怪盗チェリー・ブロッサム
シチュエーション


「な……? ば……馬鹿なぁぁぁぁっ!」

だだっ広いホールに反響する野太い声。
まるでレスラーのようなガタイを持った中年刑事・鬼頭はオーバーリアクション気味に頭を抱え、人一人が入る大きさの巨大なガラスケースの前に蹲った。

『世界初公開! 水晶髑髏の胴体は存在した!!』

……そんな眉唾物の謳い文句を掲げた看板が天井から揺れているものの、硝子の棺の中にそれらしき姿は無い。
その代わり、そこには可愛らしい文字が書かれたキャンパスノートの切れ端が、ちょこんと鎮座しているのみだった。

『アンタが芹沢博物館さんから騙し取った水晶髑髏の胴体は、このあたしが頂きました。 あ、ちなみにこの紙は数秒後に消滅します。今回の事で懲りたらもう二度と悪どいコトは考えないコト。正義の美少女怪盗チェリー・ブロッサムより』

挑発的な文面の手紙は内容通り、シュポッと音を立てて灰となった。

「……おのれ小娘ぇぇぇ……毎度毎度、国家権力を馬鹿にしおって!」

正に鬼のような形相で、年甲斐も無く地団駄を踏む鬼頭。

「今回の包囲網は完璧……じゃなかったの?」
「!!」

唐突に響いた若者の声。
鬼頭はぎょっとした表情でそちらに目を向ける。
その視線の先に佇むのは、全身を白のスーツでコーディネートした若者の姿だった。
外見年齢は20代前半。間抜けな印象の丸眼鏡の奥の、蛇を連想させる三白眼に鬼頭の肩が震え上がる。

「し、白砂会長!」

彼の存在を認識した鬼頭は白砂の下へと一目散に駆け寄り、跪いた。

「今回の件は……今回の件は部下の……」
「……聞きたくない」

この期に及んで部下へ責任転嫁しようとする鬼頭の言葉を白砂の冷たい声が両断する。

「明日のパーティーの目玉は水晶髑髏の胴体……アレの競売だったんだ。時価数十億……いや、数百億かな?
今更現物が盗まれましたなんて言えばこちらの信用は無くなるし、アレで得る筈だった利益もチャラ……またしても白砂グループは損失を被った訳だ。あのお嬢さんのお陰でね」

シニカルな微笑みを浮かべながら、何処か他人事のように言葉を紡ぐ白砂。

「正義の美少女怪盗チェリー・ブロッサム……どうしてウチの関連会社ばかりを狙うのかは疑問だけど、既に我がグループの2割は何らかの打撃を受けている。
全体的には大した損失じゃ無いけど……そろそろお仕置きしなきゃいけないかもね? もちろん、役立たずな警察諸君にも」

『お仕置き』という単語に鬼頭は死刑宣告を受けた囚人のような気分になったが、意外にも楽しげな白砂の声に、思わずその視線を上げる。

「……冗談だよ。僕らがする悪いコトを君達が揉み消す。

君達が僕らのお零れに与かる……いい関係じゃない。お互いにね」
踵を返して出口へと向かう白砂の背中を追うように、鬼頭も立ち上がった。
そして、彼が歩き出すタイミングを計ったように、おもむろに振り返る白砂。

「それより……いい事を一つ考えたんだ」

新たな遊びを思い付いた子供のような、白砂の声に潜んだ真意。
彼の眼に宿った怪しげな光を直視してしまった鬼頭は不意に腹を裂かれて氷を詰め込まれたような、得体の知れぬ恐怖を感じていた。
「また現れたんだぁ……怪盗チェリー・ブロッサム……!」

『正義の美少女怪盗、今度は弱小博物館のお宝を奪還!』

目がチカチカしそうな黄色いゴシック体が一面に踊るスポーツ紙を熱心に読みながら、ベッドの上の少年、桜木 啓太は瞳を爛々と輝かせた。
清潔感のある白い壁に囲まれた個人病棟にあるのはベッドと来客用の皮の丸椅子、そして、小さな液晶テレビのみ。
病室という括りで見ればそこそこ充実した設備ではあるが、中学1年生の少年が暮らすにはいまいち娯楽の少ない部屋だと言えた。

「奪還されたお宝は無事、被害者へと返還されました…か…やっぱりカッコいいよ……ね、おねーちゃんもそう思うでしょ!?」

彼は小動物のように澄んだ視線を丸椅子に腰掛ける制服姿の少女、桜木 小春に向けた。
艶やかな黒髪を赤いリボンでツインテールに纏めたその表情は幼さを色濃く残しながらも、その瞳からは芯の通った意思の強さが伺える。
紺のオーバーニーに強調された、チェックのミニスカートから延びるスラッとした美しい脚線、そして、ブレザーを下から元気良く押し上げる、実の弟でも時折どぎまぎしてしまう豊かさの胸……
男にとってある種の理想形とも言える身体ではあるが不思議と嫌らしさはなく、どこか溌剌とした爽やかな色気をその少女は秘めていた。

「え? ……あぁ、うん。そだね……」

彼女は鮮やかな手捌きで林檎をウサギ型に切り分けながら、どこか居心地の悪そうな微笑みを彼に返す。

「ほらケイ、剥けたよ。口開けて?」

皿の中のウサギを一つ摘み、彼の口許へと運ぶ小春とそれを一口囓る啓太。

「おいしい?」
「うん……ありがとう」

そんな言葉を交わしながら小春は改めて、弟の現状に心を痛めた。
育ち盛りにしては小柄……外見年齢小4という啓太の発育の遅さが示す通り、彼の身体は元々丈夫ではない。
そして、二年前の事故……
それ以来、彼女のたった一人の家族は歩く事すらままならない身体になってしまった。
そして、啓太を事故に巻き込んだ男、世界有数の大企業・白砂グループの会長であるあの男は、金にあかして大人達を買収し、この事件を揉み消した。
啓太が事故に遭う前後の記憶を失った事をいい事に。

「……おねーちゃん?」
「!」

胸の奥に息付いた黒い感情が、どうやら表情に出てしまっていたらしい。
心配そうに姉の顔を覗き込む啓太の顔に気付いた小春は、急いで表情に笑顔という名のメッキをかけた。

「あ…ご、ゴメン。ボーっとしてた。もういっこ食べる?」

しどろもどろになりながらもう一匹のウサギに手を伸ばそうとした瞬間、ブレザーの胸ポケットに収まっていた小春のケータイが唐突に聞き覚えのあるメロディを奏でた。
曲目は、ルパンV世。

「もう……病院の中じゃ電源は切ろうって婦長さんも言ってたじゃない。見つかったら怒られちゃうよ?」

やれやれと呆れ顔の啓太の言葉を引きつった笑顔で誤魔化しながら、彼女はおもむろに立ち上がる。

「…どうしたの?」

作り物の笑顔から一転、小春は物憂げな表情で言葉を切り出した。

「あのね……お姉ちゃん、ちょっと行かなきゃダメなとこがあって……」

気まずそうに目も合わせない、姉の見慣れぬ表情。
啓太は若干戸惑いながらも、その顔に満面の笑みを咲かせた。

「……うん、行ってらっしゃい。……でも、なるべく早く帰ってきてね?」

両親を亡くし、既に家族は二人だけ。
幸い、遺産は少しあったとは言え、姉の高校生活と自分の入院費の両方を賄うにはアルバイトも必要になる。
それを理解出来ないほど、啓太はもう子供では無かった。
……その仕事の中身は、彼も想像出来ないものではあるが……

「……ありがと、ケイ。次に来る時は、何か美味しいもの作って持って来るから」

表情に明るさを取り戻した小春はスクールバッグを肩に担ぎ、病室のドアを開いた。

「……じゃ、行ってくるね」

ばいばい、と手を振り、スカートを翻して駆け出す姉の背中を見送る啓太。
ベッドから這い出した彼は小春が座っていた椅子へと腕を伸ばし、そっと掌を乗せた。

「……」

そこに残留する彼女の体温を、指先で確かめるように。

高層ビルが立ち並ぶオフィス街。
雲間から射す月灯が屋上から屋上へと軽快に舞い渡る少女の影を淡く縁取る。
青く冷たいその光を彼女の為のスポットライトと喩えるなら、
パッションブルーに煌めく街はさながら戯曲のヒロインへとあつらえられた、最高の舞台のように見えた。

幅跳びを始めたマンションから数えて七棟目、立見席オフィスの屋上にふわりと着地した小春はフェンスに乗り出し、獲物が眠る場所を見下ろす。
立見席オフィスに隣接している不気味な廃ビルは普段、
抱腹絶倒の心霊スポット・稲川ビルという通称で暇を持て余した人間達に認識されていた。
しかし、それはあくまで表の顔。
そこには白砂グループが違法に収集した美術品やオーパーツの類いが巧妙に秘匿され、時には甘い言葉で、時には強引に持ち去られた見知らぬ誰かの宝物が毎日のように運び込まれているという話だった。

小春は制服の上に羽織った大きめのダッフルコートから手榴弾のストラップが付いたケータイを取り出し、メールフォルダを開く。
受信ボックスの最上段に表示された『伯爵』と呼ばれる人物からの依頼文……
啓太の病室でルパンV世のテーマと共に届いたそのメールには、数年前に国内に持ち出されて消息を絶った『ヴォイニック写本』と呼ばれる書物が先日、稲川ビルへと持ち込まれた事が記されており、
文末に怪盗チェリー・ブロッサム……すなわち桜木小春にその奪還を依頼するという形で締められていた。

近年、目立って増加傾向にある犯罪の一つに特定の人間たちによる窃盗行為……俗に怪盗犯罪と称されるものがある。
ある者はその卓越した身体能力を、ある者は怪しげなギミックが満載された道具を武器として闇夜に紛れ、それぞれの獲物を盗み取る。
そして一口に『怪盗』と言っても、彼らは大まかに二つの種類に分類された。
金品に固執しスリルを求め、怪盗行為そのものを目的として犯行を行う者と、それ自体は自らが掲げた目標へと辿り着く過程……あくまで手段と捉える者。
白砂グループが弱者から騙し取った物のみを標的としている小春は後者に分類され、その義賊的な行動は『正義の美少女怪盗』としてマスコミに持て囃され、本人の意志に反して今や最も有名な怪盗としてその名を馳せていた。

現在の時刻は午前二時ジャスト。
メールの内容と自らの記憶に相違が無い事を確認した小春はケータイをスカートの脇にぶら下げたポーチに突っ込み、ぺちぺちと頬を叩いて気合いを入れる。

「さて、と……」

盗みを働く際のコスチュームである高校の制服姿に戻った桜木小春……怪盗チェリー・ブロッサムは助走の勢いのまま、その細い脚線からは想像も付かない跳躍力で軽くフェンスを飛び越えた。

「……状況開始っ!」

彼女は十五階建ての立見席オフィスの外壁を滑りながら、その対角線上にある十階建ての稲川ビル八階の窓を目指して降下する。

「……やっぱり来たね……」

ビル内に仕掛けられた無数の隠しカメラ。
稲川ビルの一室に設けられた壁面一体をモニターに覆われた薄暗い監視部屋。
そこで白砂は独りモニターに写し出された侵入者の姿を見据えながら、その口角を冷酷に吊り上げた。

外見から来る第一印象を裏切る事無く、稲川ビルは内装の廃れっぷりも見事なものだった。
総ての窓硝子は何者かによって割られ、用を成せなくなった窓枠のみが寂しげに取り残されている。
壁の所々に描かれたスプレーでの下手糞な落書きから鑑みるに、それらは地元のヤンキー集団によるものだろう。
そして、そのビルには不審な点もちらほらある。
壁面に穿たれた穴やひび割れ……
それらが作り出す隙間や窓枠から侵入する風は室温を更に冷やし、ホームレスすらここを寝床に選ばないほどだった。
経年劣化で崩れるにはこのビルは若すぎるため、この惨状はおそらく人為的に……人を寄せ付けないように何者かが施した演出だと推測できる。

「……暗いし、寒いし、怖いし……」

自らの手足すら闇に隠される廊下を壁伝いにゆっくりと進みながら、小春は動き易さを優先してコートを置き去りにした事を今更悔やみ始めた。
シンとした静寂や闇続きの視界は気温を実際以上に低く体感させる。
その上、襟やミニスカートの下から侵入する冷たい空気の指が少女のうなじや太股を撫で、その白い肌をぞわりと粟立たせる。
やがてその足はある部屋の前で止まり、彼女はドアノブを静かに捻ってその部屋が施錠されている事を確かめた。

「……情報通りだと、写本はこの向こうね……」

依頼文には確かにヴォイニック写本は十一階の会議室にあると記されており、時折ハズレを引くものの、『伯爵』からの情報は八割の正解率を誇っていた。
他の部屋より目新しく分厚そうなドアがわざわざ施錠されている事から見ても、この部屋に何かしらあるのは間違いない。
小春はケータイのライトでドアノブを照らしながら、それを収めていたポーチから細い針金を引き抜いて鍵穴へと翳した。
その間、僅か0.5秒。
カチャリという音と共に開いたドアは、あっさりと少女の侵入を許した。

「……お邪魔します……」

物音を立てないように慎重にドアを閉め、まずはライトを向けて部屋全体を見渡す。
広さは学校の職員室程度で、その部屋だけは暖かく、会議室という名前の通りに大きな机を小さな椅子が囲んでいる。
そして、その中央にB5程度の大きさの書物が無造作に放置されていた。
……まるで、『どうぞ持って行ってください』と言わんばかりに。

「……!?」

それを見た小春は表情を強張らせながら、もう一つの違和感……廊下との気温差の原因を探るべくケータイを窓へと向ける。
彼女の予測通り、そこには窓硝子がしっかりと貼られ、一枚も欠損していなかった。

――罠……!

反射的に身を翻し、小春はドアノブを捻る。
が、それはガチャガチャと耳障りな音を立てるのみで開く気配は無い。

残された脱出ルートはあと一つ……窓を破るしか方法は無い。
その考えに達した瞬間、唐突に空間が光に包まれた。
単に天井の蛍光灯が点いただけであっても、暗闇の中を進み続けて来た小春にとっては思わず顔を伏せてしまうほどに眩しい。
やがて、部屋中に聞き覚えのある声が響き渡った。

『……ようこそ、お嬢さん。君が怪盗チェリー・ブロッサム?』
「……!!」

まるで少年のような穏やかな声。
しかし、彼女は知っている。
この声の持ち主の実態を。

『なるほど……正義の美少女怪盗を自称するだけの事はあるね……それに、頭も良さそうだ』

――見られてる……!?

小春は周囲を警戒しながら写本を左腋に抱え、窓際へとゆっくりと近付く。
そしておもむろに右手で椅子を掴むと、力一杯にそれを窓に叩き付けた。

『……無駄だよ。椅子じゃ防弾ガラスに傷は付かない……』

呆れたようなその声が小春の精神を逆撫でるが、彼女は冷静になるよう努め、必死に打開策を練った。

『やれやれ……これじゃあ話も出来ないか……仕方無い。ちょっとおとなしくなってもらうよ……』

その声を合図に壁の隙間から白い霧が立ち昇り、みるみると部屋に充満して行く。

――ガス!?

小春はブレザーの袖で口許を覆うが、その行為が気休めにしかならない事は彼女自信もよく解っていた。
間も無く小春は立つ事すら出来なくなり、膝から地面に崩れ落ちる。

――ドジっちゃった……こんなトコで……

やがて俯せに倒れ伏した小春は最後の力を振り絞り、ケータイのストラップに付いた手榴弾のマスコットからピンを抜いた。
あの置き手紙の要領でケータイが跡形も無く焼失した事を確認した小春は自らを見下ろす視線に気付き、顔を上げる。
その先にいたのは、あの時と同じく白いスーツを纏った男の姿。
弟の人生を狂わせた、あの男の姿。

「……初めまして、怪盗チェリー・ブロッサム」

白砂はピエロのようなわざとらしいお辞儀をくれると、小春の足首側へとその立ち位置を移した。

「君……もしかして、どこかで会ったかな?」

そして爪先で小春のスカートの裾を引っ掛け、そのままそれを捲り上げる。

「……!」

純白のショーツが白砂の目に晒されるも、今の小春は殴りかかる事も、声を上げる事も出来ない。

「……こんな事で恥ずかしがっちゃ困るよ。君にはこれからたっぷりと、お仕置しなきゃいけないからね……」

白砂の含み笑いを聞きながら小春の意識は闇へと落ちた。


彼女はまだ知らない。
蜘蛛に捕らわれた蝶の行く末を。
彼女はまだ知らない。
自らが辿る運命、その心に刻まれる、白く粘ついた受難の時を……


「駄目だ、眠れないや……」

病室の闇の中、ベッドから半身を起こした啓太は弱々しく呟き、耳を凝らしても聞き逃しそうなほど、小さな小さな溜息を吐いた。

姉の背中を見送った瞬間から治まらない不思議な胸騒ぎに阻まれ、消灯時間を過ぎても眠る事が出来ない。

そして彼は急に恋しくなった彼女の体温を思い出すように、枕元に飾ったフォトフレームを手に取った。
『ガンバレ、ケイ!』と手書きのメッセージが添えられた小春の写真をじっと見つめながら、これを渡された日のことを……初手術の前日の記憶を反芻する。

「……おねーちゃん、もしかすると僕……」

無意識に出た言葉をさらに紡ごうとしたその瞬間、それを遮るかのような唐突さで病室ドアが開いた。
巡回の時間はまだ来ていない。幽霊でも出たのかと、啓太は少し怯えた顔を上げる。

「誰……ですか……?」
「病院ね……僕はあんまり好きじゃないな。清潔だけどそれしか無い。それに何より自由が無い」

暗闇によって姿を隠した来訪者は少年の問いを歯牙にも掛けず、そっと壁のスイッチに触れた。
蛍光灯の明かりによって暴かれたのは、白いスーツで身を固めた男の姿。彼は少なくとも幽霊では無い。が、それよりもタチの悪い人間であることは確かだろう。

「お久しぶりだね、桜木啓太くん。……いや、今の君には初めまして、かな?」

胸に手を当て、形だけの一礼をした白砂はテレビの脇に置かれた新聞の見出しを目敏く見つけ、困ったように微笑む。

「正義の美少女怪盗……か。一応被害者は僕らなんだけどね」

病室へと侵入し、意味の分からない言葉を羅列する不審者を警戒した啓太は気取られないようそっと、ナースコールに手を伸ばした。
が、白砂が次に発した一言により、その指は不可視の壁に阻まれたように静止する

「……ねえ、あの怪盗とお姉ちゃん、君はどっちが好きなのかな?」
「え……?」

唐突な問い掛けに首を傾げた少年を楽しげに観察しながら、白砂は啓太の耳元へと顔を寄せた。

「……悪いけど、君には一緒に来てもらうよ」

急にトーンを下げ、喉元に突き付けられたナイフな冷徹さを帯びたその声色に、啓太の背筋は凍り付く。

「そして、いい夢を見せてあげる……」

ポケットから小さな注射器を取り出し、そっと針を啓太の腕に刺す白砂。

声も無く崩れ落ちた少年の寝顔を見下ろす口許は、冷たく歪んだままだった。

囚われた小春が目を覚ましたのは、罠に落ちて数時間後の事だった。

――ここは……?

覚醒し切らない意識のまま、彼女は上体を起こそうとする。が、鈍色に光る鎖はその程度の自由すら許さない。

小春は今、地下駐車場のような空間の中央に設置された、大きな円形のベッドの上で仰向けに横たわっている。程よく身体が沈む羽毛の心地良さを楽しむ余裕は、今の彼女には無い。

そして両腕はベッドの縁(ふち)から伸びた鎖に繋がる手錠によって戒められ、全身でAを描くような体勢で彼女は拘束されていた。
――そっか……やっぱりあたし……

自らの置かれたこの状況に敗北の事実を嫌と言うほど突き付けられながら、小春は自らの未来を案ずるよりも先に、自分がいなくなれば独りぼっちとなる啓太の事を想う。

考えるにつれて背筋に走る悪寒は冷え冷えとした空気が満ちた空間のせいでも、制服のブレザーを脱がされていたせいでも無かった。

――ゴメンね、ケイ。……お姉ちゃん、もしかしたら帰れないかも……

いつに無く弱気の小春。彼女が胸の奥で啓太に詫びたその瞬間、鼠色の壁に備えられた鉄製のドアが、錆の擦れる音と共に開いた。
小春は音の方向……頭上へと視線を向ける。そしてその先には、やはり奴の姿があった。

「お目覚めのご機嫌はいかがかな?怪盗チェリー・ブロッサム」

小春の顔を覗ける位置に腰掛けた白砂は彼女の目を見てフレンドリーに微笑んでいる。そして彼はその両手に、湯気の昇るコーヒーカップを一つづつ持っていた。

「……最悪ね。まさかアンタなんかに捕まるなんて」

小春は悪態を返しながら、他人の神経を逆撫でするその笑顔をきっと睨み付ける。白砂は憎しみの籠ったその視線すらも楽しむように、左手のコーヒーカップを静かに煽った。






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