人形の昇華(非エロ)
シチュエーション


僕が彼女を敬愛できない理由は幾つあるだろうか。
バンバンと手を叩き大口を開けて馬鹿笑いする所。
食事の仕方が汚い所。
喋る言葉やその口調にまるで品が感じられない所。
他にも理由は幾らでも思い浮かぶが、総合して、僕にとって彼女は全く苦手なタイプの女性であると言えた。


「えー何、馬鹿でしょ。コイツらこんな漢字も読めないとか」

テレビ画面のタレントを嬉々として指差し、彼女はカラカラと明るい笑い声を上げている。
モダンなデザインの重厚なソファーの上、細い足を投げ出してはしゃぐ彼女の存在はとても軽薄だ。
ボーダーのロングニットとレッグウォーマーの部屋着はいずれも彼女の趣味に沿った派手な物で、ジャラジャラと下げられたブレスレットやリングの輝きがチラチラと鬱陶しい。
なるべくそちらを見ないように控えていた僕に「お茶」と一言命令が飛んだ。
彼女もこちらの顔など見ていない。テレビを注視したまま独り言のようにオーダーを出し、僕はそれを聞き漏らさずに受けるのだ。

「アッサムで宜しいですか?」

ソファーに向いて微かに身を屈める僕に、即座に投げ遣りな声が返る。

「いいんじゃない」

彼女は茶の銘柄などに興味はない。紅茶はアールグレイ以外は味の違いが判らないと公言しているし、その大雑把さは野卑な彼女にふさわしいと思えた。

「かしこまりました」

僕が茶を淹れに部屋を出ると、丁度テレビのタレントが会心の珍回答を出したようで、彼女はみっともない声で爆発したように笑い出した。
雑音を背に、僕は無感動に廊下を進む。
彼女の挙動はいちいち不快だ。
だが僕は、それらを苦手に感じる事はあれど、彼女自身を嫌ったことは一度もない。
理由は、彼女を形造る細胞の美しさ。
日本人特有の平坦な丸みと、西洋の起伏に富んだ骨格が絶妙に合わさり、海外の子役のような愛らしさを構築している。
その素晴らしい容姿は、彼女に仕える価値を十分に僕に与えていた。
外見など、内面の美しさとは関係のない所詮はただの殻。
しかし、その外皮のみを愛するという不健全な行為は、絵画や彫像に恋をするように、病的で甘美な陶酔を僕にもたらす。
僕は、まるで自分が悲劇的で甘美な古い物語の主人公になったように、この倒錯した想いに酔いしれた。
神様が中身を入れ間違ったとしか思えない、神秘的な美貌と俗世にまみれた魂。

彼女は軽蔑すべき雇い主であり、愛すべき鑑賞対象。敬愛は払えないが、偏愛はできるデク人形。
僕がティーセットを乗せた盆を手に部屋に戻った時、彼女はコマーシャルの合間を縫って激しくザッピングをしていた。
極彩色の口紅の女優、新発売の菓子、雑誌、派手な動画が騒がしく移り変わる。見苦しい色彩の洪水は、彼女の内面そのものに見えた。


その日の夜。窓から見る満月は白く朧を纏い、ひどくロマンティックな情景だった。
僕は初めて、夜中に庭を散歩しようと思い立った。月明かりの下で彼女の横顔や瞳を夢想すれば、それは更に素敵な一時となる筈だ。
僕は運良くスーツを脱ぐ前だったので、そのままの恰好でふらりと庭に降りた。
緑の発する新鮮な香りを含み、芝生を撫でる夜風が心地よく僕に吹き付けた。煉瓦の小路に点々と付いた灯かりに導かれ、のんびりと歩き出す。
この空間に彼女を置きたい。月明かりを髪に受け佇む姿は、きっと印象派の絵のようだろう。
美しい彼女。美しい外皮。
緩やかな妄想の一時に身を落とす僕の耳は、ふと外界の小さな音を捉えた。
自分の他に誰か庭に居るのかと微かに驚き、僕は物音の方向を見遣る。そちらにも路は延びているが行き止まりの筈だ。

先に在るのは、古い温室。僕は音に誘われるままに温室へと足を進めた。
近付けば、温室の一角に明かりが点けられ、内側に人影が揺れているのが分かる。その影を認めた瞬間僕は小さく息を飲んだ。
例えぼんやりと硝子の向こうで揺れる影であっても、僕がその人物を判別できない訳はない。
彼女がここに居る。
普段僕は温室に立ち寄らないので、この密閉された部屋に何が秘められて居るか判らない。曇った白い硝子越しには内部がうっすらと透けて見えるだけで、大きな棚や鉢以外にはこちらから確認はできなかった。
だが、満月の夜と温室という美しいキーワードだけで、それが彼女の容姿を淫靡に引き立てる背景であろうことを僕は疑わない。
一目、温室内の彼女の画を目にできれば満足なのだ。直ぐに醜い怒鳴り声で追い返されてもいいと、僕は迷わず温室の戸を押し開いた。
蝶番からキィと甘い悲鳴が上がる。中腰で下段の棚を眺めていた彼女は、今まで他人の気配に気が付かなかったのか驚いて振り向いた。
そして、固まってしまった彼女と同じく、僕もまたノブを握ったまま彫像のように動けなくなった。
そこは細やかな薔薇園だった。

花弁はピンクとイエローが多いだろうか。全て花が小ぶりの品種で、鉢に植えられた物も、床に造られた花壇に根を張る物もある。
そして、その場に屈んでいる彼女は、小汚い作業着に身を包み両手に土の付いた軍手をはめている。髪はシニヨンで無造作にまとめられ、普段の過剰な装飾は全て削ぎ落とされたシンプルな姿だった。
僕はしばしそれを呆然と眺め、また、入口近くのテーブルに気付き驚愕する。
テーブルの上には使い込まれた数冊のノートが重ねられ、一番上のノートの開かれたページには、辞典のようにびっしりと流麗な文字が並び、緻密なイラストと共に整然と配置されていた。

「見ないで」

彼女の強い声に、僕はその興味深いページから直ぐ目を反らさねばならなかった。
しかし僕の目には、美しくスケッチされた薔薇の図や、そこに記された「肥料の違いは薔薇の芳香へと」「トップノート」という断片的な単語が既に焼き付いている。
一つの鉢植えを見れば、鉢にアルファベットと三桁の数字と日付が書き込まれたプレートが付けられ、薔薇の根本には、モザイク模様のように卵の殻が散りばめられている。
嗚呼。
僕は理解して歓喜に震えた。

ここは彼女だけの可憐な実験室なのだ。
まるで錬金術を模倣して遊ぶ子供のように、自ら手作りの肥料を与え、温度や季節を変えて、無数の薔薇を育てている。
さらに、おそらくは採取した薔薇を使い香料を作っているのだろう。トップノートやミドルノートの微かな違いを味わい、文章として記録に残す。
そんな彼女が、紅茶の銘柄の違いが判らぬというのは、嘘だ。
そして、こちらを懍然として見据える彼女に、普段の猥雑で薄っぺらい態度もまた偽りなのだと確信した。

「なんで勝手に入って来るの?」
「申し訳ありません」

鋭い威圧感が僕を突き放す。僕は悦びに声を上擦らせて答えた。胸は感動に打ち震え、肺を狭めては甘い痛みを背骨に這わせる。
彼女が僕に対し仮面を被って過ごしていたという事実。欺かれていたという耐えがたい屈辱と感服。
ただ美しいだけの挿絵の少女が魔術によって肉付けされ、生ある立体として現世に抜け出たように、僕の胸の中で、彼女の像は重みと厚みを持って生まれ変わった。
馬鹿の振りをしては、密やかに薔薇の研究に興じるという、如何にも妖しく麗しいお伽話。それは僕の胸の琴線を掻き鳴らした。

僕は、気が付いた時には地に膝を付き、彼女を見上げ賛美していた。
絶対の忠義を捧げると、どうか自分が貴方に忠節を誓う事を赦して欲しいと、彼女に懇願していた。
そんな僕を彼女は嘲笑う。

「駄目」

拒絶という、えもいえぬ甘い罰。

「あんたが私を人形扱いしていたように、私にとってもあんたは唯のお茶汲み人形なの。今更、人間の顔をしては駄目よ」

隠微な妄想に傾倒する愚かな僕を、彼女が突き落とす。
僕はうっとりと目を伏せ、負け犬という名の快楽に滑り墜ちて行った。






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