2009/12/31(非エロ)
鷹藤俊一×鳴海遼子


指先が冷たくなっていた。足元からも冷えが忍び寄る。
この部屋は寒いのかもしれない。
そう遼子は思ったが、エアコンのリモコンに手を伸ばそうともせず、またスコッチを手酌した。
手が言うことを聞かず、琥珀色の液体がグラスから溢れてテーブルに零れた。
自分で思う以上に酔っているようだが、どうでもよかった。

兄が居た頃、この部屋は遼子にとっていつも暖かく、そして安全な場所だった。
仕事で落ち込めば、兄がそれとなく話を聞いてくれた。
うまくいかない恋に行き詰ると相談に乗ってくれた。
話せないような悩みがある時でも、ただ傍にいてくれた。
部屋に他の人間の体温があるだけでひどく落ち込むことを避けられた。
居てくれる。それだけでよかった。

だが、兄はもういない。
いまこの2DKの部屋はただ広く、骨身まで沁みるような冷気に満ちていた。
それを忘れる為にまたグラスを傾ける。
兄がよく飲んでいた洋酒。味はわからない。ただ喉を通る熱だけは確かだった。

テレビでは紅白歌合戦が始まっていた。
華やかに着飾った歌手たち、紙吹雪舞い散る舞台。去年は兄と見ていた。
二人で年越しのカップそばを食べながら、平穏な年の瀬を退屈しながらも楽しんでいた。
その裏で兄が進めていたことも知らずに。

お兄ちゃんを最初の事件の前に止めていたら、私がお兄ちゃんの感じていた痛みをわかっていたら…。
赤と白で彩られたステージと、舞台の上で歌う歌手の姿が滲んで見えた。

その時、遼子の携帯が震えた。
鷹藤からのメールだった。

『あんた今何してんの?』

実家でぬくぬくと過ごしながら、暇を持て余しているのだろうか。

クリスマスイブの夜、道行くカップルと同じように、イルミネーションが輝く樹木の回廊を二人で歩いた。
それから二人でラーメンを食べに行った。
あの距離。少し手を伸ばせば、触れられるほど傍にいたあの時。
あの時の自分たちはまるで…。

今までだったら、そうなった相手とバージンロードを歩く姿もありありと心に描くことが出来た。
しかし、鷹藤とはそうできなかった。同僚として、相棒として大切にもしたかったし、なによりも鷹藤は
兄の事件で家族を全て失っている。鷹藤から見れば、遼子は敵の妹になる。
鷹藤の家族の墓参りを許してくれたとはいえ、過剰な期待も、強い思いを抱くことにも踏み切れないでいた。

『部屋でのんびりしてる』

そっけない返事だが、それだけの文字を打つのにも時間がかかった。
本当はもっと書きたいことがあった。もっと伝えたいことがあった。
だが酔いのせいか、指はそれ以上動かなかった。

すぐに返信が来た。

『クリスマスに俺が言ったこと憶えてる?』

遼子は首を傾げた。
クリスマス…。ラーメンを食べに行った時、鷹藤相手なのに遼子は緊張してしまい、ラーメン屋で
ビール大びん2本と、日本酒2合をほぼ一気に空けてしまった。
そのために、店を出る時は鷹藤に肩を貸してもらわねばならぬ程酔っていた。
あの時、ひどく真面目な顔で鷹藤が何か言っていたような気がする。
だがその時言われた言葉は、遼子の酔いのまわった頭に残らなかった。
そういえば、仕事納めの時にも、クリスマスの約束だけど、あんたさえ良ければとか何か言っていた
気もするが、その時も遼子は軽く聞き流していた。

『なんだっけ?』

のろのろと文字を打つ。
テレビから歓声が聞こえた。部屋の寒さがまた増した気がした。

「あ〜もう、やっぱり憶えてねえのかよ!」

玄関先からの大声に遼子は飛びあがった。
ふらつきながらも玄関に辿りつくと、ドアスコープを覗きこんだ。
不貞腐れた顔の鷹藤が居た。
ドアを開け、鷹藤に遼子が怒鳴った。

「そんな大声だして…。それにいきなり押しかけるなんて何よ!近所迷惑じゃない」
「忘れたあんたが悪い。っていうか、なんだよその顔。飲み過ぎだろうが」

鷹藤が遼子を睨んだ。

「私が酔ってるからって、女の一人暮らしに上がりこもうっていうの」

鷹藤が片手に持ったコンビニの袋を掲げた。

「どうせ酒ばっかり飲んで、ろくなもの食ってねえだろ」
「年末くらいお酒飲んでテレビ見て過ごしてもいいじゃない」
「ひとりで?」
「大人の女はね、孤独を楽しんでこそなのよ」
「眼、泣いた後あるけど」

遼子が慌てて涙の跡を拭う隙をついて、鷹藤が玄関に入りこんだ。

「ちょっと、鷹藤くんどういうつもり?」

遼子は狭い玄関先で鷹藤と向きあった。
怒る遼子をよそに、鷹藤は室内を見回している。鷹藤はリビングのテーブルの上に乗る洋酒の瓶や、床にある
ビールの空き缶の山を見てからリビングの壁に眼を止めた。

「あんた寒くないの、この部屋。それにしてもひでーな、やっぱり…」

憐れむような独り言だった。

「何よ、いきなり人の家にあがって、それはないじゃない」
「片山さんがやったあの落書きまだそのままじゃねえか」

疑いを逸らすべく、兄と片山が自作自演でやった毒々しい色のスプレーでの落書きは壁一面にまだそのまま残っている。

「来年になったら、内装屋さんが来て張り替えてくれるんだけど…」

自分の恥部を見られたような気になり、遼子は鷹藤から眼をそらした。

「で、あんたはここで年越しするのかよ」
「だってここは私の家だもの。ここが一番落ち着くわ」
「こんだけ落書き残っててもか」

鷹藤が疑うように遼子を見ながら言った。

「当然でしょ」

遼子は虚勢と共に胸を反らした。弱みは見せたくなかった。

「…俺だったらここで年越しするのは嫌だな」
「失礼なこと言わないでよ」
「こんな部屋じゃ落ち着かないだろ。色々思い出してさ」
「いい思い出だってあるもの」

だがその思い出は遼子を押しつぶそうとしていた。だからこそ酒が必要だった。

「逆の思い出もあるだろ」

「…ここは私の部屋だし、ここしか私は行く場所が無いのよ」

思わず出た本音。
弱みをさらけ出した今の顔を鷹藤には見られたくなかった。遼子は思わず俯いた。

「…行くところが他にあったらどうする?」

その声に遼子が顔を上げると、鷹藤が遼子を見ていた。
気のせいか遼子は鷹藤の視線をいつもより柔らかく感じた。

「俺、クリスマスの時言ったろ、あんたがもし、年末年始ひとりぼっちで落書きだらけの部屋に居るんだったら、
俺の家、来ないかって。広くないけど落書きもないし、少しはましだって」

その言葉に遼子の胸が熱くなって息がつまった。

「…どうしてよ」

遼子はようやく言葉を絞り出した。

「何が」
「下心あるんでしょ?いきなり部屋に連れ込もうなんて」

眼のふちに熱いものが溢れそうになるのを感じながら、遼子は言った。

「…俺はあんたが心配なだけ。部屋のリフォームもしないまま、一人でこの部屋にずっといるのは

辛いだけだろ。かといって俺と同じで安月給のあんたに年末年始ホテルに泊まる金なんかなさそうだし」
鷹藤がそっけなく言った。

「もし、俺と一緒が厭だったら、あんたが俺の部屋を自由に使って、俺は実家に行けばいい。狭いけど俺の部屋
本もあるし、ゲームもある。悪くないと思うけど」
「し、下心が見え見えよ。それで流されるような安い女だと思ってつけこもうっていうのね」

鷹藤が心底呆れたような顔をして遼子を見た。遼子は溢れる涙を気取られぬように、下を向いた。
だが、肩が震えるのは止められなかった。

「あのさあ、男がこういうこと言う時、下心しかないってあんたは思ってるのか。…下心以外にあると
思うけどな」

鷹藤の眼が、ひどく真面目に何かを訴えていた。
遼子を驚かさないようにだろうか、ゆっくりと鷹藤が手を伸ばす。

「あんたの兄さんのこととか、いろいろあったけどさ…。ほっとけないだろ、守りたいって思ってるあんたのこと」

コンビニのレジ袋を提げていない方の手で、遼子を抱き寄せた。

鷹藤の胸に遼子は顔をうずめていた。そこは温かかった。
この部屋で感じた久しぶりの温もりだった。遼子の震える背をなだめるために鷹藤の手が優しく撫でる。
遼子に温もりを分けるように鷹藤はしばらく抱きしめていた。それから遼子の頬に手を添え、上を向かせると
顔を近づけた。

「鷹藤君あのね…」
「いいから目、閉じて…」

鷹藤の唇が触れようとした時だった。
遼子の腹が盛大になった。
鷹藤の動きが止まる。酔いで赤くなった遼子の顔が更に赤くなった。

「殆ど食べないでお酒飲んでたからお腹すいちゃったみたい…。鷹藤くんの持ってきた袋からいい匂いしてるからつい…」
「まったくあんたは…」

鷹藤が苦笑いしてから、二人の間にレジ袋を掲げた。

「肉まん買って来たんだ。あとでゆっくり食べようぜ」
「あと…?」
「このあと」

鷹藤が微笑んで、遼子に顔を近づける。
鷹藤の温かい腕の中で、遼子も今度は瞳を閉じた。






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