シチュエーション
![]() 180ある警官が遥か見上げたのだから、その身長は2mを軽く越すだろう。 体重はおよそ100kg、若手警官ヘイスはそう踏んだ。 もっとも、「それ」を構成しているのが人間と同質の筋肉なら、だ。 彼にはその生き物が猛獣にしか見えなかった。 上腕は成人男子の腰より太く、首はまるでドラム缶で、隆起した肩の筋肉は溢れ出すコールタールの如くだ。 ゴリラのようなその生き物は、やけに人めいた表情で笑った。 「どうした、もう撃たねぇのか」 街路樹の間隔ひとつ分がゆっくりと詰まってゆく。 ヘイスは震えながら銃を構え直した。その背後には阿鼻叫喚が広がっていた。 片腕を雑巾のようにへし曲げられた男、赤い血を流して泣く女学生、炎上するガソリンスタンド。 炎に煽られて街路樹は葉を落とし、アスファルトが空の赤を映していた。 それを背負い立つヘイスは英雄と呼ぶに相応しいだろう。 「フ、フリーズッッ!!」 その英雄は涙を零しながら引き金を引いた。 パァン、と発砲音が響く。次いでもう一発。 しかし弾を喰らった相手は、その度に一瞬歩みを止めただけだった。 当たっているのだ。 弾は確実にゴリラのような化け物の頭蓋へ呑み込まれている。 人間なら即死だ。しかし、効かない。 「う…ぁ、ああああ!!!」 ヘイスは半狂乱になって更に引き金を引く。しかし、弾が出ない。 がちん、がちんと無情な音が響く。 化け物が口端を吊り上げた。 「くそ、クソっ…!!」 後ずさりしながら街路樹に行き当たり、ヘイスはいよいよ震え上がる。 「そう怖がんなって。一発でぶち撒けさせてやるよ」 化け物が拳を握るのを、ヘイスはただ呆然と眺めていた。 だが肩が動き、それが自分へと向かう事が解った時、彼はもがいた。 足をばたつかせ、滑って尻餅をついた。 前髪を質量が掠める。その質量は凄まじい速度を以って背後にぶつかり、街路樹の幹を軋ませた。 聞いたことの無い音だった。 ギヂヂヂッヂヂ、そういう軋轢音と共に、背後にあった街路樹が倒れていく。 「ちっ、避けやがって」 化け物が唸りを上げるのが聴こえる。ヘイスは蹲りながら顔を覆った。 「神よ、神よ、神よ、神よ…!!!」 喧嘩無敗、今までの人生で祈った事など無い彼だったが、知らずの内にそうしていた。 化け物が嘲笑っている。 だがともかく神に祈りはした、瞬間的にだが父母に懺悔もした。これで天国へ逝ける筈だ。 あとは化け物に拳を振り下ろされ、死ぬだけだ。ヘイスはそう覚悟を決めた。 そして訪れる、長い、長い静寂。 …走馬灯はゆっくり流れるというが、それにしても長い。 ヘイスは瘧にかかったように震えながら、僅かに指を開いて顔を上げる。 そこには尚も異形の化け物がいた。しかし、その視線はどこか遠くを向いている。 「……驚いたな」 化け物は低く呟き、くるりと背を向ける。 「祈って女神を引き当てやがった」 ヘイスは涙に濡れた視線の先に、確かに女神を見た。 東洋人らしい彼女は黒髪を赤い風にたなびかせ、化け物を見据えていた。 「あ、絢葉だ!おい皆、絢葉が居るぞ!!」 誰かが叫び、周囲の視線がその少女に集まった。 「ま、マジだ、――絢葉ぁああ!待ってたぞぉっ!!」 「化け物はGS前の街路樹だ!ポリスが一人で相手してる、助けてやってくれ!!」 人々の声を受けながら、絢葉と呼ばれた少女は地を駆ける。 その出で立ちはまるで逃げ出した虜囚のようだった。 拘束服のような白い上着で身を締め付け、その腕にも首にも腰にも、至る所に大小様々なベルトが見える。 唯一脚だけは自由、というより下穿きを履いただけの生脚だ。 その生脚は、この狂乱の中にあっても男達の眼を釘付けにするすばらしい形をしていた。 「どうやら、只者じゃねえな。お前みたいなのを待ってたぜ」 異形が、少女の脚に露骨に視線をやりながら言う。 少女は辺りの惨状を見渡して化け物を睨んだ。 「レディーを迎えるなら、もう少し紳士的にお願いしたいわね」 「へっ。生憎俺は、『イイ女は犯してこそ』の益荒男思想なんだよ」 化け物がにやりと笑う。 そして地面を蹴り、巨体に似合わぬ速さで絢葉に迫った。 「聞きゃあ随分と兄弟を潰してるそうじゃねえか。どんなもんか、見せてみろ!!」 化け物は絢葉の顔目掛けて爪を振り上げる。 絢葉は鋭いステップで横へ回避した。完全にかわした筈だ。 しかし化け物の腕から繰り出される風圧は、それだけで黒髪を巻き取っていく。 「くっ…!?」 吹き付ける暴風の中、絢葉はかろうじて目を開ける。 その視界の中、化け物が傍らにあるバイクを軽々と掲げるのが見えた。750ccの大型バイクだ。 「ミンチになりなァ!」 キガシャアァンッッ!!!! バイクは凄まじい音を響かせてアスファルトに打ち下ろされる。 絢葉は素早く後ろへ跳んで直撃こそ避けたが、四散するバイクの破片を体中に浴びる形となった。 「……つっ!!」 絢葉は目を庇いながら後ろへ左右へステップを刻む。 数瞬反応が遅れれば大惨事という破片の吹雪を素早く切り抜ける。 「やるじゃあねえか。下の下で即死、中の中ならでかい破片で瀕死ってとこだが…掠り傷か」 化け物はバイクの片割れを手に感嘆を示した。 絢葉は頬に幾つか、服に5ヶ所、脚には数えるのも億劫なほどの切り傷を負っていた。 「…そっちこそ、やってくれるわ。脚は自慢の一品なのよ」 絢葉は自分でも傷を見て溜息をつく。 そして自らの腕で自分の胴をかき抱くような仕草をした。 ――手加減はしてられないか。 そう呟いたのは聴こえなかったのだろう。化け物が口元を綻ばせる。 「怖ぇのか。まあ目の前であんな事されちゃあ、ビビらねぇ訳がねえよな」 そう言って勝ち誇ったように力瘤に口付けする。 その間も絢葉は更に強く細身を抱き、何かを呟いていた。 「おいあれ、た、助け……ないと……!」 腰を抜かしていたヘイスは、それを見て叫ぶ。このままでは、あの少女もやられる。 しかしヘイスを介抱した通行人は、穏やかな表情で首を振った。 「大丈夫だ。じきに勝負は着く」 よく見れば、他の人間たちも縮こまる絢葉を見て目を輝かせている。 ヘイスにはそれが脅えているようにしか思えないのに。 『汝、絢葉の清冽なる身を赤鎖に捧げ請う … 第一拘束 拘束を開始せよ』 絢葉が低く呟いた次の瞬間、突如その身に纏っていた服が収斂し始めた。 ぎちぎちと布の締め付ける音がする。 細身をさらに押し込めるように肌に張り付き、更にベルトがぱしぱしぱし、と音を立てて幾重にも巻きついていく。 「………?」 余裕を見せていた化け物も、その異様な事態に目を細めた。 「何が、起こってるんだ…?」 ヘイスが問うと、隣の男が答えた。 「奇跡さ。『不自由なる女神』の、な。」 それから数十分後、化け物は膝を突き目を見開いていた。 「……………ッ!!」 アスファルトに彼のどす黒い血が滴っていく。鼻から溢れ出したものだ。 「投降しなさい。そろそろ限界でしょう?」 絢葉が彼の頭上から声をかける。 「…舐、っめんなああ!!」 化け物は左腕を地に叩きつけて身を起こし、同時に右腕を絢葉に叩きつける。 しかし、当たらない。 「解らずや!!」 絢葉はとうにそんな所にはおらず、彼の頭上に舞っていた。 轟音を立てて化け物の首筋に飛び降りると、その跳ね返りを利用して痛烈なミドルキックを放つ。 スバァンッ!!! その蹴りは見事に化け物の顎に入り、血飛沫を舞わせてその巨体をぐらつかせた。 「お……くあ…お………」 足に力が入らずよろめきながら、化け物は理解していた。 絢葉が腕と上半身を自ら拘束したあの瞬間から、その脚力が爆発的に増している。 ステップの速さも、踏み込みの深さも、蹴りの威力も、全てが人間のそれではない。 周囲の盛り上がりから推測できた。これこそが彼女の真髄だ。 一時的に腕を犠牲にし、悪を屠る足腰を得る女神の奇跡。 ゴリッ!! 絢葉の生脚が化け物の顎を抉る。ほんの僅かにいい匂いが鼻腔を擽る。 その威力たるや、まるで自分がバイクをぶつけたあの破壊力さながらだ。 化け物は自分の頭の中にぶちぶちと千切れる音を感じていた。 頭に銃弾を打ち込まれても何ともない頭部だが、超威力の打撃を喰らい続けた場合には耐え切れない。 もっともトラックに激突されても、さして問題のないレベルな筈だが。 ――ありえねぇ……こんな細っこい、ガキが……! 化け物は脳髄が焦がされる痛みを覚えながら、何とか耐えようとし、 ―――頭が、割れる…目が見えねぇ………… ば、化け物、め…ッ!!! しかし、ついには血を噴いて仰向けに転がった。 血は噴き上がって絢葉の身体に降りかかる。流石の絢葉も攻撃の後にそこまでは避け切れない。 化け物が動きを止めると、わっ、と周囲に歓声が上がる。 その只中で絢葉は膝まずき、化け物の瞼を静かに閉じさせた。 絢葉、17歳。 彼女こそ街を騒がせる異形への、ただひとつの切り札だった。 ※ 「絢葉ちゃん!」 絢葉が扉を開けると、軍服の女性が椅子から立ち上がった。 2つに分けたセミロングの金髪が美しい。 「よく無事で。皆、心配してたのよ」 「ありがと、アネッサさん」 敬礼してそう話す女性に、絢葉は肩を竦めて答える。 アネッサは絢葉より5つ上だ。落ち着いた物腰の彼女は、絢葉には姉のように思えた。 「おや…生きていたか」 部屋の奥からもう一人軍服の男が現れ、敬礼する。 アネッサがその敬礼を見て目つきを鋭くする。 「左手敬礼ですよ、中尉」 中尉と呼ばれた男はなおも左手敬礼を改めぬまま鼻を鳴らした。 「さて、ゾンビになって帰ってきているかもわからんからな。 左手礼は死者への黙祷だ」 「中尉っ!」 アネッサが食ってかかり、今の男、カークが悪戯っぽく笑う。 この2人は元は軍属だったが、ここ数年の化け物事件と それにまつわる軍内部の怪しさを嫌い、退役したという経歴がある。 カークは当時アネッサの上司であったらしい。 「敬礼なんて別にどっちでも良いわよ。 …ところでカーク、それとは別に、今度一緒に組み手やらない? 大事な子袋をたっぷり可愛がったげるわよ」 絢葉はカークの胸に指を突きつけて告げる。 「はは、は、謹んで遠慮させてもらうよ。君とは人間としている気がしない」 カークは苦笑いしながら後ずさりした。 「…くっ!…あ、あいたた……!」 シャワーを浴びながら、絢葉は小さく悲鳴をあげた。 湯で体中の切り傷が染みる。特にバイクの破片で負った傷が深い。 挙句には最後、あの化け物の血をまともに浴びてしまった。 その血潮が今も傷口でどくどくと鳴っているようだ。 ――ゾンビになって帰ってきているかもわからんからな。 カークの言葉が甦る。 街に化け物が出始めたのは2年ほど前。 この街――サリムコスクは元々治安の良い地域ではなかった。 ギャングと違法入国者の吹き溜まりで、軍も警察も他国ほどまともには機能していない。 『犯罪者を捕らえろだと?それなら街沿いに鉄格子でも作ればいい』 先代の市長は記者にそう言い放った。 その街に化け物が現れた所で、対処に当たるのはよほどの正義感をもった警官か、薬物中毒者だけだ。 そんな中、絢葉が化け物と戦い始めたのがちょうど1年前になる。 初めは孤独な戦いだった。 一人で拘束服を纏い、化け物と相対していた。 そうしているうちに仲間ができた。最初は不良軍人のカークだ。 次にその部下のアネッサが、そして他のメンバーが集まり、化け物の対策チームができた。 あの化け物には、特別な名前が与えられていない。皆が化け物とだけ呼ぶ。 普通なら死ぬ攻撃でも死なないから、ゾンビと呼ばれもする。 彼らには謎が多かった。 誰が、何の目的で造り出したものかわからない。 どのぐらい人間らしさが残っているのかも謎で、何の為に暴れるのかも解らない。 ただあの化け物は、誰かが止めねばならないのだ。 戦いに終わりは見えない。 だが絢葉たちは確実に、あの化け物達を駆逐していっている。 あのような化け物を一体作るのがそう容易いはずも無い。 ならばいつかは、いやきっともうすぐこの戦いも終わる。 絢葉たちは誰もがそう思っていた。 そしてそれは、ある意味で間違いではなかった。 ※ 「随分と不満そうじゃないか。悪がヒーローの組織に押しかけるのは卑怯…とでも言うのかい。 ヒーローの方はよく敵のアジトに押しかけるじゃないか」 「くっ……!」 アネッサは壁に背を預け、眼前の敵を睨み据えた。 目の前には眼鏡をかけた白衣の女性が佇んでいる。軍で生物の研究をしていた女だ。 「それらが全て、貴様の研究結果…というわけか」 アネッサは女の傍らに目をやった。そこには数多くの怪物がひしめき合っている。 動物と人間を合わせたような生き物から、不気味に蠢く軟体生物まで。 アネッサ達の基地はそれによって完全に占拠されていた。 仲間が殺されるのは何度も目にしたし、通路で別れ別れになったカークも駄目だろう。 恐らく生き残っているのは、最奥に逃げ延びた自分と、あと一人。 街中で化け物と戦っている絢葉だけだ。 そのアネッサも、今まさに最期の時を迎えようとしていた。 「よくやった、と褒めてやるよ。軍で大人しく人を撃っておけば、それなりの地位になれただろうね」 白衣の女、石間はアネッサを眺めて言う。 化け物の頭に何十と弾を撃ち込み、2体を沈黙させた。 肩を大きく抉られているが目はまだ死んでいない。 「あの娘を待っているのか?…絢葉、と言ったかな」 石間の言葉に、アネッサが目を見開く。 「貴様、なぜその名前を……ッ!!」 「何でも聞こえてくるよ、軍に居るとね。研究の邪魔をする組織の存在に、そこの構成員……花形」 「軍主導の『実験』、という訳か。気狂いめ!」」 アネッサが震えながら銃口を石間に向け、放つ。 しかし弾丸は石間に届かない。その前に立ちはだかった、牛のような化け物に弾かれる。 化け物はそのままアネッサを壁へと押し込んだ。 「うご、はっ……!!」 アネッサは目を見開き、銃を取り落とす。 「ミノタウロス、力加減を間違えるんじゃないよ。その女は内臓が潰れただけで死ぬんだ」 盛り上がる肩に潰されたアネッサを見て、石間が言う。 ミノタウロスが肩を話すと、アネッサは力なく崩れ落ちた。その口から真っ赤な血が溢れ出す。 「か、かはっ…う、あ……!!」 「言わんこっちゃない。……まぁ、丁度いいか」 石間は胸元から瓶を取り出すと、中から小さな青虫のような生物を摘み出した。 「期待に応えておくれよ?」 石間は膝をついて微笑むと、まだ気絶しているアネッサの耳へその生物を近づけていった。 ハイウェイ脇の巨大モニターに、その映像が映ったのは唐突だった。 「うお、何だあれ、女……!?」 「若い女じゃん。うっわぁ…結構美人なのにありゃひでぇや」 モニターを見た男達が口々に囃し始める。 そしてそれを一人、愕然とした表情で見る少女が居た。 「うそ……アネッサ…さん……?」 モニターに映る2つ分けの金髪の女性は、紛れもなくアネッサだ。 彼女は彫りの深い顔立ちを鼻フックで歪められ、眉間に皺を寄せていた。 さらに拡がりきった鼻孔には細長い綿棒のようなものが深々と突き入れられていた。 女のものと思しき指が綿棒を挿し入れ、奥の奥に達するとアネッサが堪らず咽帰る。 『んぉごえぼえぼ、あぶっ……んぐぶううううっっ!!』 じゅるじゅると鼻汁を噴きこぼしながら嗚咽する。 「うわ、きったねぇ。食事の後に何見せやがんだ」 「鼻水も汚いけど、声も凄いよね。女の出す声じゃないよ」 「誰だよ、公共の場所でAVなんか流してる馬鹿は」 周囲の野次が盛り上がる中、絢葉は画面に釘付けになっていた。 後ろに見えるのは基地の設備だ、アネッサが嬲られているのは自分達の基地でだろう。 そしてアネッサは羞恥の鼻責めに悶絶しながら、必死に何か言おうと口を開閉していた。 絢葉にはそれがわかった。 読唇術の心得など無いが、あらかじめ予想がついていれば読み取るのは容易い。 あ や は ち ゃ ん 彼女は確かにそう言っていた。 絢葉はそれに気付いた時、ハイウェイを駆け出していた。 「ま…て…!」 その先に先刻倒した化け物が、満身創痍の状態で立ち塞がる。 しかし絢葉は止まらなかった。 「どきなさいっ!!!」 絢葉が一括すると、化け物は身を竦ませる。 そして基地へと駆ける絢葉を、ただ呆然と見送った。 ※ 「一体何が……!」 絢葉は基地の階段を飛び降りながら周囲を見渡す。 黒ずんだ壁、鮮血がワックスのように広がる床。 火事か虐殺でも起こらないとこうはならない。 いや、実際そのどちらもが起こったのだろう。 ただそれを確かめようにも、生存者も記録物も見当たらない。 先程から肉片しか視界に映らないのだ。 「!!」 と、絢葉はふと足を止めた。最下層へ向かう途中の廊下で人が倒れている。 それは絢葉のよく知る人物だった。 「カーク…!!」 絢葉はその男の前に歩み寄った。彼は壁に背を預け、腹部にコートを被っている。 彼の周りには3体の化け物が仰向けに息絶えていた。 「おや…生きていたか」 カークは瞼をむりやり持ち上げるようにして絢葉を見上げる。 絢葉はぱくぱくと口を開閉し、瞳を彷徨わせたあと、下を向いて黙り込んだ。 「何だ…?何も言わない君は、気色が悪いな」 カークは息を吐き出しながら言う。 「そのコートの下は……どうなっているの……?」 絢葉は言った。普段カークに物を言う姿からは想像もつかない、しおらしい口調だ。 「見たいか?君の好きな子袋ぐらいは、残っていそうだぞ」 「………!!」 絢葉は胸につくほどに深く項垂れ、少しして顔を上げる。 彼女はカークを見つめた。 何とかしたいとも考えたが、もはや助かる人間の顔色ではない。 絢葉は涙を零しながら敬礼した。 「……左手敬礼だぞ。」 「願わくば、貴方がゾンビとなって生き永らえますように…よ」 絢葉がくしゃくしゃの笑みを向けると、カークも同じ笑みを浮かべた。 「謹んで、遠慮させて貰うよ」 カークの息が途切れた後、絢葉は遺骸を抱えてそっと唇を重ねた。 そして彼を優しく休ませると、意を決して立ち上がる。 『汝、絢葉の清冽なる身を赤鎖に捧げ請う … 第一拘束 拘束を開始せよ 汝、絢葉の清廉なる心を赤鎖に捧げ求む … 第二拘束、拘束を開始せよ』 ぎち、ぎちっと布が絢葉の胸を締め付け、腰に食い込む。 腕が雁字搦めに縛られ、今度は少女の細い首にまで鎖が絡みついていく。 「ぐ、ぐぐ…!!」 上半身の全てを締め付けられ、絢葉は顔を顰めた。 しかしその瞳は明らかに変化し始めている。 燦爛と輝いていた瞳孔の光が鈍り、深さを増していく。戦人の目だ。 「いつ以来かな。……本当の本気で戦うの」 絢葉は脚を踏み出した。ずん、と床が揺れる。 下穿き以外は何も纏わないすらりとした脚は、今や意のままに操れる重機と化していた。 「ようやっと来たかい。待ち侘びたよ」 石間が絢葉を振り返って言う。その瞬間、地面が揺れた。 絢葉が飛び掛ったのだ。 「させねぇよ!」 蛇の腕を持った化け物が絢葉の脚を絡め取る。絢葉は空中で勢いを失くし、床に落ちる。 「へへ、残念だったな……」 しかし。床についた瞬間、勢いよく振り上げた脚により、その脚を引いていた蛇はいとも簡単に千切れ飛んだ。 「うぐあああああああっっ!?」 蛇男がのた打ち回る。 「ちぃっ、きやがれ!!」 豹を思わせる縁取りの男が腕を伸ばして襲い掛かる。 「邪魔しないでっ!!!」 だが絢葉はその伸ばした左右の腕を踏み台に駆け上がり、男の脳天に痛烈な踵落としを喰らわせた。 男はタイル張りの床を粉々に打ち砕きながら倒れ伏す。 「ほう、大した気迫だ。まるで竜巻だねぇ」 石間は構えながら賞賛する。彼女は自信があった。 生物の研究を進める傍ら、特に優れた遺伝子は積極的に自らも摂取したのだ。 今や彼女の肉体は人間サイズながら、象よりも強靭でチーターよりも俊敏な筋肉を備えていた。 しかし、絢葉が3mの距離から跳んで放った回し蹴りを見た時、石間の頭に不安がよぎる。 そしてその不安は的中した。 バグンッ 明らかに蹴りの音ではない、破裂するような音と共に、防ぎきる筈だった石間の腕は完全に2つ折れになっていた。 「「ぐう、う…!!」」 石間は呻き、同時に蹴った絢葉も脛を押さえて蹲る。硬いのは硬いのだ。だが破壊された。 「馬鹿な……あくまで人間の力なんじゃないのかい」 石間は腕を押さえながら後退する。 「残念、違うわ。これは、神の力よ」 絢葉は床を踏みしめながら言う。 「この拘束服は、キリスト様の聖布を復元したもの。体の一部に枷を追うことで、他の部分に加護を頂くの。 鎖は海の底で眠っていた客船の碇を打ち直したもの。数千の人間の怨嗟が服の制約効果を増強するわ。 この服を着て念じれば、数千人分の力と神の加護を得られるわけ。 もっとも大抵の人じゃ、神性と邪念の板挟みで戦うどころじゃなくなるけどね」 絢葉の言葉に呼応するように、拘束服の鎖と布が蠢き出す。 「なるほど……それで『不自由なる女神』か」 石間は民衆が絢葉を呼ぶ2つ名を思い出した。 「そうよ。観念した?……言っとくけど、もう命乞いは聞かないわ。 何十という命を食い潰してきたあなたのは、ね」 石間はここで深く息を吐いた。 「やれやれ、だ。大方の動物の遺伝子をモノにして、とうとう勝てると思って乗り込んだんだけどね。 相手がここまで強いとなると、参っちまうよ。だから」 「そう。じゃあ楽にしてあげる!」 絢葉が石間に駆け寄った、その瞬間。突然絢葉に人影が襲い掛かる。 「しつこ…!?」 絢葉は蹴り飛ばそうと腰を切りかけ、その人物を見て急いで脚を止める。 「……だからさ、ちょいと汚い手、使わせてもらうよ」 石間がそう言って寄り添った相手。 アネッサだった。 「アネッサさん!無事だったのね!!」 絢葉がアネッサに笑みを見せた瞬間、その頬をナイフが掠める。 「………え?………」 頬に血が流れるのを感じながら、絢葉は立ち尽くす。ナイフを投げたのはアネッサだ。 操られている…?それとも弱みを握られて言いなりに…? 絢葉はどちらかと考えようとし、しかしどちらでも同じだと気付いた。 アネッサは二つ目のナイフを手にとって翳す。 「くっ……こ、こんな……!!」 絢葉はアネッサと対峙しながら眉を顰める。すると石間が笑った。 「ははっ、何身構えてるんだい。別にお前と戦わせようなんざ思っちゃ居ないさ」 「何ですって……?」 絢葉は耳を疑った。戦わせない?それならば依然絢葉の優位が変わらないではないか。 そう思った直後、絢葉は目を剥いた。 アネッサが自分の首元にナイフの先を差し込んでいたからだ。 つう、っと血が流れていく。 「あ、アネッサさん!馬鹿なことはやめてっ!!」 絢葉は無意識に駆け寄り、拘束服を解除してアネッサの手を掴んでいた。 手がぶるぶると震える。簡単に引き剥がせる力ではない。 というより拘束服の力を借りない絢葉よりは、軍人であり年上でもあるアネッサの方が腕力は上なのだ。 ナイフは少しずつアネッサの白い喉を裂いて行く。 「うわあああ!やめて、やめてぇ!!おお願いですっ!!!」 絢葉は涙を零しながら必死にナイフを掴む。 今背後から襲われたら即死ものだが、もはやそれどころではない。 「助けて、誰か……!!」 言いかけ、絢葉ははっと気付いて石間を見る。彼女はさも可笑しそうに見ている。 絢葉は一瞬躊躇い、しかし赤い血が掌に落ちるのを感じて決断した。 「石間!……さん、お願いです、やめさせてくださいっっ!!!」 「おや、じゃあ何でもするのかい」 「な、何でも!?………くっ、します、何でも!だから早くうぅっ!!!」 絢葉の手首にまで血が流れ始め、絢葉は声の限り叫ぶ。 すると、ふっとアネッサの力が緩まった。 絢葉は大きく安堵の息を吐き、その場にへたり込む。 「ハイ、契約成立。」 石間がけらけらと笑い、化け物たちに絢葉の拘束服を剥ぎ取らせにかかった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |