上司と部下
シチュエーション


控えめに扉が叩かれ、低く抑えた声が響く。

「ああ、今行く」

京は少し大きめに声を出して、それに応じた。
許可を与えねば扉を開きもしない。従順であれと言外に命じはしたが、従順すぎてもつまらぬものだと開かない扉を見やり舌を打つ。
姿見で自身の姿を再度眺め、京は満足げに口角を上げた。
見目良く生んでくれたことに対してはいつも両親に感謝する。常に美しくあるようにと磨いてきたのは京自身だが元が悪くてはこうはいかない。
美しさは武器だ。京はそう思っている。

「よし、悪くない」

姿見の前から離れ、京は部屋の外へと向かった。
扉を開き、控えていた香具山に上から下まで視線を這わせる。

「おはようございます」

不躾な京の視線には慣れているのか香具山は表情一つ変えずに深々と頭を下げた。京は軽く頷いてそれに応じ、玄関へ向かって歩き出す。
本日のスケジュール発表でもしてもらうべきなのかもしれない。だが、スケジュールは京の頭に入っているし、香具山もそれはわかっている。互いに無駄を嫌う性格である二人は公私ともに言葉を交わすことはほとんどなかった。
今日も京は無言で歩き、香具山は一歩下がってそれに続く。車内でも出社後もそれは変わらない。
香具山の無駄のないところが気に入って側に置いていたのに、今の京にはその無駄のなさが苛立ちを誘う。

(何か言ったらどうなんだ、朴念仁め)

表面には微塵も出さず、けれど内心では苦虫を噛んだように苦く思っている。
頭に入らないのがわかっていながら本のページをめくり、京は助手席からちらりと香具山を見た。
品のよい紺のスーツを身にまとい、短めの髪が清潔感を感じさせる。長身ですらりとした立ち姿は秘書として様になっている。美丈夫とはいかないが三枚目でもない。
視線に気づいたように香具山が京を見た。
京の鳶色の瞳が驚きに見開かれる。けれどそれは一瞬で、すぐに取り繕った冷静さに塗りかえられた。

「……何か?」

感情のこもらない淡々とした声が言葉を紡ぐ。短い言葉でも、香具山が口にすれば重く尊いものに感じられることがますます京を不機嫌にさせる。

「そのネクタイは趣味が悪いな」

香具山はネクタイへ視線を落とし、再び顔を上げる。

「以前は良いと仰られたと記憶していますが」
「では、私の趣味が変わったんだろう」
「そうかもしれません。わかりました。このネクタイは今日限りにいたします」

「ああ、そうしてくれ」

香具山が頷いたのを見届け、京は再び見るとはなしに開いたページへ目を向けた。

◇◆◇

「少し歩かれますか」

見るからに酔いの回った様子の京に香具山は声をかける。

「夜風がアルコールをとばしてくれるかもしれません」

短く切られた髪の合間から赤くなった耳が見える。
よろけた体を支えるために伸ばした香具山の腕へ、思いの外あっさりと京は捕まってくれた。スーツの上からでもわかるほどに京は華奢だ。
「香具山」

常より少し高めの声が名を呼ぶ。
支えるために回した手を離すタイミングを逃し、香具山は京を抱くようにして顔を覗き込んだ。

「海が見たい」
「海、ですか」
「そうだ。海だ」

突拍子のない上司の提案に、香具山は僅かに眉根を寄せた。
すっかり酔ってしまったらしい京は香具山の胸に頭をもたせ、今にも眠ってしまいそうだった。

(歩いて酔い醒ましとはいかないか)

その体を支えながら歩き、香具山は京を車の後部座席に乗せることに専念した。頭をぶつけたりしないように慎重に乗せ、香具山は運転席へ乗り込んだ。
いつもは運転手付きの送迎車を使う京だが今日は酒を飲みたいからと香具山の車で送迎することになっていた。

「海か」

節度ある行動を心がける京がこんなに酔っているのは珍しい。何かあったのだろうかと気を回すのは普段の自分らしくないし、そんな気遣いを京が望むとも思えない。
しかし、たまに言い出した我が儘の一つくらい叶えてもいいかもしれないと今日に限って香具山は思ってしまった。
シートベルトを締めて、香具山は車のエンジンを入れた。



目的地に着いた頃には京は寝息を立てていたが、香具山はそれを優しく揺すり起こした。

「もう少しですから」

眠たげに目を擦る京を車から降ろし、香具山は体を支えて歩かせる。
ふらふらとした京を連れてエレベーターへ乗り込み、香具山は目的の階を押した。

「少し眠りましたから、酔いも少しはマシになってきたでしょう」

曖昧に答え、京は香具山の胸に頭を寄せた。
硝子張りのエレベーターからは外の景色がよく見える。眼下に広がる海と疎らな光の屑を見下ろし、それから硝子に映る自分達の姿を見た香具山は薄く笑う。
華奢な京は年より若く見えるし、香具山は年相応だ。三十過ぎの男が少年といっていい相手を酔わせてよからぬことを企んでいるように見える。

「知人に会わないことを願うしかないな」

苦笑混じりの香具山の声は京に届いているのかいないのか、京は何の反応も返さずにまた寝入ってしまいそうになっていた。
エレベーターが目的の階に止まり、香具山は京を促して降りた。
ふわりと足が沈む。実際に沈んだわけではないがそう錯覚してしまいそうになる。
ポケットからカードキーを取り出し、香具山は迷うことなく歩みを進めた。
カードキーで扉を開き、香具山は部屋へ入る。
そして、京を横抱きに抱き上げて香具山はベッドルームへ入り、キングサイズのベッドへ横たえた。

「水を持ってきます」

そう言って香具山はベッドルームから出て行った。

◇◆◇

目が覚めるとそこは見たことのない部屋だった。
ぼやける頭で辺りを見渡し、京はベッドから降りる。そのままベッドルームを歩き回り、どうやらここはホテルらしいと悟った。
壁一面が硝子張りになっていることに気づき、京は硝子越しに外の様子を窺った。真っ暗な海と沿岸部の新都市。都市部には疎らな明かりが煌めいている。
それをじっと眺めていると硝子に人影が映る。弾かれたように振り向くとそこには香具山が立っていた。

「香具山……?」

いまいち状況が飲み込めず、京は不審そうに香具山を見つめる。

「海は見えましたか」

上着を脱いでネクタイを外している香具山はいつもより砕けた調子で問いかける。

「見えた。だが、海が見えたからなんだと言うんだ。ここはどこだ」

京は不機嫌を隠しもせずに香具山へぶつけ、香具山は小さく笑う。香具山が笑った顔など珍しく、京はその薄い笑顔に毒気を抜かれて見入った。

「あなたが言ったんですよ。海が見たいと」
「覚えていない」
「そうでしょう。だいぶ酔っていましたから」
「酔っ払いの戯言など聞き流せ。いちいち従わなくてもいい」

京は顔を背け、苛立たしげに吐き捨てる。
言われずとも普段の香具山ならそうするだろう。今日に限って京の戯言を聞き流さなかったのには何か理由があるのかもしれない。
京は口を開きかけ、けれど問うことができずに閉じた。香具山が自分に興味を示したとは思えないし、仮にそうだとしても直接そんなことを言われてはなんと返せばいいかわからない。

「差し出がましい真似をいたしました」

香具山が頭を下げているのは見ずともわかる。

「酔いも醒めたようですから、帰りましょうか」

京は香具山へ視線を戻し、もう一度その姿を見つめた。

「……いけませんよ」

香具山は低く呟き、京への距離を詰める。

「あなたが寝ている間にワインを少々いただきましてね、俺は少し酔っている」

伸ばされた腕が京の腕を掴んで引き寄せる。

「だから、縋るような目をされてはたまらない」

言うなり重ねられた唇からはワインの香りがした。

◇◆◇

酒のせいだけではないのだろう。香具山は自嘲めいた笑みに口角を上げた。
正気の沙汰とは思えない。組み敷いた相手は従うべき上司だ。会長の孫だというのだから、明日から無職になってもおかしくない。下手をすれば訴えられることも有り得る。
白い足を跳ね上げ、香具山はより深く中を抉った。京の体がびくりと震え、潤った内部が収縮する。
込み上げた射精への欲求を抑え込み、香具山は乱暴に奥へと突き込んだ。

「ひ、あ……かぐ、やまぁ……だめ、はげしっ……う、ああっ」

リネンをぎゅうっと握りしめて身を竦め、京はいやいやをするように頭を振る。
粘着質な水音が結合部から響き、それが否応なしに香具山の欲望を煽る。

「あっ、い……いいッ……奥、あたっ!ゃ、うあっ」

涙と汗でぐしゃぐしゃになっても京はまだ綺麗だった。美人というのはこういうときも変わらず美人なのかと香具山は頭の片隅で感心する。
気遣いはあってないようなもので、京にのまれてしまいそうになる度にそれを押さえつけようと激しく責めて高みへ追いやる。既に何度も吐き出した白濁が京の腹や腿を汚しており、避妊になっているのかどうか怪しいものだった。
いろいろまずいというのは理解していたが本能が理性を凌駕する。

「かぐや、ま……はっ、ン、やあッ……ひっ、く……いっ、ちゃ」

またしても背を仰け反らせて絶頂する京に抗えず、香具山は品のない音を立てて京から屹立を抜き去った。
互いの粘液にまみれたそれを扱き、京の滑らかな腹に白濁を撒き散らした。

「まだ、だ」

まるで盛りのついた羊のようだと自身の尽きない欲望に呆れながら、京の体に再び身を沈める。そのまま背に手を回し、胡座をかいた上に座らせるようにする。

「や、もう……ああッ」

力なく胸にもたれながらも、京は香具山の首に手を回してしがみつく。
京の尻に手を回して揺すりながら、香具山は噛みつくように荒っぽく京の唇に自身のそれを重ねた。舌を絡め、息が出来なくなるほど深い口づけを交わす。

明日になって咎められると決まっているのなら、貪れるだけ貪ってやる。半ば自棄を起こし、香具山は京の体を隅々まで味わおうと欲望のままに動いた。

◇◆◇

気だるい感覚が全身を支配していた。
ベッドとは違う感触が自身の下にある。京はそれの正体を確かめようと顔を上げ、一気に頬を赤くした。
一度目を閉じ、ゆっくりと開く。
少し髭の伸びた顎を撫で、伏せられた瞼に触れて確かめる。夢ではなく、妄想でもなく、現実の香具山が京の下にいた。
パニックを起こしかける自分自身を叱咤し、互いに酔っていたのだと昨夜の行為に説明づけて落ち着かせる。男と女だ。期せずしてそうなることもあるだろう。
香具山を起こさないようにそっと体を離し、京はぐちゃぐちゃになったベッドを見下ろした。
感情のないロボットのように見えた香具山も血の通った人間であり、男だった。それを知れたことを嬉しく思い、嬉しいと感じた事実に眉をしかめる。

(やっぱりこいつが好きなんだろうか)

優秀な秘書に徹する香具山に不満を抱いていたのも事実で、不満に思う理由はいくら考えてもそういうものしか思い浮かばず、それを認められずに近頃は苛立ってばかりだった。

(抱かれて嫌ではなかったのだから、少なくとも嫌いではないということだ)

まだ手放しで香具山が好きと認める気にはならないが、多少は気持ちに整理がついたような気がする。どうも順番がおかしい気はするけれどそういうこともあるだろうと思うことに京は決めた。
とりあえずはべたつく体をきれいにしよう。京はベッドから抜け出し、バスルームへ向かうことにした。

◇◆◇

自宅まで送り届けた京から二時間後に出社すると告げられ、香具山は京の自宅を後にした。
マンションに帰ってスーツを着替えたらすぐに出社して京を待ちながらスケジュールの調整をせねばならないだろう。冷静に仕事のことを考えながら、頭の別の部分が昨夜のことを蒸し返す。
目を覚ましたら着替えた京が朝食をとっていた。「お前もさっさと着替えたらどうなんだ」とは開口一番京の台詞だ。普段通りすぎるほど普段通りな京につられて香具山も普段通りに振る舞った。

(レイプまがいのセックスしたってのに、なんで普通の顔ができるんだ)

マンションの駐車場に着くなり、香具山はハンドルに突っ伏して頭を抱えた。

低く唸ってから胸ポケットを漁り、そういえば煙草はやめたんだったと気がついて舌打ちする。体に悪いからやめろと京に言われて、京付きになってすぐやめた。

「……無罪放免ってことなのか」

ぽつり呟き、香具山はがっくりと肩を落とした。
年若い上に女だと軽く見られながらも遮二無二働く京の支えになれればと苦心していた今までの自分の働きが全部無駄になったのはどう考えても明らかだ。逆に考えれば、数年分の功績が昨夜の行為を相殺したのかもしれないが。
せっかく許されたのだから、今度は失敗しない。今まで以上の信頼を得るために今まで以上に秘書として有能であろうと香具山は心に決めた。






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