精一とユキの話 2
シチュエーション


カナダへ短期留学に行ったユキが帰国するまで、あと半月。

ユキが出発の前日切ってくれた髪は、すぐに伸びた。
仕方なく昔オヤジに連れられて行った床屋に久しぶりに行ってきた。
結果――しばらく帽子が手放せなくなってしまった。
今は伸びてきて、寝癖がつきやすくて困るものの、帽子はかぶらずにすむようになったんだが。
ユキに会ったら、思い切り笑われるだろうなあ。

あと半月の辛抱なんだが……。
ちょっとした約束をした所為で、思っていた以上にこの3カ月を長く感じるハメになった。

『俺のことは忘れろ』

この話をした時、ユキは初めのうちは意味がわからない、と泣いてあげくにケンカのようになった。
――電話もかけてくるな。
――手紙もいらない。
俺とのことは無かったことにして、あっちでの生活に集中しろ、と。
学生のユキに、できるだけたくさんの経験をさせてやりたいと思ったからだ。

俺とユキとは16の歳の差がある。
俺は大学生活も会社勤めも恋愛も一通り、まあ平凡にそれなりの経験をしてきた。
けれどユキのほうは、これからなのだ。
俺の存在が、それを取り上げてしまうようなことはしたくない。
俺とのことで、あいつの大切な時間を潰したくなかった。

ユキを離したくない。でも、束縛したくはない。
だから、日本での煩わしいことから切り離して、思い切り楽しんで来てほしかった。
学生としての時間を謳歌する時に、思考の中から「俺」という項目を外させたかったんだ。
けれど、実際ユキがいなくなって堪えたのは、待つ身になった俺の方だった――。

会えないからなのか、最近は、何故かよくユキの小さい頃のことを思い出すようになっている。
5歳から1年生の頃は、遊んで欲しいと、よく俺の部屋のドアからそっと顔を覗かせていたこと。
しょっちゅう俺のオヤジの晩酌に付き合っていたこととか。

オヤジは自営だったから、晩酌を始める時間が早く、ユキのおやっさんは会社勤めで帰宅は遅かった。
だからユキは、寂しくていつもウチに入り浸っていたんだろうな。
ユキがオヤジの胡坐にちょこんと座った様子は、まるで親子のようだった。

中学生になる頃には、挨拶すらもぎこちなくなった。
思春期なんだ、ってそう思っていた。
そのころには結婚を考えていた相手がいたから、俺の方はユキのことは、
可愛い妹としか思っていなかったからなあ。
それでもユキは、月に一回は、必ず俺の髪を切りに来てくれていた。
母が亡くなってからも。
それが、アイツの、唯一の気持ちを伝える手段だと、その頃からわかってはいた。

けれど、ユキにとって俺はただの隣のお兄ちゃん(現に小学生まではそう呼ばれていた)で、
しいて言えば憧れられてるだけだと思ってた。
高校生になった頃も、ユキが俺を男として見てんのかが、わからなかった
彼女と別れて、次の年母が亡くなって……ひとりでもいいと思っていたし。
もう、何も、誰もいなくていい、と思っていたからだ。



今日は、4年前に亡くなった大学の恩師の墓参りに来た。
車で片道3時間もかかるが、葬儀以来ずっと来ることができなかったから、
どうしても今日の命日に行こうと思い立った。

午後に自宅を出たのは、墓参の親類縁者に顔を会わさずに済むと思ってのことだ。
秋の陽の傾く中、4年ぶりに恩師である辻先生の墓前に手を合わせることができ、まずほっとした。

淡く朱色を刷いたような秋独特の夕焼け空を、鳥が2羽横切っていく。
もうすぐユキが帰ってくるんだな。
墓地を抜けたばかりの寂しい場所でさえも、不謹慎だが空を仰げば心が弾んだ。
空を仰いでみるようになったのは、ユキがカナダに行ってから。
カナダの空も日本の空も、続いていて、同じだからだ。
この3ヶ月、空を仰いでみては、ユキを想っていた。
ユキの存在をリアルタイムで感じられる気がする。

「精一」

いつのまにか彼女がすぐ傍に立っていることに、全く気づかなかった。
聞き覚えのある、少し高めの落ち着いた声に、頭にあったユキの存在が一気に消し飛んだ。
その代わりに血が昇った。

「精一……よね?」

俺は黙ったまま、ゆっくり声のほうを振り返った。

「…………うれしい。来てくれたのね」
「みやこ……」

恩師の妹の美夜子が、俺の腕に華奢な手のひらを添わせてきた。
俺より2歳年上の美夜子は、かつて結婚を考えていた人だ。
卒業した後も、時々ゼミの仲間と先生宅で集まっていて、当時、
先生と同居していた彼女とそのたびに顔を会わせていた。
そうするうちに、俺と美夜子は、付き合い始めた。

「やっと来たんだ……葬儀以来……だよ」
「兄さん、よろこんでるわ」

微笑した美夜子の顔は、前より少しやつれたように見えた。

「美夜子は、これから帰るの?」
「え……ええ。今日はこちらで泊まって、明日自分の家に帰るわ」

美夜子が旅行鞄を持っているのに気付いた。
俺と同じように、ここに着いてあまり時間がたっていない、ということか。
美夜子の実家は、ここから歩いて20分程かかるところだったことを思い出した。

「送っていくよ。もうすぐ日が暮れるし」
「…………え……え。お願いしようかな」
「じゃ、車、乗ってよ」

できれば会いたくなかった、というより、会うのが怖かったひとだ。
会ってしまったら、自分が美夜子に対して冷静でいられるか自信がなかった。
けれど、意外にお互い穏やかに話ができた。
だから、実家まで送り届けるつもりになった。
実家なら、車で10分もかからないはずだし。
けれど、美夜子は実家ではなく、隣町にある温泉街のある旅館の名を、俺に告げた。

急に、後ろ暗いような不安な気持ちが、胸を過る。
同時に、最後に会った日のことが、蓋をしておいた記憶の底から蘇ってきた。
4年前のあの日、辻先生の葬儀が終わって、俺が帰宅する朝のことだった。

***

あの日。
突然の訃報を知らせに美夜子がやってきて、急いで俺は実家のあるこの街へ彼女を乗せて、車を飛ばした。
車で3時間の、山間の温泉街の隣町が先生と彼女の生まれ育ったところだ。

ついた日は通夜で、翌日は告別式だった。
早すぎる突然の死を、先生の家族は受け止めきれていなかっただろう。
俺も母親を亡くして本当に独り身になり、3年経ったところだった。
だから、残された先生の家族の気持ちを思うと、身内の不幸ほどにやりきれなかった。

俺の家に知らせに来た時は取り乱していた美夜子は、高速を走る頃には落ち着きを取り戻していた。
車の中で、俺と別れてからの4年弱のことを簡単に話した。
彼女は今、服飾関係の仕事で独立する準備をしている、と言った。
それと、子どもを一人かかえて1年前に離婚していた。
その子どもが4歳になることも。

俺と別れる前には、すでに妊娠していたと聞かされ、高速道路でブレーキを踏みそうになった。
……煮え切らない俺にさっさと見切りをつけて、他の男とできていた――下世話な言い方をすれば
そういうことなんだが。
それはそれで、少なからずショックだった。二股かけられてた訳だから。
……美夜子は悪びれるふうもなく、時々笑いながらそんな話をした。

告別式の翌朝、俺の泊まっていた温泉宿に彼女が尋ねてきた。
朝食も済ませて帰り支度をしていた俺は、部屋に彼女を入れた。
布団は部屋の隅に二つに折って、片付けたように見えるし、帰り支度で雑然としてはいたが、
拒む理由もなかった。

「美夜子に会うのは、昨日が最後だと思っていたよ」

できるだけ明るく言葉をかけた。
彼女が俺に目を合わさないようにしていたからだ。

「もう会ってくれないだろうと思っていたから」

と彼女は伏し目がちに言った。

「今さらなのに、ここまで乗せて来てくれて葬儀にも……」
「美夜子のほうこそ。大変だったのに」
「わたしは……」
「知らせてくれて感謝してる。先生にお別れできたし」
「……」
「……美夜子にも会えた」

心からそう思っていた。
もう、会うことはないと思っていたから。
奔放な彼女に振り回され気味に付き合いを重ねてきて、ぷっつり糸が切れた。
少なくとも俺にとって、美夜子との終わりはそんなふうに突然だった。
ある日「結婚したい好きな人がいる」と告げられて、俺は別れを受け入れた。

母の介護のことが頭にあったからだ。
奔放な美夜子に、俺の事情を背負わせて一緒になることは無理だと……もともと
無理な話だと心の奥では思っていた。
だから、自由に自分をさらけ出して生きている美夜子に、惹かれていながら、
いつも欲と嫉妬に苛まれていた。
俺にはできない生き方が羨ましかったんだ。

そういうひとと繋がっていることが、その頃の俺にとって無くてはならないことだった。
そしてその繋がりが不毛なことも、歪な精神状態のままではいつかこの関係が終わるだろうことも、
予想していた。
気づきたくはなかっただけだ。

「……嬉しかった」
「うそ」
「ほんとうだよ。不謹慎だけど嬉しかった」

初めて顔を上げて俺を見つめた瞳が、濡れたように光っていた。
なんども体を重ねていたあの頃の彼女とだぶって見えた。
背中がゾクリとして、慌てて目を逸らすしかなかった。

あらかた荷物が片付いて、窓のレースのカーテンを閉めた時だ。
不意に美夜子が立って、俺に抱きついてきた。

「抱いて」
「みっ…………だめだよ。美夜子……もう、俺たちは」
「寂しくて……兄さんがいなくなって、寂しくて堪らないの」
「美夜子……でも」
「慰めて欲しい」
「美夜子…………美夜子は、先生を……」

そこまで言った時、美夜子が俺の唇に人差し指を縦に押し当て、言葉を遮った。
触れた指先の熱が唇に生々しく伝わってくる。

「それに……精一には……悪いことしたわ、わたし」
「いいんだ。それより、今、美夜子には……」
「今、カレシなんていないわ。離婚してからね、オトコには懲りたの」
「……そんなひとが、『抱いて』とか言わねえよなー」

わざとおどけ気味に言うと、美夜子は凄艶に微笑んだ。
汗ばみ始めた俺の首に、ひんやりとした腕が絡みついてきた。

「だから、これきり。面倒はかけないわ。ね……お願い」

お願い、の言葉が美夜子らしくない、弱々しい声で吐きだされた。
軽い体の重みを俺に預けてくる。
喉に息がかかって、背中が震えた。

「面倒って……」
「精一こそ、彼女、いるんでしょ。でも、一度だけよ、慰めて欲しいの。ね?」

彼女――。
瞬間、頭に制服姿ユキの姿が過っていった。
バカな。ただのお隣さん、それも妹のような存在なんだぜ?
頭を振って、ユキの残像をキレイに追い払った。
そして目の前の女に、挑むように視線を合わせた。
体中の血が、一箇所に集中し始める。
子どもを産んだとはいえ、以前と変わらない、細い腰を抱きよせた。
美夜子がくたくたとくずおれて、俺ももつれ合うようにその体を押し倒していった。
それから後は、ただ無言だった。

チェックアウトまでの短い時間、ただ貪るように美夜子を抱いた。
若草色のワンピースを捲りあげ、手をもぐり込ませ、乳房を鷲掴みした。
ブラをずらし、こりこりと尖った両方の蕾を指できつく摘まんで捩ると、美夜子が
鋭く抑えた叫び声をあげた。
ショーツはすぐにずりおろして、俺は自分のジーパンの前をくつろげた。
いきりたったモノは、弾むように下着から飛び出してきた。

それを待っていたように美夜子は膝立ちして、胡坐になった俺の上に腰を落とそうとした。
こんなにすぐ、いいのか、と言おうとした時、

「いいの。入れて……もう欲しくて……どうにかなりそうなの」

泣きそうな顔で、美夜子が哀願した。
俺から視線を逸らさず見つめたまま、美夜子が腰を揺らす。
すかさず手で自分のモノを掴んで、美夜子のそこに先を擦りつけた。
接したところから、粘り気のある湿った音がして、美夜子の眉根がぎゅっと寄った。

「はああ……ああ―――」

俺の目を見つめる瞳がうつろになっていく。
前戯もなく男を迎え入れる美夜子の体に、背筋がぞくぞくとする。
恐ろしく熱い柔肉に飲み込まれていく感覚に、我を忘れる。

「精一……ああ……精一なのね……」

目を閉じて揺れながら、美夜子がうっとりとした顔をして呟いた。
服も脱がず、向かい合い座ったまま、お互いの体が繋がっていく。
深く包まれるほど、何重にもなった襞が蠢いて、繋がりから腰に強烈な痺れが走った。
美夜子が喉を仰け反らせた。

「あ―――っ」

記憶の中にあった、快感に酔った嬌声が目の前の女の声と重なった。
同時に美夜子の中が、びくびくと収縮を繰り返す。
美夜子を抱く腕に力を入れて、力任せに揺すり上げた。
背中の、美夜子の爪が食い込んでいく痛みまでが、快感に変わっていく。
やけに懐かしい嬌声の中で、俺の欲望は簡単に弾けてしまった。

今にして思えば、服の乱れやシワをできるだけつけたくなかったのだろう。
俺がすぐにもう一度美夜子を畳に押し倒した時、その体が起き上がって
四つん這いになった。
我を忘れて行為に夢中になってしまっていた俺と比べて、美夜子の冷静さに
今頃苦笑してしまう。

「精一、もっと、して」

美夜子が艶のある声で囁き、ねだるように腰を振った。
目の前に突きだされた円やかなラインの尻を、迷わず掴んでいた。
あっという間に力を取り戻したモノをなんの躊躇いもなく、そこへ押しつけた。
今放ったばかりの白濁した液体が、のめり込ませるたび押し出されて滴っていく。

「優しくしないで……精一……わたしなんかに」

そんな余裕なんか無かった。
美夜子を気遣う余裕など……それよりも、欲望に負けていた。

「あ……ああっ、ひどく……ひどくして……ね? お願いよ」

美夜子は自分から腰を突き出して、俺を飲み込んだ。

「してっ……してよ、せいいちっ」

ぐちゅぐちゅと音が部屋に響く中、美夜子が苛立つように声をあげる。
まだ気だるさにぼんやりしていた俺は、我に返って一気に美夜子を深く貫いた。
パンと肌の打ちあわされる音がして、愛液と精液の混じった飛沫が飛ぶのが見えた。
浅黒い美夜子のしなやかな体に覆いかぶさるようにして、後ろから胸を掴んで律動した。

「もっと! 突いて……突いて!」

ばさばさと明るいブラウンのショートヘアを振り乱して、美夜子が叫ぶ。
俺はもう、誰を抱いているのかなんてどうでもよくなっていて、ただ快楽の渦に
飛び込んでいこうとしていた。
目の前に差し出されたエサを貪るただのオスになって、美夜子を犯しているだけだ。

「もっと……もっと奥を……突いてよぉ!……」

啜り泣きのような嬌声が聞こえてくる。
それを耳にしながら、ひたすら奥へと抽送を繰り返した。
獣のように吠えながら――俺は2度目の欲望を放っていた。

欲の塊を吐きだしきった後、自分が空っぽになった気がした。
美夜子の中から離れながら、別れた時の喪失感と虚しさを思い出していた。
誰でもよかったのかもしれない。
そうだ。美夜子が恋人だと思っていた頃から。
誰かに、傍にいて欲しかった。

父親という大きな存在が不意に無くなって、母を支えることも生活していくことも、
あの頃の俺には重過ぎて、受け入れられずにいた。
必死にやっているつもりで、本当は空回りしていた。
不安で堪らなかった。

誰かに甘える代わりに、温もりに溺れていただけだ。
弱い自分をごまかしてくれる相手がいれば、それでよかったんだ。
……美夜子も、同じだったのかもしれない。

「美夜子……ごめん」

恋していたのは本当だ。
美夜子は、縋りつこうとすると逃げていく、そういう女だった。
恋焦がれて……俺が一方的に繋ぎとめようとしていた。

「いいの……精一、ありがとう」

美夜子が衣服を整えていた手を止めて、俺の頬にその手を当てた。
視線は、俺じゃなく、たぶん他の誰かを見ているんだろう。
うつろな眼の色が、底の知れない深い穴のように思えた。
だからゆっくり近づいてくる唇に気づいた時、思わずそれを押しとどめていた。
キスなんて、今さらできない気がした。
どうして、という表情になった後、すぐ何か悟ったように美夜子は体を離した。
また衣服や髪に手をやり、何事も無かったように立ち上がった。
これで、終わりだ。

「時間……」
「ああ」

俺も身なりを整え終えて、立ち上がった。
部屋の出入り口に向かった美夜子は、振り返って言った。

「先に、行くわね」

そして艶やかに微笑んだ。
けれど、美夜子の笑顔は以前の彼女の笑顔と、かけ離れたものだった。
もっと屈託のないものだったのに。

「元気で」
「美夜子も」

……それが4年前のことだ。
だからあの日、夕方帰った自分の部屋のベッドでユキを見つけた時は、かなり狼狽した。

ユキには、離婚していたこと以外は、ウソはついてはいないつもりだ。
確かに曖昧にして本当のことは言わなかった。
けれど、言う必要は無かったと思っている。
あやまちではなく、まして関係が再燃したわけでなく『若気の至り』ってやつだった。
いつか、話す時が来るかもしれないが、できれば話したくない。
俺自身が、思い出したくもないことだから。



車は、辻先生と美夜子が生まれ育った町を過ぎて、隣の温泉街に入った。

「わたし、勘当されたのよ」

まるで他人事のように、美夜子は言った。
子どもは今、離婚した人の元で育てられていて、美夜子には親権はないと言った。
そう言った横顔は、寂しさや悲しさを隠しているように見えた。
彼女や会えない子のことを思って、胸が痛んだ。

先生と美夜子は、親にとって自慢の兄妹だっただろうと思う。
だから余計に、美夜子の奔放な生き方は、親たちの目には放埓な振る舞いにしか
映らなかったんだろう。
それでも、離婚した後も、美夜子は次々恋愛をしてきたんだろうな。
そう言ったら、なんでわかるの、と返された。
美夜子らしいな……苦い笑いしかでてこない。

所々湯の蒸気があがる温泉街のメインストリートを通り過ぎて、山側の風情のある旅館へ到着した。
同時に今、車を下りて、彼女がひとりで泊まるという部屋に向かっていることに、後悔し始めていた。

荷物を持って、美夜子が今晩泊まるという離れの玄関前に来たところで、入るのを躊躇った。
案内してきた仲居さんは、美夜子に何か頼まれて、玄関前ですぐ引き返して行ってしまった。
夕暮れ時、目の前の、木立の中にある瀟洒な建物が、黒く蹲っているように見える。

「すごい……贅沢だなー。離れ、かあ」
「奮発しちゃった。久々の一人旅だもの」

はしゃぐようにしていた美夜子は、急に俯いて言った。

「兄さんと、一緒にいたいと思って……」
「先生と……?」
「そう。せめて今日はね」

玄関の敷居の前に立った時に、急にユキの顔が頭に浮かんだ。
『引き返した方がいい』――迷っているうちに、美夜子の声に急かされて、
部屋に促されるまま上がってしまった。
躊躇いながらも、部屋の中を進んで行き、美夜子の荷物を隅に置いた。

玄関を入って正面は、一面窓、という造りだった。
窓の外の眺望は、半分が向かいの山に覆われて、半分は視界が開けている。
斜面に建てられたこの離れは、少し高い位置にあるんだな。
すぐ下に渓谷が見えて、暗い夕焼けの中で川面が光っている。
部屋を出て、木立の中の下り道を行けば、そこへ辿りつけるようになっていた。

「精一も、夕食、付き合わない?」
「…………いや。いいよ、今から帰らないと」
「…………」

不意に美夜子の爪先が畳を蹴ってしなやかに体が弾んだ、と思ったら、
俺の体に美夜子が飛び込んできた。

「帰らないで」

言うなり、肩や背中にきつく腕が回された。
唐突過ぎて、しばらく俺は動けなかった。
艶めかしい匂いや美夜子の体の質感に、俺の体温が徐々に上がっていく。

美夜子は俺の背中からうなじへ手を這わせ、腰のあたりへゆっくり下した。
男だから、こういうことになれば、どうしたって体が反応し始める。
気が焦って、美夜子にやめるように言おうと、顎を上げた。

目の前の窓の外は、山と空のあわいが、同じ黒い色に染まって曖昧になってきていた。
空が――窓の外が夜空に変わっていこうとしているのにようやく気がついた。
急に冷たい水を浴びせられたように、頭がすっと冴えた。

――なにをやってるんだ、俺は。
しがみつかれた体を、ぐい、と引き剥がすようにして押しやった。
そして、あらためて窓の外に見える空を見上げた。

今夜は、新月だったんだな。
爪で引っ掻いた傷のような月が、まだ明るさの残る空に白く浮かんでいる。
そのすぐ下に星が一つ、強い光を放っていた。
いつものように「精さん」とユキの声が聞こえてくる気がした。
ユキ。
この時間、同じ空を見ているだろうか。

「大バカ者だ」

バカか、俺は。
こうなるかもしれないって、わかってただろう?
軽率だった。
ごめん、ユキ。

「精一……」

背を向けた俺に、美夜子がなにか言ったが、聞こえなかった。

「美夜子、俺、帰るよ」
「精一、待って」
「帰る……美夜子、俺たちはもう終わってるんだ」

向き合って、彼女の顔をまっすぐに見た。
彼女は、ひどく疲れた顔をしていた。

「もう、会わないよ……」

そう言って、また美夜子に背を向け、振り向かずに玄関を出た。

「せいいちっ」

後ろからかけられた声が、知らない女の声に聞こえた。

ひと月後、美夜子が駆け落ち同然に、同業の若い男と海外に行ってしまったことを、
人づてに聞いた。
美夜子は、誰かをずっと追いかけていたのかもしれない。
決して追いつくことのできない、誰かを。



俺のベッドの中のユキを見たあの時、はっきりわかったことがある。
ユキが俺にとってかけがえのない存在になっていたということだ。
あの時は、まっすぐなユキの想いを、欲に汚れた俺なんかが受けとめることは
できなかった。
ユキに触れるのさえ、躊躇うほどだった。
まぶしくて、大切で、絶対に汚してはならない。心からそう思った。



高速のパーキングで一息ついて、紺色の混ざった黒い空を仰いだ。
自分の街で見るよりたくさんの星が瞬いている。
もうすぐ帰ってくるんだな……。
澄んだ夜空は、静謐で、心に染みるようだった。
同じ空を、ユキが俺と同じように仰いでいるのを想像した。
キレイだな、ユキ。

今日のことを話したら、ユキはバカな俺を許してくれるだろうか?
いや、許してくれるまで謝らなきゃだめだな。

空の下で、ユキが笑って手を振っているのが目に浮かんできた。






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