シチュエーション
![]() どうしてこんなことになっているんだろう。 気がついたら見覚えのない部屋にいて、なぜか裸でベッドの上に仰向けになっていた。 それだけでも十分異常なのに、問題はそれだけじゃない。 それどころか、その残った問題に比べたら、前のいくつかなんて本当にどうでもいい小さな問題だった。 「……目が覚めた?」 どうして目の前にあの人の顔があるんだろう。 如月真帆さん。 1年の時同じクラスだった、わたしの憧れの人。 成績優秀、運動神経抜群、美人でスタイルがよくて家がお金持ちで。 挙句の果てには性格までいいという、本当に完璧を絵に描いたような如月さんは、同じクラスにいてもわたしとは到底住む世界が違う人だった。 その如月さんが、今わたしにのしかかるみたいに覆いかぶさってきている。 しかも向こうも裸で。 まだ肌自体は触れ合ってこそいないものの、その距離は体温が伝わってくるほど間近なものだから、わたしはもう指一本動かせなくなってしまう。 少しでも動いたら触れてしまうから。 わたしの方から彼女に触れる。 そんなの、わたしなんかにはあまりにも畏れ多いことだったから。 「あ、あの、如月さん、これっていったい……」 「憶えていないの?」 さらさらと流れる清水のように綺麗な声。 数ある彼女の長所の中でも、わたしはこの声のことが特に好きだった。 どれくらい好きかって言うと、それまで苦手科目だった英語が、一緒のクラスだった1年間で得意科目になってしまうくらい。 幼い頃外国にいたとかで、彼女の発音は他のクラスメイトとは明らかに一線を画していた。 如月さんの口から紡がれる滑らかな英文は魔法の呪文みたいで、わたしはいつも英語の授業を楽しみにしていたんだ。 「ご、ごめんなさい……わたし、何がなんだかわからなくて」 憶えていないのと聞かれても、本当にどうしてこんな状況になっているのか全然わからない。 そんなわたしの反応に、少し悲しそうに目を伏せる如月さん。 彼女にそんな表情をさせてしまったことに、押し潰されそうなほどの罪悪感でわたしの胸はいっぱいになる。 でも、普段の微笑もさることながら、かすかな憂いを帯びた表情も思わず目を奪われるほど綺麗だななんて思ってしまう。 間近で見ると、まつげの長さがいつも以上に印象的だった。 「そう、きっと緊張してるのね。 落ち着いてくれば、きっと思い出すわ」 それはもう、言われるまでもなく今のわたしは緊張状態の極地にある。 だから頭の中がぐちゃぐちゃで、まともに記憶を掘り返すことができないというのは確かだった。 だからといって離れてほしいなんて言えるわけがない。 そんなもったいないこと――。 「はうっ!?」 胸のあたりに、ほわっと温かくて、ふにっと柔らかい何かが触れてくる。 それまで確かにあった距離が唐突に0になり、わたしの混乱に拍車がかかった。 「まりあ、すごいどきどきしてるのね。 ねぇ、私の鼓動も聞こえる」 「わ、わわわ、わかりませんんんん」 自分の心臓の音がうるさすぎて、それどころじゃない。 それにしても、と思う。 どうして年も性別も同じなのに、彼女とわたしの体はこんなにも違うんだろう。 擬音で表現するならどーん!って感じの如月さんに対し、わたしといえば見るも無残なまったいら。 親友の絵里ちゃん曰く、『ふくらみかけって言葉すら、今のあんたにゃ十年早いッ!』らしい。 神様は、不公平だ。 って、そんなことより、さっき如月さん、わたしのことをまりあって。 こんな一大事を危うく気づかずにやり過ごすところだった。 同じクラスだったとはいえ、話しかけられる機会があってもいつも名字で呼ばれていたのに。 いったいいつの間に下の名前で呼ばれることになったんだろう。 それもまた、今は全く思い出せない記憶の中に答えが眠っているんだろうか。 ああ、どうしてこのぽんこつな脳みそはそんな大事なことを忘れてしまっているんだろう。 こんな体勢でなかったら、わたしは自分の頭を衝動に任せて叩いていたに違いない。 「ね、まだ思い出せない?」 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」 彼女の口調に、責めるような調子は全く含まれていない。 それでも、ううん、それだからこそわたしの中の罪悪感はものすごい勢いで積み重なっていく。 もう、泣きそうだった。 「もしかしたら悪い魔法をかけられているのかもね」 「……え?」 緩みかけていた涙腺が、如月さんの予想もしていなかった言葉でかろうじて決壊を免れる。 「そう、魔法よ。 私達の関係をよく思わない悪い魔法使いが、まりあに呪いをかけて記憶を封じ込めたんだわ」 少し芝居がかった、その台詞。 まりあ、と呼ばれた瞬間、胸に幸福感が満ちていく。 この声で名前を呼ばれることを、かつてのわたしは何度夢見たことだろう。 「で、でも魔法なんて……」 さすがにそれは現実離れしすぎてる気がする。 それを言ったら、この状況自体、少なくとも今のわたしにとっては現実離れしすぎてるものだけど。 「私のこと、信じられない?」 「そ、そんなこと!!」 「ありがとう。 では、呪いを解きましょう。 私では、王子様なんて柄ではないけれど」 そう言って、彼女は静かに瞳を閉じる。 ただでさえ間近にあった綺麗な顔が、ますますますます近づいてくる。 お姫様にかけられた呪いを解くのは王子様の口付け。 それを理解した途端、もう限界だと思っていた心臓の鼓動が、さらに一段ペースを速めた。 今にも破れてしまいそうなほどの無茶なペース。 それでも、どうかあと10秒だけ持ちこたえてほしい。 そんな風に神様に祈りながら、わたしも瞳をぎゅっと閉じた。 「はうわっ!?」 目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。 身に着けているのはいつものパジャマで、もちろん裸だったりするわけがない。 つまりは――。 「――夢、かぁ……」 肩の力ががっくりと抜ける。 ほっとしたような残念なような。 それでも、せめてもう少し夢の中にいられたら。 あと少しで感じられただろう、彼女の唇の柔らかさを少しだけ想像して自分の指をそこに当ててしまう。 「や、やだ、わたしったら」 誰も見てないのをいいことに、自分の体を抱き締めてくねくねさせて。 と、そこへ――。 「――お客さん?」 家の中に響き渡るチャイムの音に、夢の余韻でゆだっていた脳みそが我に返った。 どうやら、このチャイムでさっきのわたしは起こされたらしい。 いったい誰だろう。 幸せな夢からわたしを引っ張り出した誰かに対してかすかな憤りを感じながら、わたしは窓に近づいて玄関先を確認する。 「――!?」 わずかに開いたカーテンの隙間からその姿を確認して、わたしは思わず自分の目を疑った。 だって、さっきまで夢の中にいたあの人が、そこにいる。 その瞬間、それこそ記憶を封じ込めていた悪い魔法を解かれたように、わたしは色々な事を思い出してしまった。 自分が今日、初めて学校をずる休みしたこと。 そして、その理由を。 「そんじゃ、あとヨロシク!」 「はーい、いってらっしゃーい」 活き活きとした表情で保健室を出て行くお姉ちゃんを見送りながら、わたしはいつものように携帯を取り出した。 あの人は、わたしが通っているこの学校で保険医をしている周防尚美先生。 ちなみにお姉ちゃん、といってもわたしの本当のお姉ちゃんなわけじゃない。 いわゆるひとつの昔からお世話になってる近所のお姉さんという関係で、今では逆にお世話したりもしている相手。 「今日はどれくらいかなぁ……」 もう日課になっていると言っても過言じゃない、誰もいない保健室でのお留守番。 お姉ちゃんは頭に超が付くくらいのヘビースモーカーで、少しの間吸わないだけでも色々問題が析出してくる困った人だ。 とはいえ、さすがに保健室では大手を振って吸えるわけもなくて、吸うときはいつも屋上までいかなくてはいけない。 それで、その間保健室を無人にするわけにもいかないから、わたしが留守を任されているというわけだった。 部活に入っていない上、昔からの知り合いなわたしはまさに適任というわけらしい。 この学校に入る前、自分の母校兼勤め先であるここをやたら褒めちぎって勧めてきたのは実はこのためだったんじゃないだろうか。 それは入学して以来何度も頭を過ぎっている考えだった。 「……まさかね」 いくらお姉ちゃんでも、そこまではしない……と思う。 いつもの疑問をいつもの答えでとりあえずやり過ごし、暇潰しに携帯をいじる。 最初の頃は図書室で借りてきた本を読んで過ごしていたけど、さすがに2年以上この生活を続けていると読みたい本もあらかた全部読んでしまった。 かといって貴重なお小遣いの中、本に割ける割合なんて限られていて、最近でもはもっぱら携帯が暇潰しの相手になっている。 短い場合は10分程度で、長い場合は1時間近く。 留守番自体は構わないけど、気まぐれなお姉ちゃんが満足するのに要する時間に全く予想がつかないというのはいつもながらに困りものだった。 「失礼します」 不意にドアの向こうから聞こえてきた声に、わたしは液晶に向けていた顔をとっさに上げた。 聞き覚えのある声。 聞き間違えるはずのない声。 「あら、木下さん」 ドアがスライドすると、そこにいたのは以前のクラスメイトにして今もなお憧れているあの人だった。 「先生はお留守かしら?」 少しだけ首を傾げながら如月さんが問い掛けてくる。 一方で、それを受けたわたしは答えを返すこともできずに固まっていた。 「木下さん?」 いぶかしむように眉をひそめる如月さん。 それはそうだろう。 質問したのに相手が答えてくれなかったら、不思議に思うのが当然だ。 このあたりで、ようやく脳みそが再起動に成功した。 「あ、ああの、お姉ちゃんは今タバコ吸いに行っててだからその……」 「……ええと、お姉ちゃん……って、周防先生のことよね」 他の生徒の前でお姉ちゃんと呼ばないこと。 誰か来てもタバコを吸いに行っているということは秘密にすること。 まとめて2つ、お姉ちゃんの言いつけを破ってしまったことに気づいたのは、もう言ってしまった後だった。 「あ、あああああ、あの、おね、じゃない先生に何か御用ですか?」 「ええ、少し体調が優れないものだから、ベッドで休ませていただこうと思ったのだけど」 言われてみれば、今の如月さんは普段より少し顔が赤い気がする。 薄手のカーテン越しに差し込む夕日のせいでわかりにくいけど。 って、そんな観察してる場合じゃなかった。 「た、大変です!はやく横になってください!」 「ええ、ありがとう。 それでは使わせてもらうわね」 彼女の足取りは、ほんの少しだけどおぼつかない感じがする。 一瞬近づいて支えた方がいいのかなと思ったけど、わたしなんかじゃ邪魔にしかならない気がして躊躇してしまう。 モデルのようにすらりとした長身の如月さんと、小学生にも間違えられるどころか小学生にしか思われないわたしの間にある体格差はあまりにも絶望的だった。 それに、病気の相手にこんなこと考えたらよくないとはわかっているけど、こんな状況でも彼女に触れるのはあまりにも畏れ多い。 「……ん」 わたしの考えをよそに、如月さんは無事にベッドにたどり着いて腰を下ろすと、なんだかちょっと艶かしい感じすらする吐息をこぼす。 浮いた汗で額やうなじに貼りついた髪が、はっとするほど扇情的だった。 って、わたしなんてこと考えて……。 体調を崩している如月さん相手にこんなことを考えてしまったことに激しい自己嫌悪を覚えながら、わたしは机の引き出しの中から体温計を探し出す。 「あ、あの、これ使ってください……」 「え、ええ、ありがとう」 「じゃあ、わたし先生呼んできますから!」 制服の襟元を少し緩めて体温計をわきに差し込むその姿に、またしても不埒なことを考えてしまいそうになったわたしは、慌ててそれだけ言い残して保健室を後にしたのだった。 保健室に戻るなり、お姉ちゃんに帰っていいと言われたわたしは、下駄箱に上履きを入れながらため息をついてしまう。 まあ、お姉ちゃんが戻ってきた以上わたしにできることはもうないわけで、それは当然のことなのかもしれないけど。 「あ、そういえば携帯」 そこでふと、携帯を机の上に置きっぱなしだったことに気がついた。 「どうしようかな……」 もうある程度学校から離れてしまってからなら諦めていたかもしれない。 さすがに机の上ならお姉ちゃんが気づくだろうし、持ってきてくれるかもしれないし。 でも、まだ下駄箱だったから。 学校から出てすらいなかったから、わたしは取りに戻ることにする。 このことが、自分の運命を変えてしまう選択だったことに、この時点のわたしは当然気づいていなかった。 「ほらほら、どうした?全然出てこないじゃないか」 わたしにとってはよく聞き慣れた、からかうようなお姉ちゃんの声。 でも、それを今向けられているのはわたしじゃなかった。 「で、でも、先生……」 答える如月さんの声音は、お姉ちゃんのそれとは対照的に聞いたことがない種類のものだった。 ベッドの上で足を広げて膝立ちになって、スカートの裾を両手の指で持ち上げている。 ショーツは太ももの半ば辺りまで下げられていて、女の子の大切な場所が露になっていた。 「ん、なんだかいつもより濡れ方がすごいね。 入れたままで授業を受けるのは、そんなによかったのかい?」 「そんな、そんなこといわないでください……」 いつもとは違う、媚びるような弱弱しい口調。 「……ん、んん」 如月さんがいきむようにお腹に力を入れたのがわかった。 次の瞬間、わたしは今度こそ我が目を疑ってしまう。 「お、出てきた出てきた、あとちょっとだ」 楽しそうなお姉ちゃんの声。 「ん、はぁぁぁっ!」 それまで俯けていた顔をばね仕掛けのように上げる如月さん。 その彼女の股間から、何か楕円形のものが光をきらきらと反射する透明な糸を引きながらぼとりと落ちる。 その何かがベッドの上で、ぶるぶると小刻みに震えているのが見て取れた。 落ちたそれの後を追うように、ベッドの上に如月さんが崩れ落ちていく。 まるで、糸を切られた操り人形。 「おいおい、まだ一応部活やってる連中もいるんだから、あんまり大声出すと危ないだろ」 呆れたようなお姉ちゃんの声。 細く開けたドアの隙間から覗き見る、現実離れした光景。 真っ赤に燃える夕日の色が、その非現実感を何倍にも強調していた。 「あ、あの、どうぞ……」 まさか自分の家のリビングで、あの如月さんにお茶を出す日が来るなんて。 それは確かに少しだけ夢見ていたシチュエーションではあるんだけど、でもよりによってこのタイミングでっていうのは、さすがに神様を恨んでしまう。 最初、訪ねてきたのが彼女だとわかったときは、悪いけど居留守を使ってしまおうかなんて考えてしまった。 だけど、タイミングの悪いことに如月さんが突然顔を上げてばっちり目が合ってしまった以上、もうその作戦は使えなくなってしまってこういう状況。 本当に、神様は意地悪だ。 「ありがとう、でも、ごめんなさいね。 病気の人にお茶をいれさせてしまって」 「き、気にしないでください、別に病気ってわけじゃ――あっ!?」 思わずそう言ってしまってから、仮にも自分は今日学校を休んだ立場だったことを思い出してしまった。 そんなわたしの失言に、案の定如月さんは――、 「あら、病気じゃないのならずる休み? 木下さんはそういう事をする人ではないと思っていたから意外だわ」 そう言ってくすりと笑う。 「あ、あぅあぅ……」 「ごめんなさい、別にいじめるつもりはなかったのだけれど。 ――せっかくだから、いただくわね」 「ど、どうぞ……です」 如月さんの細くて長い――こういう指を白魚のようなっていうんだろう――指がティーカップを持ち上げ、一輪の花のような口元に運ぶ。 その仕草1つとっても彼女の動きはなんだかひどく洗練されていて、思わず見とれてしまうほど。 けれど、一口含んだ途端に流れるようだったその動きがぴたりと止まってしまった。 「……あ、あの、やっぱり口に合いませんか?」 如月さんの家はこのあたりでも有数の、どころか明らかに群を抜いているお金持ちだから、きっといつもおいしい紅茶に慣れ親しんでるんだろう。 やっぱり、無難に麦茶とかにしておいたほうが良かったかもしれない。 そんなことを考えていると、一瞬だけ動きを止めていた如月さんが、ことりとかすかな音を立ててカップをテーブルの上に戻した。 そして口を開くと――、 「いいえ、こう言うと失礼に聞こえてしまうのかもしれないけれど、逆においしくて驚いてしまったの。 木下さん、紅茶好きなの?」 そんな風に言ってくれる。 その予想もしていなかった、でも嬉しすぎるその言葉に、わたしは一瞬自分の耳を疑ってしまった。 「そ、そそそ、そんな……でも、だって葉っぱだってそんないいものじゃないですし……」 「別に葉を褒めたわけではないわ。 あなたのいれ方を褒めたつもりなのだけど」 「で、でもでも……」 ただでさえ褒められることに慣れてなくて、しかも相手があの如月さんだからさらに5割り増しくらいに動揺するわたしに対し、彼女は始終落ち着いている。 こういうのを、器の違いっていうのかもしれない、なんて思ってしまった。 「そうね、色々と新しい発見もできたし、これだけでも来た甲斐があるのだけど、まずは本来の目的を果たしてしまいましょう」 本来の目的、という言葉に、わたしの全身に緊張が走る。 意識して考えないようにしていたけど、昨日の今日で彼女の方から訪ねてくるなんて、やっぱり――。 でも、そんなわたしの不安とは裏腹に、如月さんが鞄から取り出したのは、シールやらストラップやらでやたらにデコレーションされた1台の携帯だった。 その子どもっぽいセンスは、正直今それを手にしている女性にはかなり相応しくないと言わざるをえないもの。 それもそのはず――。 「あ……それ、わたしの」 それは、昨日わたしが保健室に忘れてきてしまった携帯だった。 その後見たものの衝撃が大きすぎてすっかり忘れてしまっていたけど、これを取りに戻ろうとして、あの現場に遭遇してしまったんだ。 「昨日保健室に忘れていったでしょう?今日学校で渡そうと思ったのだけれど、お休みだと聞いたものだから」 「そ、それで、わざわざうちまで……?でも場所は……?」 彼女の家は有名だから、ずっと憧れていたという理由を抜きにしてもわたしの方はその場所を知っているけど、これ以上ないくらい庶民まっしぐらなわたしのうちを如月さんが知っていたとは思えない。 「場所は森野さんに教えてもらったのよ。 2人の仲がいいのは知っていたから」 森野さんというのは絵里ちゃんのことだ。 絵里ちゃんなら何度も遊びに来ているからうちの場所を知っている――って当たり前か。 でも、そういう展開になったんだったら、絵里ちゃんも連絡とかしてくれれば、もう少し心の準備というかなんというかができていたはずなのに。 「――ぁ」 「どうかしたの?」 そうだった。 よく考えたら絵里ちゃんからの連絡を受けるべき携帯が、そもそもわたしの手元になかったんだった。 2人でタイミングを合わせて携帯買ってもらって以来家に電話なんてしていないから、お互いの家の電話番号なんてさすがにもう覚えてない。 「い、いえ、なんでもないです。 ……ありがとうございます」 不当な不満をぶつけてしまった親友に心の中で謝りながら、携帯を受け取る。 その際にも手が触れたりしないように気をつかってしまう自分が少し情けなかった。 「でも、如月さんの家とうちって逆方向ですし、わざわざ来てくれなくても……あ、別に迷惑だとかそんなんじゃないですけど……って、あぅぅ……」 言いかけてから、実は結構失礼な言い方だったかもしれないと気がついて慌ててフォローを入れたら、むしろ墓穴を掘ってしまったような気がした。 「そうね、森野さんも代わりに届けてくれると言ってくれたのだけど、もし私の風邪をうつしてしまったのなら、私自身がお見舞いに行くのが最低限の礼儀だと思ったものだから」 そんなわたしに気を悪くした風もなく、如月さんはいつもの微笑を向けてくれている。 そこにいるのはわたしが知っているいつもの彼女で、昨日見たのは白昼夢か何かだったんじゃないかと本気で思ってしまった。 でも、それがそうなら、そんな幻を見てしまう自分に新たな自己嫌悪が湧き上がってきたりもするけど。 ん、そんなことを考えていたら、今まで以上に如月さんの顔をまともに見れなくなっちゃったり。 お世辞にも広いとは言えないリビングに訪れた短い沈黙。 「ところで、おうちの方はいらっしゃらないの? この時間だとお買い物かしら?」 と、不意に彼女の方からその空気を変えるように、そんな質問を投げかけてくる。 そのことに、わたしは単純に助かったと思った。 少なくとも、その時点では本当にそう思ったんだけど――。 「あ、うち、共働きで2人とも遅いんです。 ――ッ!?」 特に深く考えもせず反射的に口にした言葉。 けれど、その瞬間如月さんの雰囲気が突然変わったようにわたしには感じられて、思わず息を詰まらせてしまう。 「そう、遅くなるの。 それはちょうど良かったわ」 当然、外見上何かが変わったってわけじゃない。 だけど、何かが。 決定的な何かが変わってしまったと、わたしはそう感じていた。 「よ、良かったって……なにが、ですか?」 「だって、あまり人には聞かれたくない話をするつもりだったから――」 それはわたしの気持ちの問題だったのかもしれない。 でも、今のわたしにはその声が、今まで春の日差しのように聞いているだけで幸せにしてくれたものと同じとは思えない、凍りつくような声音に聞こえた。 携帯を届けに来てくれただけだと少し気を抜きかけていただけにそのギャップは強烈で、手足の先がありえないほどに冷えていく。 そして、それに抵抗するようにバクバクと鼓動を早めていく心臓。 けれど――、 「――見ていたでしょう、昨日?」 向けられたことのない射抜くような視線と、そしてあまりにも決定的なその言葉に息どころか心臓すらも凍り付いてしまった。 「み、みてません、わたしなにも……」 喉が塞がってしまったような錯覚を感じながら、わたしは必死になって否定する。 だけど、そんなうわべだけの台詞は全くというほど意味がなかった。 「ごまかしたいなら、その返し方は失敗ね。 そういう時は、何をですかって聞き返さないと」 そんなことを言われても、わたしなんかにそこまで頭が回るはずがない。 とっさのこととはいえ彼女に嘘をついてしまったこと。 そしてそれをあっさり看破されたことで、わたしの心は限界を超えようとしていた。 この状態でまだ涙が溢れ出していないのは奇跡といってもいいと思う。 それとも、本当はもうとっくに限界なんて超えていて、泣くという機能自体が壊れてしまっているのかもしれない。 「ねぇ、木下さん――」 「あ、あの、わたし誰にも言いませんから、だから……」 何かを言いかけた彼女の言葉にむりやり自分のそれを割り込ませてしまった。 普段ならそんなこと絶対しないしできないけど、次は一体何を言われるのかという恐怖がわたしをつき動かしたんだ。 そしてそれは、そんな状態で出た言葉だけど――というよりはこんな状態だからこそというべきなのかもしれないけど――さっきの口先だけの嘘とは違う本当の気持ちだった。 そう、わたしには別に、昨日のことを誰かに言うつもりなんて最初からなくて――。 「そう……」 その瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ気がした。 まるで周囲を満たしているものが氷から水に変わったような、そんな感じ。 まだ息は苦しいし抵抗もあるけど、少なくとも指一本動かせない圧迫感からは解放されたような気分だった。 「ごめんなさい、怖がらせてしまったわね」 そして、目の前にいつもの如月さんが戻ってくる。 ううん、違う。 最初はいつもの如月さんだと思ったけど、よくよく見るとどこか弱弱しさを持ち合わせているような、そんな気がした。 うちに来たばかりのときとも、さっきまでとも違う、第3の彼女。 その移り変わりの激しさに、わたしは最初どうしたらいいのかわからなかった。 でも、さっきの数秒で全身に浮いた冷や汗が、急速にわたしの全身から熱を奪っていく。 それにつれて、徐々に冷静さの欠片のようなものがわたしの中にも生まれ始めた。 そしてようやく気づく。 見てしまったわたしなんかより、見られてしまった彼女の方が何倍も追い詰められていたという本来ならあまりにも当たり前のことに。 それなのに、わざわざうちまで来てくれた。 逃げるためにずる休みしたわたしなんかとはやっぱり違う。 ううん、それも違うのかもしれない。 わたしなんかよりはるかに追い詰められていたからこそ、そこまでせざるをえなかったのかもしれない。 いつもはぴしっと背筋を伸ばしている如月さんが、今は椅子の背もたれに体重を預けている姿から、わたしはそんなことを考える。 そして、初めてわたしは、彼女のことを自分と同じ人間なんだと思えた気がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |