おかしな二人(非エロ)
シチュエーション


私が「彼」のことを知ったのは友人からの又聞だった。
友人と言うのは、自分で自分を遊び人だと自覚している私が、それ以上に遊び人だと認定
している、肥田悠人である。
三十も半ばだというのに、名前の通り悠々とのらりくらり生きていられるのは肥田家が名門
貴族だからに他ならない。私もまた似たような身分で、そのこともあって意気投合している。
ある日私の家で一緒に酒を飲んでいるとき、泥酔していた私がお前に真面目な友人など
いまいと言うと、悠人はへらへら笑っていた顔を急に無表情に変えて「いや、いる」と言った。

「まともではないが、真面目ではあるな。まぁ向こうが俺を友だと思っているかは定かでは
ないが……」
「はは、なんだそれは」
「学生時代の級友なのだよ。高等学校で一番の成績だった。俺は遊び呆けていて、そいつに
試験前にノオトを貸してくれと頼んだら、なんと貸してくれたのだ。あまり話したこともなかった
のに何で貸してくれたのだと聞いたら、俺という生き物の生態がおもしろいというのだ」
「セイタイ……?」
「奴からすれば俺は自分と別の生き物のように見えるらしい。遊び呆けている俺という人間が
理解できないというのだ。理性的すぎて、俺の方からも理解できない。なんとなく付き合いが
続いているが……なあ、まともではないだろう」

面白そうじゃないか、会ってみたいなと言った私に、悠人は急に真面目な顔で言った。

「お前にも理解できまいよ。あれは下半身に、種の代わりに脳髄が詰まっている男だ」

冗談だと思って笑うと、本当のことなのだと悠人は怒った。

「で、物は試しだと会いに来たわけか」

彼−−川城英博は私と悠人を代わる代わる、その鋭い目で見た。
首都日元から馬車で一時間かかる、酪農の町、恵土。
およそ最新の文化や技術に程遠い田舎町の小山の上に、どこの貴族の邸宅かと見紛うモダンな
白壁の屋敷が建っている。
しゃれた外観とは裏腹に、屋敷の中には美術品の一つも飾られてない。こんな屋敷を持っている
のに召使いの一人も雇っていないので掃除の手が回らないらしく、本当は磨き上げたように美しい
はずの長い木目の廊下は、隅のほうに埃が積もっている。
全体にそんな様子の屋敷の中で一箇所だけ、屋敷の東に位置する書斎だけは様子が違った。
一階と二階の吹き抜けになった書斎は、四方の壁が窓以外、全て本棚になっている。その全てに
悉くみっしりと本が並び、まるで本でできた部屋のようである。淡い黄色のタイルの床は鏡のように
磨かれている。
部屋の只中に構えた重厚感のある樫の机に、彼は浅く腰を掛けていた。
級友というからには悠人と同い年であろうが、川城は少なくとも悠人より一回りは老けて−−
悠人が若ぶりなせいでもあるのだが−−見える。原因は割合長身であるのに酷く猫背なせいで
あるのと、何よりその外見にあった。
醜男、というわけではないが、陽気で伊達男なある悠人と比べるとどうにも陰気臭く不気味だ。
暫く理髪にいっていないのか、黒い重たげな髪は、前髪が目元まで垂れている。痩せて頬骨が
でているし、何よりその鋭い目つきが威圧感を与える。
確かに高等学校に通えるというのに遊びに現を抜かしていた私達と違い、川城は学の匂いが
するが、果たして私達と彼、どちらがましな人間に見えるかと聞かれれば、九割の人間は返答に
困らないだろう。

「わざわざ話の種で出てきた変人に会いたいとは、物好きな人間もいたものだな」
「それはお前のことだろう。何を好んでこんな田舎に屋敷を構えたんだ。一時間も田舎町を走る
馬車に揺られたせいで、尻が痛いぞ。汽車の停まる場所にしろ」
「蒸気機関なら一年前、海外に短期留学をした時に毎日乗ったよ。あの煤煙は良くない。まだ
馬車のほうが健康的だと思うがね」
「……もういい。で、今は何の研究だ」

川城は不気味ににやりと笑った。

「『ヒト』の生態系だ」
「人?」

「そう。動物の中において、獲物をしとめる強力な牙も、襲い来る敵から逃げる強靭な脚力も
持たずに、生態系の頂点に君臨した『ヒト』という生物が、どのような生物であるかを研究して
いる」
「生物って……人間をそこら辺りの犬や猫だのの獣と一緒にするなよ」
「一緒だとも。君達こそ人間を犬や猫だのの獣を超越した存在などと考えることは止したほうが
いい。特に肥田、君のように物欲と性欲が盛んな、生物的な本能が濃い『ヒト』はね」

悠人は「俺はケダモノか」とあからさまに顔を顰めたが、川城は構わず続ける。

「最近の研究ではヒトはサルから進化したとされている。南方のゴリラというサル科の動物は
生活の中で道具を使うそうだ。何百年も昔の我々の祖先はゴリラのようなサルだったのかも
しれないのだよ。脳の巨大化と新たな大脳皮質、二足歩行などによって新たな……」
「あーあー、もういい、外国語じゃなく俺に理解できる言語で話してくれ」
「生憎今のは君の母国語なのだがね。さぁ、素見しが済んだのなら帰りたまえ」
「まぁ待てよ。別にお前の素見しの為だけにここに来たというわけでもないのだ」
「ほう?では何の為だね?」

川城は机の上に広げた書物の山から視線を悠人へと移した。

「一緒に買い物へ行かないか、誘いに来たのだ。お前が今、人を研究しているというなら多少は
その足しになるかもしれん」
「?書物でも買いに行くのかね」
「いいや」

悠人は悪戯っ子のように、にいと笑った。

「いけば分かるさ」

次の日曜の朝、私は機関車に乗って、悠人と川城に会う為近江へと向かっていた。
二年前に開通した蒸気機関車路線は、計画では国を縦横無尽に繋ぐ大規模なものである。
しかし予算の関係で首都付近からの段階的な増設を余儀なくされており、現在利用可能な駅は
まだ五つに留まる。何れも政治経済の要衝であり、その一つが日元から二駅の近江である。
近江は首都に一番近い貿易の拠点で、町一つ入りそうな広大な敷地の港だ。埠頭にはぎっしり
倉庫が並んでいる。
駅から人と荷物の波を掻き分け掻き分け進み、三十分かけてようやく待ち合わせの第四倉庫に
たどり着くと、貨物を納める巨大な扉の前には既に川城と悠人が待っていた。

「一緒に行きたい買い物とやらを早く済ませてくれないかね」

川城の視線の先には、荷車で二つ隣の第六倉庫に運ばれていく輸入物の書籍があった。

「はいはい、解りましたよ。全く。こっちだ」

言って悠人は人通りの少ない第三倉庫と第四倉庫の間へ私達を手招きした。

「?買い物に行くのではないのか?」
「もちろん行くさ、この中にね」

にやりと笑って悠人が指差した第四倉庫の壁には、壁と同じ色の引き戸がある。

「こんなところに入り口が?」
「ただの入り口じゃないぞ。会員専用の隠し扉だ。君達は僕の同伴者ということにしてある。変な
真似は起こさないように、あと誰にも言ってはいけないぞ」

扉を叩いてちょっとしてから、僅かに開いた扉の隙間からぎょろりとした目が覗いて私達の顔を
一巡した。

「会員百二十七の肥田悠人だ。この二人は同伴だ。入れてくれ」

じぃ、と悠人の顔を見つめた目はふと見えなくなった。暫くしてがらりと大きく扉が開き、狐に似た
タキシード姿の男がにこやかに私達を招き入れた。

「いらっしゃいませ肥田様。いつもご利用ありがとうございます」
「この二人は『あれ』の見学希望者なんだ。入れてくれるな?」
「勿論でございます。それでは案内を私めが……」
「ああ、構わんで結構。気心の知れた連中だからね、私が案内するよ」

こっちだ、と手招きした悠人に続いて、私と川城はランタンで仄暗く照らされた階段を降りていった。

「こんな地下に一体何の商店があるというんだ?悠人」

私の言葉に、悠人ははは、と声を上げて笑った。

「商店ではないよ、競売さ」
「競売?」
「そう。欲しい商品が出した言い値で商品が買えるという寸法だ。ここは特別な会員制の競売でね。
参加しているのは国の外も内も関係なく、皆金持ちばかりだ」
「だが、こんな場所で何を−−」

私が言い終わる前に階段が終わった。地下は巨大な演劇場のような装いだった。私は何年も昔に
世界旅行をした際、西洋で見た歌劇の劇場を思い出していた。
舞台を見下ろす客席部分には大勢の紳士服の集団が座っている。ブロンドの髪や青い目もちらほら

−−いや、むしろそちらのほうが大多数だ。そしてその視線が集まる舞台の先には−−

「……!人間!?」

舞台上には牢屋を思わせる鉄格子の四角い部屋があり、その中に数人の女性が閉じ込められて
いた。皆、一様にギリシア彫刻を思わせる裾長の白服を着ており、手首には手錠を嵌められている。
かなりの美貌の持ち主ばかりだ。

「肥田。これがお前の言う私の研究に役立ちそうな買い物とやらか?」
「その通り。海外の御仁に乗っては魅惑的な肉欲の市場、我らにとっては貴重な外貨獲得の場という
わけだ。己の快楽の為ならば、自分と同じ種族を売ることも厭わぬ人間−−お前に言わせれば『ヒト』
って生き物か、その様子を観察できる場所など滅多にないだろう」
「ふむ。ならば少し観察させてもらうとしようか」

私は二人の言動に軽く寒気を覚えた。確かに悠人と川城は外見こそ違えど、その価値観は実は
かなり似通っているのではないかと思った。だから学生時代から今まで付き合いが続いているのだ。
そしてその価値観は、かなり残酷なものなのではないのか。

「よおし、そうこなくては!何なら買っていくか?昔と同じく金を溜め込んでいるのだろう、そろそろ
妾の一人でも」
「断る。奴隷を買う趣味は無い」

川城はきっぱりと言い切って、胸ポケットから取り出したメモにさらさらと何かを書き留め始めた。

競売が始まり、女が檻から出される度に地下の空気は熱量を増した。競売参加者の欲望がそのまま
空気になったかのような、身体に纏わりつく異様な熱さだ。
私達は悠人の計らいで競売所の壁情報に設けられた、テラスの特等席からその様子を見ていた。私の
右隣に座った川城は、客席を見つめてはメモを取る動作を繰り返していて、私達のことなど微塵も意識して
いないらしい。

「……なぁ悠人、あの人たちは一体どうなるんだ?」

舞台上の囚われた女達を指して、私は左隣の悠人に問うた。

「海の外の御仁に買われれば、そのまま外へ行く。この国の御仁に買われれば国内だ。まぁどちらでも
使われ方に大差はないと思うがね」
「……つまり……」
「十中八九、性玩具か奴隷だろうな。買った人間の嗜好にもよるだろうが、ろくな扱いは受けないよ」

−−そんなことが、許されるのか?
私の考えを察したらしく、悠人は「お前はお坊ちゃんだからな」と少し悲しげに微笑んだ。

「海外の先進諸国に比べれば、我が国はまだ後進国扱いなのだよ。貴奴らと肩を並べるには金が入る。
こんな方法でも、資源の少ない我が国には外貨獲得の貴重な機会だ」

そう言って平然と悠人は視線を競売所へと戻した。
何となく、私は彼と眼下の紳士服を来た性欲の軍団を見るのが苦しくなって、半ば救いを求めて右隣の
川城を見た。彼は相変わらず競売の様子を観察している。今度は買い手ではなく、商品へと観察対象を
変えたようだ。

−−?
メモを取る手が休んでいる。先ほどと少し様子が違う。
私は彼の視線の先を辿った。

檻の中の女達は皆、青褪めたてさめざめと泣き続け見ているだけで哀れになる。が、その中に一人だけ
様子が違う女がいることに気がついた。
年の頃は二十歳といったところだろうか。長い艶やかな黒髪に色白の肌。はっきりとした二重の大きな瞳は
じっと紳士服の群れを見つめている。目の前の競りに熱中している買い手達は全くそれに気付いていない。

−−何を、見ている?
自分達を物としか見なしていない獣共に怒っているわけでもない。かといって悲観している風ではない。ふと
川城に視線を戻して、私は何となく女の視線の意味を悟った。

−−観察している。
女の視線は、川城のそれに何となく似ている。目を開き、対象を正確に理解しようとする探求の視線。
川城はそれに気付き興味を持ったのだろう。今、彼の観察対象は檻の中の女達ではなく、彼女だけだと、
訳もなく私は確信をもった。
舞台上で張り付いたような笑顔をした紳士服の男が声を上げた。

「只今の九番の商品は七十五円で会員四十九番様の落札と成りました。おめでとうございます!それでは、
次の商品をご紹介いたします!」

観察している女が、檻の外へと連れ出された。

舞台上の男が声を張り上げ「商品」の美点を並び挙げている。女は好き勝手に自分を評する男の声も自分を
品定めする群衆の目も意に介さず、会場を見渡している。
時折、視線が止まるのに気づいて、私は彼女の視線の先を探る。彼女に程近い客席の、葉巻を吸う紳士服。
照明の洋灯。舞台に程近い出入口。

−−逃げるつもりか。
だが会場には腕の立ちそうな屈強な男たちが警備に回っている。辿り着いたところで捕まるのがおちだ。

「肥田」
「何だ。もう帰るなんてのはなしだぞ。いい年しているのに女の影もないお前のために折角−−」

女の競りが始まる。舞台上の男が開始価格を会場全体に響かせようと大きく息を吸い込んだ。

「買う。私は声の通りが悪いからお前が値段を言ってくれ」
「お!?珍しいじゃないか、いいぞいいぞ、幾ら出す」
「五百だ」
「よ……な、五百だと!?」

悠人の驚きの声を、そのまま舞台の男が繰り返した。

「さぁ、五百が出ました!……え、ご、五百!?」

言った後でやっとその額に気づき、競売の支配人の張り付いた笑顔が剥れた。紳士服の群れがざわめき
その視線が私達に集まる。それは檻の中の女達も、そして肝心の競りの「商品」についても同様だった。
驚いた顔で私達を見上げた女の視線が悠人と私を辿り、川城で止まった。見下ろす川城はたじろぎもせず
その目を無感情に見つめ返している。
何故だろう、私には女が自分を買った人間は川城だと確信しているように見えた。

「し、失礼いたしました。五百です。五百円!他にはいらっしゃいませんか!?」

ざわつきは収まらないものの、それ以上の大きさの声はない。

「それでは十番の商品は、会員百二十七番様の落札となりました!おめでとうございます!」

落札の声に、女は我に返った。

−−?
一瞬だが、女は焦ったような動きを見せた。何故かそこに留まろうとしていたが、舞台袖から出てきた黒服の
男二人に両腕を掴まれ、為す術もなくずるずると引きずられていく。見えなくなるまでの間、女は何度も
川城を振り向いた。
まるで、助けでも求めるような顔で。

全ての競売が終了し、私達は入り口で会った狐面の男に、更に地下へと案内された。
落札された女達は競売所の下にある個別の控室で待機させられていた。控室とはいってもそこは冷たい
石壁に鉄扉ひとつしか出入口のない個室が幾つかあるだけの牢屋のような場所で、本当に只「出荷」を待つ
だけの控室だった。目線の高さに設置された鉄扉のはめ殺しから、ランプ一つしかない部屋の中で、行き先も
そこで待つものも分からぬまま、迎えに怯える女達の姿が見えた。

「本日は高額でのお買い上げ誠にありがとうございます、川城様!今後も魅力的な商品を取りそろえており
ますので、是非とも当競売所の会員に−−」
「彼女はここか。開けたまえ」

すり寄る笑顔を無視して川城は言った。狐面の男は「はい、只今」と胸ポケットから鍵の束を取り出し、流れる
ような動作で鉄扉の錠前を外した。こういう態度には慣れているらしい。
先程の格好のまま、彼女は部屋の真ん中に真っすぐ立ち、私達を待っていた。
遠目でも分かってはいたが近くで見ると成程商品になるだけあって美しい女である。可愛いというよりは美しい
顔立ちで、はっきりした二重の瞳は強い意志を感じさせる。長い黒髪は烏の濡羽色で艶があり、白い肌も触ると
いかにも心地よさそうだった。肉付きはそれ程でもないが、特別胸やら尻やらに執着がなければ彼女の凛とした
風貌に似合うすらりとした身体だった。
女の細い手首に嵌められた鉄の手錠を見つめる川城の視線に気づいて、狐面の男が言った。

「万一、反抗しないとも限りませんので。鍵はこちらです」
「わかった。少し外してもらえるかね。内密に話したいことがあるのでね」

川城に鍵を渡し、男は下卑た笑いを浮かべて「かしこまりました」と頭を下げ部屋を出た。格子窓からその姿が
十分に小さくなったのを確認してから、悠人に向きなおり、徐に胸ポケットから財布を取り出して手渡した。

「外で服を買ってきてくれ。妙齢の女子が町を歩いても問題ない、一般的なものを頼む」
「なんだよ、その女に着せるのか?だったら流行りの服でも……」
「一般的なものを頼む」

私は一年前、悠人が付き合っていた女に海外で流行りだという腿までしかない着物を買い与え、その日の内に
別れを言い渡されたことを思い出した。
ぶつくさと文句を言いながら悠人が出て行ったのを確認してから、川城は女に向きなおった。

「火を起こすのは諦め給え」

「火?」

思わず問い返した私に、川城は「ああ」と振り返りもせず言った。そのまま女に近寄って手を差し出した。

「その手かせではランプの火をとることもできまい」

女はわずかにためらったが、川城の手にぐちゃぐちゃな灰色の紙切れを置いた。

「新聞紙……便所の紙をくすねたのか。いい判断だ。油分があるから火種にはもってこいだな」

川城は何故か嬉しそうだった。

「どういうことなんだ?」
「逃げようとしていたのだよ」

私に向きなおって川城は言った。

「だがただ逃げるのでは成功する確率は著しく低い。会場にはここの主人が雇った警邏が絶え間なく見回っていた
からね。だから火を起こし混乱に乗じようとした。密閉された地下の空間での火事は脅威だ。もっとも火を起こせる
確率も相当低いがね」
「じゃあ、君があんな高額で彼女を買ったのは……」
「できるだけ早く競売を終わらせて彼女をあの場所から遠ざけるという意味合いも確かにあったよ。彼女が自分に
一番近い火種と逃亡経路を見極める時間を与えてはいけなかったからね。万一彼女の計画が成功すれば我々が
危ない可能性もあった」
「どうしてわかったのですか」

私も川城も女を振り向いた。外見より少し若く感じる声だった。

「悲嘆にくれず、君は諦めていなかった。そして明らかに何かを探していた。君の置かれた状況、それを観察する
理由を考えれば逃亡を計画していることは自ずとわかる。彼も気づいていたよ。残りの一人は気づいていなかった
ようだが」

川城が私を目線で示した。

「なら、なぜ五百円も?競売は平均五十円から百円で成立していました。貴方は相場の五倍から十倍で私を
買った。たかが奴隷を買うのに、こんな値段はありえないはずです」

女の言葉に、川城は益々喜びを顔に表した。私には、いっそ狂気じみて見えた。

「その通り。たかが奴隷ならばね。私は人間としての君の価値を買ったのだ」
「価値?」

「君は自己の人間的権利を諦めていなかった。なおかつ逃げるため実現可能な最善の手を導き出していた。私は
そういう人間が好きなのだよ。君は、実に好い」

女は呆然としていた。それは私も同様だった。そんなことで、奴隷十人は買える金をたった一人を手に入れる為
だけに使う川城が、理解できなかった。

「おい、買ってきたぞ。なんだ、何かあったのか?」

帰ってきた悠人から服を受け取った川城はそれをそのまま女に渡し、手錠を外した。

「着替えて外に出るまでは静かにしていたまえ。それから後は自由にするがいい」
「!?おい、川城お前どういうことだ!」
「どうもしない。ああ、馬車に乗る金ぐらいは要るな。後で渡そう」
「お待ちください」

女の声に、私達は皆振り向いた。
胸に服を抱いたまま、女は川城の前に跪き頭を垂れた。

「川城様」
「様などいらん。君は人間だ」
「私をお使いくださいまし」

私も悠人も訳が分からず、固まった。川城は眉間にしわを寄せた。

「奴隷を買ったつもりはないと言ったはずだが」
「受けた御恩を返さねば私が納得できません。如何様にされても文句は申しません。せめて買っていただいた分
お役に立てねば、私は奴隷どころか役にも立たぬがらくた以下になってしまいます」

川城は黙り込んだ。私と悠人は彼の次の行動を待った。
唐突に部屋の扉を開け、川城は静かに言った。

「名前は?」
「セツでございます」
「セツ。使用人として君を雇う。それでいいな」

女は顔をあげた。喜びを湛えた笑みと共に。

「仰せのままに」

納得がいかない。
女を連れて屋敷に戻り一休みに茶を入れ、どういうことだと聞いた俺に川城は「矛盾を突いたのだ」と言った。

「只買われ自由を与えられても、それでは籠の鳥を逃がすようなもので私の言う『人間』ではないということだ。
考え行動するのが人間。買われた分は返すのが自分の考えであり行動であり、人間としての自分であると彼女は
主張したのだよ」
「違う。それもあるが、そういうことじゃない。どうして買った女を雇っているのかと聞いているんだ」
「彼女が望んだからだ」
「馬鹿か!ただでさえ買った分金がかかっている女を、更に月々給料出して雇うなんて正気か!?」
「正気だとも。私は社会人として労働を望む者に、そしてその成果が期待できるものに出資は惜しまない。少なくとも
私と同い年で未だ親の脛を齧り続けている君よりはよっぽど真人間だと思うがね、肥田」

俺は喉の奥に石を押し込まれたようになって、黙り込むしかなかった。川城は俺の痛いところをよく知っている。

「……だが、あの女に何の労働の成果があるっていうんだ?精々この屋敷の手入れと家事をするぐらいじゃないか。
あ、それとも何か、お前もまだ男を棄てていなかったか」
「相も変わらず君の脳は下半身でできているな、肥田。言っただろう。私は奴隷を買ったわけではないと。ちゃんとした
機会に恵まれれば彼女は絶対に化ける。できればこんな場所で家事手伝いなどせず、自分で仕事を起こすなり学問に
勤しむなりしてほしいところなのだがね」
「……本当に正気か?お前がそんなことを言うなど今まで見たことがないぞ」
「では私が一度でも間違っていたことを見たことがあるかね?肥田」
「……」

俺は何も言えなかった。

「だがそれでは彼女が納得すまい。人間としての矜持を持っているからな。何かうまい理由をつけて世に出る機会を
作ってやらねば……」

川城がまた一人の世界に飛んでしまったので、俺は仕方なく一緒に来ていた友人の藤代優介と玄関の外に出、
葉巻をくわえた。

「理解できるか?」

聞いた俺に、優介は「さっぱりだ」と答えた。

「昔から付き合いのある君に分からないのなら、最近知り合った僕に分かるはずもないだろう」

藤代は俺から聞いた川城の話に興味を持ち、つい先日奴と知り合ったばかりだ。優介の言葉ももっともだった。
奴隷を十人は買える金をはたいて女を手に入れたと思ったらそいつに服と駄賃まで与えて自由にしようとし、女が
自分から奉公を申し出たのに、それを更に解放する手立てを考えている。女に、それほどの才能があるからだという。
何をどうしてそこまでの確信が持てるのか、さっぱり分からない。

「ですから、そういうわけにはまいりません」

俺も優介も屋敷の二階を見上げた。その辺りから、確かに件の女の声がした。
葉巻をくわえたまま屋敷へ入ると、女の声がした辺りから今度は川城の声がした。

「行く宛てのない君を雇う以上、ここのどこかに住んでもらうことになるのだ。構わんだろう」
「私は川城様にお仕えする身です。このような扱いをされては−−」

何となく察しがついた。

−−部屋でもめているのか。
洋館の二階に使用人用に誂えた部屋などあるはずもない。川城は客間の一つを女に与えようとしているのだ。

「自らを貶めるような物言いは感心しない。火を起こしてまで逃げ出そうとしていた先刻の気概はどうした?」
「あれとこれとはまるで違います!私は−−」
「セツ」

名前を呼ばれて女は黙り込んだ。

「これは私の矜持だ。君が自由であることを他人に譲り難いように、私は私の意志を持ってして君に奴隷の生活を
させることは許容できない。私は君を雇う以上、君を人間として扱わねばならない。それが拒絶されることは私にとって
君に奴隷になれというのと等しい侮辱だ」
「……」

女が口を開く気配はない。言葉のぶつけ合いは川城の十八番中の十八番だ、無理もなかった。

「ずっとここに住まわせる気か?」

相変わらずの猫背で愛用の机についた川城に、俺は訊いた。

「まさか。適当に説き伏せて家に帰すさ。肥田、君の知り合いに探偵がいたら、日元周辺の富裕層で十代後半から
二十代前半の娘が行方不明になっている家がないか調べてくれ」
「どうして日元の富裕層限定なんだ」
「言葉遣いを気をつけているにしても一切訛りがない。女だてらに計算ができるということは、親に娘を学校に行かせる
経済的余裕があるからだ。田舎娘や下町娘ではありえないだろう」
「川城様」

二回ノックの音をさせて、書斎の扉が開いた。白いワンピースに紺のロングスカートに着替えた女がいた。こじんまりと
納まり過ぎて、俺の好みには合わない。競売会場での奴隷の服のほうがまだそそる気がする。

「掃除用具はどこにありますでしょうか?」
「それなら二階の物置部屋だ……といっても物置がどこか分からないか」

川城は腰をあげて、書斎を出て行った。

「…………」

−−何なんだ。
確かに、川城に女を買わせるつもりだった。
浮いた噂の一つもなく、田舎町に引っ込んでいるくせ、その頭脳でもって好き勝手に研究した成果を勝手に世の中に
認められ、お偉い方々の業界では名声を得ている嫌味な級友に、恩の一つでも売ってやろうと思っていた。
ならば、女がこの屋敷にやってきたことはむしろ予定通りではあるのに。

納得がいかない。


よく晴れた日の午後。
私は久しぶりに書斎を出、小山を道なりに散策した。
新緑の季節を迎えた小山は生命力に溢れている。椈や楢のまだ薄い若葉に、太陽の光が透けていた。

「時計は役に立っているかね」

傍らを歩いていたセツは私の問いかけに穏やかな笑みで「ええ」と答えた。

「おかげで随分、家事の時間を節約できていますわ。こうして英博様と散歩ができるほど」

小山の木々と同じく、この娘もまた若い命の輝きにあふれていた。彼女の自己申告によれば歳は十八だという。
二月前、競売場で私が落札した金額を返すべく、彼女は住み込みで私の屋敷で使用人として働き始めた。仕事の
呑み込みの良さには目を見張るものがあったが、それだけならば単に容量がいい程度の評価であろう。
一月ほどして、彼女は私に時計を貸してほしいと言ってきた。自分の仕事にかかる時間を計るのだという。

「遅い仕事を割り出して、並列的にできる作業がないか調べたいのです」

可憐な外見の中身に英知を飼っている少女であった。

「こんなに働かれては、給料を上げねばならないな」
「とんでもない!今のままで結構です」
「そうもいくまい。早く私に対する借りとやらを返してもらわねば」

セツは月々の労働と、それに対して私が払う月の給料、四分の三を「返済」としている。私ではなく、彼女が決めた。

「ではないと私は君という才能を田舎町で終わらせた大馬鹿者になってしまう」
「そうやって煽てるのは止めてくださいと何度も申し上げていますのに……」
「くっくっく……」

セツは少し拗ねたように眉を寄せたが、照れているのか少し頬を紅潮させた。何故かそれが愉快だった。

−−だが。

楽しい時間とは裏腹に、気がかりがあった。肥田に頼んだ調査の結果がまだ出ない。
間違いなくセツが上流階級の人間であるという確信があった。だのに日元を中心に探偵を走らせても情報は中々
つかめない。もう二月も経つというのに。

「どうかなさいました?」

気がつけば、足を止めた私の顔をセツが覗き込んでいた。

「……君は私を信用しているかね」
「勿論ですわ」

まるでそうでないほうがおかしいとでもいうように、セツは答えた。

「ならば君の身元を教えてくれ」

ざぁ、と風が木の葉を撫でて行った。

「……私を家に帰すおつもりですのね?」
「ああ」

言った私に、セツは何故かおかしそうに笑った。

「そういうことは普通、もう少し遠まわしに聞くものですわよ?」
「時間の無駄だ。君は教えると決めた人間には教えるし、教えないと決めた人間には教えないだろう」
「ふふ、そうですわね」

口元を押さえてくすくすと笑いながら、セツは言った。

「英博様、もう私に帰る家はありませんの」

まだ頬に笑みの余韻はあったが、その目に冗談の気配はない。

「勘当でもされたか」
「いえ……でも、似たようなものかもしれませんわね」

空を眩しそうに見上げてセツは言った。

「ですからお気持ちはとてもありがたいのですけれど、帰そうとしてくださっても無駄なのです。御厭ならば直ぐにでも荷物を
纏め出て行きます。ですが、そうでないのならお傍に置いていただけませんか」

−−無駄と言い切るか。

問いに対してやんわりと回答を拒絶する理由は、詳細がなければまるで説得力がない。が、この賢しい娘がそれに気付いて
いないわけがない。私が小手先で騙せるような相手ではないことも理解している。

−−答えるつもりはないということか。

柔和な笑みで見つめ返すセツを観察して、この場は折れるしかないと悟った。

「……わかった。好きにするといい」
「ありがとうございます」

とりあえず了承はしたものの、私は内心まだ諦めていなかった。私が原因と過程を示さずに結果を納得できる人間ではない
ことを、セツもおそらく知っている。
私は肥田から調査の結果が届くのを待った。

「あの女に似た人間の情報をつかんだぞ」

肥田から連絡があったのはそれから更に一月経ってからのことだった。書斎に顔を出したかと思うと、手にした鞄から十数枚
紙を取り出し机にばさりと置いた。

「似たとはどういうことだ」
「似てはいるが、当人がいるということさ。本田セツ。氏族本田文生の一人娘で、現在海外へ留学中だ。容姿端麗、齢十八」

−−本田セツ。

書類にはクリップで学校の卒業式に取ったと思しき、学生の集合写真が添えられていた。海外の其れを真似て四角の黒い
帽子を被り、まだどこか垢ぬけない顔をした学生達の列の中に、「彼女」の顔があった。
当人がいるという情報がなければ−−否、あっても間違いようがない。これは「セツ」だ。
だが、なら留学中の「セツ」は一体何者なのか。
私は肥田の持ってきた書類に目を通した。
本田セツが留学したのは二カ月半前になっている。高等学校の卒業の時期なのでこれ自体に不自然な点はない。

「……父親が心臓発作で死んでいるな。丁度彼女の高等学校卒業の時期に」
「ああ。だが生活的には何の心配もないようだ。本田氏の親戚筋−−本田氏の兄、つまり叔父の録太郎が彼女の面倒を見て
いる」
「母親ではないのか?」
「本田氏の妻は早くに病死している。子供は彼女一人だ。生憎成人していないということで家督相続の権利がないから成人する
までの間は本田録太郎が本田文生氏の財産を預かることになっている」
「本田文生は氏族という話だが、何故長兄の録太郎が家督を継いでいない?」
「は?さぁ、そこまでは調べてないから分からないな」

肥田は如何にも「何故本田セツの親父のことなんて訊くんだ」と言わんばかりに怪訝な顔をした。
私はセツの言葉を思い出していた。

(もう私に帰る家はありませんの)

「入りたまえ」

夕食後、書斎の扉をノックしたのはセツだった。

「何か用かね」
「恍けるなんてお人が悪いですわ」

−−気づいたか。

本棚に向かっていた私は、仕様がなくセツに振り向いた。

「私のこと、お調べになったのでしょう?」
「ああ」

言った私に、セツは何故かふっと噴き出した。

「何がおかしい」
「そういう時は普通、いいやとかまさかとか言って誤魔化すものですから」
「君の言うその『普通』の対応をしたところで私と君どちらにも利点は生まれそうにないがね。もう君は確信しているのだろう?」
「ええ。英博様がお考えになっている『私』はどのようなものかお聞きしたいと思いまして」

−−変わった娘だ。

端から私が自分のことを調べたことに怒りは持っていない。それよりも、私が導き出した「セツ」の正体の答え合わせをしたがって
いる。

「……本田セツ。齢十八。日限国立高等学校卒業。海外留学中。世間的な君の情報はこれだが、正しいのは高等学校卒業まで
だ」

セツは私の仮説を静かに聞いている。
「君の卒業と同時期に父の本田文生氏が死亡。そこで登場するのが君の叔父、本田文生氏の兄にあたる本田録太郎氏。詳細は
不明だが基本長男に家督相続をさせる氏族にあって、本田家の長兄本田録太郎氏ではなく、次兄本田文生氏が本田家の当主に
選ばれたのにはそれなりに理由があるだろう。が、とりあえずは置いておく」

「それで?」
「録太郎氏にとっては本田家当主に返り咲く絶好の機会だが、生憎文生氏にはセツという子供があった。女子ではあるが実子で
ある以上、彼女が本田家の後継者だ。しかし年齢のためにこれは不可能になった。そこで録太郎氏は強行手段に出た。取替えだ」

「まぁ、派手だこと」

茶化すように言ったセツに構わず私は続けた。

「本人を隠し、彼女に似た人間を使い『本田セツ』を『外国へ留学した』ことに仕立てた。そのまま彼女が家督相続の権利を得る
二十歳まで取替えを継続し、時間が来たところで『本田セツに似た誰か』に家督相続の権利を自分に譲らせる。本物の本田セツは
口を封じるつもりだったのだろうが、何故か生き延びてここにいる」

ぱちぱち、とセツは小さく拍手をした。

「流石英博様ですわ。概ね間違いありません」
「何故競売所に?」
「身の危険を察して屋敷を逃げだした時、運悪く人攫いにあってしまいましたの。まさか近江の地下で人が売捌かれているなど、
こんなことがなければ知ることもなかったでしょう」
「財産と家を取り戻そうとは思わないのか」

セツは逡巡もなく、首を横に振った。

「叔父とはいえ、血の繋がった物同士。骨肉の争いなど醜く愚かしいものですもの。お金は稼げばいいし、勉強は学校でなくとも
できます」
「……」

−−その叔父が、本田文生氏を殺した可能性もある。

肥田の調査の後、本田文生氏について調査を依頼した。死の直前、彼が数回録太郎氏と接触した記録が出てきた。
心臓の発作は特定の薬品を使って誘発できるものであることが近年の研究で立証されつつある。もし、それを録太郎氏が知って
いたら。利用していたとしたら。もう少し調査すれば或いはその確定的な証拠が、

「それに英博様」

セツは微笑んだ。寂しい笑みだった。

「私にとって、父も母もいない家に帰る価値はないのです」
「……」

−−無意味な情報だ。

「……わかった」

セツをここから解放し「本田セツ」に戻したところで、あるのは家督争いだけだ。私はセツに本田家の家督を継がせたいわけでは
なく、まして争わせたいわけでもない。
その才能を奔放に発揮できる環境にいてほしいだけだ。

「ただし約束してくれたまえ。行きたい場所、やりたいことを見つけたらそこへ行き、それをすること。何物にも縛られずに行動する
こと。言っておくが君は自由の身だ。私が君を買ったのはあくまで私の自由意志であり、本来君は私に金を返す必要がないことを
覚えておきなさい」
「はい」

遠くからボーンと寝ぼけたような音が十回鳴った。恐らく応接室にある柱時計だ。

「もう遅い。先に休んでいたまえ」
「かしこまりました」

セツはぴんと背筋を伸ばしたまま深く頭を下げた。

「英博様、お休みなさいませ」






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