膝枕
加藤正和×松子


「松子…どうしたの?」

約束もせず突然実家を訪ねてきた長女に、芳子は心配そうに声をかける。
普段はしっかりものの長女なのに、今日は表情が暗く、玄関先にたたずむ姿は打ちひしがれて見えた。
先日嫁いでいった男性は温和な人柄で、結婚生活については全く心配していなかったが、
今日の娘の様子はただ事ではない。

「と、とにかく入んなさい」

芳子は、建造が仕事に行った後でよかったと思いながら、長女を家に招きいれた。

「ねぇ、ちゃんと話してちょうだい?」

自分から訪ねて来たくせにさっきから何も話そうとしない松子に、芳子は困ってしまう。
ためらった後に何かを松子は言いかけるが、芳子の隣に座る正枝を見るなり、また顔を伏せる。
勘のいい正枝がすくっと立ち上がる。

「私が居たら話しにくい話もあるでしょ。じゃ、後は任せたわよ」
「え!?」

正枝の退場に、普段あまり責任ある立場に立たされることのない芳子が狼狽する。
黙り込む娘と2人きりで残され、ふぅ…と芳子はため息をついた。
しかし、松子の暗い顔を見ると、自分がなんとかせねば、と強い親心が湧き上がる。

「…話してくれるわね?」

もう一度強く促すと、松子はぐっと唇を噛んでから、語りだした。

「…ずっと、寝室が別なんです」
「別?」

芳子はしばらく首を傾げてから…。

「えっと、それはつまり…正和さんと、その…夜の方も…」

言いづらそうな芳子の言葉に、松子はコクリと首を振り答える。

「それは、まぁ…」

芳子は突然の娘の告白に何も言えなくなってしまう。

「…私に魅力がないせいでしょうか?」
「だ、だって、松子に求婚してきたのは、加藤さんの方でしょう!?」
「なら、どうして…」

松子の目が、みるみる潤んでいく。
他の子供達より手がかからず、いつも安心して成長を見守ってきた娘だった。
それなのに…こんな頼りなげに肩を落として…。芳子の胸がきゅぅっと痛む。

しかし、松子のために不必要に下村家に通い、松子と2人で挨拶に来た時も仲睦まじそうな様子を見せていた正和が、
松子を女性として扱わない、というのはなんとも理解がしがたい。
しばらくその理由を詮索し……やがて、自分の若い頃の経験に芳子は思い至る。

「…あのね、たとえ女性に魅力を感じていても、その…手を出さない男性と言うのは、いるものよ?」
「でも、私達は夫婦なのに…」

納得いかないというように、眉を寄せる娘に、芳子は苦笑する。

「そうよね、不思議よね…。 でも、そういうことはあるの。お父さんもそうだったから」

芳子の突然の告白に、今度は松子の方が驚きの表情を浮かべ、母を凝視する。

「だから、松子も大丈夫。私は子供を3人も産んだのよ?」

芳子は少し茶目っ気を感じさせる眼差しで、松子に目配せする。

「…ただ、工夫は必要ね」
「工夫?」

松子の問いに、芳子がほんのりと顔を赤らめながら頷く。
おっとりとした微笑みを絶えず松子に向け続ける母を見ていると、
なんだか何もかも大丈夫に思えてきて、松子はようやく体中に込めていた緊張を解いた。

「ただいま〜」

靴を脱ぎ、玄関先でしばらく待ったが、いつもすぐさま笑顔で迎えに出てくる妻の姿がない。
正和の心臓がビクンとはねる。
申し訳ないと思いながらも、結婚してからもずっと妻とは寝室を別にしてきた。
そんな自分に愛想をつかせて、出て行ってしまったのではないだろうか…?

「ま、松子?…まつこぉお〜??」

みっともなく声を裏返らせながら、カバンを放り出し、室内に駆け込む。
しかし、そこに妻の姿は…ない。
まさか…まさか!

「…あら、お帰りなさい」

ぱっと後ろを振り向くと、寝巻き姿の妻が立っていた。

「ごめんなさい。先にお湯を使わせていただいたんですが…」
「あ、ああ…」

石鹸のいい匂いを漂わせながら、妻が横を通り過ぎる。
ふらり、とその後を追いかけて、い、いかん!と正和は首を振る。

「すぐお夕飯にしますね」

味噌汁を温め直しに台所に立つ妻を、正和はそっと目で追う。…特に妻の機嫌が悪そうにも見えない。
しかし、いつものように、自分を気にかけた笑顔もない。
なにやら違和感を感じた正和だったが、相変わらず美しく彩られた食卓を見て、
そういう疑問がすっかり頭から消えてしまった。

「ん?」

満腹になったところで、早々に妻に促され入った風呂を上がると、
もう自分の書斎に布団が敷かれていた。

「…あら、あがられました?」

そこへ松子が入ってくる。
布団と寝巻き姿の妻…その状況に正和は思わずつばを飲み込む。
ストンと布団の上に正座した松子が、正和を見上げる。

「えっと…?」
「ここに横になってください」

松子が布団を叩く。
状況が飲み込めずにたたずむ正和に松子は、先に綿の付いた細い棒切れを掲げて見せた。

「耳掃除、してさしあげます」
「え、いや自分で…」
「してあげます」
「…はい」

基本、妻に頭の上がらない正和が大人しく布団に横になり…用意されていた色っぽ過ぎる枕にそっと頭をあずける。
適度な弾力が後頭部を押し返してくる。
正和は、今経験がないほど近くに、松子の肉体を感じていた。
石鹸とはまた違う、甘いような香りがほのかに漂ってくる。
妻の使う化粧品の匂いなのだろうか…思わず目を閉じ、その香りを胸に吸い込む。

松子の存在を目一杯堪能していると、くいっと松子の体とは反対側へ頭を倒された。
そっと入ってくる竹の棒が、さわさわと耳の穴をくすぐる。
思わず身をよじると、「じっとして…」と松子に頭を柔らかく押さえられる。
妻の少し体温の低い指が、愛おしむように髪を撫でる。
そして、その状態のまま、細く削られた器具に、そろりそろりと耳の壁をこすられる。

「あ…」

思わず声が漏れていた。
その声が聞こえなかったかのように、松子は熱心にその行為を続ける。
正和の体に、かつてないほどの熱が溜まってくる。

…いかん。

妻の体から離れようとしたその時、松子が少し離れたところにあるゴミ箱に手を伸ばした。
胸が…顔のすぐそばに…。
誘惑の塊から、正和が体を遠ざけようとしたその時、くちゅっとその柔らかさを顔に押し付けられた。

「うぉおおおおぉおおおおおお!!!!」

奇声を発しながら、正和は妻の胸にがっと抱きつき、その華奢な体を布団の上に押さえ込んだ。
はぁ、はぁ…とおさまることのない、二人の荒い息づかい。
寝巻きの袖からあらわになった松子の細い腕が、ゆっくりと正和の頭の後ろにまわされ、やがて2人の唇が重なり合う。
その濃密な空気に酔わされながらも、正和はそれでも松子から体を離そうとした。
その瞬間、松子の瞳がかげる。
おずおずと小さな手が正和の股間にあてがわれ、その高ぶりを確認して、やっと松子の顔にホッとしたような微笑が浮かんだ。

「いや、違うんだ、これは…」

必死に言い訳を始める正和。
松子の表情が沈むのを見て、

「…い、いや、違いはしないんだが…」

さらに弁解を重ねるが、やがて諦めたかのようにため息をついた。
布団の上にあらたまって正座する正和。
それにつられ、松子も夫に正座をして向き合う。

「い、今までに僕は、何人かの女性とお付き合いしてきました」
「…はい」

務めて平静な声になるように気をつけながら、松子は夫の話にジッと耳を傾ける。

「自分では、どの女性も大事に接してきたつもりでしたが…じょ、女性側は不満を持っていたようで…」
「?」

うつむき加減でぽつぽつと語っていた正和が、ガバッと顔を上げる。

「ダメらしいです」
「え?」
「僕のそういう行為は、全然ダメらしいです」

松子には、正和の喋る言葉の意味が、いま一つつかめなかった。

「あなたは綺麗な人だ。吉岡軍医殿を失った後も…それなりに親しくしていた男性もいるでしょう。」

ちらりと頭をよぎる男性が居なかったわけではない。
しかし、夫に申し訳の立たないようなことを、今までにしたことはない…はず、と松子は思う。

「いや、歳を考えても、それは当たり前だし、ふしだらだとも思ってはいない!」

…歳については余計だが、自分の男性関係を問題視しないなら、なぜ。

「情けない話だが…僕は比べられるのが恐い。
君を満足させられず、君に失望されるのが、恐ろしい…」

これ以上ないほどに身を小さくして、正和が呟く。
松子は夫の姿を眺める。男性として、あまりにも哀れな告白をする夫に、軽蔑よりも…むしろ愛おしさが湧いてくる。
この人は私でなければダメだったのだと、松子は改めて自分の結婚に意義を見いだす。

「あっ、で、でも、ずっとって訳ではない。どれだけ君に申し訳ないことをしてるかも、わかっている!」

突然立ち上がった正和が何冊もの本を押入れの中から取り出してくる。

「勉強してるんだ。そういう行為をどう行なえば満足してもらえるかとか、女性の体の扱い方とか…。
今はダメだけど、これを完全に習得すれば、僕だって…」

…こういう生真面目さもまた、女性たちに愛想を付かされる原因になっていたのかもしれない…、と松子はぼんやり思う。
けれど、そういう正和さんの弱さと優しさが、私は…。
松子は立ち上がると、そろそろと正和に近づき、その薄い胸に体をあずけた。
正和が動揺しているのが、呼吸と、胸から伝わる鼓動から解る。
もはや一度目のようなためらいをみせずに、松子の手がそこに伸びて行く。
手を跳ね返すその力強さが、自分へ向けられたものだと思うとどこか誇らしくなった。
少し細めの、代わりに長さを誇るそれを、松子の指が優しく撫でる。

「あ…あ…」

敏感に反応を返す夫。
傷ついた彼を自分が癒してあげたい…。
夫の体をゆっくりと布団に押し倒していく。

「あ、あの…」

布団に完全に横たわってもなお抵抗を示す夫の唇を、自分の唇でふさぐ。
そっと離すと、まだあわあわとその唇が何かを訴えようとする。
その震える上唇を、舌でちろりと舐める。
正和の体から、くったりと力が抜けた。
松子は男性の割には細身の、夫の体をそろそろとまたぐ。
そして、少し呼吸を落ち着けたあとで、夫の立ち上がるものを押しつぶすように、
その上に自分の体を落としていった。
夫と触れ合う場所が敏感になりすぎて、松子の体が震える。
はしたない事をしている自覚はある。
けれど、今夫と触れ合わなければ後がないような切羽詰った思いで、松子は自分を鼓舞し、夫を求めた。
自分の上で、陶酔したように深い呼吸を繰り返している妻を、正和は呆然と見上げていた。
松子が不意に体に乗せていた尻を上げる。
かなりのためらいを見せた後で、ゴソゴソと動いて下半身から何かを取り除いた後、
今度は正和の寝巻きの隙間を分け入り、男の窮屈な下着を押し下げた。
その意図を察し、正和ゴク…ゴクンと何度ものどを鳴らす。
松子の両手が正和の胸元に置かれる。
トロンとした眼差しで正和を見下ろす松子は、いつもの笑顔を絶やさない控えめな妻とは完全に別人に見える。
今まで、自ら積極的に自分を求めてきた女性はいなかった。
そして、自分も、こんなにも欲望を高められたことはなかった…。
松子の性格を考えても、かなりの無理をおした行為だと、正和は思う。

「正和さん…」

松子に呼びかけられ、ハッとする。

「……やっぱり、勉強が全て終わってからにしますか?」

責めるようにじっと見据えられて、正和がプルプルと首を振る。
その答えに、松子がゆるく微笑んだ。

「…よかった…。…私も、待てません」

恥じらいながらも、松子は素直な気持ちを言葉にした。
ようやく、固まりっぱなしだった正和の体に力が湧いてくる。
グッと松子の腰をつかむと、驚いたように松子が胸に置く手に力を込める。

「…い、痛くはしない。約束する」
「……はい、信じています」

何よりも嬉しい言葉を聞き、正和の胸が熱くなる。
湿りきったそこに自分を埋めていくと、耐え切れなくなったように松子の体がふるふると震え、
正和の上にしなだれかかって来た。
松子を抱きしめ、もう一度下から強く突き入れる。

「あ、んっ」

少しの痛みを感じさせる松子の声に思わず動きを止める。
ふと、今まで付き合ってきた女性の、数々の失望の声が正和の脳裏に蘇るが…首を振り、その記憶を急いで追い出す。

……この人は、必ず僕が満足させる。
正和は、松子の顔にかかる前髪を分け、その顔を覗き込む。

「大丈夫だ、僕を信頼して…」
「はい…」
「力を、抜いて…」

内壁にこすり付けるように、快感を呼び起こさせるように、いやらしく腰を擦り付ける。

「あっ、あ、ぁ…」

もうそこに苦痛の色はない。
離れていた日々を埋めるかのように、2人はただひたすらにお互いを求め合い、そして与え合う。


数時間後。

「…ここ。ここはどうかな?」

正和が松子に尋ねる。

「…あ…は、はい、そ、それなりに…」

答えている最中も、ぐにぐにと内壁をこすられる。
松子はたまらず唇を噛む。

「あ、すまない。少し違ったかな…」

では、ここは?と逆側に擦り付けながら、ぐぐぐと深く突き入れられる。

「は、あ、ぁ…」

力が抜ける。松子がぐったりしたのを、勘違いしたのか、

「あ…、ここも違うか」

ショボンとした声が返ってくる。

「…い、いえっ」

勘違いさせては、と声を上げるが、「そこがとても気持ちいいです」とそのまま伝えるなんて、
さすがに恥ずかしくて出来はしない。

でも…。

不安そうな目で自分を見ている夫に自信を持たせるためには、伝えるしかない、と松子は覚悟を決める。

「……ぃぃです…」
「え?」
「…き、気持ち…いいです、から…」
「そ、そうか!」

一つ一つの行為に是非を問い続ける夫に、松子は夫が女性達に否定された真の理由がつかめてくる。

…こういう行為の最中に、ここまで細かく要望を聞かれることを望む女性がいるとは、とても思えない…。

それに、どれだけ進んだ女性であろうと、快感をそのまま口にするのは、やはりためらわれることだろう。
結果として夫は、女性の真実とは違う言葉を信じ、あさっての方向の努力を続けてしまったんじゃないだろうか。
そして、そんな夫の女心への理解の無さに我慢できなくなった女性達から、酷い言葉を…。
誤解から劣等感を強めてしまった夫を立ち直らせたいとは思う。しかし…
夫をその気にさせるために、全てを捨てて自ら誘って見せた松子だったが、元々は古風な性格であり、
恥じらいも人一倍ある身で、夫の要求にそのまま応えることはできなかった。

正和が責める対象を替え、胸にそっと口付ける。
吸い付くばかりの正和の稚拙な技術に、松子はもどかしくなる。
そんな松子の不満に気付いたのか、正和がおずおずと問うてくる。

「…こんな感じで、大丈夫だろうか?」

一応頷いては見せたが、疑り深い正和はなかなか納得しない。

「…僕は、君にまで愛想を付かされるのは嫌だ。頼む、望みがあるなら、何でも言ってくれ…」

うるうると瞳を潤ませ、訴える。
そして、再び小さな乳首を口に含むと、舌で転がしながら上目遣いで松子の表情をうかがう。
顔にどんどん血がのぼってくるのが解る。
言えるわけない。…そんなこと、私は言えない。
行為に夢中になるあまり、正和が体勢を変え、まだ松子が中に受け入れていた正和自身も、その角度を変える。

「…ふ、ぅ…」

内部の快感に誘発され、胸にも、もっと強い刺激が欲しくなる。
優しく胸に舌を這わせ続ける夫に、松子は焦れる。
やがて…。

「………か…ん、で」
「え?」
「……っ…強く、噛んでほしいの…」

顔を朱に染めて、切なく訴える妻に興奮を覚えつつ、正和は素直にそれを実行した。
その瞬間海老反りに浮かび上がった妻の裸体と、強い収縮を見せる内側に、頭も体も酔わされてしまう。

……聞かなくても解ることもあるんだな…。

遅咲きの性の追究者は、そうしてまた一つ、男女の営みの真理を知ったのだった。

続編:膝枕(下村建造×芳子)






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