ホーリーダイア
シチュエーション


「なんだ、どうしたのだ、俺は」

あるもの全てが禍々しい気配を纏う魔界の深淵、その漆黒の玉座に、鷹揚に姿勢を崩して頬杖をつきながら、皇子・グロッシュラーは溜息をついた。

「あら、何事かございまして?」

傍に侍るサキュバスが数人、悩ましい身体をくねらせるように近づく。並みの男であれば一瞬で骨抜きになるであろうその肢体にも、その整った美貌にも、しかし、悩める皇子はたいした興味も示すことはなかった。

「よい。下がれ」

軽く手を振って、どこか不満そうな顔の侍女達を退室させ、彼はもう一度溜息をついた。だが、次の瞬間、異常な程に発達した犬歯を見せて、妖艶な笑みを浮かべる。

「悩んでいても仕方があるまい。もう一度、会いに行くか」

ばさり。

漆黒のマントを翻して、グロッシュラーは大股に城を出て行った。

(もうっ!何なのよ、これ…!)

1限目終了のチャイムとともに、鞄の中に教科書やノートを放り込みながら、一人の少女が溜息をつく。
肩程の長さの艶やかな黒髪がその軽快な動きにあわせてさらりと揺れ、真珠のような肌との見事な対比が目を惹いた。
濃いまつげに縁取られた黒目がちの瞳は見る者に愛くるしい印象を与え、その赤い唇は、彼女の顔の黒と白の対比の中で可憐な存在感を放っている。
文句のつけようのない、可憐で清楚な美少女ではあるが、立ち居振る舞いは堂々としていて、活発さを感じさせた。

(なんで、あんなやつのことが、頭から離れないのよう…)

そう思いながらも、意図せずして、もう何度目だか解らない昨夜の回想が再生を始める…

「ほう…、貴様か、人間界への我が侵攻を妨げているホーリーダイアというのは?」

切れ長の蒼い瞳を半眼にして、銀髪の美しい男がこちらを見る。

「その通りよっ!あんたが親玉ね!こういうときは普通、自分から名乗るのが礼儀じゃないのかしら?」

すでに切り伏せた数匹の魔物を背に、聖なる戦士は男と真っ向から相対する。

「フッ…なかなか言うな。俺は魔界の皇子、グロッシュラーだ。以後、お見知りおきを」

場違いなほどに優雅な会釈をする相手を、ホーリーダイアは臆することなく睨み付ける。

「皇子のわりには礼儀を知らないのね、グロッシュラー。なぜ人間界に侵攻を始めたのか、教えてもらえるかしら」
「理由…?いや、そんなものはないな…強いて言えば、興味があったのだ、人間界にな」
「なんですって…!」

ぎり、と奥歯をかみ締めてホーリーダイアが翳した手の中に、白銀に輝く刃が現れる。

「そんなことで、どれだけの命を奪おうとしているのよ、あなたは!」
「そんなこと…?貴様ら人間にはそんなことであっても、俺にとっては重大な理由だ。なにしろ、長く生きていると退屈なのでな。興味というのは大切だぞ」
「許さない!」

ヒュアッ!

凄まじい速さで空を切る光の刃を、グロッシュラーの漆黒の刃が受け止める。その黒い刃が翻れば、ホーリーダイアの身体は軽々と宙を舞い、再び光の刃を閃かせる。
お互いが、相手の力量を一瞬で見抜いていた。

(つ、強い…!耐久戦にはできない…!)

(ほう…剣も容姿も、人の身にしておくには惜しいな…)

ならば、と大技を繰り出そうとしたホーリーダイアに対し、グロッシュラーは魅惑的な笑みを浮かべて、大きく退いた。

「なっ…!どういうつもり?」
「退くのだ。お前は、ここで殺すには全く惜しいのでな」
「ま、待ちなさい!」

ホーリーダイアは叫んだが、そのときにはもう、グロッシュラーの輪郭は、半分闇に解けていた。

「また会おう、美しき戦士よ」

その言葉を残して、ふ、と気配が消える。
その瞬間に、戦士はがくりとその場に膝をついた。
力量の差も、威圧感も、今までのどんな敵ともケタ外れだった。しかし。
彼女は絶望にも似た気持ちで思い知っていたのだ。
あの蒼い瞳で見つめられて、自分が常になく興奮していることを…

「…あや?彩?」

クラスメートの心配そうな声に、白川彩ははっと我に帰った。
びっくりして振り向くと、友人の聖香が立っていた。

「大丈夫?もう授業終わったよ?」
「ええっ!?」

びっくりして周りを見回すと、確かに、教室に残る人影はまばらで、窓には傾きだした陽の橙の光が灯っている。

「…ああ、うん、何か今日私駄目みたい…」
「熱でもある?顔がちょっと赤いかも」
「だ、大丈夫。ちょっと熱あるかもしれないけど、多分たいしたことないよ」
「そう?ならいいけど…」

気遣ってくれる友人に微笑みを返し、下校するために立ち上がったその時。

(ホーリーダイアよ。聞こえるな?)

頭の中に直接響いてきたのは、紛うことなき、昨夜の宿敵の声であった。

(ぐ…グロッシュラー…!!)

(覚えていてくれたとは光栄だな。)

声の主は、愉快そうにくつくつと喉を鳴らす。

(ふらりと人間界に侵攻に来てみたが、やはりお前がいないとつまらないのだ。出て来て貰おうか)
(なっ…!どういう理由よ!そんな、勝手な…!!)
(敵が来ている事を知って放っておくなど、聖なる戦士にはできはしまい?)

唖然とする彩の意識の中で、魔界の皇子はまたもや楽しそうな笑い声を漏らす。

(何が、そんなにおかしいのよ?)
(いや…失礼。待っているぞ)

(何、今の…?馬鹿にしてるの…?)

消えていく「声」に対し、彩はそんな印象を抱く。
そんな風に敵に呼びつけられることは、誇り高い戦士にとっては屈辱以外のなにものでもない。
しかし、グロッシェラーが言ったとおり、彼がいることを知って放っておくことなど、聖なる戦士ホーリーダイアにはできるはずもなかった。

「彩?」
「ごめん聖香、私やっぱり熱があるみたい。保健室に寄ってから帰るから、先に帰ってて?」
「う、うん…。お大事にね?」

頷く友人を確認すると、彩は教室を出た。
そして、落ち着いた足取りで保健室への道を辿りかけ…曲がり角に差し掛かった途端に、屋上に向かって走り出す。

(やっぱり、私、どうかしてる!今度こそ何とかして、あいつを倒さなきゃ…!)

ばんっ!

屋上に躍り出ると、彩は右手を天に翳した。その指に嵌った、澄んだ輝きのダイヤモンドのあしらわれた指輪が、それに呼応するように光を放つ。

「ホーリーチェンジ!至上の誇り、聖なる剣よ!我に力を与えたまえ!」

ぱあっ…。

ダイヤモンドから放たれた純白の光が彩を包み込み、その光が消えた後には、優美な銀の装飾が施された白い鎧を纏った、ホーリーダイアが立っていた。

(感じる…あっちね)

魔界の瘴気を孕んだ強い力を北の方向に察知し、彼女はふわりと屋上から飛び立った。
瞬く間に、町外れの廃ビルの屋上に、その姿を捉える。

「そこまでよ、グロッシェラー!…って、あれ?」

確かに、そこに宿敵は居た。隣には、赤色の花を思わせるものをつけた植物の魔物を従えている。
今までのホーリーダイアの相手は殆んどが獣型だったから、植物型は珍しい。
しかし、彼女が訝ったのはそこではなく。

「何を、してるの…?」

そう、どうにも違和感を覚えるのは、そのわさわさ動く植物と魔界の皇子が、別にどこかを攻撃するでもなく、二人並んで屋上に座り込んでいたこと。

「来たか、ホーリーダイア。待っていたぞ」

そんなセリフも、座り込んだ状態から見上げつつ言われたのでは、どうにも印象が違いすぎて。

「こんなとこで、なにやってるのよ…?」

間の抜けた質問が、彼女の口から零れる。

「いや、だから、お前を待っていたのだ」
「あ、ああ、そう…」

私、今日こそ大技を打ってやるつもりで、ここまで来たんじゃなかったっけ。
軽い眩暈を覚えて、ため息をつく。
だが、顔を上げた瞬間、昨夜と同じあの蒼い瞳と視線が合い、急に心臓がどきんと跳ねた。

「で、私は来たけど、どうするのよ?」
「ふむ。ではまあ、戦うとするか」
「はあぁ??」
「あっ、でもな、今日の相手はこいつだぞ?」

自分の隣の植物を指差して、グロッシェラーはにやりと笑う。

「お前など、この俺が直接手を下すまでもないからな」
「…座り込んだままの人に見上げられながら言われてもねえ…」

小さく呟くと、気を取り直して、ホーリーダイアはびしっ!と植物の魔物を指差した。

「いいわ、お相手するわよ。間違ってこんなのが街中にでも出たら大変だもの。でも」

横目でグロッシェラーを睨み、続ける。

「これが終わったら、再戦よ。グロッシェラー」
「承知した」

ここばかりは、眼光鋭く、不敵な笑みを見せて、グロッシェラーは応じた。
それを確認すると、ホーリーダイアは光の刃を出現させ、わさわさと揺れる植物に切りかかる。

「はあっ!!」

まさに神速の神業であった。
だが、魔物の方でもそれを見極め、根を人間の足のように使い、跳躍して避ける。

「流石に、皇子が直々に連れてきただけのことはあるみたいね」

間髪入れずに放った二撃目が、幾枚かの葉をかすめ、はらはらと散り落とす。
触手のような根とも茎ともつかないものが、するりと伸びてホーリーダイアを打ち据えようとするが、ひらりと優雅にかわし、そのまますたりと着地する。

すると魔物は、赤い花をこちらへ向け、妙に甘い香りを吐き出した。

(くっ!毒か…!?)

だが、彼女の聖なる鎧は、毒を無効化することができる。幾多の魔物たちとの戦闘で、何度も彼女を護ってきた効果のひとつだ。
臆することなく踏み込み、放った一撃は、相手の触手の2、3本を切り飛ばした。
オオォォォォ…
唸りを上げて、相手が後退りする。取った、と確信して踏み込もうとした足は、しかし、それ以上前に出ることは無かった。

(な、何…!?)

意図せず膝がかくかくと震え出し、堪らずホーリーダイアはその場に膝をつく。荒い息がその可憐な唇から吐き出される。

「はあ…はあ…っ!」

(身体が…熱い…!)

「ふむ、効いてきたようだな」

成り行きを見守っていたグロッシェラーが、楽しそうに笑う。

「はあっ…ど、どういうこと…何なのよ、これは」
「毒だ」

さらりと言ってのける銀髪の青年であったが、しかし。

「だって、この鎧は、毒を無効化できるはず…!」
「そう、確かに、その鎧はたいしたものだ。我が僕たちも、随分とそれで悩まされたからな」

しゅる…

無情な触手の音が響き、左右の手首を縛り上げる。
先程までは圧倒的優勢だった相手になす術もなく、ホーリーダイアはグロッシュラーの目の前で磔にされてしまったのだった。

「は、放しなさい!」
「だから、対ホーリーダイア用に開発したのだよ。空気中では無害で、生物の体内に入ったときのみ、毒性を出す香りの植物を」

ゆっくりと、ホーリーダイアに手の届く場所まで歩きながら、グロッシェラーは続ける。

「首尾よくいった様で、満足だ」

すっ、とその指が、ホーリーダイアの頬をなぞる。その途端に、ホーリーダイアの身体に電流が走る。

「あ…っ?!」
「どうだ、良いだろう?この毒にはとっておきの媚薬効果がある」

その指を白い首筋に這わせながら、グロッシュラーは彼女の耳元で囁いた。

「やっ…!あ、ああっ…!やめて…!」






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