シーフイントラップ 第二話前編
シチュエーション


英露女学院敷地内、空手部道場。
その中央に、一人の少女が目を瞑って立っていた。
ボーイッシュに切り揃えられたショートカットの前髪が、かすかに閉じられた目を隠している。
少女の体型は小柄で、数字にすれば百五十センチにも届かない。
小さな卵形の顔は身長に見合った童顔で、見た目だけで判断すれば中学生、下手をすれば小学生がそこにいるように見える。
唯一、彼女を年相応―――否、逆の意味で年不相応にしているのは空手着に包まれている胸元だった。
そこには、小柄な体躯には不釣合いなほどの大きさの膨らみが存在を誇示するように突き出ている。
サイズ的にはGカップほどだろうか。
少女の他の部位からすればアンバランスともいえるバストは、常に他人の注目を集める要因となっていた。

「ふぅぅ……」

だが、その小さな身体から発せられている覇気は、年期を積んだ格闘家ですらそうは出せないものを思わせる。
事実、彼女を少し離れた四方から取り囲むようにしている四人の空手部員達は緊張に喉を鳴らしていた。

「ヤアアアアア!!」

緊迫した空気に耐えられなくなったのか、北側に陣取っていた一人の部員が動いた。
数拍遅れ、残りの三人も同調するように駆け出す。
四人が向かう先は、彼女達の中央で佇む少女。

「セイッ!」

最初に駆け出した部員が突きを放った。
狙いは少女の顔面。
しかし、ナックルガードに包まれた拳が童顔を捉えようとしたその瞬間。
今まで閉じられていた少女の瞳が開き、そして。
まるで幻のように、小柄な体躯が消えた。

「え?」

目標を見失い、空を切る拳を呆然と見詰めた部員は、しかし次の刹那左側頭部に衝撃を受ける。
いつの間にか側面に回りこんでいた少女の上段蹴りの一撃だった。
衝撃吸収ヘルメットをつけていたにもかかわらず、たまらず足から崩れ落ちていく一人目の部員。

「リャアア!!」
「ハアッ!」

一人目が倒れるのと同時に、二人目と三人目が同時に蹴りを放った。
足元狙いの下段蹴りと、脇腹狙いの中断蹴り。

決まった―――!
蹴りを放った二人と、周囲で観戦していた部員達はそう思った。
だが、上下の蹴りはまたしても空を切る。
部員達の目は、宙を追っていた。
何故なら、そこにはジャンプで蹴りをかわした少女が浮かんでいたからだ。

「セイヤァ!」

ギン、と見開かれた翡翠の瞳が蹴りの空振りに体勢を崩した二人を捉えた。
空中に身を浮かべたまま放たれるのは目にも留まらぬ二段蹴り。
一瞬遅れて鈍い音が二度響き渡り、顎を蹴り抜かれた部員二人が最初の部員と同じく崩れ落ちていく。

「……どうした、かかって来い!」

トン、と身軽に床に着地してそう挑発してくる少女に、しかし最後に残った部員は動くことができない。
そっちがこないのならば、と少女は正拳突きの構えをとる。
ボッ!
空気が破裂するような音と共に、拳が放たれた。

「ひっ!」

迫り来る小さな拳に、部員は反射的に目を瞑ってしまう。
しかし、直撃するかと思われたその一撃は、すんでのところで止められた。
恐る恐る目を開き、そのことに気がついた四人目の部員はヘナヘナと崩れ落ちていく。

『ワァァァァ!!』

道場に歓声が響き渡る。
それは、四人の空手部員を圧倒した小柄な少女に向けられたものだった。

「凄い、流石は山野さん!」
「彼女、家が空手道場なんだって。惜しいよね、あの子が大会に出たら確実に全国優勝できるのに」
「親から大会に出るのは禁止されてるらしいよ。でも強いなぁ……」
「でも、今日はなんか鬼気迫ってなかった?」
「あ、私もそう思った。やっぱりあのことが原因かな?」
「それってひょっとして四組の白峰さんのこと? 山野さん、そういえばあの人の親友だったから……」

「っ!」

己を称える声の中に混じる、不快な雑談。
もう耳が腐るほどに聞いたその内容に、少女―――山野椿はギリッと歯を噛み締めた。

怪盗ミルキーキャットが捕まってから一週間。
その間に、彼女の正体が英露女学院二年生、白峰優理であることは瞬く間に広がっていた。
情報の出所は警察やマスコミではない。
怪盗少女が未成年であったため、公的にはミルキーキャットの情報は流されなかったのだから。
では、どこから情報が漏れたのか。
それはアンダーグラウンドに流れる動画からだった。
束前屋敷で盗みを失敗した女怪盗達が辱められる動画『シーフイントラップ』
そこに、優理がミルキーキャットの正体であることが晒されていたのだ。

「優理……」

その日の夜、椿は最後に優理を見送った場所にいた。
ミルキーキャットの基地として使われていた廃ビルの一室は、主を失ってガランとしている。
優理はまだこの場所を喋っていないらしく、警察の手は及んでいない。
今ここにいるのはただ一人、自分だけ。
その事実に、椿は胸が押し潰されそうな寂しさと燃え滾るような怒りを感じていた。

「あの時、私が止めていたら……!」

優理が束前屋敷に乗り込んだあの夜、どこか嫌な予感がしていた。
なのに、その直感を無視して親友を行かせた結果がこれだ。
止められる立場にいたのは自分ひとりだったというのに、そう思うと悔やんでも悔やみきれない。

(それに、優理があんな……っ!)

怪盗ミルキーキャットと題された動画は椿も視聴済みだった。
正直、途中で画面を消したくなるほどだったが、それでも最後まで見た。
画面の中で裸に剥かれ、大勢の男の手で触られてはしたない声をあげる親友の姿は、見るに耐えないほどのもの。
それでも、最後まで動画を再生しきったのは、親友として、そしてミルキーキャットの共犯者としての責任感故のことだった。

「皆も酷いよ……! 優理をよってたかってあんな風に言ってっ」

流石に同じ学舎に在籍していた女子が今をときめく怪盗の正体だったことはセンセーショナルだったらしく
押しかけてくるマスコミにも影響され、学院の生徒達は浮き足立っていた。
皆口々に優理についてあることないことを語り、口さがなく囃し立てる。
そしてその矛は、優理の親友であった椿にも向いた。
腫れ物を扱うように、しかし好奇心を押さえきれないといった様子でこちらを窺ってくる同級生達。
その中には、自分ほどではないが優理と親しかった者もいた。
その事実は、椿にとってはとてもショックなことで。

「絶対、許せない……!」

灼熱の怒りに燃える心は、優理を辱めた束前龍三に向いていた。
確かに盗みを働いている怪盗は褒められたものではない。
しかし何も女性にあそこまでしなくてもいいのではないか。
そんな義侠心と復讐心に突き動かされた空手少女は、ひとつの決心をしていた。
すなわち、優理の―――ミルキーキャットの仇をとろう、と。

「確かここに……」

部屋の片隅に置いてある収納箱を開け、その中身を取り出す。
入っていたのは怪盗衣装一式。
それはミルキーキャットのものとは違うコスチューム。
椿のためにと、優理が用意したものだった。

(あの頃は、まさか本当にこれを着ることになるなんて思ってもみなかった)

ブレザーを脱ぎ落としながら、僅かに苦笑する。
この衣装はいつか椿に自分の相棒として怪盗をやってほしいと優理が仕立てたものだった。
勿論、当時の椿はとんでもないとばかりに断っていたものだったが。

(だけど、今夜だけ私は……!)

グレーのスポーツブラと、白と青のストライプショーツの下着姿の上に衣装を着込んでいく。
トップスはへそ出しノースリーブインナー、ボトムスはスパッツで上下共に色は黒。
ミルキーキャットのそれと同じく、薄めの生地で作られているそれは、椿のボディラインを惜しみなく浮き上がらせる。
その中でも特に目立つのは、やはり小玉スイカほどに育った乳房だ。
これでもかと存在を主張しているふたつの実が、黒の生地をググッと押し上げていた。
その上からブラウンのジャケットを羽織り、四肢には改造されたプロテクターを装着する。
これは空手の使い手である椿にとっては、フル装備ともいえる武装だ。

「最後は……これを」

長めの黒色布を取り出し、目元から下を覆い隠すように顔に巻いていく。
髪と目の色を変えていたとはいえ顔を晒していた優理と違い、椿は流石に顔を見せる勇気はなかった。

「これで、準備は完了。優理……私に、怪盗ナイトリンクスに力を貸して!」

ミルキーキャットとしての軌跡の残る部屋を一望し、パンッと両頬を叩き。
新たな怪盗ナイトリンクスとなった椿は闇夜へと駆け出していった。
向かう先は、束前屋敷―――目標は、フォーチュンの奪取。

バシュンッ!

射出音と共に壁から十本近いロープがショートカットの怪盗少女に襲い掛かった。
先端には大小様々な手錠が結び付けられており、それぞれが小柄な肢体を捕らえようと飛来する。

「セェイッ!」

四方から己に向けて伸びてくる手錠の群れに、しかしナイトリンクスは即座に対応する。
右側から迫る手錠に外側から回し蹴りを放ち、迎撃。
横に逸れたそれは他のロープに絡みつき、あっという間に右側の攻撃を無効化した。
そして空手少女は即座に反転すると、突きの連打で左側からの飛来手錠を次々に叩き落していく。

「……ふぅっ」

全ての手錠を叩き落し、次弾がないことを確認してからの残心。
大きく深呼吸をし、たわわに実ったふたつの乳房をぽよんっと上下に軽く揺らしながらスパッツ少女は再び足を踏み出す。
廃ビルから出発して一時間後の現在。
怪盗ナイトリンクスに身を扮した椿は、ミルキーキャットがそうしたようにAからZまでの扉のひとつを選んでその先を進んでいた。
彼女が選んだのはTの扉。
単純に名前の頭文字から選んだだけというのが理由だが、今のところはその選択は正解だったのか順調に足は進んでいた。
Tルートは前半部と後半部にトラップルームが分けられており、今ナイトリンクスがいるのは前半部にあたる。
この前半部に備え付けられている仕掛けは実に単純で、床に敷き詰められている一メートル四方のタイル数百枚。
そのうちの何十枚かを踏むと、トラップが発動して壁から侵入者を捕らえる仕掛けが飛び出すようになっている。
とはいえ、トラップとしては簡易なもので、罠が発動するタイルはある一定の法則で配置されているため
ある程度頭が回るならば、あるいは優秀な解析器具を持っていれば序盤以降は全て回避していくのも難しくはない。
しかし、怪盗としては素人同然の椿にはそのどちらの解決方法も無理。
だが、それでも彼女は既にこの通路の終盤まで歩みを進めていた。
その理由は―――

「っ!」

カチ、と仕掛けが起動する小さな音が耳に届くのと同時に少女怪盗は身構える。
次の刹那、周囲の床から木の棒が斜めにつきあがるように飛び出してきた。
そのまま立っていればその全てが頭部に当たる軌道。
しかし、ナイトリンクスは最初からその攻撃を予測していたかのような反応で身を屈めた。
小さな身体がしゃがみ込むのに少し遅れて、Gカップの巨乳がフルルンッと震える。
ガキガキンッ!
目標に当たることのなかった十本ほどの木棒が、頭上で重なって三角錐の檻を作った。
当然、しゃがみ込んでいた小柄な肢体はその中に閉じ込められる形になってしまう。
しかし、それでもショートカット怪盗は慌てることなく。

「ハッ!」

床にうずくまるように丸まっていた身体を一気に伸ばし、真上への右足蹴り上げ。
ぶるんっ!
急激な屈伸に、薄布二枚に包まれた豊かなバストが激しく上下した。
解放されたバネのような勢いで放たれた一撃は、バットほどの太さの木の棒を一気にまとめてへし折っていく。

(まだ上から来る!)

だが、終盤に仕掛けられている罠はこれだけでは終わらなかった。
天井の一部分に穴が開くと、そこから大きく広がった網が落ちてくる。
全力の蹴りを放った直後であることと、棒の残骸が邪魔で網の範囲外に逃げるのは不可能。
これでは流石に快進撃を続けてきた怪盗少女とてどうしようもない。
しかし、椿は視界の隅にあるものを捉えると、口元を僅かに笑みの形に変える。

「っと……ハアァァッ!!」

椿が見つけたのは、木の棒の残骸のひとつだった。
蹴りによって一メートルほどの長さに折れたそれを素早く掴むと、頭上に掲げてクルクルとプロペラのように回転させる。
すると、少女怪盗を捕らえようとしていた網が回転する棒にどんどん巻き取られていった。

「よしっ!」

完全に網を巻き取ったことを確認し、用済みとなった棒の残骸を床に投げ捨てる。
その鮮やかな手並みは、とても怪盗初心者には見えない。
それもそのはずだった。
そう、今の椿は素で動いているに過ぎない。
優理が優れた柔らかい身体を持っていたように、彼女も人並み外れた身体能力。
すなわち、迫りくる攻撃がスローに見えるほどの動体視力と、神速ともいえる反射神経を持っていた。
この圧倒的なまでのふたつの反則的能力。
そして空手の修練で鍛えられた身体と精神こそが、ナイトリンクスを無傷でここまで進ませた理由だったのである。

「……もう、終わりかな?」

次の部屋へと進むための扉の一メートルほど手前。
罠の設置されたタイルが途切れたことを見てとったスパッツ少女は、ゆっくりと息を吐いた。
勿論完全に気を抜いたりはしないが、終点に達したことに心が緩んだのだろう。
初めての不法侵入で緊張に固まっていた表情が僅かに崩れる。

(とと……まだ気を抜いちゃ駄目。この先にも何が仕掛けてあるかわからないんだから)

怪盗としては自分よりも数段優れていたはずのミルキーキャットすらクリアできなかった屋敷なのだ。
素人同然の自分が気を抜いていいはずがない。

改めて気を入れ直し、ナイトリンクスはゆっくりと、そして慎重に扉を手にかける。
ギィ……

「……ここは?」

そこは奇妙な部屋だった。
横幅は二十メートル、奥行きはその四倍ほどだろうか。
ガランとした長方形の空間がそこには広がっていた。
向かい側の壁の真ん中には、先程の部屋と同じく、次に進むための扉が見える。
だが、そこに辿り着くには一筋縄ではいかないことを思わせるのは部屋の構造だった。
この部屋には段差があったのである。
入り口と出口からそれぞれ三メートルほどは今までと同じ高さ。
しかし、その二箇所の間は一段低くなっているのだ。
段差の距離は五メートルほどだろうか、落ちて大怪我をするほどの高さではない。

(だからって下には行きたくないし……何、あの白いのは)

低くなっている場所には何やら白いものが敷き詰められていた。
一体それがなんなのか窺い知ることは出来ないが、間違いなくこちらに都合の良いものでないことは確か。
そんなあからさまに怪しいものの上を通るなど、冗談ではない。
しかし、それならばどうやって向こう側の出口まで行けばいいのか。
悩む少女怪盗。
だが、その解答は次の瞬間足元から現れた。

「えっ? こ、これは……」

ウイイーン。
段差の開始部分から扉と扉をつなぐ直線上に一本の鉄棒が現れ、伸びていく。
それはやがて向こう岸に達し、幅十センチにも満たない細き橋となった。

「ここを渡れってこと……?」
「その通り」
「え!?」

誰ともなしに問いかけた言葉にかけられた返答に思わず驚きの声をあげるナイトリンクス。
声の聞こえてきた方向に目を向けてみると、鉄棒が伸びきるのと同時に右側の壁がせり上がっていく。
その奥から姿を現したのは多数の男達だった。
彼らは、これから綱渡りならぬ棒渡りを始めようとする怪盗を見物するつもりなのか、皆が双眼鏡を構えている。
更によく見れば、消えた壁の代わりに透明の柵が張り巡らされているようだった。
恐らくはこちらからの投擲物を防ぐためのものなのだろう。

(これは……!)

安全な場所からこちらを見世物にする男達の存在。
これはミルキーキャットの時と同じだ。
そう理解した瞬間、椿の思考が沸騰しかけた。

(……クッ、落ち着け私! ここで怒りに身を任せても何にもならない!)

観客席までは元々壁があった場所の向こうにあるので、そこまで行こうとするならば十メートル以上跳躍しなければならない。
いかなナイトリンクスの身体能力であっても、不可能な距離だ。
その事実に歯噛みしながらも、冷静さを保とうとショートカット少女は努力する。
しかし、観客席の中央に歩み出てきた人物を視界にいれた瞬間、その努力は無に帰した。
何故ならば、そこにいたのは親友をあんな目に合わせた張本人ともいえる存在。
束間龍三だったのだから。

「お前はっ!!」
「やあ、先程ぶりだね怪盗ナイトリンクス。いや、直接対面という意味でははじめましてかな?」

雑誌の記事やテレビのニュース、そしてつい先程屋敷に侵入した時にモニターで見た男。
その出現に椿の感情は荒れ狂う。
すぐにでも駆け寄ってこの拳を顔面に叩き込んでやりたい。
そう思っても、決して実現しない現実が少女の苛立ちを募らせる。

『怪盗は常に冷静に。これが守れなければ敗北あるのみよ』

それでも、小柄な怪盗が感情を爆発させるまでいかなかったのは、親友の言葉を思い出したおかげだった。
今の自分は怪盗なのだ。
そうである以上、冷静さを失うわけにはいかない。

「ふむ、理由は分からないがどうやら随分と我が身は恨まれているようだな」
「白々しい。自分はまったく恨みを買う覚えはないとでも?」
「これは手厳しい。だが、君にどんな理由があろうともこちらはいつも通りの進行をさせてもらうだけだ。
ではここのルールを説明しよう。とは言っても話は簡単だ、どのような手段を使っても良い。
君は向こう岸に渡り、出口を潜ればそれで終わりだ。なお、時間制限などはないからたっぷり時間をかけてもらっても構わないよ。
それと、気になっているだろうからここで言っておくが、段差の下にある白いものは特製トリモチだ。
一度絡み付けば、特殊な分離液を使わない限り絶対に取れない。つまり、下に落ちたら一巻の終わりというわけだな」

それだけだ、と簡易な説明をした初老の男は片眼鏡とマイクを手に持ったまま腰を下ろす。
どうやら本当にこれ以上の説明はないらしい。
とはいえ、本来このよう前説があることのほうが異常だといえる。
勿論それは怪盗素人である椿にも理解できていたし、何よりも長々と仇の男の話を聞くのは苦痛だったのでむしろ好都合だった。

(とは言っても、選択肢はあってないようなもの……)

トリモチの存在が明かされたことによって出口に辿り着く方法は実質的に一択。
すなわち、こちらから向こうに架けられた細き鉄の橋を渡るしかない。
その手段としては平均台の上を渡るように慎重に歩いて渡るか、棒の上に腰を下ろして手を使って進むか。
あるいは、両手でぶら下がって雲梯渡りのように行くかの三種類だろう。
落ちたら終わりということを考えれば二番目の方法が最も確実と思われる。
だが、その方法は格好がみっともないし、何よりも不測の事態の時に行動に移りにくい。
三番目の方法は二番目よりも身体の自由が利くが、体力の消耗度が高すぎる。
となると、選ぶべき選択肢は一番目のものということになるのは椿の中では至極当然のことだった。

(多分、あの人たちは私が落下を恐れてヨタヨタと進むのをみたいのだろうけど―――)

その期待には応えるつもりはない。
そう心の中で呟い軽やかに細橋へと身体を預ける怪盗少女。
棒の幅は大体靴の横幅と同じくらいだろうか。
ただ、踏み場の面は四角形平面ではなく球形状で、バランスを取るのが困難な造りになっている。
しかし、ナイトリンクスはこの難関に何ら臆することはなかった。
空手を学ぶ上で、正中線の保持は身体に染み込ませてある。
それを証明するように、小柄な身体は細い橋の上でも微塵もブレることなく悠然と直立姿勢を保っていた。

「なんと……」
「まさかあの細い鉄棒の上をあんな簡単に」

優美さすら漂う怪盗の身のこなしに、見物客達の感嘆の声が漏れる。
だが、評価されている本人は雑音など欠片も耳に入れてはいなかった。
いかにバランス感覚に優れていようとも、一瞬の油断が命取りになることは百も承知。
この屋敷で散っていった親友のためにも、そして自分のためにも集中を切らすわけにはいかない。

(でも少し意外かも、油くらいは塗ってあると思ったんだけど……)

どうあっても鉄棒に触れて移動しなければならない以上、何かしら仕掛けがある。
そう警戒していた椿だったが、それは今のところ杞憂に終わっていた。
むしろ、よく見れば小さなつぶつぶが棒の全面に浮き出ており、グリップの役目を果たしているくらいだった。

(おかしい、流石にこれじゃ簡単すぎる。優理の時のように時間制限もないなんて……)

確かに百メートル近い細い道を進むのは簡単ではないが、制限時間がないのならば誰でもここはクリアできる。
前の部屋の仕掛け、そして過去の怪盗達が直面してきたトラップと比較すればありえない低難易度としか言いようがない。
そしてその危惧は正解だった。
ナイトリンクスが十歩ほど歩みを進めた刹那に鳴り響いた『パンッ』という発砲音。
それがこのトラップルームの本番の開始を知らせる合図だったのである。






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