鷹藤俊一×鳴海遼子


「鳴海さん、今日はいつにも増してきれいですよ」
「は?」

高級ホテルのバーの静かな囁きに満ちたフロアに遼子の間抜けな声が響いた。
思わず出た言葉に赤くなり、身をすくめて遼子は周囲を見回した。皆それなりに地位もあり、こういう場所で
時間を潰すことに慣れているのか、遼子の振る舞いに眉をひそめるような不躾な真似をするものはいなかった。
少し離れたところにいるバーテンダーもすました顔で立っている。

「もう…緋山先生ったら、お上手なんだから〜!おほほほ〜」

てれ隠しに遼子がぎこちなく笑った後、また気づまりな沈黙が訪れた。

隣にいる青年――緋山秀和の襟元には議員バッチが光る。
先日美鈴と共にインタビューしてから何度目かの食事会だった。いつもは美鈴や、緋山のスタッフとも
一緒に食事を取るのだが、待てども美鈴は来ない。何度もメールしているが返事がなかった。
遼子が緋山の姉に似ていると美鈴に聞いてから、緋山が遼子を見るときの視線の強さがくすぐったくもあり、
どことなく恐ろしくもあった。
食事が終わると緋山のスタッフが帰り、遼子は緋山に誘われるまま食事会が開かれた中華料理店の上階にある
バーに来ていた。

―――このまま部屋に誘われても、私はなびかないわよ。そんな安い女じゃないんだから…。

「いい匂いがしますね。僕の好きな香水に似ている」

美鈴が選んだ香水だった。緋山の姉もつけているという香水。
それにしても美鈴はどこからそんな情報を得るのだろうか?遼子がそう思った時だった。

「知り合いもつけている匂いだ。でもつける人によって匂いも変わるのかもしれない。こう言ったら失礼
かもしれないが―――とても官能的な匂いに感じますよ」
「そ、そうかしら…つけすぎたかな」

自分の手首の匂いを犬のように嗅ぐ遼子の様子を見て、緋山が形のいい象牙色の歯を見せて笑った。

「面白い人だ、あなたは。ユニークでどこか憎めない。それなのに妙になまめかしく見える時がある」
「またまた〜。よく言われます〜」

動揺して遼子は、受け流しているのか、真に受けているのか微妙な返答をしてしまった。
微妙な空気の中、携帯を出しては相手の気を損ねそうだ。だが、二人で飲んでいるとどうにも落ち着かない。
遼子は美鈴からの連絡を待ちわびていた。

「巻瀬さんなら来ませんよ。彼女に情報を流しているスタッフと今頃は楽しくしているんじゃないかな」

ロックグラスを傾けながら緋山が言った。
遼子の様子から、美鈴を待っているのを見抜いていたようだった。

「…このホテルに部屋をとってあるんですよ」

緋山が真顔で言った。

―――大丈夫、鷹藤くん浮気なんてしないから。
遼子が断わりの言葉を告げようとした時だった。

「折り入って話したいことがあるんですよ。あなたのお兄さんの情報」

緋山が身を乗り出し、遼子の耳元で囁いた。

「兄の情報?」

断ることを忘れ、遼子は急きこむようにして言った。
その様子を見て緋山が笑みを浮かべる。

「そう。死んだことになっている君のお兄さん。だが、警察も馬鹿じゃない、君の兄さんの生存を確信
して追っているようですよ。秘密裏にですがね。もし僕がその捜査情報を入手しているとしたら」
「お兄ちゃんのこと知っているの?」

「ええ。僕はあなたにその情報を提供できます。ここにありますよ」

緋山は人差し指で自分のこめかみを指した。

「僕は嘘をつきません」
「教えてくれるんですか」
「もちろん」

緋山がにっこりと笑った。

「ですが、ここでは言えません。下に部屋をとってあります。そこに来たら教えてあげますよ」

カウンターに乗せられていた遼子の手に、緋山が手を重ねた。

「へへへへ…部屋って」
「余人に聞かせたくない話ですしね。静かなところの方が話しやすい」

緋山が選挙民向けの完璧な笑顔を作った。美しく手入れされた歯が、唇からちらりとのぞく。

「来るか来ないかは鳴海さんの自由です。来なければ情報は得られない。それだけのことです。
どうします。どちらにせよ、今日僕はその部屋に泊ります」

「…本当に知ってるんですか。兄のこと」
「来ればわかりますよ」

緋山の笑顔の奥で、その瞳が凍てつく光を放って見えた。
この青年はもしかしたら見かけどおりの人間ではないのかもしれない。
だが、洸至のことを出されて遼子は後に引けなくなっていた。
立ち上がった緋山の後に続いて、遼子もバーを出ていった。


堅い表情で部屋の入り口に立ちつくす遼子に、緊張をほぐそうと緋山が笑顔で話しかける。

「いい部屋でしょう?」
「は、はい!」
「そんなに硬くならないで。緊張してるみたいだね。何か飲む」
「いえ、いいです。あの、わたし、来ましたよ。だからお願いです。お兄ちゃんのこと教えてください!」
「この部屋に来て、夜景も見ずに帰るのはもったいないですよ」

緋山が遼子の手を取ると、窓際へ誘った。

「なかなかいい眺めでしょう。カーテンを開けていても誰にも見られる心配はありませんよ。この辺で一番の
高層ビルですから」

さりげなく緋山が遼子の肩を抱いた。

「だけど、緋山さん、わたしそんなつもりじゃ」

その手から逃れて、遼子は向き合った。上背のある緋山が遼子を見下ろしていた。

「じゃ、どんなつもりだったの。今日はいやに艶めかしい目をしてこっちを見ていたじゃないか」

緋山と食事をしながら、遼子は時折、さっきの鷹藤との行為を反芻していた。
それがこの男に火をつけたのだろうか。
緋山が手を伸ばす。
遼子の首筋を冷たい掌が撫で上げた。

「や、やめてください!」

緋山の動きが止まった。遼子を見据えながら口元だけは微笑んでいる。

「…欲しくないならいいよ」

氷のような声だった。

「な、何がですか」

緋山が遼子の耳元に唇を寄せた。

「お兄さんの情報」

生温かい息が遼子の耳にかかる。ぞっとした。

「ここで君が部屋を出れば、永遠に君はお兄さんに近づけない」
「お兄ちゃん…」
「お兄さんに会いたいのなら」

緋山が遼子のスカートの上から太ももを撫でる。

「あっ…」

太ももを這う緋山の腕を遼子が手が押し止め、密着する二人の躰に隙間を作ろうと身をよじった。

「動かないで…そうすれば僕は君に情報をあげる。いい交換条件だろう?君は兄さんの情報を、
僕は君を得る」

遼子がゆっくりと緋山を見上げた。

「わたし…?違うわ。あなたが欲しいのはお姉さんでしょ」

緋山の眼の端が不愉快そうに一度だけ痙攣した。

「知っていたんだ」
「あなたが好きなのはお姉さんだけ。わたしはその代わり」

手がスカートの中に入れられた。緋山の指先が遼子の太ももの感触を確かめるようにゆっくりと上へと辿る。

「やめ…やめてください!」

遼子が緋山の手を払いのけると、ドアへ向けて駈け出した。
その遼子の腕を緋山が掴む。

「お兄さんに会えなくなるぞ」
「こんな方法で情報を得てお兄ちゃんのところに辿りついたとしたら、わたし、きっとお兄ちゃんの顔を
まっすぐに見れない。そんな私がお兄ちゃんに自首しろなんて言えない」
「きれいごと言うなよ。君がお兄さんに会いたいのは何のためだ?ずっと育ててくれたその胸に甘えたい
からじゃないのか。それとも両親を殺された恨みを晴らすためか。自首なんて嘘はやめて本当のこと言えよ」
「違う!そんなのじゃない!わたしは罪を…償ってほしいの。それだけよ」
「きれいごとだけじゃ、兄さんのいる世界には辿りつけないぞ」
歩きかけた遼子の足が止まった。

「どうして女ってのはこうも面倒なんだ。素直になったらどうだ。なりふり構わず欲しいんだろ。
兄さんの情報が。違うな――兄さんが欲しいんだ。君も僕と一緒だ」
「違う…違う!」
「嘘はよせって。僕は君より正直だよ。自分の中の気持ちを自覚している。僕は姉さんが憎くて憎くて
たまらないんだ。君だって兄さんが憎いだろ?あれだけ君に迷惑をかけたんだ。だけど君はその兄さんの
温もりが忘れられないんだ。だから部屋に入ったらどうなるかわかっていてもここに来た。他の
男に抱かれてでも欲しいんだろ。兄さんのことが。すごいよ、僕にはそこまでの想いは無い」

「違う…」

反駁する遼子の言葉は弱かった。
男として兄を見たことなどなかった。だけど――。
別れる直前に全てを明かしたホテルの部屋で、兄が放つ空気と熱はそれまでの兄とはまるで違っていた。
そこに恐怖を覚えつつも、心の奥底で遼子は兄が見せた翳りに惹かれていた。
兄が警察に連行されていく時、思わず駆け寄り兄の背中に身を預けたあの一瞬、遼子の躰の芯の熱が上がったのを
憶えている。
そのことを言い当てられたような気がして、遼子の眼の前が暗くなる。

「その口調だと違うようには思えないけどね」

緋山が冷ややかに笑った。

「あの女は好きでもない男と結婚する羽目になって、結婚前、部屋でよく泣いていたよ。そのくせ、今は夜
になるとその男に散々啼かされてるんだ。楽しげにね。家じゅうに響くほどの声だ。うんざりだよ。
そんな姉にも、その姉が欲しくてたまらない僕自身も。だけど姉に似た君を抱けたら…少しは気が晴れるかもしれない」

緋山が腕を引くと、力の抜けた遼子を抱き寄せた。

「やめて!わたしは自力でお兄ちゃんに辿りついてみせる。だから離して!」

緋山の腕の中で正気に返った遼子が抗う。

「そう。じゃあ好きにすればいい。僕も好きにするから」

腕の中の遼子に唇を押し付ける。ナメクジのような舌の感触に遼子が嫌悪感も露わに唇を離した。

「やめて!誰か…」

遼子が身をよじり、そこから逃れようとしたとき、緋山が遼子の頬を撲った。

「な…」
「素直になれって」
「嫌…」

今度は反対側を撲つ。

「好きなんだろ。こうされるのが」
「誰の事を…きゃっ」

遼子をベッドに押し倒すと馬乗りになりまた遼子の頬を撲つ。
塗りつぶされたような黒目の奥で見ているのは遼子ではないようだった。

「好きですって言わないのかよ。いつも男にこうされて啼いてるだろ」
「違う…わたしじゃ…」
「もっとって言えよ。あなたもっと、って。いつも言っているみたいにさ。夜通しよがりながら言ってるだろ」

緋山は止まらなかった。痛みに遼子が悲鳴を上げると、楽しげに笑いながら遼子撲ち続けた。

「いや…やめて」

遼子叫び声を上げようと開けた口を緋山が唇で塞ぐ。
その細い躰のどこにそんな力があるのか、緋山が遼子のシャツの襟元を引くと、ボタンが音を立てて飛び散った。
シャンパン色のブラが露わになる。それを乱暴に引き下ろすと、遼子の柔らかな乳房を形が変わるほど強く揉む。
恐怖と痛みから遼子の視界が涙で滲んだ。

「鷹藤くん…お兄ちゃん…助けて…」

遼子が弱弱しく呻いたときだった。

けたたましいベルの音が鳴り響いた。
緋山が手を止める。

「火事…?」

その隙を見逃さず遼子が緋山を押しのけると、一目散にドアに駈け出した。

「待て!」

その声を無視して廊下に躍り出る。廊下でも非常ベルが鳴り響いていた。
それぞれの部屋からも客が各々顔をだして、訝しげに見あっている。

「こっちだ」

誰かが遼子の手を取った。

「いや…」
「俺だって。逃げるぞ」

聞き覚えのある声。顔を上げると、鷹藤が遼子を見ていた。
遼子の胸元を合わせてから、自分のジャケットを遼子にかけた。

「鷹藤くん…」
「君の荷物だ。返すよ」

背後からかけられた声に二人が振り向くと、緋山が遼子の鞄を手に廊下に立っていた。
悪鬼のようだった表情から一転、爽やかな貴公子然として緋山が微笑んでいた。

「ただで済むと思うなよ。なんてことしたんだよ」

鷹藤が緋山を睨みながら鞄を受け取った。
鞄を手渡す時に見た緋山の瞳の奥にある冷たさに、遼子は本性を見る思いだった。
鷹藤と歩きだした遼子の背に、緋山の冷ややかな声が投げかけられた。

「君の方から僕を誘ったんだ。三流週刊誌のたわごとなんて誰も信じない。女性記者が取材対象を誘惑なんて
よくある話だからね」

「…なんだと?これみりゃわかるだろ?襲ったのは手前だろうが!」

鷹藤がいきり立って、拳を固め向っていくのを遼子が手を引いて止めた。
その様子を緋山が楽しげに見ていた。

「ここで殴ったらこの人の思うつぼよ。…いつかきっと記事にするから。それより、よくこの階にいるって
わかったね。美鈴さんから教えてもらったの?」

緋山を無視して二人はまた歩きだした。

「いや…美鈴さんじゃない。やっぱりあんたと一緒に帰ろうと思ってさ、この辺うろついてたんだ。
そしたら見たことのないアドレスからメールが来た。あんたが危険だからすぐにこの階に行けって」
「それって一体…」
「メールにはこんなことも書いてあった。そんな男は知らない、罠だって」

二人は顔を見合わせた。

「このメールの送り主って…」



首都高速を見下ろす公園の展望台に男が二人立っていた。
二人がいる公園は見晴らしはいいが、山かげになるため日あたりのわるい陰気な場所で、日中でも人影は
まばらだ。
以前は自殺の名所として有名で、いまもその名残として飛び降り防止用の金網が展望台に張りめぐらせてある。
風に乗って展望台にまで排気ガス臭気と、耳障りな走行音が漂ってきていた。

『あの女は好きでもない男と結婚する羽目になって、結婚前、部屋でよく泣いていたよ。そのくせ、今は夜
になるとその男に散々啼かされてるんだ。楽しげにね。家じゅうに響くほどの声だ。うんざりだよ。
そんな姉にも、その姉が欲しくてたまらない僕にも』

ボイスレコーダーの停止ボタンを押すと、黒いスーツ姿の男が言った。

「これはあんたの姉さんには聞かせられないな」
「いつの間に録ったんだ」

緋山が端正な顔を歪める。

「遼子の鞄に盗聴器を仕掛けておいた。大事な妹だからな」

鳴海洸至が邪気のない顔で緋山を見た。

「この続きを選挙民が聞いたらどう思うかな。もっと…もっとか。女を打たないと興奮しないタイプなのか」
「その質問に答える必要が?」

「いや。それはどうでもいい。お前は友達の記者の力も借りて、遼子が汚い手で誘惑したと吹聴している
みたいだな。それに反論しようとした遼子の記事を親と政党から圧力をかけて握りつぶして、それで逃げ
切れると思っていたのか。これを聞けば俺をダシにあんたが遼子を部屋に連れ込んだって子供にもわかるぞ。
俺は妹の名誉のためにもこれを公表しようと思うが。君はどう思う?」
「それは…困る」

「じゃあ交渉成立だ。この事実を伏せる代わりに、こちらの依頼を聞いて欲しい。手始めに遼子から手を
引いてもらおう。犯罪者の妹としてただでさえ肩身が狭い思いをしてるんだ。お前を警察に訴えても
本気にしてもらえなかったようだしな。誤解があったとお前からマスコミに公表して手打ちしろ。
次の依頼はそのうち伝える。もちろん、ただで聞いてくれてとは言わないさ、礼はするよ。邪魔な人間を蹴落
とす手助けをしてやろう。それだけじゃない、好みの女も捜してやる。もちろん、遼子以外でだが」
「…犯罪者と手を組めるわけがないだろう」

「お前の言葉じゃないが、受ける受けないはお前の自由だ。受けなかったら主要週刊誌と新聞、それとネットにこれ
を流すだけだ。そうしたら、愛する姉さんから罵られ、華麗なお前の経歴も、地位も全て消え去り残るのは汚名だけだろうな」

洸至は柔和な笑顔を見せながら言った。
それがたまらなく不気味で、緋山は背筋がざわつくのを感じていた。

「僕には選択の余地などないってことか」
「腹の中に憎悪を抱えているお前のような人間は嫌いじゃない。前のパートナーはいろいろあっていなくなって
しまったからな。君みたいな立場の人間がいると、仕事がしやすい」
「何をする気だ」

「政治家の仕事と一緒だよ。世の中を良く作り変えるのさ」

洸至が首都高を見降ろしながら微笑んだ。
緋山は首に冷たく湿った息を吹きかけられたような気がした。

緋山が声をあげて笑った。
逃れられない泥沼の中に居る自分の状況に笑うしかなかった。
笑いすぎて涙が出た。おかしかったからじゃない。純然たる恐怖と絶望からだった。
逃れるためには、金網を突き破りここから飛び降りることしか選択肢はなさそうだった。
緋山は笑いながら泣いた。罠にはまったのが誰か、今ようやくわかった緋山の笑いは止まらなかった。
いつまでもいつまでも。
その様子を、腕組みをした洸至が檻の中の動物を観察するように楽しげに見ていた。






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