シチュエーション
![]() ここはやはり最高の場所だ。 暖かい木漏れ日に包まれながらリンデンバウムの若い葉と樹皮の香りを 胸いっぱいに吸い込めば、そのあまりの幸福感に意識を奪われそうになる。 それに眺めも極上だ。新緑と花に覆われた美しい庭は勿論、 丘陵に広がる草原が一望できる。 景色を眺めるだけなら屋敷のテラスからでも構わないのだが、 風が葉を撫でる音や大樹の肌の感触、鼻をくすぐるこの青い匂いはここでしか味わえない。 それに。庭に接した回廊を走る影だって、一目で認められる。 緑とパステルカラーに包まれた世界にそこだけぽつりと浮かぶ黒。 こちらに気付いた様子のそれは、眩しい陽光を手で遮りながら、こちらへずんずん近付いてくる。 ほとんど樹の真下まで歩み寄ったそれ――貴族風の男は、樹を見上げて呆れたように言った。 「お嬢様! ここにいらしたのですか」 「あなたも上ってみたら? すっごく気持ち良いわよ」 少女は樹の上から男を見下ろしながら、くすくすと笑った。 「木登りは卒業されたのではなかったのですか。もう子供ではないからと仰って」 「だって、リンデンバウムがあまりに気持ち良さそうにそよぐんですもの。勿体無いわ」 何が勿体無いのか。男は溜息をついた。 15になる伯爵令嬢が、ドレス姿のまま――枝に引っ掛かるのを考慮してか装飾の少ない デザインではあるが、そこは問題ではない――大樹の枝に座っている絵は、かなり異様だ。 「とにかくテオドール様に見つからないうちに降りてきてください」 「今日、お父様はお兄様と一緒に遠駆けでしょう。聞いているわ、脅しても無駄よ。 ノイフォルストまでならきっと夕暮れまで帰らないわね」 「……」 「――でも、そうね…わかったわ」 少女は諦めた様子で頷くと、腰を上げた。枝から足を滑らせやしないかとはらはらした 男に、少女は笑顔で言った。だが、その表情はどこか陰っていた。 「あなたのレッスンを受けられるのもあと少しだものね。貴重な時間が潰れるのは嫌だわ」 ◇◇◇ 時は今から5年前に遡る。 グラスドルフ伯テオドールは、妻アマリアとの間に、長男トーマスと 7つ離れた長女アルマをもうけていた。 生来体の弱かったアマリアは、アルマを出産後間もなく病を患い他界した。 だが伯爵は後妻を取ろうとはせず、成長と共に妻の面影を表してきた娘を 溺愛するようになっていった。 古くからの友人であったハイゼンベルク男爵の長女とトーマスの婚約が決まり、 後はアルマの幸せを願うのみとなったテオドール。 アルマが10歳を迎えた頃、テオドールはクヴェレ伯爵とその次男を私邸に招いた。 社交界でテオドールと話しアルマに興味を持った、クヴェレ伯爵の希望だった。 アルマを次男の婚約者候補にしたいというのだ。 クヴェレ伯と言えばこの辺りでは言わずと知れた大地主で、同じ伯爵位でも 僻村の領主であるグラスドルフ伯にとっては願ってもない話だった。 クヴェレ伯の次男も12歳とまだ若かったが、良縁を結ぶのは早いに越した事はない。 幸いにして、アルマはクヴェレ伯爵のお眼鏡に叶った。 「いやはや、想像以上にお美しいご令嬢ですな。ヴァイオリンも素晴らしかった。 いっそ私の妻として迎えたいくらいだ」 クヴェレ伯爵はやや膨らんだ腹を揺らして、はっはっはと笑った。 こちらは40代半ばという年の割に引き締まった体のテオドールが、 白茶の口髭を触りながらそれに応じる。 「はは、光栄でございます。伯のご令息こそ、この若さで既に武芸の才能が 開花しておられるとか。ご立派な事です」 アルマはドレスの端を抓んでお辞儀をすると、披露したヴァイオリンを下女に渡し、 再び席に着いた。 中年同士の会話を聞き流しながら、昼下がりの庭を切り取る窓をぼんやりと見つめて思う。 (――早く終わらないかな) アルマは確かに良くできた娘に見えるだろう。幼少時から躾られてきた甲斐があって、 社交界での立ち居振舞いは既に一人前の女性だ。勉学も人並み以上にこなし、 更に音楽の才能すら見られる。母親の遺伝子を色濃く受け継いだ容姿も美しい。 肩のあたりでふわりと波打つハニーブロンドと、長い睫毛に縁取られた碧の瞳が目を引く。 クヴェレ伯爵もすっかりアルマを気に入った様子だ。 しかし今の顔は父の為を思っての演技であり、普段のアルマはこんな淑女ではない。 そこはまだ十になったばかりの少女。年齢故の奔放さは抑えきるものではないのだ。 (こんなに良いお天気なのに。ヴァイスと駆けたら、どんなに気持ちいいかしら) 床に届かない足をテーブルの下でぶらぶらと遊ばせながら、アルマは外の風に思い巡らせた。 ヴァイスとは、アルマの愛馬の名である。アルマは乗馬が好きだ。 景色を愛でながらのんびりと歩くのもいいし、走らせて風を感じるのも気持ちいい。 こっそり家を脱け出すのは至難の業だが、身分を隠して下町を歩くのも楽しい。 何よりも大好きなのは木登りだ。曾祖母の代からあるらしい、庭の大きなリンデンバウム。 特に夏、白い花が咲いた頃に上ると、甘い香りに包まれてうっとりしてしまう。 はしたないと謗られてもこれだけはやめられない。 要するに、アルマは困ったお転婆娘なのである。 父の顔を立てる為、また父の思いに応える為とはいえ、こういう場はやはり息苦しい。 外の空気に焦がれるあまり溜息をついたアルマは、ふと自分を刺す視線に気付いた。 顔を向けた視線の先、アルマの向かいの席には、プラチナブロンドの少年がいた。 耳の上あたりで綺麗に切り揃えた髪と切れ長の目がどこか冷たい印象の、 クヴェレ伯爵の次男、ヨハンである。 それがあまりに無遠慮な見方だったので、アルマはすぐに視線を外した。 (…何をそんなにじろじろ見てるのかしら。無表情で怖いわ) アルマはその不快感を表情には出さず、胸の内だけで呟いた。 「――してアルマ令嬢、先刻ここまで案内頂く際にフォルテピアノがある部屋を拝観したが、 そちらも嗜んでおられるのかな?」 クヴェレ伯の問いにはっと顔を上げたアルマは、一瞬戸惑ってから《いいえ》とだけ返答した。 口をつぐんでしまった娘の代わりにと、テオドールが続けた。 「あのピアノは家内が使っていたものでしてね。 あれが逝ってからはただ眠っておるのです。娘は鍵盤よりも弦を好んでいるようで」 アルマが戸惑った理由は、つまりそういうことだ。 アルマの亡き母アマリアはピアノが趣味だった。彼女はアルマが2つに満たないうちに臥せり 他界してしまったが、アルマの記憶の中にはフォルテピアノの切ない調べが残っていた。 4歳頃まではアルマもそのピアノで遊んでいたのだが、ある時その姿を見た父が 陰で涙を流しているのを見てしまってから、アルマはピアノに触れるのをやめてしまった。 その時はただ、これを弾くと父が泣いてしまうようだからやめよう、と思っただけだった。 だが物心も付いた今はわかっている。父は娘に母の影を見て泣いていたのだ。 そんな父が惨めで、気の毒で。アルマは二度とピアノを弾かないと誓っていた。 クヴェレ伯が、白い顎鬚を撫でながら言った。 「奏者を雇ったりはしないのかね?」 「ええ…」 「ふむ、しかし勿体無いものだな。私は音楽に明るい方ではないが、 一目見ただけでもあれが名品であることくらいはわかる。 …うむ、伯爵。少しあれを拝借してもよろしいですかな?」 「は? ええ、構いませんが…もしやヨハン様に鍵盤のお心得がおありで?」 「いえ、これは私に似てその方面はからきしで。 だが他に良い弾き手がおるのです…おい、ロベルトを呼べ!」 クヴェレ伯は自分の従者にそう命じた。 ほどなくして、広間の扉から慌ただしくひとりの青年が現れた。 「お呼びでしょうか、伯爵」 青年は優雅に一礼をして、顔を上げた。 細身の長身。フロックコートにクラヴァット、と貴族然とした装いだが、 顔の造作自体は平凡な男だ。細面に黒いフルリムの長方形眼鏡が目立っている。 「ご紹介しましょう。これは倅の教育係、ロベルト・フォルスターです。 勉学のほかに鍵盤楽器の素養がありましてな、無名ながら、腕は中々のものです。 以前、これに弾かせる為だけにチェンバロを一台手に入れたのですよ」 主人の紹介を受けて、ロベルトと呼ばれた青年は改めて丁寧に礼をした。 緩い癖のある褐色の髪が揺れる。 ふとアルマとロベルトの視線が交わった。先程の会話で気分を害していたアルマだったが、 ロベルトがにこりと微笑んだので、なんとかつられて営業スマイルを返すことができた。 ロベルトとは別の場所からも鋭い視線が注がれていたが、彼女がそれに気付く事はなかった。 この後に予想される展開を憂慮していたからだ。 「歓談の間、これに演奏して貰うというのはどうかね、グラスドルフ伯?」 「おお、それは名案ですな! それではアフタヌーン・ティーはあちらの部屋で。 ピアノの音色と共に語らうといたしましょう…よし、急いで準備しろ!」 テオドールが手を叩いて下女に指示をした。 大人たちが《楽しみですな》などと軽口を叩く中、アルマは内心父の行為に憤慨していた。 あのピアノに誰も触れなくなった今も父は、下女に毎日手入れするように命じている。 お陰でその木目が曇る事はないし、月に一度調律師が訪れるので音程も完璧なままだ。 弾き手がいないのだからいくら磨いても無意味じゃないか、とアルマは馬鹿馬鹿しく思うのだが、 それは父の、母を想い悼む気持ちの表れなのだろう。 まるでピアノを母に見立てたような寵愛。 ――そういえば父は母が逝った後、仕事に感けてあまり労わってやれなかったことを 悔やんでいた。 彼女の遺品を当時の姿のまま保ち続けることで、自己満足の贖いとしているのだと思う。 しかしそれがどうだ。大切なはずのそのピアノを、軽々しく他人に触らせようとは! アルマは父の気持ちがわからなくなり、思わず愛らしい顔を顰めた。 ◆◆◆ 「邪魔にならないような曲を頼むぞ」 「畏まりました」 南の庭に面したその部屋はフォルテピアノの他に譜面を収納する棚しかないはずだったが、 今はピアノがやや窓際に寄せられ、空いたスペースに豪奢な椅子とテーブルが並べられていた。 がらんとした状態を見慣れているせいか、アルマは少し窮屈に感じた。 マホガニーの木できたフォルテピアノが、午後の日光を浴びて艶めいている。 主人に促されたロベルトはフォルテピアノに向かい、残りの4人はそれぞれ椅子に座った。 テーブルの上には蜂蜜の香りがするレープクーヘンとハーブティーが並んでいる。 先程からの下らない会話の続きをするのかと思ったが、まずはロベルトの演奏に 集中する様子だった。アルマは胸がむかむかしていたので、ハーブティーを流し込んだ。 ロベルトの方を見ると、何のつもりか、フォルテピアノのボディを撫でている。 ペットを愛玩するような手つきだ。こちらには背中を向けているが、おそらく表情もその行為に 相応しいものだろう。母親のピアノに馴れ馴れしく触れる青年にアルマは首を傾げたものの、 その奇行によってなぜか不快感が和らいでいることに気付いた。 やがて少し緊張した面持ちでピアノの椅子に掛けたロベルトは、音を確認するように 人差し指でAの音を鳴らした。弦楽器よりも少し柔らかく、しかし透明に通る音が 静かな部屋に響いた。 ピアノを叩く音くらい調律師が来るたびに嫌でも耳にしているが、それとは明らかに違う 音の色に、アルマは細い肩を震わせた。 アルマの前に座るヨハンは無表情のまま、その隣のクヴェレ伯は胸のあたりで腕を組み、 更にその向かい、アルマの隣のテオドールは膝の上で手を組んで、ロベルトを見ている。 音色と鍵盤の感触を確認して頷いたロベルトは、しばらく手を組んで手首を回したり 首を左右に倒したりと(こきっと関節の音が鳴った)準備運動らしきものをしていたが、 ふう、と一息をついて、漸く両手を鍵盤に乗せた。 ロベルトが小さく吸った息を吐くと同時に、フォルテピアノが歌い始めた。 しののめの雨ような、哀愁漂う幕開けだった。しかしその憂いは巧みな転調と共に晴らされる。 トリルやオクターブの跳躍を散りばめた旋律はさながら朝日に歓ぶ小鳥のさえずりのようで、 その伸びやかな音色にアルマはぞくぞくと背筋を震わせた。 派手な盛り上がりはないが、その分繊細な音運びに思わず溜息を漏らしてしまう。 ピアノとはこれほどまでに魅惑的な楽器だっただろうか? いや、これはきっと彼の才能によるものだ―――穏やかな表情で、幸せそうに演奏する ロベルトの姿をぼんやりと見つめながら、アルマは思った。 やがて眠りにつくかのような静けさを纏い、その幕は閉じた。 「いやはや、素晴らしい演奏だった!」 テオドールが大袈裟な拍手をした。夢現つ状態のアルマもそれに合わせる。 クヴェレ伯もうん、と頷きながら軽く手を鳴らしたが、ヨハンだけはハーブティーに口をつけていた。 ロベルトは席を立ち、笑顔で一礼をした。 「礼を言う、フォルスター殿。貴殿に目覚めさせて貰って、さぞピアノも喜んでおる事だろう… …私も、嬉しいよ」 そう話す父の目が、日光を受けてきらりと光ったのをアルマは見た。 自分があれを弾く姿を見た時と同じで、母を思い出して涙を浮かべているのかと思った。 だがその表情は演技ではない晴れやかさに満ちていて、アルマは困惑した。 ◆◆◆ ロベルトの好演の中で行われた茶話会は、アルマとヨハンの直接の会話がほとんど 交わされぬままに幕を閉じた。 しかし今後もこの縁は続いていくらしく、当人の気持ちはともかく婚約は近々成立するようだ。 傾きかけた太陽の中を帰って行く伯爵の馬車を見送りながら、アルマは隣の父に訊ねた。 「あの、お父様…お父様は、お母様のピアノをあの方に弾かれて、本当に嬉しかったの?」 テオドールは愛娘に優しく微笑みかけて言った。 「勿論、他人に触れさせるのに躊躇しなかったわけではない。 だが伯爵のご提案を退けるわけにもいかぬだろう? しかし実際に彼の演奏を聴いて、嬉しかったのは事実だよ。 …フォルスター殿のピアノは、あれの音色によく似ておった」 アルマの顔を通り過ぎて遠くを見るような父の目が、アルマの胸を締め付けた。 やはり父は、あのピアノによって母に縛り付けられている。 テオドールは腰のあたりにある、自分を見上げる小さな頭を撫でた。 「それを抜きにしても、あのピアノを誰かに弾いてもらう方がアマリアも本望だろうしな。 近いうちに奏者を雇うとするか。本当なら、お前が弾いてくれるのが私としても一番嬉しいのだが」 「じゃあ、あの、あの時、泣いていた理由も…」 「あの時?」 「私がピアノを触っていた時よ。もっと小さい頃」 「――ああ。知っていたのか? あの時、私が――」 「嬉し涙だったのね?」 「まさか! あの時のお前ときたら、鍵盤を力任せに叩くわ、貴重な楽譜に落書きするわ、挙げ句に分解 しようとするわ…アマリアの遺品を壊さんばかりに扱いおって。涙が出ないわけがないだろう。 お前が興味をなくした時、どれだけほっとしたことか」 がん、とアルマは脳天にショックを受けた。 そんな記憶は無い―――わけではない。ただ、母の真似をしてフォルテシモを弾いてみたり、 五線譜に指示を書き加えたり、あとはピアノの構造に興味を持ってあちこち触っただけだ。 それだけ、と自分では記憶していたのだが。3つや4つの、やんちゃ盛りの幼児の行動が まともであるとは考えにくい。おそらくは父の証言が正しいのだろう。 アルマは恥ずかしさと申し訳なさで頬を染めて俯いた。 が、ふと思いついたように顔を上げた。 「今の私はもうそんな事しないわ。あの頃よりずっと大人だもの。だから、その、 私もあのピアノを弾いてもいいわよね? お父様」 「……アルマ? 気を使うことはないんだぞ。お前はヴァイオリンの方が好きなんだろう」 「違うわ、気なんか使ってない。私は本当はずっとピアノが弾きたかったの。 ううん、気付いたのは今日あのお方の演奏を聴いてからなのだけど…いけないかしら?」 アルマの顔は硬い布の感触に押し潰された。テオドールがアルマを強く抱き締めたのだ。 それがあまりに容赦なく、アルマは身をよじった。 「お、お父様苦しい」 「アルマ…アルマ、私は嬉しいぞ! お前は物心がついてから、女々しい私を嫌って ピアノも避けていたのだとばかり思っていたが」 「ええと、ということは弾いてもいいのね?」 「ああ、勿論だとも! 早速今日のうちにでも講師の手配をしよう。 そういえばハイゼンベルク男爵の知人に良いチェンバロ弾きがいると聞いて」 「それはダメよお父様」 ようやく父親の腕から逃れたアルマは、はしゃぐテオドールを見上げてぴしゃりと言った。 「私はあのお方がいいの。あのお方じゃないとダメなの」 「あのお方…フォルスター殿のことか? うむ、気持ちはわかるがしかしアルマ、あれはヨハン様の」 「わかってるわ。今ならまだ間に合うわね。掛け合ってみましょう」 アルマの本性――もとい、本領発揮である。 娘の心理と行動が読めず唖然と立ち尽くすテオドールを置いて、 アルマは厩舎へと一目散に駆けて行く。 「ヴァイス! 行くわよ!!」 ◇◇◇ 「――どうされました、アルマ様?」 通し演奏の途中で手を止めてしまった生徒に歩み寄って、ロベルトは言った。 「…あ、ごめんなさい」 「ご気分が悪いのであれば、少しご休憩されては」 「違うの。五年前のことを思い出していたの。あなたと初めて会った日のことよ」 五年前のあの日。アルマはヴァイスを駆け、クヴェレ伯爵の馬車を追いかけた。 馬車の前に立ちふさがった、馬に跨る令嬢を見て、伯爵をはじめとする3人は呆然とした。 更にそのお転婆な令嬢がロベルトをピアノ講師として寄越せと要求したのだから、 呆れるなという方が無理だろう。当然ながら難色を示すクヴェレ伯爵の代わりに、 意外にも、寡黙だと思っていたヨハンが口を出した。 要求を呑む代わりに、自分との婚約を決めろというのだ。猶予期間は五年。 アルマが15になったら自分と結婚する。それ以降はロベルトはクヴェレ伯爵家に戻り、 アルマの希望があれば、レッスンも続けられるというものだった。 そして、アルマはそれを受け入れた。 元々この縁談は父の望みで、アルマも逆らわないつもりだったからだ。 アルマのこの行動にショックを受けたクヴェレ伯爵がヨハンと少し揉めていたが、 結局渋々承諾したようだった。 そしてロベルトは流されるままグラスドルフ伯爵家に移り――今に至る。 「ああ。あれはなかなかに衝撃的でした」 「もう、笑わないで。私は真剣だったんだから」 真剣だったのは本当だが、やはりはしたな過ぎたかと今になってアルマは思う。 先日15歳の誕生日を迎えたアルマは、今や実に美しい女性に成長していた。 艶やかな金髪は胸を覆うまでになり、小柄ながら手足はすらっと長く伸びている。 目鼻立ちも華やかな、紛う事なき美少女である。 それに伴い、昔のような破廉恥とも言える行動には比較的、ブレーキがかかってきている。 その分爆発する事も、ままあるけれども。 「でも、あの…そういえばロベルトの意見を聞かないまま連れて来てしまって。 本当に今更なのだけど、もしかして…嫌だったかしら」 アルマはもじもじと上目遣いで訊ねた。 思春期ゆえだろうか、最近の彼女は普段周囲のお咎めを耳に入れずはしゃいでいるくせに、 時折、思い出すかのようにこうして恥じらう様子を見せる。 そのギャップがひどく可愛らしく、周囲の男性――主に父親だが――の動悸を 招いているのだが、本人に自覚はないらしい。 そんな無邪気な攻撃を受けつつも、ロベルトは普段通りの笑顔で答えた。 「気になさる事ではありませんよ。私は主のご意志に従うだけですから」 「違うのよ。私はあなたの気持ちが知りたいの。や、やっぱり、嫌だったの…」 「それはありません」 ロベルトがアルマを遮った。俯きかけていたアルマははっと顔を上げた。 「正直に申しますと最初はただ驚きました。あまりに唐突だったもので。 でも、アルマ様の情熱はとても嬉しかった。あれほどストレートにピアノを 誉めていただいたのは、初めてでしたから」 アルマは、自分があの時何を口走ったのか覚えていない。 はにかむようなロベルトの笑顔を見て、もしや一歩間違えれば 愛の告白のようだったのではないかと思い出し、アルマはかっと頬を熱くした。 それに、彼のピアノに惚れこんで屋敷に連れ込んだのは事実だが、 五年間共に過ごした今―――正直、それだけではなくなっている。 斜め上にあるロベルトの顔を見つめながら、アルマは胸がもやもやするのを感じた。 勿論ロベルトをピアノ講師に迎えたのは純粋に彼のピアノに惚れこんでしまったからで、 当時のアルマにそれ以上の理由などなかった。10歳の子供が一回り以上も年上の男に 妙な感情を抱く事はまずありえない。 恋愛を知らなかったから、父に薦められるままヨハンと婚約するのも受け入れられた。 父が喜ぶならそれでいいと思っていたのだ。 だが、この五年間で、アルマは成長した。外見だけでなく中身もだ。 ピアノ講師としてだけではなく、普段の話し相手や散歩のお供など、 アルマは可能な限りロベルトと一緒に過ごしてきた。父は最近留守がちだし、 結婚してから兄と話をする時間も減った。兄嫁と話したくても、《お前と二人にさせたら リリーに悪い影響が出る》と兄に抑止されている。酷い話だ。まあこれは、兄が兄嫁を 愛するがゆえの言動なのだろうとアルマは理解しているが。 とにかく、欠けた家族の代わりにでもするかのように、アルマはロベルトを連れ回した。 きっかけがいつ、どうしてだったかは覚えていない。だがそんな日々を過ごすうちに、 いつの間にか、アルマはロベルトを男性として強く意識するようになっていた。 指導中、自分とは違うごつごつとした指に気付いて胸が高鳴ったり、 その指で自分の手に触れられて、顔を熱くしたり。 彼がピアノを演奏する時に滲み出る色っぽさに気付いたときはもう、たまらなかった。 これが恋、と呼ばれるものなのだとアルマが気付いたのは、ごく最近の事。 そう、件の『五年間の約束』の期限――ヨハンとの婚礼の儀式が、迫ってきてからだった。 アルマの15歳の誕生日以降、着々とその準備が進められている。 儀式まではあと二週間。直前の一週間はアルマも準備に専念することなっているから、 ロベルトのこうしていられるのもあと一週間だ。 何度この気持ちを伝えようと思い、留まったことか。 喉まで出てきた言葉を、これは周囲の人を傷つけるだけだと言い聞かせて飲み込んで。 今も、とんでもない言葉がアルマの喉に引っ掛かっている。 《このまま結婚するなんて出来ない》 《あなたと一緒に逃げてしまいたい》 《あなたが好き―――》 ともすれば滑り出してしまいそうな言葉を、アルマはロベルトの顔を見つめて必死で飲み込んだ。 この言葉はこの人をも傷つけてしまう。ロベルトがアルマの気持ちに応えようが応えまいが、 その事実が明るみに出ればグラスドルフ伯爵家の名が落ちてしまうだけでなく、 婚約相手を誘惑したとして、きっとロベルトもクヴェレ伯爵家によって貶められてしまう。 アルマはそれが耐えられない。あの自由な風のような彼の音楽が失われてしまうのが怖い。 それにもし拒否されて、自分の前から去ってしまったら――― 「……アルマ様? やはり、今日はもう終わりにしましょう。顔色が優れませんよ」 「あ、だ、大丈夫よ! 続けましょう。もう一度最初から通せばいいかしら?」 「いいえ、無理をなさらないでください。大事なお体なんですから。 もし今倒れられでもしたら、私が叱られてしまいます」 「だから、平気よ。今日は暖かいから、ちょっと眠くなっちゃっただけ。 それにこの曲をお披露目するまであまり時間がないもの。頑張らなきゃ」 「大丈夫ですよ。アルマ様は呑み込みが早いので、私も助かっています」 「ふふ、ありがとう。なら、やっぱりちょっとだけ休んでもいいかしら? その間、あなたの演奏を聴きたいの」 「畏まりました。では、こんな良い日和に相応しい曲をひとつ」 自分がヨハンと結婚しても彼はピアノを弾き続けられるし、 傍で聴き続けることもできるのだ、自分がこのはしたない感情を口にさえ出さなければ――― 鮮やかなピアノに耳を傾けながら、アルマは自分に言い聞かせた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |