないでー、なるべく家には早く帰るようにー。以上」

相変わらずやる気のない担任・山本のホームルームがチャイムと共に終わった。
いつもやる気がない感じだが、今日は暑かったので特に短かった気がする。
テキトーにワイドショー辺りのニュース持ってきて話を切り上げたな。

「……まー、こんなもんだろ」

58点、65点、72点、68点、67点……

良くも悪くもない点数をつけられたテスト用紙が机の上に並ぶ。
今日期末考査の全ての結果が返ってきたが
どのテストも赤点を免れたおかげで、夏季補習も受けずに済んだ。
放課後の教室の中は、天国と地獄に分かれているが、
自分は辛くも天国の方に属する事が出来たようだ。

「おーい、しろー。来週、海行こうぜ、海!」

見ていても面白くもないテストをサブバックに片付けていると
悪友の柘植が、携帯片手に声をかけてきた。

「何で暑い時にわざわざクソ暑い人ごみに行くんだよ、パス」
「はぁ?お前ワカモノが枯れた事言ってんじゃねーよ。
青い海、広い砂浜、真夏の海岸は
ビキニやローレグのねーちゃんがいっぱいだぜ?
ってーか、お前来なかったら女の食いつき悪ぃんだって…
なぁ、行こうぜ。ってか、絶対来い」
「暑いの苦手なんだって…カラオケだったら付き合う。海はパス」
「お前アホかっ、カラオケには水着のおねーちゃんいねーじゃんよ!」
尚もしつこく食い下がる柘植に閉口しながらも、適当に相槌を打っていると
後ろの席でダベっていたクラスの何人かの女子が声をかけてきた。
「神山くんたち海行くのぉ?私達も一緒したぁい」
「アタシもアタシもぉ!今年新しい水着買ったんだぁ♪行こうよぉ」

媚びるように語尾上がりの声をあげ、
席の周りに群がってくる名字しか知らないようなクラスメイト達に
表面上だけのにこやかな笑みを浮かべる。

『えーと…岡本と…横井…だっけ?相変わらずウザいな…』

同年の女子の甲高い声は耳に障る。
精一杯の背延びなのか、身の丈に合わない美しさを求め
華美な物を好む彼女達を俺はあまり好きではなかった。
しかしそんな俺の思いとは逆に、人に合わせるのが得意で派手な外見の俺は
彼女達から見れば魅力的に映るらしく、とにかく纏わりつかれた。
適当な愛想笑いを浮かべるのにも疲れて、彼女達の取り留めのないお喋りを聞き流し
ひきつった笑みのまま、意識を窓辺に向けた。

俺の視線は、一番窓際の奥から3番目の席に座る同級生に釘付けになる。

『今日はどんな本読んでんのかなぁ…』

じっとしていても汗ばむような暑さの中、彼女は涼やかな顔で手元の文庫本の頁を捲る。


クラスメイトの椿綾乃だ。

クラスメイトだから話をした事がない訳ではなかったが
俺の事は苦手なのか、友人に見せるような笑顔が向けられた事はない。
前に強引に話しかけたら少しだけ引き攣った笑みを浮かべられた。

特別な用事でも無い限り、彼女から俺に話しかけてくる事は無い、そんな間柄。
椿綾乃にとっての俺は、ただの騒がしいクラスメイト。

でも、俺にとっての椿綾乃はただのクラスメイトではなかった。

彼女は自分の周りに寄ってくる他の女生徒達とは一線を画していた。
今ドキ、珍しいようなきっちり編まれた三つ編みに
飾りっ気のない黒いピンで留められた前髪
まぁ髪型はその日の気分とかで一つにまとめたり編み込んでたりもするので
いつもその姿という訳じゃないが、基本的にスタイルは校則遵守。
膝にかかる程度のひざ丈スカートから伸びる足は細く、
さながら一昔前の女学生といった風情だが
すっきりと綺麗な弧を描く眉、大きな眼の長いまつ毛は印象的で
肌も真白く、はっきりとした目鼻立ちは作られたものではなく、
格好の清楚さとは違い少しエキゾチックな印象を与える。
その地味な格好に皆誤魔化されるが、彼女はかなりの美人だと思う。

少し髪型を今風に変えたり、自分を華やかに見せようと思えば
クラスで、いや学年でも1番の魅力的な女性に変わるだろう。
しかし、彼女は俺のように周りに適当に合わせる事もなく
クラスの中心にいようとするような性格の強引さもなく至って地味に日々を送っている。
いつも教室の端の方で、同じような雰囲気の友人数人と楽しげに話していた。

=彼女の美しさは、自分しか知らないんだ=

最初はたったそんな事の優越感。
しかし、それが糸口になって少しずつ彼女が気になり始める。

普通の生活の中の彼女の小さな仕草ひとつも特別に見えた。

教室では大人しいが、存外と気が強い事。
お固く見えて、けっこうヌケてる事。
声がまだ幼さが抜けず鼻にかかって高くて甘い事。
小柄なせいで、笑うととても幼く見えるのを実はとても気にしている事。

その内、自然に入ってくる情報だけでは物足りなくなった。
意識して目と耳で彼女を追っていくと、どんどん欲が出てきた。
心の求めるままに増々彼女を知りたくなる。

彼女が、今日教室で何度笑ったのか
彼女が、今日どんな話をしているのか
彼女が、何を見つめているのか
彼女が、何を考えているのか

小さな優越感はいつしか心の大半を占める独占欲になる。
気がつけば、俺の毎日は全部、椿綾乃で溢れていた。
?


『……椿さんが一緒だったら、海もいいなぁ…』


あまり日に焼けていない小柄な彼女に似合うのはきっと白い水着だ。
体育の時間に見る体操服の彼女のスタイルは、
少女然としていて若干成長途中な感は否めなかったが、
健康的な15歳の至って年齢相応の身体だった。
小振りだけど可愛く丸みを帯びた胸とお尻に
全体的に細い身体から伸びる長い手足、
ワンピースの水着よりもビキニの方が似合うかもしれない。

場所はごった返す海水浴場なんかじゃなく、
もちろん人気のないプライベートビーチで二人きり
優しい色のパレオなんか腰に巻いて、
波打ち際で潮風に解いた長い髪を揺らす椿さん。

親しい友人に向けられるような屈託のない笑みを向けられて
あの少しだけ高い声で、「神山くん」
…いや「司狼くん」と名前を呼ばれて…

「……おい、司狼。何ぼーっとしてんだ」
「っわぁっ!何だよ、柘植!」

幸せな妄想を繰り広げていたのに、
目の前に柘植のニキビ面が現れたせいで大声をあげた。
今晩のおかずにだって使えそうだったのに、一気に萎えちまった。

「ったく、お前がぼーっと余所見してるから美弥子達行っちまったじゃねぇか」
「美弥子?…あ、ああ、美弥子達ね」

名字しか知らなかった彼女達の機嫌を損ねたと言われてもぴんと来ない。
いなくなってしまった事も気づかない位、興味がないのだとそろそろ気づいて欲しい。

俺の視線の先に気づいた柘植が、からかうような視線を寄越す。

「何だよ、お前椿の事見てたの?あんなのタイプだっけ?」

柘植…お前その顔で椿さんをあんなのとか言うな。
しかも呼び捨てにしやがって。
所謂渋谷系の派手好きなケバめの女が好みのコイツは椿さんの魅力には
興味がないというか全く気づいていないようだ。
まぁ、気づかれても困るんだが。

「別に…この暑い中、よく本なんか読めるなぁと思っただけだよ」

本当はずっと、もっと近くで見たい。
いや、見るだけじゃなくて喋ったり、出来れば触ったり、
させてもらえるなら口では言えない事を色々したい位だ。
しかし、あまりじっと見ているとすぐに口さがない噂を立てられる。
俺は彼女の事を想っている事を、誰にも口外する気はない。
それは、椿さん自身にも。

俺のような男に好かれているという噂など立てられたら、
目立つ事が嫌いな彼女はきっと嫌な思いをするだろうから。

わざと椿さんから視線を外して、窓の外を眺める。
冷房設備のない教室の窓は開け放たれて、微かな風が前髪を揺らした。

「今年の夏も、暑いなぁ…帰りに氷食べてくか」

呟きながら往生際悪くも、帰る前にもう一度、と彼女を横目で盗み見ると
彼女の涼しげな顔のこめかみ辺りをじわりと浮かんだ汗が滴になっている。

俺の意識は、一瞬でその滴に吸いつけられた。
それは、ゆっくりと彼女の頬をつーっと伝って、首筋を辿り、
鎖骨に流れて制服の中に見えなくなる。
彼女はそれに合わせたかの様に、熱の籠った小さな息を吐きながら
セーラー服の襟に指を引っかける。
服の中の熱を逃すべく喉元で白い細い指が襟をパタパタとさせる度に、
それは見えてしまった。

暑気にあてられて頬を少し紅潮させた彼女の襟元から
悩ましげに見え隠れする、白いブラの肩紐が。

絶対そんな訳はないのだが、まるで俺に見せつけるような
無防備な彼女のエロい仕草に、頬にカーッと血が上る。
盗み見ていた事実を忘れ思わずニヤけそうになる顔を覆って、慌てて俯いた。

『やっべ…キタ…今、本気でキタ』

さっきの妄想と今の映像で、今晩どころかきっと今週一週間はオカズには困らないだろう。

「何だ、司狼。暑くて鼻血でも出たか」

柘植ぇぇぇ!!お前、今は俺の前に顔を見せるな。
お前の暑苦しい顔なんかで、せっかくの椿さんを台無しにしたくないんだ!

「あーもう!!そうだよ。鼻血だよ、鼻血!!もう止まった!帰る!」
「あ、オイ。司狼!待てよ、何慌ててんだよ!」

慌ただしく鞄を持って立ち上がった俺の後を、柘植が慌てて追いかけてくる。
この映像が頭に鮮明な間にとっとと家に帰ってしまいたい。

「お、神山帰んのかー。じゃーなー」
「おー、じゃー」

扉の辺りで声をかけてきたクラスメイトに振り向いたのに
俺の目線はまた椿さんの元へと自然に吸い寄せられる。

ここまで来るともう相当重症だ。
大人ぶろうとしてても所詮は今がサカりの若造なんだ。
好きな彼女は穴を開けたい…もとい、穴が開く程見ているけれど
度胸も何もなくて、日常会話すら儘ならない。

高校一年男子、15歳、夏。

「…ああ、もう、何やってんだか」

あまりにも年齢相応に青春しちゃってる自分が気恥ずかしく、
誰にも聞こえないように小さく呟いた。


?


ページを捲る手を不意に止めると、先程まで騒いでいた級友達が皆いなくなり
一人教室に残っている事に気づく。
ふと頬に手を当てると、結構な汗が滲んでいた。

「……またぼーっとしちゃった…」

本にのめり込むと周りが見えなくなる事はままある事だったが
今日はいくらページを捲っても、文字の世界に飛び込む事は難しかった。
昨夜、色々考えてあまり深く眠れなかったせいだ。

『お母さんが、変な事言い出すから…』

手元の本の半分ほどの所で糸しおりを挟んで、私は昨日の事を思い出し目を閉じた。
母が話した事は、目の前の文学小説のように現実味が感じられなかった。

天然ボケだとずっと思ってた母が、本当にイっちゃったのかと思った。
そりゃあそうよね…
母が夕食の席で突然喋り出した事は、私の脳の働きを止めるには十分すぎた。



「という訳で、貴方は正義の味方なのよ!」
「………は?」


「言ってなかったけども、うちの家系は代々鬼の血が流れてるのよ」
「………お、お母さん…?」
「っていうかねぇ、うちは分家筋の末の末だから
もう鬼の血の濃さで言ったらファンタの果汁かっていう位に薄いのよねぇ
だから本来なら、流れてるっていうより遠い御先祖様が
鬼だったらしいって言う位が一番正しいのよね」
「……え、あの何の話…」

長いまつげをバシバシと瞬かせて話を繰る母が、変だ。
オカしい。
日本昔話の再放送でも見たのか。
どこの家庭に、夕食の話題に鬼なんか。

「でもね、稀に…本当に稀に、先祖返りっていうの?
血は遠いのに突然鬼の力を持った子どもが生まれるって言うのよ、これが
信じらんないでしょー?まぁ、それがアンタだったりするんだわ」
「はぁっ!?私が、鬼?」
「もーそうなのよー、超信じらんないでしょ?
足も遅くてちょっとドン臭い綾乃が鬼ですってー
もー、アタシ信じらんなかったんだけど、総本家に血のサンプル送ったら間違いないって!」
「血ぃっ!?そんなのいつの間に取って送ったのよっ!そんなの聞いてないよ!」
「とにかくその総本家の方が言うには、今はその鬼の力を目覚めさせて
開放して戦わなきゃいけない畏怖が…ああ、畏怖っていうのが悪モノらしいのね。
とにかくその畏怖ってのが世間にいーっぱいなんですって
すぐに戦いを始める準備をしてくれって」

素麺を啜りながら事もなげに話す母は日常なのに、その口から発せられる言葉は異常だった。
テレビの中の戦隊モノとか、アニメの話を聞いているようで
イマイチというか、全く信じられない。

っていうかそんな話、どこをどうやって信じろっていうのよ!!

「でー、明日本家の方が畏怖との戦い方とかを教えに来てくれるらしいから
アタシはいないけど、綾乃しっかりとお勉強しとくのよ!」
「…い、いないの?何で」
「何でって、アタシは総本家の人なんて苦手だものー。
すっごい遠い縁だから会った事もないのよ?
アタシその間パパの所にいるわ♪ちゃーんと接待よろしくね」
「え…ええぇぇえええっ!い、嫌よ!私もお父さんの所に行くっ!」
「馬鹿ねぇ、総本家の方は綾乃だけに用事があるんだもの。無理に決まってるでしょ!
それに、パパのマンションは単身者用なんだからアタシが行ったらもう綾乃の居場所はないわよ
久しぶりにパパと一つのベッドでラブラブの予定なんだから!
単身赴任4年の間に生まれてるかもしれない溝を、アツぅく、濃く埋めるの!邪魔しないでネ」

「お……おかあさん……」

今年で36歳の子持ちとは思えない言動に目の前がクラクラした。
他人に近い会った事も無い程遠い親戚が家に来るっていうのに
全部子供に任せて単身赴任の旦那との時間を優先させるなんてありえない
っていうか、話の展開に全くついていけない。

正義の味方?鬼?総本家?

その後も色々なんかお母さんは話をしていたが、全く頭の中に入ってこなかった。
正直その記憶はあまりなく、気づいたら朝だった。
そして、朝の食卓にはもうすでに母の姿はなく、
その代り机の上に朝食のサンドイッチと書き置きがあった。
そこには、待ちきれないから早朝からお父さんの所へ向かう事が
ピンクのハートマークだらけの丸文字で記されていた。

あくまで考えるという行為をさせないつもりなのかと、朝からひどく脱力した。
私は壮大なドッキリを仕掛けられているのかもしれない。
きっと、通学途中の電信柱の陰からとか
授業中の教室の後ろからとか、安っぽい売り出し中の芸人とかが出てきたりするんだよ
そうであって欲しい、っていうかそうじゃないと困る。

そんなしょうもない事を願っていたけれど、もちろんそんな事はある筈もなく
気がついたらいつもどおりの放課後だった
この日差しの中、汗だくになりながら本を開きっぱなしって私は馬鹿か

正義の味方、という言葉以上に私を混乱させたのは、”鬼”という言葉。

普通の人間だと思っていたけど私の中には鬼の血が流れている
鬼は敵と戦わなければならない
戦う為には鬼の血を目覚めさせなければいけない

とにかく帰ろうと本を閉じた手元を見れば、中島敦の「山月記」
休憩時間にでも図書室で無意識にチョイスしたのだろうか
鬼の血を目覚めさせるという事は、私は人から鬼になるという事なのだろうか

狂える虎へと身を変えた李徴のように

15年間、普通の人生を、普通の人間として生きてきた。
今、こうして在る私が、私でなくなってしまうという事なのだろうか。

日常が、日常ではなくなる恐怖
異端となる恐怖

誰もいなくなった教室にひとり
それが丸で世間から隔絶された様に感じられ、
急に静けさに怖くなって慌てて帰り支度を始めた

「きっと…お母さんのタチの悪い冗談よ。きっとそう、絶対そう!」

言い聞かせるように教科書を鞄に詰めていると、バイブにしてあった携帯が震えていた。
ほら、やっぱり。
きっとこの電話はお母さんからで、面白い冗談だったでしょ!ってネタばらしをするんだ。
家に帰ったらもう帰ってきて、私の怯えっぷりを笑うんだ。
そんな願いを込めて携帯を耳に当てる。

「もしもし?お母さん?」
「椿綾乃さんですか?私、本家の使いの者ですが……」

期待した電話の向こうの声は、母のものではなかった。




「神山くぅん、次は何歌うー?」

隣に座った馴れ馴れしい女がワザとらしくしな垂れてくる。
強引にくっつけられた短いスカートから覗く肉感的な太股がうっとおしい。
同じ高校生のハズなのにやけに粉っぽく化粧クサい女。

「そーだなー…福山でも歌うかなぁ…」

自分でも自覚出来る位に声に覇気がない。
いつもは八方美人で猫かぶりな自分を取り繕うのも面倒だ。

結局あの後、まっすぐ帰ろうとする俺を柘植が引っ張って強引にここまで連れてこられた。
どうやら勝手に他の学校のオンナと約束をしていたらしい、俺付きカラオケ。
毎度毎度勝手に人を出汁に使うのはやめてもらいたい。
恨みがましい視線を柘植に送れば、
我関せずといった顔で目当ての派手な女と盛り上がっている。

『…せっかくの新鮮な椿さんのエロい記憶が、いらん映像で塗りつぶされる…』

俺にとっては、アップの柘植のニキビ顔も、この名前も覚えない女の体も一緒だ。
ついでにこのヘタクそのな音程の外れた声もいらない。

リモコンの液晶画面を気の入らない顔でタッチしながら、帰り際に見た映像を思い出す。
というよりも何度も先程から脳裏に再生され続けている。
まるで記憶が薄れるのを恐れるように。
映像がリフレインする毎に、それは歪曲されて。

白い肌に滴る汗、紅潮した頬に熱い吐息
ちらりと覗く紅い舌、俺を見つめる潤んだ瞳
舌ったらずに甘く俺の名を呼ぶ、声

『しろぉ…くぅん…』

白魚のような指先で柔らかそうなその胸のラインを辿る
鈴が転がる様だった笑みは、今は婀娜っぽく誘うように妖しい

教室で自分の席に座り文庫本を読んでいた筈の清廉な彼女は、
数時間を経て俺の頭の中では、
純白の下着姿で四つん這いになり淫らに俺を誘っていた。
ここまで妄想を発展させる自分が空恐ろしい

……10代男子の妄想ってすげぇな
妄想の出来の凄さに、己をスタンディングオベーションしたい位だ

そこでふと我に帰り、自分の一部分が昂っている事に気づく。
マズい…この状況でこれはちょっとマズい。

「何?神山くんどーしたのー?」

この女に勃ってる事がバレたら面倒な事になる。
嫌悪してくれればまだいいが、
調子に乗って文字通り乗っかってこようとするかもしれない。

『抜くだけならこんなメンドイ女より自分の手の方がよっぽどイイし』
「何でもない。ちょっと電話しに行ってくるよ」

頭の中では舌打ちして毒を吐きながら、努めて好青年風を装ってほほ笑む。
俺は携帯を片手に部屋を後にした。

…若干前屈みになるのは仕方がない。

防音扉を後ろ手に閉めてしまえばこっちのもので、
とっととここを後にする事にした。

三十六計逃げるにしかずだ。
柘植を置き去りにしたら後々面倒だけど、適当に理由をつけとこう。
一回海に付き合う位でチャラに出来るだろう。
携帯と財布は持ってるんだし。
置いてきた鞄が気になったが、どうせ中には今日のテスト位しか入ってない。

「あー、無駄な時間だった」

とりあえず今は頭の中の椿さんをどうにかしたい。

記憶を薄れさせないようにまた映像を思い出せば、
写真週刊誌の袋とじレベルから、風俗雑誌レベルまで妄想が発展している。
それを脳裏に浮かべれば尾?骨から電気が走るように
準備万端になりつつあるそこに熱が集まった。

「やばいやばい…ここで完ダチさせたらただの変質者だ」

何かもう本当に若いな…俺。

もったいないが暴走する妄想の詰まった頭をすっきりさせるのに
少しフルフルと頭を振りながら、ロビーに続くエレベーターに乗り込む。
自分の部屋に帰ってしまえば、己の右手は椿さんになる。
それまでの辛抱だ、我慢しろ、俺!
そう思って視線を落とせば1Fと表示されたボタンを押す右手の指先が少し熱く感じる。

「早く帰ろう」

我慢出来ずに帰り道でどこかのトイレに籠ってしまいそうだ。
少し浮足立つ自分を感じて、俺はまた一つため息をついた。






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