スケベな軟派執事と暴力お嬢様(非エロ)
シチュエーション


人差し指が結露で曇る窓ガラスにピトリと押し当てられた。
桜貝のような爪に雫が滑り込み、指先は冷たく潤う。
杏種(あんじゅ)はガラスに指を付けたきりしばし止まった。つぶらな目をぱちぱち瞬かせ思案する。
左にある泣きぼくろのせいか、その童顔はどこかコケティッシュだ。
やがて指が動き出し、軌跡が透明な文字となって綴られた。

――かしわぎ

横一列に並ぶ丸っこい癖字の平仮名四文字。
杏種はさらに続きを書き込む。

――死ね

かしわぎ死ね。
小学校低学年レベルの落書きだった。

「なんですかそれ」

背後から呆れたような声がした。
振り向いた拍子に、杏種のあんず色の髪が広がり、ブラウスの肩にサラリと落ちる。
そこには、情けなく眉を下げて苦笑する執事の姿があった。

「…呪い」

杏種は問われるままに簡潔に答え、彼の顎髭を一瞥すると直ぐに窓ガラスに向き直った。

「呪殺?怖いなぁ。ジャパニーズホラーの読み過ぎでしょ」

アウトローな風貌の軟派執事はおどけながら窓辺へ歩み寄る。
執事は文字を眺めようと身を屈め、杏種の背に自分の体をわざと密着させた。

「ていうかお嬢様。なんで俺の名前平仮名なんです?」
「…ド忘れ」

「愛がないなぁ。こうですよ。“木”に“白”で“柏”ね」

ヒョイと窓ガラスに手を伸ばし、執事は平仮名の下に達筆で「柏木」と漢字を書いてやった。

「それで、こうでしょ」

さらに「死ね」の文字に上から二重線を引いて消し、すぐ下に達筆で「好き」と書き足した。

「柏木好き、と。これが正解ね」

柏木は満足気に笑って杏種の泣きぼくろにキスを落とす。

「…不快」

柏木と対照的に杏種はむっつり顔だ。
普通、恋仲でもない男に馴れ馴れしくキスされて喜ぶ女の子はいない。しかも男は自分の部下だ。
杏種は早速思い出した漢字表記で「柏木去勢」「柏木断罪」などと新たな標語を書き込んだ。

「あーひでぇ。何?俺に何か恨みがあんですか」

ブーイングに杏種は切り返す。

「…昨日のパーティー」
「はいはい、菱山様のお招きで豪華客船でクルーズ!いやー燃えた燃えた」
「…優衣子さんをヤッた」
「あ、バレちゃった。優衣子様とふけこんだけど、あれ同意の下ですって。男女の火遊び」

悪びれず、柏木は気障に前髪をかき上げた。

「そっか。お嬢様ヤキモチ焼いちゃったんだ。う〜ん可愛いなぁお嬢様は」
「…私の交友関係に手当たり次第手を付けられて…迷惑」

「なるほど、俺への独占欲ですね。嬉しいな」

杏種は面倒くさくなって窓を押し開いた。外は冷たい小雨が降り注ぎ空気を冷やしている。
目にも止まらぬ速度で柏木の脇に潜り、背後からジャケット下のベルトを掴んで釣り上げた。
ポイと窓から投げ捨てる。

「ああああぁあぁぁぁー…」

悲鳴が三階から遠のいて落ちていく。
一族秘伝の古武術を嗜む杏種にとって大の男一人を投げ飛ばすなど造作もない。
パタンと窓を閉め直すと、ガラスの文字は水滴が垂れ下がりおどろおどろしく変貌していた。
杏種は「好き」の文字だけを指で掻き消し、すっきりした顔でその場を立ち去った。






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