光の庭へ(非エロ)
シチュエーション


傍らの傭兵が重い荷物を担ぎ上げた。

「カーナ、僕も手伝うよ」

傭兵の名を呼んで少年が手を伸ばす。
主のジュネは腕力はもちろん身長も体重もカーナには及ばないのだが、それでも何かカーナの力になりたかった。

「いえ、護衛の仕事です」

カーナは静かにそれだけを返す。拒絶でも遠慮でもない、単なる区別を口にする事務的な声だ。
ジュネの出した手の平は引っ込みがつかずにしばし空を掻き、やがて恥ずかしそうに体の脇へと戻された。
二人分の食料や衣服を肩に背負い港へと歩き出すカーナにジュネは慌てて続く。
ジュネの頬が熱い。いくら護衛と言えど、女性に力仕事を任せる自分が情けない。

「ま、待ってよ」
「はい」

ジュネの声にカーナは歩みを止め、子犬のように駆け寄る小さな主を待った。

カーナは女傭兵だ。
背中には鞘に納めた剣がベルトで固定されている。厚みはさほど無い薄い剣だが、幅は太く、長さはジュネの背程もある。
カーナはジュネより幾つ年上なのだろうか。しかしジュネの見上げる彼女の鼻梁や頬の線には、まだ成長しきらないあどけなさが残っていた。
すらりと伸びた手足と引き締まった小さな胴体をタイトな防護服が包む。

くっきりと出た胴のシルエットは成熟した女性の凹凸とは遠く、固い果実のように痩せていた。
それでもすでにカーナの容姿が若い女性として魅力的なことは、小さなジュネにもわかる。
配置や大きさの整った目鼻は華美ではないが小作りな美形であったし、細い体も充分に女性としての機能を果たすのだろう。
ただ、多くの男性がカーナをそういった目では見ないこともジュネは理解していた。

しなやかなカーナの体の中で右腕だけが恐ろしく巨大だった。

荷を支えるその右腕が鉛の色に鈍く光る。義手だ。
カーナの二の腕から先を覆うそれは人の手を模した義手ではない。
甲殻を持つ化け物のそれに似ていた。
凶暴な形を誇示するように尖った外殻が組まれ、肘からは大きな鋼の歯車がはみ出ている。
五本の指は鉄片が重なりかぎ爪の形を成していた。

カーナの腕は街の人々の目を集める。
今も通り過ぎた食料店の前で、王国騎士達がカーナを指してささやき合った。「あんな物どこで造ったのか」「あれで剣が扱えるのか」と。
国でも有数のこの港街は様々な職業や人種で賑わっているが、その住民にもカーナの腕は奇怪に映るのか、カーナの姿を見た者は一様に顔をこわばらせ道を開けた。

当のカーナは、ジュネに危害が及びさえしなければどんな視線にも反応を示さないし、ジュネはジュネでカーナ以外の事は気に止めない。
雑多な人混みを左右に分け、悠然と進む少女と少年は平和でのどかだ。

「ねぇ、カーナは船に乗ったことあるの?」
「はい」
「いいなぁ!僕は初めてなんだ。…ちょっと船酔いしないか心配なんだけどさ…。カーナは船酔いしないの?」
「はい」
「ふぅん。じゃあ僕も平気かなぁ」

ジュネの明るい声にカーナの短い答えが返ってくる。
まるで一方通行な会話だったがジュネは楽しそうだ。
カーナが側に居さえすればいつだってご機嫌なのだ。ジュネの小さな胸の中は常にこの無口な護衛のことで一杯だった。
ジュネは、子供が母に続く様にカーナの背で揺れる青い髪を一心に追う。
ベリーショートの栗色の髪からのぞくおでこや初々しいおろしたての神官服が、12歳という年齢よりさらに彼を幼く見せた。
ジュネの丸い瞳には、街の建物に切り取られた空に溶けるカーナの髪が映る。
網膜に漠然と映るカーナの髪は風にそよぐだけで、他の何の意味もジュネに示さなかった。

通りを抜ければ潮の匂いが一層強く溢れる。

「うわぁ…!海だよ」

ジュネは初めて見る海へと目が釘付けになった。
石段のその先の景色は、途方もなく広がる水面で塗り潰されている。

「カーナ!ほら海だよ!海!」

はしゃいでカーナを追い越し駆けるジュネだが、港へと降りる階段に足をかけた瞬間「ふぎゃ」と悲鳴をあげて立ちすくんだ。
水面に反射したぎらつく光と肌を刺す塩気は内陸育ちのお坊っちゃんには刺激が強く、顔に手をかざしてたじろぐ。

「…しょっぱい…」

呟くジュネの隣を淡々と進むカーナがすり抜けて行く。

「……ねぇ、今気付いたんだけど、カーナの右腕海水で錆びちゃわないかな」

初めて触れる潮風にジュネは心配になって問うが、カーナもカーナの右腕も平然としていた。

「大丈夫です」
「そっかぁ…」

船に乗ったことがあるらしいから、海にも経験があるのだろうか。
ジュネは気を取り直し、カーナに続き石段を降りた。

いくつもの船着き場に国の持つ巨大な船や漁師達の小さな漁船がひしめき合う。
船底を濡らす波音と船乗り達の賑やかな声に混じり、高く響く海鳥の声が心地よい。
二人が目指すのは神殿の旗を掲げた大きな船。二十人ほどの乗組員を抱える、この港に並ぶ中では大きい部類に入る運搬船だ。

辿り着いた二人を初老の船長が待ち構えていた。ジュネの神官服を認めると深々と頭を下げる。

「お待ちしておりました」

船長の挨拶に会釈を返し、ジュネは胸元のポケットから神殿の紋章を取り出して見せた。
鎖でポケットの縁と繋がったその銀盤には、太陽と月とを乗せた天秤が彫られている。公平を表す神殿の証だ。

「中央大神殿より参りました、ジュネリアと申します。この度はよろしくお願い致します」

ジュネの朗らかな挨拶にはいささかの緊張も気負いも見られない。
子供とはいえさすがは神官という人種だと、船長はばれぬよう小さく息をついた。
ふと、顔を上げた船長とジュネの目が合った。レンズの様に澄んだジュネの栗色の瞳に船長の無防備な顔が一瞬映る。
その船長の表情が瞬く間に恐怖で歪んだ。
火に触れた様に船長はジュネの目から顔を背ける。息はあがり、固く握った拳は震えていた。

「…申し訳ありません…」

船長は無礼を詫びるが、ジュネは優しく微笑んだ。

「大丈夫です。勝手に覗き見る様な失礼な真似は致しません」

ジュネに目を合わせられるのを人は嫌がる。
彼の性質を知らない赤の他人ですらも本能で悟る様に、その二つの目を恐れた。

ジュネは、目と目を通して相手の心を透かし見ることができた。
相手がその瞬間に頭に浮かべている映像、音、香り、触感、すべてが鮮明にジュネの頭に送り込まれる。

思い出も。
異臭を放つ肉欲の妄想も。
ドス黒い殺意も。

―あそこのババァ豚みたい。
―頭を切り落とせば、まだ動く?
―もし世界中の男が俺以外死んだら、リサだって俺を。
―焼かれてみたい。
―ユリウス様の髪を掴んでここからあそこまで引きずる。

例えジュネが望まなくても、ありとあらゆるおぞましいモノが流れ込んだ。

物心ついた頃には既に両親の心を読んでいたから、生まれつきの能力なのだろう。
それがあまりに強い想いなら目を合わせずとも顔を見るだけで脳裏に映ることもあった。

「どうぞ…こちらへ」

船長は頭を下げたまま身を引き、船内へ続く渡し橋をジュネへ示した。
いつの間にか船員達が甲板に並び、大神殿からの客人に揃って礼をしている。

「はい!あ、彼女は護衛のカーナです。これからロックまでお世話になります」

ジュネははしゃいで橋へと駆け出した。
カーナは無表情のまま一同に目線で礼をするとジュネに続く。
船員達は礼を解くと、物珍しそうに甲板から二人を見下ろした。

客室に案内するために数人が迎えに降りるが、残りの者はその場で物珍しそうに雑談を始める。
安全な街から離れ海を渡る男達は皆日に焼けた逞しい体をしていた。

「護衛ちゃん可愛いじゃん。やったねー女の子来たよ」
「はぁ?お前あの腕見なかったのか。そっからじゃ見えない?」
「神殿さんのお付きなんだから中央で作った最新の義手かなんかじゃないか」

重い顔をした船長とは対照的に皆気楽そうだった。
それもそのはずだ。ジュネの読心の技のことを知っているのはごく一部の者のみ。
神殿と契約を持つ船とはいえ直接神官と関わりを持たない乗組員は、ただ神殿からの客人としか伝えられていない。
それは、ジュネとこの船員に限ったことではない。上位神官の特異な性質は、この国中でもほとんどの市民は知らないはずだ。
神官の中でも中央に勤める上位の者は、ジュネを含め全員が心を読む力を持つ。それが上位の神官としての絶対にして唯一の条件だった。
それはどんな方法でも構わないが、推理や第六感という不確かな物ではなく確実に他者の内面を暴ける術でなくてはならない。
ジュネはこの瞳のおかげで9歳の頃からこの国一番の高給取りの仲間入りをしているのだ。

「あーすごい!ベッドがあるよ。立派な部屋だね」

ジュネは客室の奥に備え付けられた大きなベッドにポンと頭から飛び込んだ。スプリングが心地良く跳ねる。
ベッドが並んで二つ、テーブルも簡単な収納も付いた小綺麗な部屋だった。床は波で揺れるがかなりくつろげる。
実は狭い船の一室でハンモックに揺られる旅にも憧れてもいたジュネだが、地方神殿のあるロックまでは一週間もかかる。
柔らかな寝床でなければひ弱なジュネは1日で倒れてしまうだろう。
紋章を胸に入れたままの神官服で寝転べば息苦しく、ジュネは身を起こしモソモソと上着を脱いだ。
しかし、カーナが床に下ろした荷物をほどき始める姿が目に入り慌ててシャツ姿で飛び起きる。

「僕もっ!」

転がる様に床に降りると有無を言わせず素早く荷物に手を付ける。
今度こそ何か仕事をしたかったジュネは、張り切って荷物の中身を床に仕分け始めた。

「これは歯ブラシとタオル、これは…あ、食料だ。後で船員さんに渡さないとね。えと、これは僕の着替え」

カーナは立ち上がり、ベッドに脱ぎ捨てられたジュネの上着を皺にならぬようハンガーに通す。
仕分けに夢中なジュネを静かに見守りながら、壁へと架けた。

「これは?…あ、カーナのパンツ…っ!!ああっ、ごめんっ僕見てないから!」

両手で広げてしまった白い下着にジュネの顔が真っ赤に染まる。
慌ててわたわたと下着を衣類の山に突っ込むが、カーナは気にせずに仕分けられた日用品を棚やテーブルに移動させていた。
ジュネはカーナの表情を気にしつつ、衣類を抱え棚へと移す。その布の山を見ない様に赤い顔を背けながら。

他人の心を通して性欲や情交を生々しく知っていたジュネだが、自身はまるで純情だ。
赤子の頃より当たり前の様に人の業に触れて育ったジュネにとって、人の抱くどんな汚泥も「人間なら誰もが普通に持つもの」でしかなかった。
男女の交わりも自分の身の上には遥かに遠い行為でしかない。ただの知識だ。
もちろんこんな能力を持つ人間全てがジュネの様に考えられるわけではない。
神官になってから知ったことだが、自分と同じ様に心を読む瞳を持つ者が過去二人発見されていたらしい。
一人は気が狂って自殺。もう一人は他者の内側に勝手に踏み入る業に絶望し自ら両目を潰したという。
そのどちらもが大人になってから読心の能力が芽生えたというから、生まれつきその目を持っていたジュネは幸せだったのかもしれない。

気に病むことも卑屈に生きることもなく、ありのままとして健やかに少年期を過ごしている。
その不幸な二人の顛末を教えてくれたのは40半ばの先輩の上位神官で、彼は人の体に手で触れることで相手の心を読めた。
強大な力を管理する神殿という職場には必要な術なのだが、神官同士、その術を持つ故の辛さを労ってくれたのだろう。
彼は去年の神殿行脚の役目だった。今年はこうしてジュネが国中の各神殿を巡る。
年少の神官には異例の大役だが、瞳による読心という実用的な能力とジュネの将来への期待に他ならない。

「僕、頑張らなきゃ…」
「はい」
「うん。ありがとう。カーナもよろしくね」
「はい」
「うん!あ、ねぇ甲板に上がってみない?出航までにもっと港の景色を見ようよ」
「はい」
「じゃあ行こ!」

ジュネは元気よく戸に手を伸ばすが、上着を忘れたのに気付いて立ち止まる。
そのジュネの小さな肩に上着が静かに掛けられた。
カーナは無表情のまま、左手と右のかぎ爪の尖端とで傷付けぬよう上着を持ちジュネが袖を通すのを助ける。

「ありがとう…」

ジュネははにかんだ。肩が温かい。

異能の少年と異形の少女。
異常な事など何も無いように、寄り添う。


海に出て3日目。

「怖、怖い、お、降りたいですっ」

船の柱の最上部に作られた見張り台の上、手摺にしがみついて神官衣の少年がへたりこんでいた。
少年の名はジュネ。
満12歳の小さな上位神官である。

(僕は馬鹿だ。なんで登っちゃったんだろう)

自分をいくら罵ってももう遅い。船員に勧められるままホイホイと柱の梯子を登りきってしまったのだ。
登る最中「下を見ちゃ駄目!」との指示に素直に従っていたジュネは、見張り台から辺りを見て初めて真っ青になった。
小さな足場に立ち強い潮風に身を晒せば膝が笑う。
このまま吹き飛ばされ大海原にポチャンと落ちるんじゃないかとすら思えた。
海に生きる船乗りと毎日顔を合わせていたお陰で、ジュネの脳裏には鮮明に水難事故の末路が浮かんでいる。
パンパンに膨れた真っ白な溺死体。フジツボまみれの白骨死体。藻が絡んだ人体らしき塊。

(僕もあんな姿になるのかなぁ。お父さんもお母さんもきっと悲しむよぅわあぁあ)

震えるジュネの姿に甲板は騒然となった。

「神官殿固まってないか?」
「早く降ろして差し上げろ!」

船員が口々にわめいて慌てて柱の下に駆け寄るが、誰より早くその柱を登る影があった。
青い髪が残像を残し風を切る。
ジュネの護衛、女傭兵のカーナだ。
ジュネの声を聞くやいなや、カーナは柱に沿う梯子を目がけ床を蹴っていた。
右手の鉤爪を梯子に掛け、それを支えに振り子のように足を梯子に着ける。
カーナは瞬時に両手を伸ばし、猫科の獣のように身を屈めた。

ギチ、ギチ、ギチ

伸ばされた右腕の歯車が金属音をたてて回る。
そして、十分に勢いを溜めた後、カーナは弾けるように上に跳んだ。

――柱を縦に駆け上がっている。

船員達は唖然としてその人間離れした技に見入った。
ブーツの底が数段飛ばしで梯子を蹴る硬い音が、猛烈な勢いで連なる。
そして、カーナはたった一息の間で見張り台へと辿り着いた。

「ジュネ様」

台に乗り出すカーナの顔を見た時、ジュネは安堵のあまり泣き笑いになってしまった。
カーナの、いつもと同じ小作りな綺麗な顔。静かな青い瞳。
カーナが側に来てくれただけで恐ろしい妄想は途切れた。
しかしジュネのこわばる筋肉は未だほどけず、手摺から体が離れない。

「降ります」

ポツリと言い、カーナはジュネの背に左腕を伸ばし抱き寄せた。
とがった鋼の甲殻で組まれた右腕の義手は、主君を抱きしめるのに適格ではない。

しなやかな女性の腕に絡め取られ、ジュネの体はようやく手摺から引き離された。

「うう…ごめんね、ごめんねカーナ…」

ジュネは両腕両足をカーナの胴に巻き付け必死で捕まる。柔らかな胸に顔を埋め、景色を目に入れぬよう固く目を閉じた。

「降りて来たぞ」

甲板にホッとため息が満ちた。
ジュネを体にくっつけ、今度はゆっくりと両手両足で梯子を降りて来るカーナ。
その姿はさながら猿の母子、と思うが不敬なのでもちろん口にできない。
しかし、ようやく床に降ろされたジュネが「お騒がせしました」と周囲を見回した瞬間、お猿の映像がジュネに滑り込む。
ジュネは真っ赤になってうつむいた。

「見張り台から、白潮が見えました」

カーナが船員にポツリと告げた言葉に、その場に居た全員の顔色が変わった。

「ほ、本当ですか?」

船員に訊かれ、カーナは目線で頷いて短く答える。

「船の前方に」

すぐに望遠鏡を腰に下げた見張り係が梯子を登っていった。
何事か解らないジュネは、不安そうにカーナを見上げる。
その視線に気付き、カーナはジュネの正面に屈んだ。

「アアメという生き物をご存知ですか?」

言いながら神官衣の乱れを直してやる。

ジュネはうん、と首を縦に振った。
アアメは陸地の川辺でも多く見られる。海に多く生息し人間を好んで食う、一般的に魔物と呼ばれる類の生物だ。

「白潮とは、アアメが脱皮し海に捨てた皮を求め海蟲が群れ、海が白く濁って見える現象です」
「え…。じゃあアアメが近くにいるの?」
「はい」
「うえっ!じゃあこの船危ないよね!?」
「はい」

再び青ざめるジュネの耳を、見張り台から怒鳴る船員の声がつん裂いた。

「おい本当だ!進路一時の方向に白潮あり!距離はまだある!」

脅えてと首をすくめるジュネとは対照的に、船員達はカッと体熱を上げた。
船長への報告のため走る者。自らも望遠鏡で前方を覗く者。正に水を得た魚のようにいきいきと動き出す。
海を渡る人間ならば、魔物から船を守って戦うことも珍しくない。
瞳を覗かずとも、顔を見るだけでジュネには船員達の戦歌が聞こえてきた。
戦う。殺す。命をかけて。
男性的な狩りの悦びが高まれば、同時に種を残そうとする本能も高まる。

―護衛ちゃんとヤりたい。
―右腕がトゲトゲして邪魔だから、バックから抱きたい。
―とりあえず戦いの前に一発相手してくれないかな。紅一点だし。

うわ…見るんじゃなかった。
思わず、カーナを船員の視線に晒さぬよう立ち塞がってみるのだが、他人からはこの少年が何をしているかイマイチ解らない。

「神官殿、ご安心下さい。この船には魔物を迎撃する備えがありますから!」

力強く言ってくれる船員に、ジュネはひきつった顔で頷いてみせた。

戦いが、始まる。


夜の海はひたすらに黒く、空も海面も闇に塗り潰され境目を失っている。
象牙色の光をこうこうと放つ月と無数に散らばる星だけが、船と波の輪郭を細く照らしていた。

ジュネは船内でぶるりと身を縮めた。

(お腹、痛い…?)

腰掛けた椅子の上で、不安そうに眉を下げる。
腸が撫で上げられたような感覚を覚えたのだ。
それは一瞬で過ぎ去り、今は不快な余韻だけが体内に漂っている。
ジュネは細い腹を両手で擦り、首を傾げた。

(何か来る…)

おぼろげに抱いた嫌な予感に、思わず板張りの天井を仰ぎ見る。
ジュネの頭上、甲板にはアアメの迎撃に備える船員が10人、そしてカーナが立っているのだ。

(アアメが近いのかな――)

心の中、夜風に翻るカーナの長い髪を浮かべた瞬間。

ぞ、ふ

「うぁ!」

強く内臓を掴まれる悪寒に、ジュネの喉から高い悲鳴が上がった。
その場に居た船乗りが驚いてジュネに注目する。

「神官殿!どうされました?」

船長がジュネへと駆け寄った。
ジュネは椅子を倒し、体をくの字に曲げてうずくまっていた。
慌ててその小さな背を抱きかかえた船長の手に、思いがけない高熱が伝わる。
腕の中のジュネは熱にうなされたようにほてり、喘いだ。

「すごい…、見え…た」

不規則に息を飲み、うわ言のように呟く。呼気は酷く短い。
誰の目から見ても尋常な様子ではなかった。
心配した船長らが水や薬箱を持って周りに集まる。
人垣の中央、船長は膝を折ってジュネを横抱きにし、楽になるよう両足を床に伸ばしてやった。
―戦闘前の緊張で何か発作を起こしたか。
―常に側にいる護衛ならば、この対処法も心得ているか。
船長は、誰かに甲板のカーナを呼ぶよう命じかけたが、ふいに懐から声が上がる。

「カーナ…居なくても、大丈夫…見えただけ…」

驚いて船長がジュネを見下ろせば、丸く開かれた双眸と視線がぶつかる。
栗色のはずの瞳は光の具合か、異様に澄んだ蜜色になって船長を映した。丸い、円い、大きな―…

――嫌だ

本能が恐怖を呼び、船長は危うく抱いた少年を放り出しかけた。
心を視られている。
ジュネは心を視て、それに答えているのだ。
視線を受ける恐怖を踏み止まり、船長はなんとかジュネに頷いて見せた。
船で共に過ごした僅かな日々でも分かる。ジュネは、易々と読心の技を他者に匂わすような愚かな子供ではないはずだ。
おそらく今のジュネには、他人の声も心の中も判別がつかないのだろう。

「あ、また、来たっ」

再び腑を絞られる圧迫を感じ、ジュネは白い喉を反らせた。
小さな唇から漏れる声は声変わりもまだなのか、女のように高く痛々しい。

「あ…、ねえ、すごく…大きいアアメなんです、…もう、来てる…」

身を反らせ空を仰いだまま、ジュネはどこか別の場所を見ているように目を張る。
魔物アアメの名が出た事で船内は緊張した。船長が注意深くジュネに訊く。

「何か、感じられるのですか?アアメがもう船に?」

額まで紅に染め、ジュネは懸命に首を縦に振った。

「今まで…こん、なの、…見えたり、とか、なかった…」

ジュネの脳裏に不安定に揺れる映像がある。

闇色の波に濡れる船の側面、海から伸びる触手が吸い付き緩やかに這い登る。
一本、次いで二本目が海面から伸びた。全部で六本の触手はそれぞれが一抱えの丸太ほどに太い。
そして海中には、牛五体はゆうに飲み込めるだろう巨大な本体が潜む。
通常見られるアアメの二倍の体積。
そ身を粘着力のある触手で船に貼り付け、ずるずると甲板を目指す。

「普通のより、ずっと大きい。右、船の、右手から…。きっと、強い」

船長の指示で一人が甲板への連絡窓に走る。

「強い…こんな大きさの、知らな、から、分からないけど…きっと」

何度も強く相槌を打ち、船長はジュネの額に船員の差し出した布を宛てがった。
水で冷えた布の温度が、揺らぐ脳まで染み入って落ちてくる。
ジュネは強張りを溶かすよいに瞳を閉じ、ゆっくりと長い長い息を吐いた。

いつしか、船長は嫌悪感もなくジュネを見下ろしていた。
上位神官という不気味な肩書きを恐れていたが、今は上気した小さな体から昇る石鹸の香りしか感じない。
この腕にかかる体重の切ないくらいの軽さが、雄弁にジュネの存在を語っていた。

―子供なんだ。これは、ただの人間だ。

「護衛殿を呼びしましょうよ。神官殿も護衛殿が側にいたほうが安心でしょ?」

船員の一人が告げる。

「アアメをやっつけるのは、増員を増やせばなんとかなりますから平気ですよ」

他の船員も頷いて続けた。
この少年がカーナに保護者として以上に特別な好意を寄せているのは、男同士よく分かっていた。
ならば、好きな女の子を魔物から遠ざけてやりたいと思う素朴な心。
どうせ巨大なアアメとの戦闘で散るかもしれない命なら、中央神殿に恩を売って家族に多目に金をやりたいという心。

(…あ…皆、優しい)

いくらか気分が治まったジュネは、ぼんやりと船員達を眺める。

「…お気遣いあり、がとうございます。随分楽になったから、平気です…」

床に手を着いてよっこらしょと身を起こす。

「船長殿も皆さんも、ご心配をおかけして申し訳ありません」

心配そうな一同を見回し頭を下げた。

丁度その時、天井を揺るがすような怒声が響いた。
―始まった!!
全員が頭上を見上げる。

「護衛殿は戻さなくていいんですか?強いアアメだとか…」

最悪の場合、神官と護衛二人で小船で逃がすことになるかもしれないと船員は言う。
ジュネは笑った。

「強い相手なら尚更カーナに当たらせないと。カーナだってすっごい強いんです」

―おいおい、薄情な坊主だな。護衛とはいえ女の子盾にすんなよ。
即座に非難の声がジュネの頭に送られた。
ジュネは困って首を傾げる。

(そう言われても…。小舟だってアアメから逃げ切れないだろうし…)

それに、

(盾も何も、カーナが死んじゃうような敵なら皆殺しにされちゃうよ…)

勿論カーナは大切だけれど、出し惜しみをすれば全員逝く。


ジュネはあっと思い出したように腹に両手を当てた。
何か僕、“よりよく視える”ようになった!?

髪を下ろしたままでは潮風がまとい付くと、カーナは戦に備えて後頭部の高い位置で髪を結っていた。
絹糸を蒼色に染めたような一房の髪。意外にも、活動的な印象のポニーテールはむっつりなカーナに良く似合っていた。
未だ女性のふくよかさを持たない痩せた胴は、頑丈な白い布で縫われた防護服が包む。
プリーツの付いた腰当てと腿から伸びるタイツも同じ白で、無骨な義手と背追う大剣の鉛色が際立った。
髪を束ね白揃えで立つ華奢な身は、共に甲板に立つ十人の男を奮わせた。

(ジュネの坊主もポニテ姿見たかったろうにねえ)

背後に控えた男はカーナの後ろ姿を堪能しつつ呟く。
夜の視界に慣れた目には、この闇の中でも彼女の項のほの白さを感じ取れる。
最後になるかもしれぬと女の肌をよくよく拝み、彼は甲板の柵にずり登る巨大な生物へと視線を戻した。

闇の中、捕捉が難しいかと思われたアアメの出現位置の通達があり、数十秒。
アアメはようやく重い身を甲板へと持ち上げていた。
ジュネの異変を聞いた時は反射的に船内に戻りかけたカーナだが、今は無言でアアメを見据えている。
ここで自分達がアアメを止めねば、人の肉を求める触手はやがて船内への扉を破るのだ。

―グチ、チュ

水飴を掻き混ぜるような粘つく音を立て、小山のような影がせり上がって来た。
木製の柵にヌチヌチと肉がめり込み、柔らかに形を変える。その重量に船は微かに傾き軋みを上げた。
まだこちらから攻撃するには位置が悪い。近付けば触手に絡み取られそのまま海に落とされる。
緊迫が張り巡らされた甲板で、全ての注意がその蠢きに注がれた。

―ヌ、ズルリッ

アアメの全身が甲板に滑り込むその一瞬。
体勢は崩れ、厄介な触手も全て着地に備え床に伏せている。絶好のタイミングと思われた。
後ろに控えた一人が素早くレバーを倒すと、甲板の両脇の照明台に強烈な光が宿り、船上の闇が引き裂かれた。

「んくっ」

急激な明るさに目を眩ませ、カーナが喉の奥から引きつった声を漏らす。
昼間のような明るさの中に現れたのは、半透明の巨大な塊。
丸太程の太さの触手を身の両側に三本ずつ生やし、不意に光を浴びたショックで硬直していた。
白濁した体の中心には複雑にくねった長い管と、それに繋がる葡萄の房のような臓器が幾つか透けて見える。
目も口に当たる器官も無い。周囲の熱を感知し、体全体で餌を飲み込み消化する単純な構造の生物だ。

(クソッ)

船乗り達は配置に付きながら舌打ちした。
報告の通りこのアアメは巨大過ぎる。肝心の臓器が、肉に阻まれ奥深くに霞んでいた。

「面倒クセェ…肉の途中で矢が止まるぞ」

一人の船員が苦い顔で大きなボウガンを握り直す。つがえた矢は鉄製の銛に似ている。刺されば薬が流れ込む仕組みの特殊な毒矢だ。
アアメの内臓に打ち込めば薬が反応し、即座にアアメは死に至る。

「護衛殿!アアメの体を削って下さい!」
「はい」

ボウガンの男の声にカーナは小さなおとがいを引く。頭の尻尾と後れ毛が揺れた。

アアメの肉は柔らかな糊に似ている。刃で断ち切ろうとも即座に傷を元通りに繋げてしまう。
内臓もしぶとく、一部を叩き潰しても他の器官が変わりに動いてダラダラと生き続ける。この矢がアアメの内臓まで届かなければ泥試合だ。
普通のサイズのアアメなら一本でも内臓に刺せば終わりだが、この化物もそれで死んでくれるだろうか。不確定要素が多すぎる。
しかし、挑む他はない。
今更相談し合うより、アアメの硬直時間を見過ごす方が惜しかった。

「行きます」

斬り込み役のカーナが告げると、怒涛のような鬨の声が上がった。

―始まった!!

殺気を孕んだ人間達が一斉に巨体に群がった。
まずは作戦通り、硬直が解ける前に六本の触手を切断する。触手が無ければしばらくアアメは攻撃も移動も困難になる。
数十秒後には再び触手が生えてしまうが、触手分の体積を本体から捻出すればアアメもかなりサイズダウンするだろう。
甲板を力強く蹴る無数の足音を追い抜き、カーナは青い矢と化しアアメの右側面を目掛けた。
走ると同時に背負った大剣の柄を右手で掴む。柄の握りには凹みが彫られており、五本の鉤爪はそれにぴたりと嵌まり込む。
深く握れば剣の鞘がカタンと音を上げて縦に割れ、剥き出しの刀身が解放された。

ギッ、

一際強く踏み込み、カーナは夜空に跳ね上がる。
自由落下の勢いに合わせ、大剣は銀色の曲線となって振り抜かれた。

ドンッ

切っ先が床板にめり込む重い衝撃音があった時、アアメの右側に生えた三本の触手は根本から断たれていた。触手自身の重みで微かに傷口から身がずり落ちかける。
見事な一撃にあちこちからヒューだかピーだか口笛が上がった。
やはり何時でもむっつりなカーナは、息をつく間もなく、着地に反発する筋肉の弾みを使い再び飛んだ。残りは左の三本。

カーナが飛び去った次の瞬間、本体に三つ並んだ丸い断面からドッと濃い体液が吹き出し、床一面に粘つく水溜まりを作った。
切株のような切断面同士が粘液の糸で結ばれ、その糸を手繰るように、裂かれた部位は元の位置に戻ろうと引き寄せられる。
しかし、「引け!!」と野太い号令が掛けられ、数人の船員が斬られた触手を引いてそれを阻止する。
繋がりかけた傷口は糸と共に引き剥がされ、三本の触手は本体から分離した。

開始からここまでの僅かな時間、作戦は流れるようにスムーズに進行していた。
しかし、カーナが左側に生える触手も断とうと踏み込んだその時、アアメは覚醒した。
体の内部、内臓全てが一つのポンプのようにドクンと波打ち、自我を取り戻す。
船上の誰もが推測するより早く、アアメはショックから立ち直った。

突如こちらへ頭をもたげた触手の姿に、カーナの瞳孔がビクリと収縮する。

―ヂュルルッ

嫌な音と共にアアメの三本の触手は起立し、飛び込むカーナに向かい槍のように伸びた。
カーナは咄嗟に得物を振るうが切っ先が二本の触手に切り目を入れただけに終わる。
剣撃を免れた一本の触手が大きくしなり、無防備となったカーナの胴を横殴りに叩いた。

「っ」

あまりに重い一撃に呼吸が止まる。
目の中に墨を落とされたように視界が闇に染まり意識が飛びかける。だが気を失ってはいけない。
自分の戦闘力を欠けば残された人間ではこのアアメに対抗できない。
そうなればジュネが死ぬ。
彼を守る事がカーナの役割。まだ自分は死んではならない。
カーナは叩き落とされながら、揺らぐ視界で天地を見定めた。
着地の衝撃を殺すため鋼の義手を床に向けるが、回り込んだ触手が両腕と胴に巻き付く。
動けない。

―風を切る音の向こう。遠くに、船員達の悲鳴が聞こえる。
ガンと大きな音を立て、カーナは頭から床板に落下した。綺麗な卵型の顔が床にバウンドする。
今度こそ、カーナの意識はブツリと黒く閉じた――

――こ、こんにちは。
…ええと、良いお天気ですよね。あ、曇りか。ははは…。
そのっ、お姿を拝見するに、お姉さんは傭兵さんをしなさってらっしゃるんですよね。
あっ敬語おかしいですね。ごめんなさい。
…ええと僕はご覧の通り神官です。一応上位神官。
えーあのっ、この度ですね、神官付きの護衛を募集しているのです。
それで…お、お姉さんに…僕の護衛をしてもらえないかなーなんて…。
……う、う、お給料も高いし危険な任務も少ないし、神官護衛ってすっごくお徳な仕事なんです。
め、迷惑でしたらもちろん断って下さって結構です。
もし興味がおありでしたらいつでもいいので中央神殿にお越し下さい。
はい。ここの通りを真っ直ぐ行った所の、あれです。
入口のおじさんにジュネリアって名前を出せば取り次がれますから。
あ、ジュネリアって僕の名前です。ジュネって呼ばれますけど。
…じゃ、じゃあその、お待ちしていますのでこれでっ。さ、さようならっ――


緊張のあまり手の平が汗でグシャグシャになっていたのを覚えている。
二年前。ジュネは街を歩いていたカーナを初対面で勧誘したのだ。
今思えば、相当思い切った事をしたものだと自分ですら驚く。

床にぺたりと座り込んだジュネは、古い記憶を丁寧になぞりながら熱の籠る吐息を細く吐いていた。
しばらくすると、落雷のような衝撃がガンと叩き付けられ天井が弾んだ。
首をすくめるジュネや船員達の上に埃や塩の屑がパラパラと落ちる。
額に落ちた塩の結晶にも構わず天井を見上げていると、船長のざらついた指が塵を払い退けてくれた。

「また何か見えましたか?」

船長の言葉にジュネはふるふると首を振る。唐突に沸いた透視の力は熱が引くと共に肉体の奥に隠れてしまった。

「ああいうの、僕も初めてだったんでまだ自由に見えないんです」

読心の力は相変わらず正常に使えますが、とは言葉を接げなかった。
上位神官の読心能力は公には密事なので、一般の船員の居るこの部屋では口に出来ない。
再びアアメの様子が見えるだろうかと腹に力を入れれば、ぐぅと真の抜けた音が鳴った。
普段なら眠りこけているはずの深夜に幼いジュネの体は空腹を訴えた。
ジュネは情けなくて眉を下げる。
―船上では大変な戦闘をしているというのに。

(…あの時、護衛は簡単なお仕事ですとか言ったけど…嘘になっちゃった)

ジュネは瞳を閉じる。

(ごめんね、カーナ)

二年間のあの時、道端でカーナと目が合わなければ衝動的に声を掛けなかっただろう。
だけどジュネは見てしまった。あの青い瞳の中。カーナの内側を覗いてしまった。
―初めて彼女を覗いた時の鮮烈な衝撃が蘇り、ジュネは制服の胸元をぎゅうと掴む。

(多分、一目惚れだったの…。カーナの中を見た瞬間、どうしてもこの人と一緒に居たいと思ったの…)

何故自分が千里眼の能力を発現させたのか推測できた。
カーナと出会ってから二年間、より深く見たい、より鮮明に見たいとカーナに目を凝らしてばかりいたからだ。
酷使する筋肉が太く育つように、瞳も自然と鍛えられていたのだろう。
では、何故ジュネはそこまでカーナに目を凝らしていたのか。

(それは、「見えない」から)

カーナの中に何も見えない事は分かっていても、注意して覗けば何か見えるかもと未だに疑ってしまう。
心が無い人間がこの世界に居るなんて、何年経とうが信じられない。

天井が鳴っている―。
ズルズルと何かを引きずるように端から端へ音が走る。
あれは、何を引きずっている?
ジュネの愛する女の子が引きずられているのだろうか。

カーナの内側。
そこには、何も無かった。






SS一覧に戻る
メインページに戻る

各作品の著作権は執筆者に属します。
エロパロ&文章創作板まとめモバイル
花よりエロパロ