泥にまみれた花の雫
シチュエーション


私は震えていた。初めてではないのに、子供が生まれて忙しない毎日の中で、欲求さえも忘れかけていた日々の中で。
罪悪感だからだろうか。そう、私は悪いことをしている。でも許して、このほんの一瞬を。
私は利己的になって杭に貫かれる罰を受け入れる。彼は私を透明できれいな少女のようにしてくれるから。

なんて繊細な仕草なんだろう。ブラウスの袖口をほどきながら、彼は手首の筋を唇で追う。指先をなぞりながら薬指、小指。紛れもなく今までと同じ、記憶に刷り込まれている男性のかたさを感じながら、でも、彼は違っていた。
なんていうか、やさしい。まるで、大切な調度品を愛でるかのように、私を覆う飾り物を剥がしていく。

貴方のために似合わないおしゃれをしたよ。いい歳をして、笑っちゃうよね。

でも、彼は笑わなかった。目を合わせると微笑んで、唇を重ねた。熱い粘膜から流れ出す愛液が混ざっても、やっぱり彼はやさしかった。そっと手を握り、耳元を撫で、ゆっくりと精一杯私と交じり合おうとする。
胸が高鳴って、頭の芯がしびれて、私は恥ずかしさを失い一心不乱になった。まるで、それだけで達することを望んでいるかのように、どこまでも、いつまでも、彼を受け入れて、彼もまた私を受け入れた。

彼は私の顎にキスした。彼は私の頬っぺたにキスした。彼は私のまぶたにキスした。

こんなにも性欲に溺れたのはいつ以来だろう。
息を荒げ、みっともない声を出さないように、懸命に彼の動きに合わせる。現実の遠退いていく感覚の中で胸が痛んだ。雨に打たれた木枯らしの中で、大切な宝物をなくした子供のように。

私は泣いていたのかもしれない。
彼はそっと私を包み込んで、耳元に囁いた。

すきだよ。だいすきだよ。
きみの笑ってる顔が、ぼくのおひさまだよ。

彼ともう一度目が合うと、やっぱり彼は微笑んでいた。今度は私から彼をせいいっぱい愛した。今は交わることだけでいい。彼と泥のように求め合って、溶ける。

「今日は特別な日なんですか?」
「え?」
「なんとなく。窓の景色を眺めてる雰囲気がそうかなって」
「ええ・・まあ・・・・」
「桜ももう終わりですね」
「そうですね。本当に儚くて」
「でも、こんなに記憶に残る花はないと思います。それを見ている人たちの顔も」

「鉢植えですか?」
「そう。うっかり置く場所もないのに買い過ぎちゃって」
「では、いただきます。ちょうどその窓の側に。ふふ、やっぱり花が好きなんですね。あなたはこういうときとってもやさしい顔をする」
「・・・べ、べつに・・・そんなでもないです・・・・・・」

熱くてからからだった喉は、いまはねっとりとした唾液にあふれている。
身体に触れられながら、ひたすらに舌を絡ませてしびれるような前儀に没頭する。まるで昔に還ったようだった。でも、あの頃にこんなに気遣ってくれるやさしさは感じなかった。私は地味で華のないオンナ。好きだと言ってくれるだけで、それだけで全身で応えようとした。

でも、彼は違うようだった。私の気持ちをむしろ、いいから、大丈夫だからと言わんばかりに柔らかに押し留める。

彼は急がない。私はまるで処女だった。肩や首元や、鎖骨やうなじ、背中や腰や足の指先まで。すべての場所を唇で愛され、その度に身体を大きくビクつかせた。

最後の。最初で最後の行為だから、私は真っ白になる。精一杯彼を求めて、これまでの想いをすべて無に返そう。

草花に水をやる。太陽が、青空がこんなに気持ちよかったなんてずっと忘れていた。

「いつの間にか鉢植えが増えてしまいましたね。こんなに素敵な店構えになるなんて、思いもしませんでした。さ、休憩ですよ。中へどうぞ」
「今日はなんのコーヒーですか?」
「それは内緒のスペシャルブレンド。またの名をコーヒーの発展のために新たな可能性を発見しようの実験室」
「くすっ。失敗ばかりですね、先生」
「はい。でもこんなにふたりで楽しく話せるのは、きっと不思議な力でも宿っているのかな? 今度確かめてみましょうか」
「確かめるって、次はどんな実験ですか?」
「それはそのう・・・・。・・・まあ、よく考えておきます」

目を逸らした彼の仕草で、私は急に恥かしくなった。もしかしておかしな事を言ってしまったかも。余りにも考えなしに彼を見つめてしまっていた?
変に意識させて、もう何を喋ったらいいか分からない。

地味で冴えない自分が何を勘違いしているの。化粧だってやめてしまって、簡素なブラウス一枚で済ませてしまう家庭のオンナ。ずっと夢心地で思い上がっていた。

でも、彼は静かにコーヒーカップを揃えると、カウンターに置いて私の髪を見つめた。

「葉っぱ。ぜんぜん、気にならなかったの?」

彼の繊細な手つきに、私のこころは少女のように花咲いた。

「ええ。好きだから」

あなたが・・・。

部屋に入るまで彼と手を繋いだ。むしろ、そういうことに臆病だった私はおずおずと手を差し出しながら彼の微笑みに応えた。

あ、指輪・・・・

私が反射的に手を引っ込めようとすると、彼がそれを制した。

「いいんだよ。分かってるから」

まるで初めての男女のように身の置き所がないような様子で、ぎこちなくふたりで部屋を見回した。静かで音のない空間。ここだけはこの一瞬だけは現実とは繋がらない想像の世界であることを願った。私は勇気を出して彼に言った。

「シャワー、浴びてくるね」

カバンを置いてバスルームに向かう手を彼が引きとめた。

「行かなくていいよ。ありのままの君を教えて」

彼に抱き寄せられると、私は吸い寄せられるように唇を差し出した。


好き。好き。もっと愛して。あなたの身体を感じたい。熱くなって泥のように濡れて、快感が高まるほど胸が痛む。
あなたの髪はやわらかくて短い。あなたの唇はちょっとカサついて荒れた跡がある。あなたの顎はすべすべしてきれい。あなたの胸はあまり肉付きがなくて、あなたの肩幅は広くて骨ばってる。忘れさせないで。深く刻み込んで。もうこれ以上、あなたと会えないから。

雨の日にカサを差して泣きながら叫んだ。

「もうやめて! やめてったら! 私がバカだから笑ってるんでしょ。子供いるくせに、ちょっと褒められたらのぼせ上って、デートまがいのことして。適当にあしらって、あわよくば肉体だけの関係になりたいってこと!?」

めちゃくちゃになって、自分にはありえないドラマみたいなことを口にした。でも、彼はぜんぶ分かっていて、だからこそ悲しそうに傷ついた顔をして黙ったままだった。

彼に喚いたのは、私の作り上げたでっちあげ。彼がこのとおりの酷い人間ならどんなに楽だっただろうか。私は夫にこの店でのことを問い詰められ、正気に返らされた。あの無関心の夫が、珍しく私と口論した。

「うん。もうやめよう・・・」

彼が応えると私は泣き崩れた。

「ごめんなさい。好きなの・・・・」

彼はどこまでも優しく、私の反応に気づいてくれた。息遣いの乱れ、唇のわななき、睫の揺れ、腰と指先の動き。
今、この歳になって、新たな快感の部位を知るとは思わなかった。彼は興奮に息を荒げながら、でも決して乱暴にならず、私をオンナとして深めていく。それは、普段の彼そのもの。

唇が股間に近づいてきてゆっくりとその中へ潜り込むと、わたしは鞭に打たれたように足を突っ張った。汚らしい恥部を見せたくなかったがもう遅い。たっぷりと愛撫された私の身体は、汗に交じってだらしない愛液を垂らしている。
一瞬、猛烈な恥ずかしさに襲われるが、すぐさま襲い来る快感に頭のネジがおかしくなったみたいだった。這わされた舌と唇の感触に脳髄が痺れる。私は足を開いて、もっと、もっと、とおねだりしていた。

インランっていうのはこんなのかなって思った。でも、彼が望むのならいやらしいオンナでもいいと思った。
私は起き上がって、彼のものを口に含んだ。自分からそうしたのは初めて。どうしたら気持ちいいのかはよく分からないけど、彼のしてくれたことと同じようにすればいいと思った。

丁寧に彼の息遣いを感じながら、舌と唇を使う。その最中でも、彼は髪を撫でながら、やんわりと胸を背中を刺激した。
じわじわと血が上っていくような興奮に、私は没頭した。記憶の中でもほとんどしたことのない行為なのに、彼のためにたくさんの時間をかけて感じさせてあげたい。愛するって、こんなふうに狂おしくなること?

再びキスをして舌をからませる。私はキスが好き。顔を近づけてお互いにやわらかく求め合うと、心の繋がりを強く感じる。彼の唇はそのまま首筋から胸の先、手首へと伝い、彼はそっと薬指の指輪を外した。
抗わずに彼の行為に任せる。許されないけど、それでもこの瞬間だけ、ひとつになろう。

彼が私の中に入ってくる。熱くて煮えたぎった泥の中に。肉体が、すべての穴が開いて、彼自身を受け入れる。

「ああっ」

息が上がり、声が漏れる。挿れられただけで、これほど満たされたのはいつ以来だろうか。彼は私を気遣いながら、ゆっくりと動き始めた。やさしくて、暖かくて、この時に至っても普段の彼そのもの。

ねえ、このまま指輪が消えて無くなれば、私は言い訳しないよ。ヒトデナシ、最低のオンナだって糾弾されても、あなたの元へ行くよ。

汗にまみれ、すべてをさらけ出して溺れる意識の中で永遠を願う。ぐちゃぐちゃに熱くなって彼を受け入れるほどに、どこか遠くでもうひとりの私が泣いている。

彼にキスをする。彼は私を抱き締める。呼んで。私を呼んで。遠くへ行かなくてはならないから、離さないように。

息が苦しい。世界が白い。耳元で私の名が聞こえる。何度も。何度も。彼の声。

「愛してるよ――」

私はすべてに解放されたような声をあげて、絶頂に身体を波打たせた。

私は雨の中、水溜りを見ていた。
花びらが落ちて、無残にばらばらとなっても、それでも輝き続ける美しい欠片。
もうあと数日で、花の盛りは終わり。眩しい陽射しに彩られた日々も幻となる。

私は指輪の位置を確かめると、歩き始めた。






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