ゲシュタルト崩壊症候群
シチュエーション


その女は、腕が無かった。
と言うよりも、末端から徐々に崩れてゆくようだった。

「ゲシュタルト崩壊症候群」

女は底の澄んだ綺麗なハスキーボイスを滑らせた。

「ゲシュタルト崩壊症候群──形を失ってしまうの」

女はふらふらとソファに腰掛ける。
しかしそれは腰掛けたのではなく、身体を支える脚の先が崩れ始めたからであった。
女は脚を組む。
素箆かな太腿の深淵に、雄性を幻了する淫惑の付け根が見え隠れした。
その爪先はぼろぼろと崩れ、落下して大理石のマーブルに当たる度、
コーン、と甲高い音を立てて弾んだのち、床に落ち着いた頃になって、
思い出したように砂のような粒子になった。
それが煤茶けた唯の砂ならば、悍ましさにつき動かされて、あるいは逃げ出す事も出来たかもしれない。
だがその粒子ときたら、まるでルビーを砕いた様な、何処までも澄み渡った透明な深紅だった。

──舐めてみたい。
まず、男はそう思った。
女はソファに座ったまま、どんどん崩れてゆく。
女の前に跪き、男は身を屈めて、女だった粒子を舐めた。
無味。
だがその粒子は、口の中で徐々に融け、ふっ、と一握の香りを男にもたらした。
えも言われぬ、深く、噎せ返る様な、血の香り。
だがその血の香りは不快では無く、むしろ男を強く昂奮させた。
床じゅうを這いずり、男は女のかけらを舐める。
じゃりじゃりとした食感は唾液に融け、混じり、男を満たして行った。
だがあるいは、それは男を喝えさせて居たのかもしれない。

男は女を見上げた。
もう女には、肩から先と、太腿から先が無かった。
残った太腿を、女が開く。
男は導かれる様に、女の陰部に舌を這わせた。
腕も太腿も崩れてしまったのに、女のそこだけは妙に艶めいていて、爛々とその魅力を凝らしていた。
男はついに辛抱の限界に達したと見えて、腕も足も無い達磨のような女に覆い被さった。
重なった身体が揺れる度、二人の身体はより深く繋がった。
男は何度も高まったが、それは幾度目かを数える隙もなく続いた。
やがて男は、自らの身体も末端から崩れ始めたことに気付いた。
だが、それは頭や腕、足などの末端からであり、いつまでも男の身体は動き、快感を渇え続けた。
女は何故か、男が達する度に、失っていた手足を取り戻していった。
やがて男の身体は皆崩れてしまい、女の中で尖端だけが蠢いていた。
女は取り戻した手で男の最後の部分を摘み出し、床に放った。
コーン、と大理石にぶつかり、砕け散る。

「ありがとう、貴方、なかなか美味しかったわ」

女は黒い霧になり、床に染み込む様に姿を消してしまった。

ウィークリーマンションの一室。

『IT企業社長の男性が失踪しました。
自宅として利用していた六本木ヒルズに帰宅した直後から一切の足跡が消えています』

女はテレビから流れる朝のニュースを聞き流しながら、昨夜の“食事”を想起していた。

──ふーん、社長だったんだ。

ほぼ、興味はない。
食べてしまった食事の材料など、今更知って何になろう。
女は立上がり、つるつると全部の服を脱いでしまう。
タオルを持って、浴室へ。
シャワーのレバーを回して、

「んにゃーーー!」

叫んだ。
完全に水だった。
給湯機のスイッチを忘れたのかと思い、確認。
スイッチは入っていた。

「な、なんでお湯出ないの?!」

女は半ギレで管理人室に電話を掛けた。

「もしもし、管理人さん!私のとこのシャワー、水しか出ないんですけ、ど……あ!」

捲し立ててしまってから気がついた。
電話機の近くに重ねてあった、クレジットカードの明細。
確認してみると、クレジットの引き落としで残高が不足し、ガス代が払えていなかった。

「あは、ははは!な、なんでもないです!朝からごめんなさいね!」

ガチャリ。

受話器を置いて、女は自分の迂闊さを呪った。

「うう〜寒いぃ。くそ〜」

女は適当に身体を拭いた。
パジャマ代わりのキャミとジャージパンツを着て肩にバスタオルを引っ掛け、携帯を持って玄関へ。
サンダルをつっかける。
何処かへ出掛けるのかと思いきや、すぐ隣りの部屋の前で携帯をかけた。

「もしもし、私、メリーさん。今玄関の前にいるの」
『間に合ってます』

ブチリ。つーつー。

通話終了。

女はおもむろに扉を蹴り始めた。

どん!どん!

喧嘩キック、もしくは長渕キックと呼ばれる、非常にガラの悪いキックだ。
女が三度目のキックをかまえた時、

ガチャリ

扉が開いた。

「ああーもう!朝から五月蠅いです!」

中から現れたのは、黒い髪が美しい妙齢の女性だった。
ただし、おかしな事に、その女性には耳が四つあった。
普通の耳の他に、頭の左右に、滑らかな墨色の髪を掻き分けて猫の様な耳が、ぴん、と生えていた。
実は、彼女は猫又なのだった。
女は猫又に謝る。

「ごめんね。ちょっとガス止められちゃってさ、シャワー貸してくんない?」
「リアルでガス止められる人、もといサキュバスって初めて見た……
ってか、頼み事しにいく家にイタ電とかドア蹴るとか無くないですか?」
「あ、シャンプー忘れた。借りるね」
「聞けよ」

女──サキュバスは全然悪びれず、勝手知ったる状態(同じマンションだから当たり前だが)で猫又の部屋に上がり込んだ。

「チーッス、姐さん。おはよっす」

と、サキュバスに声を掛けながら部屋の奥から出て来たのは、金髪碧眼で犬歯の鋭い、色素の薄い優男だった。
猫又のヒモである、ノスフェラトゥのヘルマンだ。

「おはようヘルマン、シャワー借りるね。それと姐さんて呼ぶな。搾り尽くすぞ」
「うひゃーこえぇ」

適当にあしらってシャワーへ。
ちなみに、猫又は夢魔の一種であり、やはりサキュバス同様に精髄を啜って活力を得る。
猫又とノスフェラトゥの性交はなんとも奇異で、猫又がノスフェラトゥの活力を下で啜りながら、
ノスフェラトゥが猫又の首筋から血を啜る。
性と食が真に一体となっているのだ。
シャワーを浴びながら、サキュバスは少し羨ましくなった。
繋がれば相手を殺してしまう夢魔にとって、永遠のパートナーなんて望んでも不可能である。
猫又はソープ嬢をやって精髄や金を稼ぎ、ヘルマンに貢いでいるが、
それはサキュバスにとって涎が出るほど羨ましい関係である。

(いつか私も……もし、ヘルマンが靡いてくれるなら、それでもいい……)

なまじ終わりの無い生を過ごしていると、その寂しさは時に堪え難いものになるらしかった。






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