エルヴェとツィラ
シチュエーション


マスター、と呼ぶ小さな声に反応し、美貌の魔法使いは読書を中断して顔を上げた。
薬草やらまじない道具やらを胸に抱えた弟子が、相変わらずの無表情で目の前に立っていた。
気配なく人に近づいて驚かれるのは、この無口な弟子の特技だ。
心臓に悪いからやめなさいと幾度注意をしても、自覚のない弟子には師匠の意図など伝わらない。

「……出かけるの?」
「はい」
「今日も、アンディくんのおうち?」

少し間をおいて、彼女はこくんと頷いた。
その拍子に後ろにまとめた長く黒い髪が、ゆらりと踊った。

「デボラさんの風邪、まだよくならないの?」
「はい」
「アンディくんは家にいるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、ツィラが行く必要ないと思うけど?」
「……………………」

ふるふると首を左右に振った後、ツィラはじっと魔法使いを見つめた。
当の師匠は、瞳を半分閉じて、咎めるような視線をツィラに向ける。

弟子との睨めっこはいつも長くは続かない。
ツィラは沈黙が気にならない。
エルヴェが行動を起こさないかぎり、この膠着状態は何時までも続く。
諦めてエルヴェは溜め息を一つついた。

「今日は行ってはいけないよ」
「……ご用事ですか?」

おや、とエルヴェは思った。

表情も感情も読みにくいツィラではあるが、思考は割と態度で判る。
いつもなら素直にはいと返事をする場面だ。
質問で返したということはよっぽどアンディの家に行きたいらしい。

「まぁ、用事と言えば用事。はいこれ」

ぽんと、今しがたまで読んでいた本をツィラに差し出した。
ツィラは微動だにせずエルヴェを見つめている。

「全部読んだ後に三章までの魔法律を暗唱。出来たらアンディくんちに行ってもいいよ」

それはツィラには難しすぎる内容で、優秀な弟子でも読むだけでまず三日はかかるだろう。
魔法書を読むと言う行為は只文字を追うだけではいけない、と普段から教えている。
従順なツィラはおそらくその教えに従い、すべてを理解しようと努力をするだろうし、三章までを暗唱するには更にその倍の時間がかかるに違いない。
ツィラにも時間の計算は出来ているはずだ。
ひょいと弟子の抱えた包みを取り上げて、空いた腕の中に分厚い魔法書を持たせた。

相当不満と疑問を抱いているはずなのに、ツィラは何も口にしない。
文句をぶつけてきたのなら言いくるめる自信もあるのだが何も喋らぬ相手と討論は成り立たない。
かといって素直に従う訳でもない。
彼女なりにこの理不尽な状況を享受しようと何か考えているか、もしくは思考を停止しているか。
どちらかは判らないが、エルヴェはぽんとツィラの頭に手を置いた。

「デボラさんの事は心配しなくていいよ。今日は特別にこの大魔法使いエルヴェが診察に行くからね」

やっと顔を見せたツィラの瞳に、安堵の色がともる。
頭に乗せた手で、くしゃりと前髪を撫でてエルヴェは優しく微笑んだ。

「じゃあ行ってくるよ。ついでに買い物をしてくるから少し遅くなるかもしれない。

ツィラは外に出ないように」

「……はい、マスター」

小さく頷いた弟子に見送られ、自称大魔法使いは扉を開けた。


*

夕暮れの足音が聞こえ始めた頃に魔法使いが帰宅をすると、弟子は食卓でちゃんと分厚い魔法書と向き合っていた。
お帰りなさい、と振り向かずに言った弟子の背筋はきちんと伸びていて、いつもながら感心する。

「ただいま」

穏やかに言葉を紡ぎ、ぴんと伸びた背中に近づく。
魔法書は三分の一ほど読み進められていた。
予想よりも早いペースだ。
そんなにアンディがいいのかなと目を細めたエルヴェが、ツィラの細い指を見てため息を落とす。
ページを繰る右の人差し指と中指が、痛々しく真っ赤に腫れ上がっている。

「ツィラ」

怒りを含めて名を呼ぶ。
弟子は怯えも驚きもせずただ、はい、とだけ言った。

出掛けに魔法陣を施しておいた。
中に居るものがそこから出ようとすれば、その身が焼かれるといったごく単純なものだ。
ツィラが少し頑張れば、解除は可能だったはずだ。
今彼女が読んでいる魔法書の第一章八項目が正に解除の方法に関する魔法律だからだ。
ツィラは指を軽く焼いて、魔法陣に気が付いたが突破はしなかった。
更にその回りに施された魔法陣の存在――こちらは格段に高度で、陣に触れた者を眠らせるという罠めいた術だ――に気が付いたためかは判らない。
ダミーの陣は突破しなかったが、禁じた外出はしようとしたのだ。
ツィラらしからぬ行動に、エルヴェは怒りをよりも戸惑いを強くする。
命を破ってまで、アンディに会いたいのだ。

「ツィラ」
「…………」

ツィラの真横に立って、痛々しく腫れ上がる指に触れる。
痛みのためかツィラの細い肩がぴくりと揺れた。
残酷な響きを込めて、エルヴェは通告する。

「引越しだよ」
「はい」
「決行は今夜。今すぐ準備を始めなさい。理由は判っているね?」
「……親しく、なりすぎました」
「そうだ。ここは気候もよく野菜も美味しかったんだけどね、残念だ」

返事がないのは承知で、次はもっと北の方へいこうと告げる。
珍しく泣くか反抗をするかと弟子の横顔を見やるが、相変わらずの無表情を多少青白くさせているのみだった。

「さ、準備だ。その前に」

ツィラの手首を握って、赤い指先を自分の胸もとまで持ち上げる。

「治さないとね」

治癒の呪文を唱えようと口を開いたところで、ツィラがぎゅっと指を握りこむ。
立ち上がって、ふるふると首を左右に揺らした。

「ツィラ?」
「治さないで下さい」
「痛いでしょ。それに早くしないと痕になる」
「罰を」
「僕は罰するために魔方陣を敷いたわけじゃないよ……今日のお前はどうも様子が可笑しいね」

エルヴェから視線を外し、また首を左右に振る。
自分は間違っていないのに、ツィラに酷い仕打ちを与えている錯覚に、魔法使いは陥った。

「何か言いたい事は?」
「……、半刻だけ、時間をください」
「何故?」
「デボラさん」

ツィラの表情が動いた。
眉根を寄せて、泣き出しそうなのを堪えるかのような表情だ。
だけどそれは一瞬で、すぐにいつもの仮面のような顔に戻る。

「彼女なら大丈夫だよ。明日には起き上がれる。三日後には全快だ」
「マスター。お願いします」

ぺこりと頭を垂れた弟子に、魔法使いは嘆息する。
普段従順なくせに、言い出したらこの上なく頑固だ。
今日だって、無理矢理に閉じ込めるような真似をしたからツィラは怪我を負ったのだ。

「お別れでも言うつもり?ヘタな事をすれば騒ぎになるよ」
「約束をしました。また明日、と」
「それだけ?」
「はい」

三たび魔法使いはため息を落とす。
諦めて好きにさせてやる事に決めた。
無造作に椅子にかかっていたローブを、弟子の肩にかけてやる。

「必ず一刻以内に戻りなさい。不用意な発言は控えるように」

ぱっと顔を上げたツィラの顔が、心なしか嬉しそうだ。
この表情を見られただけでも、許可を下ろした価値はあったかもしれない。
フードを目深にかぶせて頭を撫で、今度は師匠が弟子を見送った。

*

「ツィラ!来てくれたのかい?」

デボラはベッドの上で大歓迎をしてくれた。
この風邪ですっかり痩せた――それでもツィラの倍ほどはありそうな身幅を起こそうと上体を持ち上げたので、ツィラが慌てて静止する。
大人しく横になったデボラに、半人前の魔法使いは優しくブランケットを掛け直した。

「さっきあんたの先生が、今日は来られないって言ってたから心配したんだよ」
「ごめんなさい」
「いいんだよ。何ともないなら、それでいいんだ」
「はい。お身体は?」
「あぁ、あんたの先生は本当に立派だね。さっき貰った薬を飲んだらずいぶん楽になったよ」

よかった、と安堵のため息をツィラがもらす。
デボラの暖かい手が伸びて、そっと彼女の頬を指の背で撫でた。

「今日は、何だか元気がないね」

デボラの鋭い言葉に驚いたが、もちろん表情には出ない。
小さく首を横に振って、静かに微笑んだ。

「何か辛い事でもあるんじゃないかい?アタシに話してごらん?」

頬を撫でた手が、ふわりと髪を撫でる。
まるで幼子にするかのようにあまりに優しい。
ツィラは慌てて身を離した。
このまま撫でられ続けたら、もっと甘えていたくなってしまう。
代わりに、大きくて少し荒れたその手をぎゅっと握った。

「魔法の修行ってどんな事するのか知らないけどねェ……アタシにはあんたが不憫に見えて仕方ないよ」

じっとツィラを見つめるデボラは憐憫の情を込めた眼差しだが、決して見下しているわけではない。
デボラの言わんとすることはよく判る。
まだ少女にも見えるツィラが、親元を離れて年若い魔法使いに師事するのはとても不自然だ。
息子のアンディと同じぐらいの年のツィラを、娘のように思ってくれていることもよく知っている。
でもツィラは、エルヴェに頼って生きてきたのだ。
師に不満を抱いたことも、現状を不幸だと思った事も一度もない。

「あんたがうちの娘だったらいいのにねぇ……」

アンディだって、と続けたデボラの言葉を遮るように、勢いよく当のアンディが飛び込んできた。

「ツィラ!」

まるで甘い菓子を与えられた子供のように、満面の笑みを浮かべてデボラからツィラの手を奪う。
強引に握り締めて、悦びを全身で表現するかのごとくぶんぶんと振り回した。

「来てくれたんだな!心配してたんだぞ!」

ぎゅっと握られた指先がずくんと痛んで、思わず眉を寄せて手を引いた。
その様子に気がついたアンディが視線を落とした後に、見る見る顔を険しくする。

「ツィラ。ちょっと来い」

手首を握りなおし、ぐいと引かれて身体がよろめく。
アンディは振り返ることもなくツィラを引っ張ってデボラの寝室を出ようとする。
ツィラは慌てて振り返り、デボラに小さく微笑みかけた。

「早くよくなって」

アンディに引きずられながら、やっとそれだけを伝える。
デボラはああ、と言った後、また来ておくれねと言葉を続けた。

もう会えない、と事実を告げ、強く抱き締めてもらいたくなる衝動を何とか抑えて、ツィラはデボラに手を振った。
エルヴェの命令は絶対だ。
二度と、落胆させるようなことはあってはならない。

*

「これ、どうした?」

何故か裏の畑までツィラを引きずってきたアンディは明らかに不機嫌だ。
乱暴に目の前に自分の手を突き出されて、ツィラは痛い、と言おうかと思ったがやめておくことにした。

「やけど」
「そんなの見れば判る。どうしてこんなに酷く火傷をしたかって聞いてるんだ!」
「修行中に」
「…………ツィラ」

少年、というには精悍で、青年というには幼さが残るその顔を歪めて、悲痛ともいえる声音でアンディが名を呼んだ。
なぜアンディがそんな顔をするのか判らず、ツィラは小首をかしげた。

「もう、魔法使いなんて止めちまえよ」

――どうしてそんなことをいうの?

ツィラが心に浮かんだ言葉を口にする前に、アンディに肩を引かれて強く抱き締められた。
息苦しさに小さく暴れたが、腕が緩む気配はない。

「ツィラ。結婚しよう。まだ若すぎるかも知れないけど、
父さんも母さんもツィラのこと気に入ってるし何の問題もない」
「…………?」
「あんな得体の知れない男の所に、ツィラを置いておけねぇよ。
とりあえず荷物を纏めてウチに来い。話はそれからだ」

アンディの言っている意味が判らない。
意味は判るのだけど、何故そんなことを言い出すのかが判らない。

「俺と一緒に畑を耕して、子供を産んで、育てて、平凡に生きるんだ。
それがツィラの幸せだ。そうだろ?」

背に回った腕に力を込められて背中が軋んだ。
ツィラはぐいとアンディの胸を押し返す。
意外にもあっさりと、青年は少女を解放した。
だけど首を左右に振った少女に、顔色を変える。

「なんか、弱みでも握られてんのか?」

もう一度、否定を込めて横に首を振る。

「どうしてもアイツから離れられない理由があるとか?」

少し迷って、無表情のまま首を左右に。
その拍子にフードがはらりと落ちる。
はっとアンディが息を呑むのが判った。

「……ツィラ」

掴んだ肩をぐいと引かれて、身を捩る間もなくくちびるを塞がれた。
びくりとツィラの身体が震えたのち、急に大人しくなる。
数度触れるだけの口付けを繰り返して、名残惜しげにくちびるを甘く噛んでアンディが離れた。
動揺を抑えて息を整える暇もなく再び細い身体を抱き寄せられて、アンディの指がさらさらと揺れる髪の感触を確かめるように、ゆっくりと側頭部を撫でる。

青年の声がすぐ近くで響く。

「……エルヴェさんに言われたよ。ツィラにこれ以上近づくなって。
これは警告だ、だってさ。あいつ、ツィラの何なんだ?」
「マスター」
「師匠?父親?それとも主人?」
「ぜんぶ」
「全部?」
「そう。マスターは私のすべて」

ツィラからは見えないが、アンディは眉根をきつく寄せて不快を露わにする。

「ツィラ」

なに、と言う代わりに、ツィラが身を捩った。

「昨日も、俺たちキスしたよな?」

こくんとツィラは頷いた。

「その時、お前、何て言った?」
「あなたに会えてよかった」

うんうん、と首を縦にふったアンディが、ふと思いついてツィラに問いかける。

「どうして?」
「デボラさんに会えた」

あなたがすきだから、と言った類の甘い言葉を期待していたアンディは見事に打ちのめされる。

「……俺と、エルヴェさん、どっちが大事なんだ?」

アンディは肩を掴んで、白い顔を睨むように見つめながら聞く。
ツィラが、すっと視線を逸らした。

「いいから、言ってくれ」
「比べられない」

彼ははほっと安堵するが、すぐにそれはかき消された。

「マスターだけが、私の生きる意味」

比べられないのではなく、比べる必要もない、と無口な美少女は言いたかったのだと即座に理解して、青年の胸に嫉妬の炎が灯る。

「じゃあアイツがいなくなれば、次は俺がツィラのすべて?」
「アンディ?」
「ツィラ、愛しているんだ」

アンディの瞳が、黒く濁った。
気がついたときには遅かった。
今度は荒々しくくちびるを奪われ、息苦しさに身を捩っても許しては貰えず身を硬くする。
抗議の意を込めて、どんとアンディの胸板を叩いたけれどすぐにその手首もさらわれてしまった。
心地の悪いくちづけが続く。
もう帰らなければ約束の一刻に間に合わない。
ずいぶんと長いこと抵抗を繰り替えし、やっとアンディのくちびるが離れた時にはツィラの息はすっかり上がっていた。
どうしてと聞く代わりに、走り去ろうとしたが、握られた手を強く引かれた。
アンディの眼は黒くからっぽで、目の前のツィラを写してはいない。

「アンディ!」

呼びかけに答えず、くるりと踵を返してアンディが、またツィラの手を乱暴に引いて歩き出す。

「行こう」

どこへと問いかけても返答はなく、ただツィラはアンディに引かれるままに歩いた。

*

「お帰り、ツィラ」

珍客に動じることもなく、魔法使いは穏やかに二人を出迎えた。
気に入りの椅子に深々と腰をかけ、足を組んでにこやかに微笑む師匠に、ツィラの背筋がぞわりと冷えた。
前にいるアンディは何も感じないのだろうか?

「アンディくんはなんの用事?これから忙しくなるから手短にね」
「この村から出て行ってくれ」

ほう、とエルヴェは楽しげに目を細めた。

「雨が足りない。このままでは不作になる。あんた、何か知ってるんじゃないのか?」
「…………どういう意味かな」
「根無しの魔法使いは災厄を連れてくる。あんたが、日照りも病気も呼んでいるんだろう?

母さんが倒れて気がついたよ。誰も、あんたとツィラがいつからここにいるのか思い出せないんだ」

「それで?」
「ツィラを置いて出て行け」

喉の奥で、エルヴェがくくっと笑った。

「百歩譲って出て行けという結論は理解しよう。どうしてツィラを置いて、となるのかな」
「ツィラはお前に騙されている。本当は俺といたいのに、呪われてそう言えないんだ」
「アンディ」

くいとアンディの服を引くが、彼は振り向かずに大丈夫というだけだった。
違う。
このまま続ければ、大丈夫でないのはアンディのほうだ。

「ツィラは魔女だよ。騙されているのは君のほう」
「違う、ツィラは俺を騙したりしない。俺といるのが、ツィラの幸せだ。
どうしても出て行かないんだったら力ずくだぜ。もうすぐ、父さんたちもここへ来る」

アンディはもうツィラを見ていない。
ただ「ツィラを手に入れる」という目的に取り付かれている。
やれやれ、と魔法使いは呟いて、ゆっくりと立ち上がった。
アンディがかばうようにその身を隠している弟子に向かって、低く名を呼ぶ。

「…………ツィラ」
「はい」
「面倒なことになったね」
「申し訳ありません」
「おいで」

唐突なエルヴェの声と同時に、ツィラが勢いよくアンディの腕を振り払って駆け出した。
はっと気がついたアンディが追いつくより前に、エルヴェの腕の中に飛び込んでしまう。
たったそれだけの間に、魔法使いは詠唱を完成させて杖を振り上げる。
目がくらむほどのまばゆい光に襲われて、アンディはぐらりと身体を揺らす。

次に目を開いたときに彼は鬱蒼と茂る森の中にたった一人で膝をついていた。
誰かと対峙していたはずなのに、どうしてもその相手が思い出せず苦悶する。
それよりも、愛しい少女は確かに自分の後ろにいたはずなのにいつの間にか掻き消えていて、アンディは少女の名を呼びながら森を駆け回った。
その後森に入ってきた村の男たちに、ツィラはと聞いても誰もがそんな名前は知らないと首をひねるのだった。

*

急に室温が下がり、魔法使いは予め決めた経緯に無事移動を完了したと理解する。
腕の中の少女は、大人しく抱かれたままぽつりと呟いた。

「申し訳ありません」
「間に合ったからもういいよ。……これで判った?」

腕の中で、ツィラが小さく頷いたのが判った。

人は魔術に魅せられる。
美しいものに強い魔力が宿るからだ。
魔女が望まなくても、勝手に人は囚われる。
付き合いは慎重に、と普段から口を酸っぱくして教えていたのに。
今まで上手くやってきていたツィラが、ついに失敗をした。

「アンディくんは少し気の毒だけどね」
「記憶は」
「時間が足りなかった」

一度魅せられたものは、いつまでも魔女を追い続ける。
焦がれて焦がれて、悪くすると気が狂れてしまうかもしれない。
村の者は誰も覚えていないツィラの名を、アンディはしばらく呼び続けるだろう。

「警告、してあげたのにね」

その警告がアンディを煽った自覚も多少はある。
しばらくしたら、アンディの記憶を消しに行ってやってもいい。
これであの村の事件は万事解決だ。

さてこの頑固な弟子はどうしようかと腕を緩めると、珍しい光景にぎょっとする。
その大きな瞳から、音もなくぽろぽろと珠のような涙を溢している。
眉根を寄せるでもなく、嗚咽をあげるわけでもなく、ただ雫を頬が伝うだけだ。
すっと指を伸ばして頬を拭い、エルヴェは優しく問いかける。

「せめて穏やかな別れができたらよかったのにね」
「…………はい」
「アンディくんが、好きだったの?」

返答をよこさぬツィラに、かっと胸が熱くなる。

もしもツィラが頷いたらどうするか。そんな事も決められないまま、口がすべっていた。
ずいぶん前から、己の抱く不自然な愛情に気がついていた。
いや、あの日、ツィラに初めて出会った日から、もうそれは始まっていたのかもしれない。
ツィラが大人になるまでは、よき師であり、よき父親で、よき兄であろうと誓ったのに、あんな小僧に嫉妬して、見苦しい事この上ない。

アンディにくれてやるつもりはない。
だけどこの籠の中にツィラを閉じ込めている己が、笑顔を封じてしまっているのだったら。
鍵を開けて、出してやるべきなのか。

「僕は余計な事をしたのかな」

ツィラの濡れた双眸が、真っ直ぐにエルヴェを見上げる。

「ずっとあそこにいたかった?」

今ツィラが首を横に振ったのは、本心からか、建前なのか。
ただ涙を流すのみの表情から弟子の真意は読めない。

「修行なんて、もう止める?普通の女の子のような穏やかな幸せを、ツィラは選ぶ事だってできる。そうするかい?」
「……そうせよと、仰るなら」
「ツィラの気持ちを聞いている。自分で選べない人間が魔術を扱うべきではないよ」
「私は、」

くちびるを薄く開いたまま、ツィラは動きを止める。
しばらくそうしてツィラを待ったが、ぽろぽろと涙を流すだけでツィラが話し始める気配はない。
エルヴェはそっと、弟子の頭を撫でた。

「…………お前は、もう少し自己主張を覚えたほうがいいね。
欲しいものを欲しい、嫌なものは嫌だとはっきり言うのは、悪いことじゃないよ」

おずおずとエルヴェを見上げたツィラの瞳が、丸く見開かれる。
少し迷うようなそぶりを見せて、ツィラはぎゅっとエルヴェの胸元を握った。

「………………疎ましく、お思いですか?」
「何を?」
「私を」
「……またびっくりする様な事を言うね。そんなわけないだろう」

ローブをゆるく握る少女の手が、小刻みに震えているのに気がついた。
ひょいと軽い身体を横抱きに持ち上げて、そのまま柔らかいソファに腰を下ろす。
数年前、ツィラがここへ来た日。
あの日も同じように、理由も言わずただこんな風に泣き出した。
その時と同じように膝に乗せ、ぎゅっと首にかじりついたツィラの背を、エルヴェは優しく撫でる。

「ツィラは優秀な弟子だ。手放したいはずがないよ」
「でしたら何故、選べと仰るのですか?」
「当然の権利だからだよ。誰もが幸せになる権利がある」
「マスターの仰る、普通の幸せとは何ですか?」
「うーん。愛する人と一緒になって、子供を産んで、育てることかな」
「どうしてここでは、それが手に入らないのですか?」
「ここには僕とツィラしかいない。元来魔法使いとは孤独なものだよ」
「孤独でなければ、魔法使いにはなれませんか?」
「一概にそうとは言い切れないけどね……いつかツィラも一人前になってここから出て行くだろう?」
「出て行かなければ、いけませんか?」
「一人前になったらね」
「では生涯見習いでいることは、可能ですか?」
「ツィラ?」
「……お願いです。どうか出て行けなどと仰らないでください」

首の後ろに回された細い腕に、力がこもる。
美貌の魔法使いは逡巡した。
ツィラの願いが、自分それと同質なのか判別がつかない。
父親や母親を愛するように、漠然とずっとそばにいたいという子供の抱く情愛ではないか。
親のないツィラが、やっと手に入れた家族のぬくもりに縋りたいだけではないか。
エルヴェは迷う。
第一、ツィラはまだ子供なのだ。
恋や愛などを理解した上での発言とは、到底思えない。
相応しい返答が見つからず、沈黙が続く。
エルヴェの手は戸惑いがちに、だけどこの上なく優しくツィラの背を撫でる。
弟子の真意も読めないようでは師匠失格だなとエルヴェは苦々しく思う。

「マスター」

いつものように小さく呼ばれて顔を上げれば、ツィラの端正な顔がそこにあった。
濃い碧眼が、今までにないぐらい間近に迫り魔法使いは珍しく動揺する。

「ツィラ?」
「愛しています」

愛?と聞き返すまもなく、小さなくちびるが重ねられる。
戸惑いがちに触れた暖かいそれに、魔法使いはくらりと酔った。

欲しがれ、と言ったのはエルヴェのほうだった。
ツィラは欲しがった。他でもないエルヴェを。

背に回した手にぐっと力をこめて、それはもう官能的にツィラのくちびるを貪った。

「…………ぅ、」

息苦しさからか腕の中でツィラが身をよじるが、エルヴェはそれを許さない。
逃れようと小さくもがくくちびるを執拗に追いかけて、舌を割り入れ蹂躙する。
徐々に抵抗は弱々しくなり、ついには腕の中でぐったりとしたところでくちびるを開放する。
潤んだ眼差しを向けるツィラの身体を、ぎゅっと抱き寄せた。
後頭部を撫でながら艶やかな髪を留める紐を解いた。
さらりと髪が肩に落ちて、ふわりとツィラの香りがエルヴェの鼻腔をくすぐった。
酔い痴れてエルヴェは、もうどうなっても構わないと理性を飛ばした。

「……僕の愛は、ツィラのとは違うよ」
「どう、違うのですか?」
「教えてあげてもいいけど、後戻りはできない。途中で止めることも。……どうする?」
「教えて、ください、あ」

みなまで言い切る前に、エルヴェはツィラを抱いたまま立ち上がる。
冷静にツィラは師匠の首にすがりつく。
にっこりとエルヴェは微笑んで、そのまますたすたと歩き出した。
ドアの前まで歩めば、自動的にその扉は開く。
一歩部屋から出れば、元来廊下があるはずのそこはもうエルヴェの寝室だ。
力の無駄遣いだと自覚はあるが、両手が塞がっているのだ、仕方がない。
こういうとき、魔法使いでよかったと心底思う。
生成りのシーツの上に、そっとツィラを横たえる。
その顔を覗き込めば、瞳は濡れているがいつもの無表情だ。
少しぐらい不安な顔をして見せればものを。
だけど身体を重ねればこの無表情がどう動くのか、期待にエルヴェの心は愉快になる。

「マスター?」

くびもとに、音を立てて吸い付く。
ツィラの身体がぴくりと震えた。
きつく痕が残るように吸い上げて、ぺろりとくびすじから順に耳朶までをなぞった。
びくびくと面白いほどにツィラの身体がエルヴェの舌に応え、ぎゅっとローブを握るその様子に愛しさで胸が熱くなる。

ずるずるとした二枚のローブを床に落とし、簡素な洋服の腰紐を解く。
むき出しになった白い肩は、細いながらも女性らしいなだらかな曲線を描き始めていた。
いつまでも子供だと思っていたが、それはただのエルヴェの希望でしかなかったのかもしれない。
そっと撫でると、胸元を引いてツィラが意識を呼ぶ。

「私は、どうすればよいのですか?」
「どうもしなくていいよ。力を抜いて。嫌だったらそう言えばいい」

嫌だなんて、という表情を見せるツィラのくちびるを塞ぎ、衣服を剥ぎ取る。
つつましい下着のみの白い身体が、薄闇に浮かびあがった。
肌馴染みの良いふとももを撫でて開かせ、強引に細い足の間にエルヴェは身体を割りいれた。
首筋から鎖骨、対のふくらみまで、ゆっくりと撫で下ろす。
片手に収まってしまうほどの大きさでしかない乳房だが、つんと可愛らしく上を向き、まるでエルヴェを誘っているようですらある。
やわやわと揉みしだきながら、淡く色づく突起に甘く歯を立てる。

「……あ、ぅ」

控えめに声を上げて、すぐにツィラはくちびるを引き結ぶ。
さらにくちびるで挟み刺激を与えると、ツィラの細い腰が誘うようにくねった。
構わず吸い上げて、ずるりと逃げるように身を滑らせた少女の背に手を回して抱き寄せた。
息のかかる距離で顔を覗き込んで額を撫でる。

「寒くない?」
「いいえ、むしろ熱くて……なぜですか?何か術をお使いに?」
「そうだね、似たようなものかな」

冷えの厳しい地に引っ越したばかりで抱き合うのは、暖を取れて合理的かも知れない。
魔法よりも簡単に、だけど確実に身体を内側から燃やす快楽に、ツィラが溺れればいい。
確かに火照る身体を撫で回しながら、下肢に手を伸ばす。
下着を剥ぎ取って秘部に触れると、そこはうっすらと湿り気を帯びていた。
控えめに膨らみを見せるそれを、指の腹で撫でて蜜を絡ませる。
先程のてのひらと同じラインを、くちびると舌でつっと撫でる。
胸から腹へ。腹からついには下股へと舌を這わすと、初めてツィラがはっきりとした拒否を荒わに身を引いた。

「あの、マスター。どうしてそんなことを?」

どうしてって言われても困るな、などと思いつつ、ぐっと腰を引き寄せてまだ潤いが足りそうになりそこを舌でなぞった。

「あっ、だ、めです……んんっ」

構わずにぷっくりと悦びを露にする突起に吸い付いた。
力の入った細い足が、びくびくと震える。
初めての快楽に、ツィラの背中が弓なりに反れた。
自分の指にもたっぷりと唾液を含ませて、身を硬くするツィラの内部へと侵入をさせる。

「え…あぁっ!」

そこはやはり異物を排しようと頑なだ。
この小さな身体が受ける痛みを少しでも軽減できればとは思うものの、さして太くないエルヴェの指でも自由に中を動けない。

時間をかけてゆっくりと、エルヴェはそこをほぐしていく。
頬を朱に染め、不安と悦びと、少々の怯えを入り混ぜた複雑な表情をツィラが見せている。
こんな顔をするのだ、とエルヴェは知った。
この顔が、他にはどんな風に快楽に歪むのか、もっと見てみたいと強く思った。
悲鳴にも似た吐息を吐きながら、苦しげに首をゆるゆると振るツィラを容赦なく追い詰めた。
身をよじってぽろぽろとただ涙をこぼしていたツィラが、果てのない快感についに懇願をする。

「ぅんっ、マスター……あ、やっ、も…いや、です……」
「……いや?」
「どうにか…なって、しまいそうで、あっ」

どうにでもなればいい。
そうは言っても最初から激しくして、嫌われてしまっては元も子もない。
時間はたっぷりある。
ゆっくりと、教えていけばいい。
さし当たって今日は、肌を合わせることの心地よさだけでも知ってもらえればいいかと、苦笑いを落とし、指を引き抜いて身体を起こした。
膝裏を抱えて、大きく足を開かせる。
羞恥にぴくりとツィラの身体が震えるが、抵抗する様子はない。

「力を抜いて。痛かったら言うんだよ」

ちいさくツィラが頷くのを確認して、自身を蜜に絡ませる。
ぐっと腰を進めると、あつい秘部がエルヴェを受け入れる。

「あぁっ」

大きく半身を仰け反らせて、白い喉を露にする。
柳眉がきつく中央に寄り、ツィラの苦痛を十分すぎるほどに表している。

「痛い?やめる?」

固く瞳を閉じたまま、ツィラが首を左右に降る。

「や、めない……戻れない、って、ぅ……」

細い吐息の合間に、ツィラが懇願を繰り返す。
頷いてゆっくりと、その身を侵入させた。
無意識に逃げ出そうと身体をずりあげる細い肩をぎゅっと抱いて、汗が張り付く額を撫でる。

「ツィラ、愛しているよ」

ぴくりと、エルヴェを受け入れているそこが収縮した。
熱に浮かされた瞳を開いて、真っ直ぐにエルヴェを見つめる。

「愛している」

戸惑いがちにツィラは腕を伸ばして、エルヴェの首に回した。

「マスター、あっ……あ、んっ」

ツィラもきっと愛の言葉を囁いて見たかったのだろう。
だがエルヴェはお構いなしにゆるやかな律動を繰り返した。
無粋なお喋りの時間はもう終わりなのだ。

*

物を落としたかのように木の床が軋んで、けだるいまどろみに身を預けていたエルヴェは目を開く。
見ればそこにいたはずのツィラが、裸体にローブを巻きつけてつめたい床に座り込んでいた。

「……どうしたの」
「自分の部屋に戻ろうと思ったのですが」

何故足に力が入らないのか判らない、と振り返った無表情が語っている。
エルヴェはくすりと笑って、ツィラの身体をベッドに引き上げて腕の中に閉じ込めた。

「情緒のない子だね。こういう時は同じベッドで朝まで過ごすものだよ」

はいと返事をするツィラの頭に鼻を埋めて、柔らかな髪の指通りを楽しむ。

「身体は?大丈夫?」
「はい。多少痛みますが、起き上がれない程ではありません」

その割には力が入れられないと認識できないのは、把握とコントロールができていないのか、まだ痩せ我慢をしているのか。
徐々に変わっていければいいのだけれど。
ふとエルヴェは思い出す。痩せ我慢といえば指先の火傷だ。
ぐいとツィラの細い手を握り、その腫れあがった指を確認する。
あかく腫れた指先がその小さな手に不似合いだ。
すっと魔法使いがその手を撫でると、傷跡は綺麗になくなる。
あ、とツィラが小さく声を上げた。続いて控えめに、ありがとうございます、と。

「痛かっただろう?」
「いえ」
「そこまでして会いたかったのかな」

非難めいた口調になった。
本当に、あのアンディという小僧は気に入らない。
一見するとツィラとお似合いに見えるその風体からして気に入らなかったのだ。
狭く見苦しい内心を隠すかのように、ツィラの頬をそっと撫でる。

「…………母に、似ていました」

アンディくんが?と言いかけて、冷静に思い直す。
そんなはずはない。

「デボラさん?」
「はい」

デボラとツィラは似ても似つかない。
髪の色も違うし、細い線も全く合わさることもない。
どうやったらデボラからツィラのような子供が生まれてくるのか。
よっぽど父親似なのか、と勘繰ったエルヴェの思考を読むように、ツィラが言葉を続けた。

「生みの母ではなく、育ての母に。修道院のシスターです」
「あぁ、成る程ね」

ツィラを引き合わせたあのシスターになら、似ている気がしなくもない。

「いい人だったよね。でもツィラをアンディくんの嫁にとかなんとかちょっとしつこかったな」
「そんなことを」
「何度か言われたよ。そういえばツィラ」
「はい」
「アンディくんと、キスしてたね」
「…………………………」
「三回」

「……やはり、ご覧になっていたのですね」
「昨日はたまたま。今日は、まぁ、必要に迫られて。なんか言い訳してみる?」

少し迷いを見せた後、ぽつり、ぽつりと弟子は語り始める。

昨日の別れ際にいきなりくちづけをされたこと。
挨拶かと思ったが前後の言動が繋がらないので、本を読んでみた。
あまいあまい恋物語は、充分な教科書だった。
ああ、あれは愛の告白だったのかと知ると同時に、自分の返答がまるでアンディの愛に応えたかのように思えて頭を抱えた(それでもきっと無表情だっただろう)。
エルヴェに相談するわけには行かなかった。
何があってもエルヴェだけには知られてはならないと、漠然と強く思った。
そうだこっそりアンディの記憶を消してしまおう、半人前の弟子はそう決めた。
だから今日、アンディに会いにいきたかった。
引越しだと聞いて、アンディの記憶は心配しなくてよくなったけど、最後にどうしてもデボラに会いたくなった。
アンディと顔を合わせないように、もし会ったら適当に誤魔化して逃げてこようと軽く考えていたけど失敗した。
逃げる暇もなく裏庭に連れられ、こうなったらどうにか記憶を消してしまおうと術をかけたけど、それも上手くいかなかった。
アンディに引きずられるようにして帰ってきたら、エルヴェがものすごく怒っていて、ついに自分は追い出されるのかと、恐ろしくて悲しかった。
罰を与えられたほうが、何倍にも気が楽だ。受けさえすれば、またここにいられる。

要約されすぎたツィラの発言を解説すると、こういった事だった。

「うーん、不可抗力かな。でもツィラに非がないわけじゃない。まぁ、次からは気をつけるように」
「はい、マスター」
「それから、肌も顔も出来るだけ見せないこと」
「はい」
「他の誰ともキスしないこと」
「はい」

従順にうなずくツィラに、エルヴェは気をよくする。
早くこうすればよかったのだ。
ぐずぐずと迷ったりせずに、欲しいものはさっさと手に入れて、籠の中に閉じ込めておけば、こんな風にどす黒い感情に囚われずにすんだのだ。
腕のなかでツィラが上体だけ振り返って、エルヴェの顔を仰いだ。

「…………あの、お聞きしても?」
「何だい?」
「マスターの仰る愛とは肉欲ですか?」
「………………」

まったく情緒のない事を。
エルヴェは嘆息する。

「先ほどのは男女の営みでしたか?」
「……そうだね、よくご存じで」
「いえ、知識はありましたが、経験は初めてでした」
「知識ってどこで?」

ぴくりと、腕の中のツィラが震えた。

もぞもぞと身を丸めて、肌掛けに鼻をうずめる。
珍しく動揺を見せるその様子が可愛らしく、さらに強く抱き寄せて耳元で低く訪ねる。

「怒らないから言ってごらん?」
「……あの……書斎で、」
「僕の?」
「はい」
「………………………………えーと、隠してあったよね?」
「ええ。まじないが施されていましたので、密書のたぐいかと好奇心から」

申し訳ありません、と、ちっとも申し訳なくなさそうにツィラが言う。
もしや軽蔑されたのかもしれない。

「禁書だったらどうするの」
「それにしては術式が簡素すぎました」

お見事な判断である。
まったくその通りで、エルヴェは自分のうかつさに頭痛を覚えた。

「マスター?」

ダークブルーの瞳がこちらを窺っている。
甘かったのは自分だし、怒らないと約束した手前何も言う事が出来ず、とりあえずあかいくちびるにそっと触れた。

「どの本でも好きに読んでいい言ったのは僕だしね……もういいよ。
ところでさっきの愛と肉欲の話だけど」
「はい」
「……肉欲は、一部だけれど全部じゃない。知るには時間がかかるものだよ。
ツィラの考える愛って何だい?」
「昨日読んだ本には、『相手のすべてを受け入れ、自分のすべてを捧げる事である』とありました」
「ふぅん?」

すべてを受け入れ、捧げる?
また極端な発想で、一体何の本を読んだのかと疑問になる。

――マスターは、私のすべて。

――マスターだけが、私の生きる意味。

ふと、ツィラの凛とした声音が耳の中に甦る。

あぁ、そういうことか。

エルヴェは一人納得する。
弟子と師匠の愛は、案外剥離していないのかも知れない。

「お喋りはお終いだよ。今日は疲れただろうから、このまま眠るといい。
明日も、朝から忙しいからね」
「はい、マスター」

小さなぬくもりは幸せと等しい。
しっかりと幸福を腕に掻き抱いて、魔法使いとその弟子はゆるやかな眠りにつくのだった。






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