忘れ去られた聖地 前編(非エロ)
シチュエーション


床に散らばる硝子の破片が素足のシャロンを傷つけたが不思議と痛みはなかった。熱に浮かされたようにふらつく体で彼女は割れた窓へと近づいていく。

「可愛い僕のシャル」

窓枠に足をかけ、まるで姫君の寝室に忍び込む秘密の恋人といった様子で青年は微笑む。

「僕はね、思うんだ。このまま君を連れ去るのは僕にとって難しいことじゃない。それは、そうだな。君が薔薇園から薔薇を失敬して部屋にこっそり飾るのと同じか、それよりももっと容易い」

シャロンの枕元に置かれた一輪挿しを一瞥し、青年はくすりと笑う。

「でもね、それが出来ないんだ。どうしてだろうね、君を僕は浚えない」

ようやく窓際にたどり着いたシャロンは呆けた顔で青年を見上げた。

「ああ、可愛い僕のシャル。君が愛おしい」

手袋をつけた指がシャロンの頬を撫でた。

「せ、んせい」

青年の言葉の意味がわからず、シャロンは喘ぐように問いかける。

「先生、何を」

何をおっしゃっているのかよくわかりません。口にしかけた言葉は音になる前に消えた。
幾度となく触れた唇が慣れた様子でシャロンの唇を塞ぎ、そして離れる。

「だからこそ僕は怖いんだ。この僕が恐れを抱くなんて、ああ、なんて滑稽なんだろう」

青年は少しもおかしそうではない、今にも泣き出してしまいそうな顔でシャロンの瞳を覗き込む。

「忘れないで、君は僕のものだ。僕だけのものだよ、シャル」

指が頬から離れるとともに青年の姿がゆらりと煙のように儚く消えた。
伸ばした手が宙を掴み、頬を生暖かい何かが伝い落ちる感触にシャロンは叫んだ。

「先生!」

はっとして辺りを見回す。窓は割れていないし、足も傷ついていない。
ばくばくと鳴り続ける心臓を押さえ、シャロンは頬を伝う涙を拭う。
夢だ。何年も何年もシャロンを苦しめる夢。忘れることを許さないとばかりに、シャロンの記憶が薄れそうになる度に夢は鮮明に記憶を色付ける。
深く浅く呼吸を繰り返してシャロンは意識を落ち着ける。
そして、すっかり鼓動がおさまると彼女は起き上がって身支度を整える。寝間着から白を基調とした制服へ着替え終え、細身の剣を腰に帯びた頃扉を叩く音がした。

「どうぞ」

扉が開き、長身の男が姿を現す。詰め襟の上着は本来上から下まできっちりと釦で留めるよう作られているはずだが男は首元をくつろげて着崩しており、しかしすらりとしたズボンはきちんとブーツの中へと納められている。

襟には彼の階級を表す紋章が印されており、それはよくよく見れば彼の身につけた手袋や腰に下げられた拳銃にもあしらわれている。
シャロンとよく似た格好をしているのは彼も同じ組織に属する人間であり、彼の着ているものも支給される制服だからだ。違うのは色とあしらわれた紋章だけ。

「なんだ、起きてるじゃないか」
「寝ていると思いましたか」
「まあ、少し遅かったからな。他の面子は食堂に揃ってる」
「すみません。ですが、時間には遅れていません」

壁に掛けられた時計を見やり、シャロンは微笑む。男――レスターは緩やかに波打つ自身の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

「シャロン」

上着の釦をきっちりと留め、シャロンはレスターの立つ扉へと歩き始める。

「感情ってのは厄介だろう。一度芽生えた情はそう容易く消え去りはしない」

いつから扉の前に立っていたんだろうかとシャロンは傍らの男を睨みつけたい衝動を賢明に堪えた。

「そうかもしれません。私は彼が憎い。憎しみは正常な判断を鈍らせる。彼を前にした私が憎しみから暴走するとお思いならあなたは私を使わなければよいのです」

感情を消した顔でシャロンはレスターを見上げた。

「私を使うか使わないか。その判断を下すのはあなたで、私はあなたの判断に従うだけ。置いていくというなら素直に従いましょう」

レスターは口を開きかけ、力なく肩を竦めた。

「俺はただお前が可愛いだけだよ。強くなったのは魔術と剣術の腕前だけで中身はあの頃のままだから」

シャロンより頭二つ分背の高い男は、彼女の頬を優しく撫でた。

「レスター。あなたの心配は杞憂です」
「兄弟子としては心配せずにいられないんだが」
「あなたの気持ちは有り難いと思います。ですが、それ以上の気遣いは侮辱に等しい。今や私も一介の魔術師。あなたの庇護下に置かれ守られていた頃とは違うのです」

レスターは溜め息をこぼし、そうだなと呟いた。

「悪かった。お前が可愛いからついつい世話を焼きたくなっちまう」
「いつまでも兄気分では困ります」
「なあに、今だけだ。公私混同はない」
「当然です。そうでなければ困ります」

ぽんと頭に置かれた手を払いのけずに受け入れ、シャロンは少しだけ表情を緩めた。
二人は並んで歩き、食堂を目指した。
食堂では既に朝食が始まっており、シャロンと同じ制服を着た人々が席について食事をとっていた。

レスターが入室したことに気づき、皆が食事の手を止めて立ち上がる。

「さて、全員揃ったところで作戦会議といこうか」

レスターがにんまりと笑い、椅子に掛けながら宣言する。彼の合図に従い全員が着席し、シャロンも自身の席へと腰を下ろした。

数年間頑として足取りを掴ませなかったクラウスの目撃情報を得たのが三日前。事実関係の確認を急いでいた諜報員が姿を消したのが昨日。
この目撃情報が信憑性の高いものであるとして、レスターを中心とした追跡部隊が数年ぶりに再編成された。足取りを掴むための諜報活動を主としていたものから捕獲あるいは討伐を主としたものへと移行する。
シャロン、そしてレスターの属する組織《忘れ去られた聖地》は大陸中央を拠点とした巨大な魔術集団である。大陸に存在する魔術師の約六割は《聖地》に属しているとされ、東西南北の地域に支部を置き、他の組織とは一線を画する。
シャロン達の追うクラウスは元は《聖地》に属する魔術師であり、中核を担う幹部でもあった。しかし、今は《聖地》に追われる立場となっている。
それは、彼がある日を境に忽然と姿を消したためである。《聖地》の情報網を以てしても目撃情報すら得られない。彼は姿を消したのだ。
《聖地》が彼を見つけだすことに諦めを抱きかけた頃、彼は不意に姿を現し、そしてまた消えた。
まるで遊んでいるかのように――現に彼にとっては暇潰しにすぎないのだろう――彼は出奔してからずっと《聖地》の追っ手から逃れ続けているのであった。
初めの頃は穏便に連れ戻すことを目的としていた上層部も、時が経つにつれ目的を捕獲から討伐へと変えてきた。組織の矜持にかけて出奔者を好き放題にさせておくわけにはいかない。
そう言った理由から久方振りに現れたクラウスを捕らえ、あるいは抹殺するためにシャロンを含めた追跡部隊は現在作戦会議に及んでいるのであった。

長い作戦会議が一応のまとまりを見せ、シャロンは自室へと戻っていた。
寝台へ倒れ込み、枕元の一輪挿しを眺める。シャロンが初めて高等魔術を成功させた祝いに師が贈った品で、稀少価値の高い石材で作られた高価な一品だ。シャロンの好きな花の模様が彫られている世界に一つしかない一輪挿し。

『先生、これってすっごく高いんでしょう?レスターさんが教えてくれました』

レスターが推定価格を口にした瞬間からシャロンはその一輪挿しを軽々しく持ち歩いていた自分が怖くなって師の部屋へと転がり込んだのだ。

『さあ、どうかな。僕はそれなりに高給取りだけど浪費家ではないから一輪挿し程度に“すっごく高い”なんて称される額は使わないよ』

師は常と変わらぬ微笑で何でもないことのように言う。一輪挿しと師の顔を見比べ、シャロンは垂れ下がった眉をますます下げる。

『可愛いシャル。それはね、僕が君のために用意したご褒美なんだよ。僕の言いつけを守って毎日鍛錬を怠らず、今の君には難度の高い魔術を成功させた。頑張り屋さんの君へのご褒美』

その頃にはもう師の腕の中で優しい口づけを受けることは珍しいことではなくなっていたから、シャロンは引き寄せられるままに彼の腕の中にすっぽりと包まれる。

『君の好きな花だ』

シャロンの手の中の一輪挿し。その模様をさして師は言う。

『君を喜ばせるためだけに作られたものなのに、君が喜ばないとこの一輪挿しが可哀想だ』

ついでに依頼した僕も可哀想と師は笑う。

『私、割ってしまうかも』
『形あるものはいつか壊れてしまうのだから、それを恐れてはいけない』

それでもうじうじと思い悩んでいるシャロンを愛おしげに見つめ、師はそっと額に口づけた。

『可愛い僕のシャル。では、君のために僕は魔法使いになってあげよう――』

目を閉じれば記憶は鮮明に甦る。今なお胸を焼く思い出を振り払おうとシャロンは一輪挿しを床へ払い落とした。
鋭い音を立て、一輪挿しは砕け散る。けれどもそれは少しの間で、気がつけば元の形へ戻り、床には水と薔薇の花弁だけが散っていた。
忌々しい。シャロンは舌打ちをして一輪挿しへ背を向けた。
どれだけ時を経ても記憶は薄れず、師のかけた魔術も効果をなくさない。

「先生……」

初めは信じられなかった。師が《聖地》を出奔したことも痕跡一つ残さずに姿を消したことも。

それよりも何よりも自分を置いていってしまったことがシャロンには信じられなかった。
彼は魔術の師であるだげでなく、シャロンにとって父であり、兄であり、恋人であった。かけがえのない大切な、心から愛する人だったからだ。
その思いはシャロンの一方通行ではなく、同じだけの愛情を与えられていると信じていただけに置いていかれたという事実はシャロンを打ちのめした。
周囲から慌ただしさが消え、ずいぶんと穏やかになってからもシャロンは呆然として日々を過ごしていた。僅かに残された品すらすべて運び出されたがらんとした師の部屋でシャロンは待っていた。
待っていればいつか帰ってきてくれるのだと信じていた。信じていたかった。
しかし、いつまで待っても師は戻らず、衰弱しきったシャロンを迎えにきたのは兄弟子にあたるレスターだった。
レスターはシャロンを連れ帰り、師は戻らないのだという事実を長い時間をかけてシャロンに認めさせた。彼はもう先生ではないのだ、と。
そうして事実を受け入れてからシャロンは魔術の鍛錬に没頭し、護身のための剣術を標準以上の腕前になるまで磨いた。
戻らないのならせめて自分の手で捕まえたい。それがかなわないのなら刺し違えてでも殺してしまいたい。新しい目標は追跡部隊に選ばれるまでにシャロンを鍛え上げた。
今やシャロンは《聖地》でも上位に位置する魔術師へと成長している。マスターと呼ばれる幹部たちには及ばぬまでも並の魔術師では相手にならないほどには強くなった。
シャロンは腰の剣へと手を伸ばし、柄を握って目を閉じた。
きっとクラウスはシャロン相手に魔術を使いはしないだろう。彼が魔術を使えばシャロンは瞬きをする間に殺される。悔しいがそれだけの実力の差がある。
だからこそ、クラウスと相対することがあればそれは剣術で。シャロンが銃や弓でなく剣をとったのはクラウスが好んだ獲物がそれであったから。
かつて尊び愛した師と斬り結んでみたい。
憎悪と愛情がないまぜになり、シャロンの心がクラウスを渇望する。

結局のところ、シャロンは師に認めてほしいのだ。足手まといだから連れていかなかったというのなら成長した自分を見てほしい。そして悔やんでほしい。こんなに強くなるのなら連れていけばよかったと。
そうしたら、そうしたら、きっと――
シャロンは息を飲む。
どうするというのだろう。彼が自分を置いていったことを悔やんだとして、そうしたらどうするというのだ。
シャロンはゆるゆると目を開く。

「嘲笑ってやればいい。今更何を言うんだって」

自分に言い聞かせるように声に出し、シャロンは再び目を閉じた。こんな気持ちのまま眠れば夢見は最悪。それはわかっていたが、今はただ眠りたかった。






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