ディナーはカレー(非エロ)
鳴海洸至×鳴海遼子


前回:キスの後には(鷹藤俊一×鳴海遼子)

鳴海家のキッチンにリズミカルな包丁の音が響く。
キッチンにジャージ姿の洸至が立ち、玉ねぎを薄切りにしていた。
まな板の傍に置かれているボウルには見事にスライスされた玉ねぎが山盛りになり、ボウルの隣に置かれた
バッドには下ごしらえされた肉と野菜が入れられている。

警視庁の独身寮を出て一人暮らしを始めてから洸至は時折料理をするようになっていた。
最初は暇つぶしの為だった。料理本を一冊買ってきて、非番の日に自分好みの料理を作り始めた。

カレー、ハンバーグ、パスタ、魚の煮込み、肉じゃが…。

考え事をする時―――特に、もうひとつの仕事の計画を練る時に、料理はちょうど良かった。
机上で考えるよりも、何かをしながらの方がいいアイデアが浮かぶ。
それもただ炒める料理ではなく、じっくりと煮込む料理がそれに向いていた。
材料の計量、下ごしらえ、そして加工。
料理は爆弾作りの工程と似ているせいか上達も早かった。
いまは何の苦もなく包丁を振るえるようになっている。

妹と同居してからは忙しさを口実に料理を作らなくなっていた。
もちろん、表と裏の仕事に忙殺されていたせいもあるが、何よりも妹の手料理を洸至は楽しみにしていた。

フライパンに入れた油とバターから湯気が立つと、洸至は薄切りにした玉ねぎを入れた。
玉ねぎから甘く食欲をそそる香りが立ち始める。
じっくりと玉ねぎを炒めながら、洸至は最近の遼子の変化のことを思った。

あの夜、遼子からメールが来た。
今日は仕事で泊りになるから気にしないで先に寝てて、いつも通りの文章だった。
雑誌記者の遼子が、徹夜で仕事するのは珍しいことではない。
だが、「泊り」という言葉に妙なひっかかりを覚えたのは確かだ。
そして翌日。
寝ぐせ頭で洸至が歯を磨いている時、妹が帰ってきた。

「朝まで大変だったな、りょ…」

洸至は絶句した。
玄関を開け、朝日を背に帰ってきた遼子の表情にはいままでにない輝きがあった。

「仕事で遅くなっちゃった」

部屋に入ってきた妹の横顔からは、洸至が見たこともないしっとりとした色気が漂う。
洸至は動けなかった。

前日の妹とは明らかに何かが違う。

何かを知ったのだ。

「本当に、仕事だったのか?」
「し、仕事だから、へ、変に思わないでね」

そんなわけがないのは、うろたえる妹の様子から見て取れた。
遼子が洸至に教えられない何かを知った。

「お兄ちゃん、どうしたの?寝ぼけてる?」

妹が笑顔で洸至を見た。
その時の遼子は美しかった。
胸から溢れる歓びのせいで、内から光を放っているような笑顔。
妹がはにかみながら洸至に隠すのは後ろ暗い秘密ではなかった。
宝物のように時折取り出し、微笑むようなそんな記憶を遼子は俺に隠している。

女を最も輝かせるもの、遼子が知ったもの、それは―――。

タマネギがきつね色になってから、洸至はフライパンに角切りにした牛肉を入れた。
肉の色が変わり風味が付いたところで残りの野菜を入れ炒めた。
それから、冷蔵庫に残っていた野菜の切れ端と鶏ガラからとったダシが入った鍋に、炒め上がったものを入れ、
ローリエを加えて煮込み始める。
鍋から、食欲をそそる匂いがしてきた。


遼子が朝帰りしたその日は仕事にならなかった。
福梅書房傍の路地裏に停めた車の中で、不機嫌に助手席に座る洸至に片山は怯え続けた。
洸至の耳にはイヤホン。アンタッチャブル編集部を盗聴していた。

そして知った。
『グラン・バスト』という怪しげな薬と、その効果を確かめるために昨日遼子が鷹藤とホテルの部屋に缶詰に
なったことを。
イヤホンを耳から引きちぎるようにして取ると、洸至は懐から携帯を出し二カ所に電話をかけた。
ひとつは生活安全にいる同期。
もうひとつは裏で商売する薬屋へだった。

その日の夕食は遼子が作ってくれた。

「結局、実験の記事が没になっちゃったのよ。その雑貨屋さんに警視庁の捜査が入って、わたしの実体験よりも
捜査状況と被害についての記事に変わっちゃったから」

キッチンに立ち、チキンラーメンに湯を注ぎながら遼子が少し残念そうに言った。

「お前、苦労したのに残念だったな」

洸至は気のないふりを装いながら、遼子の様子を窺っていた。
遼子からは、キッチンに立つ後ろ姿からもほのかに色気が漂うような気がしていた。

「く、苦労っていうか…。うまく記事が書けるか自信がないからそれで良かったのかもしれないけど」

声に潜む微かな狼狽。
記事がうまく書けなさそうでも、それでも喰らいついてしつこく粘るのが遼子だ。
遼子らしくなかった。
そこから、昨夜何があったか考えると、洸至はひとつの可能性しか思いつかない。
でも、そうであって欲しくなかった。自分が遼子に教えられないものを、他人には教えてもらいたくなかった。
しかも鷹藤のような奴になど、もってのほかだ。

「お兄ちゃん、できたよ〜」

エプロン姿の遼子が、チキンラーメンを運んできた。
その声に洸至はほっとした。

―――遼子はいつもと変わらない…考え過ぎだな、俺も。
洸至が苦笑いしながら箸を取った。

遼子が洸至の前にラーメンを置こうとかがんだ。
その時、カットソーから胸元がのぞいた。
鎖骨の少し下に赤い花が咲いていた。誰かの唇が遼子の肌に咲かせた花。

洸至の眼の前が暗くなった。


野菜に火が通ったようだ。
肉と野菜の甘い匂いがキッチンに漂い始めた。
洸至は市販のカレールーを折りながら鍋に入れた。
その後にケチャップとソース、冷蔵庫にあったヨーグルトを少し入れかき混ぜながら煮込む。


遼子にそれを教えた男が、まさか梨野の弟だとは。

「あの事件、君がやったんだろ?」

奨学会の階段で、俺にそう声をかけたあいつは反応を見て愉しんでいた。
檻に入れた蟷螂をいじめて愉しむ子供のような無邪気な残酷さがその表情にはあった。

あの瞬間思った。
こいつは一生俺につきまとい、俺を苦しめて愉しむ気だと。
だから排除したまでだ。
それが今になって、またも俺の望みを砕こうというのか。

―――どこまで俺の邪魔をする気だ、梨野。

だが、お前の思い通りにはさせない。
お前は弟を使って俺から遼子を奪った気でいるのかもしれないが、奪われたのなら、奪い返せばいい。
それだけのことだ。
遼子はお前の弟には渡さない。

玄関のドアが開いた。

「ただいま〜。外まですごくいい匂いしてるよ〜」

帰宅した遼子がキッチンに立つ洸至の傍へ来た。
長い睫毛に縁取られた、大きな瞳が洸至を見る。
遼子の瞳はいつも以上に濡れた輝きを湛えていた。
その輝きをもたらしたのが、自分以外の男だと思うと洸至の躰が嫉妬で灼きつくされそうだ。

「お兄ちゃんの方が料理上手なんだから、いつも料理してくれればいいのに」

遼子が肘で洸至をつついた。
昏い感情に引き摺られそうになったが、その感触で洸至は我に帰った。

「お前なあ、俺だって暇じゃないんだぞ。今日は非番だからゆっくり料理できたけどな、いつもって訳には
いかないよ」
「そうか、でもちょっと残念」
「俺はお前の手料理が食べたいんだよ」

洸至のその言葉に遼子が微笑んだ。

「お兄ちゃん、そういえば今日はゆっくりできたの」
「ああ、そうだな。料理しながら色々と考えることができたよ」

「そう、良かった。じゃ、早く着替えてカレー食べようっと」

遼子が鞄を手に自分の部屋へ向い、着替えの為に部屋の戸を閉めた。

洸至は、白いプラスチックボトルのサプリメントをジャージのポケットから取り出した。

「本当に効くといいんだが」

そう言ってカレーの仕上げに瓶の中身を鍋の中に入れかき混ぜると、洸至は笑みを浮かべた。






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