GRIMOIRE(仮)
シチュエーション


風をも切り裂く鋭い音に追随し、重たげな落下音が立て続けにその場に響く。

「グ……ルゥゥゥゥ…」

まるで獣のような呻き声を上げながら、一人の男がガクリとその場に膝をついた。
切り裂かれた背中から、飛沫が間欠泉のように噴き出し、その身体や周囲の地面を青く染め上げている。
周りには節足動物のそれを思わせる、黒い毛に覆われた脚が四、五本程散らばっていた。
しばしの間、苦痛に耐えかねたように蹲っていたその男が、僅かながらにその首を上げる。
露わになったその顔は、人のものとは明らかにかけ離れたものだ。

鋭く伸びた二本の牙。
顔中を覆い尽くす、黒々とした毛。
ギョロリと前方を見据える、赤く染め上げられた三つ目。

どれもこの男が人ならざるモノである事を如実に表していた。
散らばっていた節足も、先程まで男の背から生えていたものだ。

「ホントに往生際が悪いのね。足掻いてても苦しいだけなのに」

冷ややかで、凛とした声が男に投げかけられる。
男に背を向けていた声の主は、振り向きもせず悠然とその場に立っていた。
その声から、声の主が妙齢の女性である事が読み取れる。
ライダースーツに包まれたそのシルエットは、スラリと引き締まった印象を見る者に与える。
その手に握られ、あの節足を断ち切ったのであろう刀もまた、持ち主同様の細身の刀身を鋭く輝かせている。
頭部全体を覆うヘルメットによってその表情を窺い知る事こそ出来なかったものの、
彼女のその立居振舞は明らかに余裕を窺わせるものであった。

「長い間逃げおおせてきたけど、そろそろ年貢の納め時のようね」
「ルゥゥ……キィィィ………」

憎しみのこもった表情が、目の前の敵へと向けられる。
と、次の瞬間にはその姿はその場から消え去っていた。
一直線に相手に飛びかかろうとするその姿はまるで獣のよう――いや、獣そのものであった。
無防備とも取れるその後姿に、今にも男の魔手が襲いかかろうとしたその時だった。
刹那に閃く白刃。

その一閃が、彼の首と身体とを真っ二つに寸断した。
間髪入れず、地を蹴って宙に舞い上がった彼女の一太刀が、刎ね飛ばされた首をさらに断ち割る。
断ち割られた首が砂のように崩れ去るのを背にし、彼女はふわりと、何事も無かったかのように屋上に降り立つ。

背後を一瞥し、倒れ伏した首なしの身体が動かぬ屍となっていることを認めると、
彼女は手にした刀をサッと血払いし、何時の間にか手にしていた鞘へと収めようとする。
だが、直後に耳にした奇妙な音に、収められようとしていた刀は半ばで止められる。
その音は、背後のあの首なしの胴体から発せられていた。

「……そりゃそうよね。ここまでしぶとくなきゃ、今の今まで生き延びられてきたわけがない」

呆れたような口振りで呟きながら、彼女は目の前で起きている光景を注視する。
うつぶせに倒れていたその背がボコボコと、断続的に盛り上がったかと思えば、
その直後にはもう背をぶち破って幾本もの節足が飛び出してきた。
飛沫を撒き散らしながら続くその光景はまるで、昆虫の脱皮のようでもある。
いや、もしかすればこれも脱皮そのものなのかもしれない。
足に続いて現れ出た毛むくじゃらの胴体は、先ほどまで人間大の身体に閉じ込められていたとは思えないほどに巨大なものであった。
その胴体に呑みこまれるようにして、抜け殻となった先ほどまでの身体が消えていく。
そうして現出したその姿は、先ほどまでの半人半獣のものとは異なり、巨大かつ完全なる蜘蛛の形をなしていた。

「奥の手ってところかしら」

肩をすくめるような素振りを見せると、すぐさま襲い掛かってきた大蜘蛛を迎え撃つ。
前の二対の歩脚で責め立てる大蜘蛛に、彼女は慌てずにその攻撃を刀で受け流す。
だが一方で、まるで槍衾のようなその攻勢に、反撃の糸口が見出せないのも確かな事実であった。
人の姿を失った分、その動きは今まで以上に人知を超えたものとなっていた。
せめぎ合いが続く事しばし。

この膠着した状態を打ち破ったのは、攻め手であった大蜘蛛の方だった。
彼女の見せた一瞬の隙を突き、折りたたまれていた一対の触肢が素早く伸ばされ、
彼女を遥か後方へと弾き飛ばす。
予想外の攻撃にフェンスへと叩きつけられ、苦しげな呻きが漏れ聞こえてくる。
握られていた刀も、弾き飛ばされた際の衝撃で手から離れていた。
何とか態勢を立て直し、今度は腰の後に納められていた小柄を引き抜いて構えるが、
今の攻撃で負ったダメージのせいか、思うように動く事が出来ずにいた。
そんな彼女をよそに、徐々に大蜘蛛がその距離を一歩、また一歩と縮めていく。

「くっ……!」

自由の利かない身体に歯噛みしつつも、目の前の敵をキッと睨みつけるように見据える。
そんな彼女の目の前で、奇妙な光景が繰り広げられたのは正にその時だった。
炸裂音と共に、大蜘蛛の体表にいくつもの火花が飛び散る。
不意を突かれたかのように、大蜘蛛はジリジリと後方へ退く。

「あんまり無理しちゃダメよ、ルキ」
「サティ……!?」

空から降ってきたその声に、彼女のバイザーの奥の目が驚きに見開かれたように見えた。

頭上からの声を耳にし、ルキと呼ばれた彼女が思わず顔を上げる。
その目に映ったのは、パラシュートでふわりふわりと降りてくる一人の少女――サティの姿だった。
サティもまたルキと同様にライダースーツとヘルメットに身を固めていたが、ルキと違っていたのは、
真っ赤に染め上げられたグローブとブーツ、そして身体の側面を走る二本の赤いラインの存在であった。
その両手にはそれぞれハンドガンと、大ぶりなナイフが握られている。
手にしたナイフを器用に使い、邪魔になったパラシュートをその背から切り離すと、
軽い身のこなしでルキの目の前に降り立つ。

「何で……ここに?」
「あなたのたっての頼みで一人で任せたけど、やっぱり心配になってね。
だからあたしの方をすぐに片付けて、助太刀に参らせてもらったの」
「折角の助太刀には感謝するけど……生憎サティの出番は無いかも」
「言った筈よ、無理しちゃダメって。見た感じ強がりにしか聞こえないようだし、
ここはあたしに任せておいた方が得策よ」
「いいから……本気を出せばあれ位は……」
「……じゃぁ本気が出るまで、あたしがアレを引きつけておくっていうのはどうかしら?」
「………分かった」

ルキのその言葉を聞き終わるか終わらぬ内に、サティが一歩前へと歩み出る。
彼女の目の前には、既に態勢を立て直していた大蜘蛛の姿が。

「ちょっとの間、相手になってもらってもよろしくて?」

まるで挑発するかのようなサティの口振りに、大蜘蛛が猛りながら飛び掛ってくる。
突き立てられようとした幾本もの歩脚を、まるでダンスを踊るかのような軽やかなステップで掻い潜ったかと思えば、
右手のハンドガンが立て続けに火を噴き、大蜘蛛の身体に無数の弾痕を残していく。
その一撃一撃も決定打に至らないのを見るや、今度は歩脚を狙って弾を撃ち込んでいく。
歩脚の付け根や関節に、容赦なく撃ち込まれていく銀色の弾。
それでも大蜘蛛の動きは止まらず、なおもサティに一撃を与えんと突っ込んでくる。
たちまち、不利な状況へと追いやられてしまう。
だがそれさえも、サティにとっては想定内の事態だったらしい。

「ルキ……そろそろ準備は出来たかしら」

先ほどと何ら変わらぬ涼しげな声を受け、それまでしゃがみ込んでいたルキがゆらりと立ち上がる。

「……ありがとう。いつでも大丈夫だから」

覇気に満ちた声が、夜の闇に響いた。

立ち上がりと同様、ゆらりと伸ばされた右手に、転がっていた刀が吸い寄せられるように飛び込んでいく。

「―――はっ!」

再び手の内に戻った刀を、気合と共に薙ぎ払う。
その瞬間、ルキの身を包んでいたライダースーツに変化が現れる。
スーツ同様の黒色だったグローブとブーツは一瞬にして白銀の輝きを放ち、
サティ同様、身体の側面を銀色の二本のラインが走る。
そして薙ぎ払われた刀もまた、その刀身に仄白い光を纏わせている。
これがルキの言うところの”本気”なのだろうか。
変化を遂げたルキの全身から、溢れんばかりの気迫が漲っているのをサティは感じ取る。

「じゃぁ、後は頼むわね」

落ち着き払った様子で、ルキを見遣るサティ。
そのサティを追い詰めていた大蜘蛛もまた、背後からの凄まじい気迫を感じ取っていた。
素早くルキの方へと向き直るや、奇声を伴って再度飛び掛ろうとする。
だが、その暇さえもルキは与えなかった。
光の如き速さで間合いを詰めるや、瞬く間に白刃が閃き、前の二対の歩脚をバラバラに切り裂いていた。
何が起きたか分からず、突然襲い掛かってきた苦痛に大蜘蛛が吼える。

「……そろそろ頃合ね」

その光景を見守っていたサティが、手に持っていた懐中時計の蓋を閉じる。

「ルキ、ちょっと後ろに下がってちょうだい」
「またいいところを掻っ攫うつもり?」
「ちょっとした仕掛けをしておいたの。巻き込まれると危険だから」

落ち着き払った様子で答えるサティに、ルキは訝りながらも後へ飛び退く。
と同時に、まるで内側から爆ぜるかのように、大蜘蛛の残りの歩脚が弾け飛ぶ。
その原因が、先ほどサティが撃ち込んだ弾が内部で炸裂した事を、すぐにルキは悟った。
残りの歩脚をも失い、もがき苦しむ大蜘蛛が発する悲痛な叫びが、暗闇へと吸い込まれていく。

「……随分と派手な仕掛けね」
「なかなか面白い趣向でしょう」

無言のままのルキに、サティはクスリと笑いながら言葉を継ぐ。

「さしずめ、あたしの仕掛けに感心して言葉も出ない、ってところかしら」
「……そう思うなら、どうぞご自由に」

そう吐き捨てるや、ルキは歩行能力を失った大蜘蛛に向かって一目散に駆け出す。
八本の歩脚を失い、動く事もままならない大蜘蛛は、向かってくる敵に対してなす術も持たない。
だがそんな相手にも容赦なしと言わんばかりに、地を蹴って高く跳び上がったルキは、
刀を大上段に構え、止めの態勢に入る。

「でゃあぁぁぁ―――っ!」

闇をも震わす気合と共に、ルキが大蜘蛛へと躍りかかる。
先ほどルキを弾き飛ばした触肢も、”本気”を出した今の彼女の前には何の役にも立たなかった。
振り落ろされた刃が触肢を寸断し、その勢いで頭部をも叩き割る。
さらに刃から発せられた目に見えぬ波動が、頭部に連なる胴体までも真っ二つに寸断する。
断末魔の吼え声を上げる間もなく、二つに分かれた胴体が先ほどの人型の頭部同様、
砂のように崩れ落ちていく。
その屍が全て砂と化したのを見届けつつ、未だに輝きを放ち続ける刀を鞘に収める。
それと同時に、銀色に変化していたグローブやブーツも、元の黒一色へと戻っていく。

「ルキ、お疲れ様」
「こちらこそ」

役目を終えた剣士は、振り向くやサムズアップをしてみせる。
目の前の戦友への、感謝と労いの念を込めて。






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