鳴海洸至×鳴海遼子
![]() 「また、お会いしちゃいましたね」 その声で、片手にコートをかけた男が振り返った。 「あなたでしたか、鳴海さん」 セーターとチノパン姿の長身の男が狼狽したように笑った。 鋭く見える切れ長の目だが、目じりに笑いじわが冷たい雰囲気を打ち消すように浮かぶ。 足元には大振りの旅行鞄を置き、ちょうどいまこの場所についたようだった。 「わたしもたった今着いたところなんですよ。久しぶりの休暇なんです。いらっしゃるなら、 私の携帯に連絡をくださればよかったのに」 「川添先生を驚かそうと思いまして」 「確かに、驚きましたよ。こんなところまで追いかけて来るなんて。しかも熊が出るような時期の 別荘にまでなんてね」 「看板が出てましたね。川添先生だって冬眠開けの熊がウロウロする時期に、ここに何の用が おありなんですか」 「あなたのような人に追いかけられるのにうんざりした、じゃいけませんかね」 高原の別荘地にある川添のコテージだった。 コテージというには豪華な部屋で、遼子の部屋よりも広く、置かれている家具ひとつで遼子が 使っている家具全てと同じくらいの価値がありそうだった。 「先生にお知らせがあるんですよ」 「わたしに?何かな」 「看護師の吉田さんが今朝亡くなったんです」 「そうですか。それが私に何の関係が?」 「冷たいんですね。同じ病棟で勤務してたじゃないですか。それと、吉田さん、自然死じゃなさそうなんですよ」 「違うんですか」 「一見、突然死にも見えるんですが、ひどい汗をかいてなくなってたんです。…腰のあたりに小さな注射痕がありました。 まるでインシュリンを打ったあとみたいなんですよ。お医者様なら川添先生もご存知ですよね、低血糖発作って」 遼子が探る様な上目遣いで川添を見る。 「じゃ、吉田さんは糖尿病だったんでしょう」 「違うんです。筋弛緩剤の数が合わないことに気づいて病院に申し立てをした吉田さんが 更迭され、理由をつけて停職を余儀なくされたのは川添先生が積極的に動いた為だと 病院の方から聞きました。川添先生は何か隠したいことがあったんですか?」 「さあ…。こんな取材しても意味はないですよ」 「でも、書かせてもらいます。吉田さんから、勤務先の病院で筋弛緩剤が不自然に減ってることについて 停職処分の後、アンタッチャブル編集部に調べて欲しいって相談に来たんです。 調べてみると、川添先生が以前勤務されていた病院でも似たような騒ぎがありました。 騒ぎが起こると川添先生が辞職されて、姿を消したそうですね。 今度の病院では、吉田さんが突然亡くなりしかも遺体には注射跡がありました。 これは記事になりますよ〜」 「しつこいな君も」 川添は笑顔を浮かべてはいるが、酷薄さが漂う不気味なものだった。 遼子の後ろに立っていた鷹藤が、二人の間ににじり寄る。 「ボディーガードかな、君は」 「…カメラマンです。一枚、いいですか」 「しょうがないな、一枚だけ」 簡単に応じたことに、鷹藤は以外そうな顔をしながらシャッターを切った。 「どんな映り具合かな。見せてもらえる?」 川添が鷹藤に近づいた。 ごく自然にコートをかけている手が素早く動くと、鷹藤の首筋に何かを突き立てた。 「な、何を…」 鷹藤が音を立てて倒れた。 コートを払った川添の手には注射器があった。 「二人で来れば大丈夫だと思ったのかな」 川添が遼子を見る。 切れ長の眼からは笑いじわが消え、そこにあるのは捕食者の眼だった。 「まったく…。どうしてほっておいてくれないのかな、君たちは。そうしたら僕だって、 君たちだって今まで通りの生活が続いたのに、僕の邪魔したばかりに全てが終わってしまうんだよ」 川添が遼子の方へ歩き出した。 「君みたいな子と遊べるから僕は嬉しいけどね」 遼子が逃げようとするが、川添がその髪を掴むとまるで犬と散歩するような様子で歩き始めた。 「なにするのよ!警察呼ぶわよ!」 暴れる遼子を引きずりながら、閉ざされた奥の部屋のドアを開ける。 そこに入った遼子は、一瞬、調理室に入ったような印象を持った。 白いタイルの壁と床、その前には業務用のスチールワゴンが並び、壁一面には大振りのナイフや 銀色に輝く様々な器具がかけてある。 だが、キッチンなら今いたリビングの横にアイランド式のものがあった。 じゃあ、ここは…。 「僕の趣味の部屋だよ。ここに来たのは君で5人目かな」 川添が遼子を横殴りに撲った。 その衝撃で壁に激突した遼子が頭を強かに打ち朦朧としていた時、左肩に針で刺された痛みが走る。 見ると、肩に注射器が突きたてられていた。 悲鳴を上げる間もなく、遼子の体から力が抜けて行く。 だが、意識だけは清明で自分の体が崩れ落ちていく様子をはっきり自覚していた。 冷たいタイル貼りの床の上にゆっくりとうつ伏せに倒れたとき、額を思いっきり打ったが 痛みの声も涙も出すことができなかった。 「大丈夫、そのうち体は動くようになるよ。いまは抵抗されたくないからさ」 川添はそう言うと、人形のようになった遼子の体を抱え、部屋の中へ入り家具が何も置かれて いない壁の前に遼子を置いた。 その壁からは二本の鎖が伸び、先端には手錠が着いている。 「趣味の為の薬だったんだけどね。ばれないようにしてたんだけど、意外と吉川君がうるさくってさ。 吉川君、低血糖発作ってばれないようにしたはずなのに、なんだ、あっさりばれちゃったのか」 壁に背をつけるようにして遼子を座らせると、手錠をはめ始めた。 「最近は生意気な子が多いでしょ。お仕置きの意味も込めて時々ここに連れ込んで遊んでたんだ。 筋弛緩剤は使い方が難しいけどさ、意識があるまま人形にできて愉しいんだよ」 反論しようにも、遼子の舌は動かない。かすかに開いたままの唇から、涎が垂れた。 その涎を川添がハンカチで拭いた。 ポケットから眼薬を出すと、遼子の目に差した。 「まばたきもできないからね。薬が切れるまではお世話しないといけないんだ」 部屋の壁に掛けられている刃物は包丁ではなく、拷問するための道具…。 川添の勤務する病院のある町で、女子高生や女子大生が行方不明になっている事件が 連続していたことを思い出した。 そしてそのうちのひとりの、腐乱した腕と足だけが海に浮いていたのを発見されたことも。 指が全て切断され、拷問とおぼしき傷が多数残されていたことがセンセーショナルに報じられた。 まさか…。 遼子の顎に指をやり、川添が上を向かせると、遼子の顔をまじまじと見つめた。 「もう若くはないけど、きれいな顔だ。愉しめそうだな」 端正な顔を歪めて川添が笑った。 吐き気がするほど下衆な微笑みだった。 立ち上がり壁にかけられていたナイフを手にすると、川添は遼子の前にしゃがみ、遼子のシャツの襟元に差し込む。 「こっちはどうかな」 川添はボタンがひとつひとつ弾け飛ぶ音を愉しむように、手慣れた動作でゆっくりと刃を滑らせた。 「年の割にきれいな色だね」 ブラを切り裂き、その下の乳房を見て川添が口元を歪めた。 乳房の蕾を指ではじき、親指をいたぶる様に押し付けしばらく遼子の体を嬲っていた。 恐怖より怒りで沸騰しそうだが、遼子は瞼すら動かせずただ川添が自分の体を弄ぶのを見ている しかなかった。 「それよりも先にやることがあるか…」 名残惜しそうにそう言って川添が立ちあがった。 壁にかけられていた魚屋がするような白い防水エプロンをすると、川添が部屋を後にした。 意識のない鷹藤を引き摺りながら戻ってくると、鷹藤を遼子の目の前に置いた。 「まず、邪魔なこの男から始末しよう。君の眼の前でね。助けたい?助けたいよね。動けるか頑張ってみて。 僕がこの男の頭を潰す前に」 川添が目を輝かせながら遼子を見た。 手には小さな斧。それは顔が映るほどきれいに磨きあげられている。 遼子は叫ぼうとするが、体が言うことを聞かない。 目を背けることすら許されていなかった。 閉じられない瞼と、動かない体で遼子は鷹藤が殺されようとする現場を凝視するしかない。 ただただ脳髄の中で狂ったように叫ぶことしかできなかった。 自分の死より、鷹藤が死ぬことへの恐怖が遼子へ押し寄せる。 ―――助けて…お兄ちゃん、お願い助けて! 喉の奥で、声にならない声で、思わず遼子はこの世にいないはずの兄へと叫んでいた。 「一発で殺せるかどうか見ててよ」 引き攣る様な笑みを浮かべながら、川添が手斧を持ち上げた。 「それくらいにしてもらおうか。癪に障る男だが、そいつが死んだら妹が悲しむんでな」 「誰だ!」 川添がそれまではなかった怯えを声に含ませながら叫んだ。 遼子は声の方向へ頭を動かすことができず、ただ床の上で眠る鷹藤を見つめているだけだった。 だが、遼子はその声に聞き覚えがあった。 怒気を含んだ声だが、遼子の耳には胸がしめつけられるほど懐かしく、哀しいくらいに優しく響いた。 次の瞬間、耳を弄する数度の轟音とともに川添の体が吹き飛び、壁に激突した。 床にうつぶせに倒れうめき声を上げる川添の肩のあたりで血の花が滲むように拡がっていく。 銃を撃った男の足元だけ遼子の視野に入った。 川添の服をまさぐっているようだった。 「手錠の鍵は…これか」 男が、コートを脱ぎながら遼子の傍へ来た。遼子のはだけた胸が男のコートで覆われる。 コートにはまだ男の温もりと、匂いが残っていた。 その温もりと匂いの懐かしさに、遼子はそれまでの恐怖を忘れていた。 それから男の手が、優しく遼子の掌を包みながら手錠を外していく。 戒めを解かれても力が抜けたままでいる遼子が前のめりに倒れようとした時、男がそっと抱きとめた。 男が遼子の顔を覗き込む。 ほっとしたような顔で、兄が遼子を見ていた。 「間一髪だったな。まったく、どうしてお前の取材はいつもこんなことになっちまうんだ」 洸至が遼子を抱きあげスチールワゴンの上にそっと下ろした。 それから川添の元へ行くと遼子が縛り付けられていたところまで川添を引き摺り、右手に手錠にかける。 洸至が開いたままの遼子の目を閉ざした。 「お前医者だろ。頑張って手当するんだな。早くしないと、冬眠開けのクマのエサになるか、出血多量で死ぬかだ。 生き残って逮捕されても死刑だがな。好きな方選べよ」 うめく川添に洸至はそう言い残すと、遼子を抱きあげた。 額に兄の頬の感触。 まるで遼子の感触を懐かしむように兄が頬を合わせていた。 抱きあげた腕に力を込め、遼子の体が密着するようにすると洸至が歩き始めた。 うねうねと下り坂の山道を洸至が運転する車がひた走る。 新緑の季節まではまだ遠く、木々の緑もまだ薄い。 垂れこめるような雲が、雨の降りだすのがまもなくだと告げていた。 「鷹藤君はまだ目が覚めなさそうだな」 バックミラーで後部座席の鷹藤を見ながら洸至が言った。 鷹藤はまだ薬のせいで眠りこけていた。 「お前もまだ、口がきけないか。筋弛緩剤と他に何か混ぜてるな…早い所病院に行こう」 助手席の遼子も押し黙ったまま静かに座っている。 聞きたいことは山ほどあるのに、伝えたいことも山ほどあるのに、体が動かない今の状況に 遼子は沈黙しながら焦れていた。 「お前たち、俺がいなくなったあとも同じ調子で取材するから、こんな目に遭うんだ」 呆れたように洸至が言った。 「今まで俺に何度助けられたと思ってる?それなのに危険な取材ばっかりするからだぞ。 俺がいなくなった後、自重すると思ったら、前以上に突撃取材だ。しかもそれが核心をつくもんだから、命を狙われる」 遼子は耳を疑った。 兄がいなくなったあとも取材はしていたが、命を狙われたことなど今までなかったはずだ。 「俺だってお前たちの前から消えてから、遊んでた訳じゃないんだぞ。俺には俺の計画がある。 それを進めようとすると、月イチでお前が事件に巻き込まれるからそのたびに裏で動く羽目になるだろ。 遼子が俺の計画を嗅ぎつけない限りは、順調に進むはずが…。結局お前たちに邪魔され通しだ」 不満げな口ぶりだが、遼子には洸至がそのことを愉しんでいるようにも聞こえた。 「ずっと姿を現さずにいるつもりが、あんなことになったら出ない訳にもいかない。 ギリギリ間に合って良かったよ。遼子がもうちょっとちゃんと調べれば、あの医者の周りで 行方不明事件が相次いでいたこととも繋がって、そうしたらお前ももう少し警戒したはずなんだがな。 今回は勇み足だぞ、遼子」 山道が終わり、なだらかな道路が続く。ようやく少し開けた場所に出てきた。 フロントガラスに、水滴が落ちて来た。 灰色の雲が、雨粒を吐き出し始めたようだった。 「それにしても鷹藤君も、もう少し鍛えなおす必要があるな。本来なら、恋人である鷹藤君が遼子を 守るべきだろ。状況が許せば俺が相手になって鍛えてもいいんだがなあ。 そんな訳にも行かないか。鷹藤君にとって俺は仇だ」 バックミラー越しに眠りこける鷹藤に眼をやりながら洸至が言った。 店舗やアパートが立ちならぶ道路の突き当たりに、赤い十字のマークがついた大きな建物が 見えてきた。 敷地内に車を入れると、洸至が正面玄関に車を止める。 「行か…ないで」 ようやく絞り出すようにして遼子が言った。 兄に縋りついて止めたいが、遼子の体はまだ動かない。 「じゃ、全てを捨てて俺と来るか、遼子?」 洸至が真面目な顔で遼子を見た。 遼子の目が泳いだのを見て、微笑んだ。 「俺だってまだすることがある。お前も鷹藤君の看病があるだろ。 お前の記事はどこにいても読んでる。次の記事、楽しみにしてるよ。俺のことが書かれたとしてもな」 遼子が辛うじて動いた右手を兄へ向け手を伸ばした。 その手を洸至が取る。 遼子のぬくもりを確かめるようにゆっくりと指を動かして、遼子の指と己の指とを絡め合わせてから手を離した。 「今度から気をつけろよ。次も俺が来るとは限らないんだからな」 遼子の頭を軽くポンポンと叩くと、洸至は車を出て行った。 洸至が駐車係とおぼしき若い男に声をかける。 男が慌てた様子で遼子と鷹藤のいる車を見て、それから病院の中へ駆け込んでいった。 遼子の方へ目を向け、軽く手を振るとそのまま洸至は病院の敷地から出て行った。 その姿は、雨のカーテンの中すぐに見えなくなった。 病院の中から雨が降っているのも構わず、ストレッチャーを押しながら看護師たちがこちらへ 向ってくるのが見える。 「…兄さん、行っちまったな」 「鷹藤君…起きてたの?」 「俺を鍛えなおす、のあたりから…かな。一体…何したんだ、あの医者。全然体が動かねえ…」 「わたしも…」 「なあ、あんたもし躰が動いてたら兄さんと…」 「まさか」 遼子は言葉を濁したが、はっきりとは否定できなかった。 遼子が目を閉じた。 ―――薬で体が動かなくなっている今だけ、兄に甘えていた頃の自分に帰ろう。 体が動くようになったら、妹ではなく、記者として私はまたあの人を追いかけなくてはいけないのだから。 洸至が死んだと思ってから凍らせていた時間と想いが、洸至が帰ってきたことで一気に押し寄せてきていた。 もう手が届かない兄との平穏な日々の記憶と、兄と共に居る時に感じるやすらぎと、絶対の安心感。 抱きしめられたときに思い出した、忘れていたはずの兄の温もり、兄の匂い。 絡め合った指の感触が今も残っている。 今度お兄ちゃんの温もりを手にしたら、私はそれを手放せる…? そうしないと言い切れる自信がなかった。 遼子は、指に残る洸至の温もりに絡め取られている自分を感じていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |