とある宿直の夜の共同研究(非エロ)
松岡敏夫×梅子


下村梅子が検査技師の岡部からその事を聞いたのはある宿直の夜、零時を回ろうかという時だった。
その日は容体が気にかかる入院患者もおらず急患が来る気配も無く、
さらに論文は一区切りついたところで梅子は久々にゆったりとした夜を過ごしていた。

「君の恋人の松岡先生に治験を頼んだよ」

検体を持って検査室を訪れた梅子に、岡部は待ち構えていたかのような顔をして言う。

「治験、ですか?」
「ちょっと面白い薬が出来たんでね、まあ何人かに頼んではいるんだけどれも松岡先生も適任だと思って是非にと頼んだ。
丁度論文も仕上げたところみたいだったしね」
「そうですか……」

午前中にも松岡敏夫と顔を合わせたが、そんな事は一言も言っていなかった。
けれど松岡の事だから、被験者であることを例え梅子にでも洩らすのはデータに影響する可能性がどうのこうの、

……とでも思ったのかもしれない。

「岡部先生、私も丁度論文の合間ですから協力させてください」

新薬の効果や副作用の有無を、販売前に実際に人体に投与して確かめるのが治験と言うものである。
実際に病気を持つ人に投与して効果を確かめるのは割と後の段階で、
最初のうちは健康な成人、主に男性に投与し副作用の有無を確認する事から始まる。

「いや、君はどうだろうなあ。まあ無理だな」

当然のことながら普通治験は医者同士でするものではない。被験者が医者だとデータに作為が入りかねないからである。
それなのに岡部先生が松岡と治験をしていると言う事は何か理由があるに違いない。

―――ならば自分も手助けをしたいとそう思って訴えたのだが、岡部はにやにやと首を傾げて見せる。

「……そりゃあ私は松岡さんに比べれば医者として頼りないとは思いますけど、最近は精進だってしてます。
それに私身体だけは丈夫ですし、やってみたいんです。治験って今まで見た事がなくて」
「君には出来んよ。この治験は男対象だから―――ただまあ、松岡先生を手伝う事くらいは出来るか」
「やりますッ」

即答した梅子に岡部は苦笑する。しかしすぐに面白そうな顔になって、梅子の顔を覗き込んできた。

「どんな内容か訊かなくて良いのかね」
「……どんな薬なんでしょうか」
「本来は心臓の薬を作っていたのだがね。残念ながらそちらの作用は弱くて使い物にならないのだが、代わりに画期的な『副作用』があってね。
逆にそっちを主作用とした薬に出来ないだろうかと、その『副作用』がどの程度のものなのか調べているんだよ」
「なるほど」

梅子は顔を引き締めた。
戦争が終わり段々と手に入る薬も多くなったけれど、今だ効く薬が無く病に苦しんでいる人も多い。
岡部と松岡は、きっとそういう薬を開発しようとしているのだ。
何処まで手伝えるのか分からないけれど、梅子も関わりたい、否、医師である以上関わるべきだと強く思った。

「ちなみに、その『副作用』ってどんなものなんでしょうか」

松岡の身体は大丈夫だろうかとふと思い梅子は訊いてみた。しかし岡部は梅子の心配をよそに相変わらずにやついている。

「命に関わるようなものではないから安心していい。……まあもし松岡先生があまりに辛そうなら君が治療してあげればいい、医者なんだから」
「開発中の薬の副作用を治す方法なんて私には分かりません」
「松岡先生が教えてくれるだろう。もし教えてくれなかったら接吻でもしてあげなさい」
「―――じょ、冗談は止めてくださいッ」

梅子は憤ったが、松岡先生は資料室だよと岡部は全く取り合ってくれず早く行くよう促された。
去り際に私は冗談なんて言っていないけどねと岡部が言っていた気がしたのだが、梅子の気のせいなのかもしれなかった。

資料室の扉をそうっと開けると、松岡が机に向かい時計を睨みながら脈を測っていた。
それはいつもの松岡のように見えた。何処かが痛むだとか苦しいだとか、そういう心配はなさそうだ。

「松岡さん」
「う、め―――?あッしまった」

梅子が現れた事に異常なまでに驚いた松岡は、どうやら数えていた脈拍数を忘れてしまったようだった。

「あ、ごめんなさい。邪魔するつもりは無かったんだけど」
「い、いや。これしきの事で脈を数えそびれる僕の精進が足りないだけだ。仮にも医師ならばいつ如何なる時でも動揺すべきじゃない。
……そんな事はともかく梅子さんはこんな時間にどうしたんですか」

この理屈くささはどうやらいつもの松岡だ。梅子は安心して嬉しくなった。

「あのね、松岡さんのお手伝い出来ないかと思って」
「ああ、そうですか―――えッ」
「駄目?」
「駄目……と言うか……いえあの、何故梅子さんが此処に」

何故かひどくうろたえて松岡が言う。そんなに梅子が現れたのが意外なのだろうか。午前中会った時に梅子も宿直だと伝えてあったのだけれど。

「岡部先生がね、松岡さんが治験やってるって教えてくれたの。本当は私もやりたかったんだけど、男の人しか駄目だって言われちゃって。
だからせめて、お手伝いくらいはできないかなって思って」
「お手伝い、ですか……」
「そう。私、治験に関わった事まだ一回も無いから。新しい薬の開発のお手伝いだって立派に医者の仕事だわ。だから是非やりたいの」
常々梅子に精進が足りないだの医師としてのやる気がどうのと言うような松岡だ。
梅子が協力を申し出れば喜んでくれると思っていたのに、酷く動揺したような躊躇うような顔をしているのは何故だろう。
「―――梅子さんの助けは必要ありません」

散々躊躇った挙句、やたらときっぱりと松岡は言った。

「どうして?二人でやった方が効率がいいと思うの」
「どうしてもです」
「どうしてもだなんて理論的じゃないわ、松岡さんらしくない。ちゃんと理由を言って」
「理由、ですか……」

梅子が食い下がると、松岡は言葉を詰まらせた。

(松岡さん変だわ)

言葉に詰まるだなんて、いつもは流れる水の如くにすらすらと理論が出てくる松岡らしくない。

「……梅子さんは、この治験の内容は知っているのですか」
「岡部さんに訊いたら、松岡さんに訊けって」
「岡部先生が君に言っていないのならば、僕も言えない」
「なんでよう。そんなに私って医者として駄目?話しても貰えないほど役立たずなの?」
「そういう―――訳では。君が精進している事は僕だって知っている」

梅子が怒ると、松岡は酷く困った顔をした。

「……元々は心臓の薬の開発だったらしいのですが」

しばし沈黙した後に、何とも言えない顔をして松岡は話し始めた。酷く話しにくそうである。

「そこまでは岡部先生から聞きました。心臓への効果は弱かったけど代わりに珍しい『副作用』があったんでしょう?
松岡さんはそれについて治験しているのよね」
「……ええ」

松岡は梅子から少しだけ目を逸らした。なのに梅子の様子を全身で探っているのがよく分かる。本当にどうしたのだろう。
松岡はごくりと咽喉を鳴らして、それから口を開いた。

「―――端的に言うならば、その『副作用』には陰萎症状を解消する効果があった、と言う事です」

「ええと……」

……なるほど松岡が言いにくそうにするわけだ。

「……ですから、梅子さんに手伝ってもらう訳には」
「―――ううん、やっぱり手伝うわ」
「そうですね―――えッ」
「そういう薬の必要性は私にだって分かるもの」

戦争で心身ともに傷を負い、そういう悩みを抱えている人は存外多いと聞く。
どんな症状の人であれ救いの手を差し伸べるのが医者と言うものであるはずだ。

「私はどうすればいいの?……うんそうね、脈拍を私が測るのはどう?自分で測っていると誤差も大きいと思うの」

一人で勝手に決め、松岡の手をとる。
松岡が煮え切らない顔をしているのは己の中で理論が構築されていない時なので、それを待っていたら何時まで経っても研究は終わらない。

(それに……)

梅子は松岡の顔をちらりと見る。

(松岡さんの顔色、どんどん悪くなる)

松岡は平静を装っているようだが、梅子が来てから松岡の体調は明らかに悪化しているように見える。

「う、梅子さん、あの―――」
「しッ黙って。脈が乱れるでしょう?」

梅子は松岡の脈に集中した。松岡は梅子が居るのと違う方向へ視線を彷徨わせている。

(やっぱり脈が早くなってるわ)

案の定、脈拍数がどんどん増えている。心なしか呼吸も浅く早くなっているようだ。松岡はとても苦しそうだった。

「松岡さん、調子悪そう」
「……そんなことは無いのですが」
「今は松岡さんは患者なんだから自分で判断しちゃ駄目よ。医者の指示に従ってください。松岡さんの顔色、酷いんだから」

どうすればいいのだろう。どうすれば松岡の苦痛を和らげる事が出来るのだろう。
松岡が苦しそうなのは『副作用』の有るべき姿なのか、それともやはり好ましくない反応なのか。
梅子には分からなかった。知識不足経験不足技量不足、梅子が至らぬから分からないのかもしれない。

「私に何かして欲しい事は有る?どうすれば松岡さんは楽になるのかしら」
「いえ、何も。……放置してもらうのがこの場合の一番の方策なのですが」

松岡が小さく呟くのが聞こえた。

「放っておける訳無いでしょう?」

腰に手を当てて怒って見せたが松岡には通じなかった。松岡は元々変わり者だけれど、時折異常なまでの頑固さを見せる。
医者が体調が悪そうな人間を放っておけない事くらい松岡にだって分かるはずなのに、何故こんなにも頑ななのだろう。
恋人たる自分にも話してくれないのかと少しだけ腹が立ったけれど、それでも。

(助けたい)

この変人で頑固者の、けれど本当はとても優しい恋人を少しでも。

『もし教えてくれなかったら―――』

ふと、岡部の検査室を去る時に言われた事が頭をよぎった。

『接吻でもしてあげなさい』

本当に、そんなことで。
この松岡の辛そうな苦しそうな様子が。

―――ほんの少しでも、和らぐのならば。

梅子は松岡の頬に手を触れた。
それまで明後日の方向に視線を逸らしていた松岡はぎくりと梅子を見上げてきた。
梅子は少し可笑しくなった。背の高い松岡に見上げられるなんて、松岡が座っていて梅子が立っていなければ有り得ない。
梅子はそうっと唇を合わせた。

……身体を完全に強張らせてしまった松岡が、これで少しでも楽になるよう願いを込めて。

梅子は松岡から離れて様子を窺った。松岡は呆然としていて、心ここに在らずのように見える。

「あのう、松岡さ―――」

自分の接吻では下手すぎて駄目だったのだろうか。否そもそも、接吻しろと言うのは単なる岡部の軽口だったのだろうか。
そう不安になり松岡に声を掛けようとすると、急に腕を引っ張られ梅子の言葉が途切れた。

「……ッ?」

気が付けば松岡に強く抱きすくめられ、唇がしっかりと重なっていた。
何が起きたのかよく分からない。梅子を包む松岡の身体がひどく熱い事だけは分かった。
へたりと梅子の腰が抜ける。それでも松岡の腕はゆるまなかった。
梅子を抱きしめたままの松岡の身体は椅子から落ちていて、今や梅子に圧し掛からんばかりである。
これは。

……一体何が。

梅子の頭はとても混乱していた。
ただ一つ分かるのは、先ほどから唇を重ねた回数が最早数えきれないと言う事だ。
どきどきする。
ぐらぐらする。
この胸の苦しさは本当にただ単に口がふさがれ息苦しいと言うだけなのだろうか。

―――真白な頭では、とても考えることなど出来なかった。

やがて松岡の唇が梅子の唇から離れ、今度は首筋に落ちた。
解放された口から酸素が入り、漸く梅子は言葉を発する事が出来た。

「まつ、お、か、さ―――」

途端、ぴたりと松岡が動きを止めた。ゆっくりと松岡が身体を起こす。何が起きたのか、梅子以上に分かっていなそうな顔である。

「ぼ……ぼくは」

松岡の腕から力が抜け、梅子の身体は自由になった。

「ぼくは、一体」
「ま、松岡さんあのね」
「僕は―――梅子さんに何を」

松岡は呆然としたまま自分の手と梅子の顔を見比べた。床に押し倒された梅子は、服も髪も乱れている。
やがて己の行動を思いだしたらしい松岡はああと小さく呻き、しゃがみこんだまま頭を抱えてしまった。

「松岡さんあの、」
「―――友人が自殺したんです」

梅子の言葉など聞こえぬ様子の松岡がぽつりと呟いた。

「彼の赤ん坊は戦争で死にました。彼も奥さんもとても傷ついて、慰める言葉も有りませんでした。
戦争が終わって、漸く二人で前を向く気になって再び子供を持つ事を望むようになった。
……けど、戦争で心が傷ついた彼はどうしても出来なかったそうです。
それを奥さんは愛情が冷めたからだと思いこみ心を病んで―――彼が自殺したのは奥さんの四十九日が明けた日でした」

顔を両手で覆ったまま松岡は語る。声の震えに彼の心が現れていた。

「だから僕は、そういう薬もこの世には必要だと思いました。
戦争で沢山人が死んで、これからの日本には沢山の新しい命が必要です。……けれどそれが出来ないからと言って自ら命を絶つなんて」

戦時中、松岡は胸の病で三年も病院に居た。その三年間に自ら死の淵を見た事はおそらく一度ではあるまい。
さらに医学生で在りながら病に倒れた彼は、彼を置いて医学の道を邁進する友人達をどんな思いで見ていたことか。
ようやく「こちら」へと立ち帰った彼は、だからこそ医学の発展にそして命と言うモノに執着する。

「だから、僕は。なのに……それなのに、僕は一体なにをして」

最後の方は言葉になっていなかった。

「違うの松岡さん、私が悪いの」
「帰ってください梅子さん、今すぐに」

絞り出したような松岡の声は、懇願するような響きに満ちていた。

「け―――けど松岡さん、まだ顔色が」

梅子の言葉に松岡は少しだけ顔を上げた。が、すぐに自嘲するような笑みを浮かべて俯いてしまった。

「まだ僕の身体の心配ですか。梅子さんは優しいな。……安心してください、身体の処理ぐらい一人で出来ます」
「あの、あのね」
「ああ―――そうだ梅子さんに謝っていませんでした。すみませんでした梅子さん、……謝罪ごときで償えるとは思えませんが」

再び松岡は顔を上げた。作りきれていない笑顔が痛々しい。

「松岡さん、聞いて」
「早くこの部屋を出てくださいッ」
「お願い、ちょっと待って」
「もう僕は謝ったでしょう。これ以上どうすればいいのですか?何故出て行ってくれないんですか。どうすれば帰ってくれるんですか?
梅子さんだって解ったでしょう?い、今の―――今の僕はただの動物と同じだ。
……ああいや、動物だって見境が無い訳ではないから動物に理性が無いというのは僕の一方的な思いこみに違いない。
だとすれば僕は曲がりなりにも人間なのに―――よりにもよって梅子さんに、ぼくは、……お願いですから帰ってください梅子さんッ」

悲鳴のような松岡の声が、梅子に深く突き刺さった。


人を助けたいと、下村梅子はいつも思っている。
何とか努力を重ね知識を身につけ、内科医としてある程度の人の身体を助ける事が出来るようにはなった。
けれどそれでは足りないのだ。人の身体だけではなく心も救ってこそ初めて助けたと言えるのだと、梅子はそう思っている。
きっと自分は欲張りなのだろうといつも思う。
ところが万事に要領の悪い梅子に人の心の機微を理解しそれを解きほぐすような事がそう簡単に出来る訳もなく、
相手の心をを理解しようとした行動が逆に作用するのは残念ながらよく有る事だ。
放っておいてやれ。
お前には関係がない。
何度言われた言葉かわからない。その方が良いのではと思った事は一度や二度ではない。
だけど梅子は己を止められない。壁を作り後ろを向き、それでいいのだと言ってしまう人間を放っておけない。
素の心で向かい合ってこそ相手を理解できるのだと、そう考えているからこそ相手の本当の心と向かい合いたいと思ってしまう。
喜ばれても本当の意味で相手の為にならない事も有る。
嫌がられても本当の意味で相手の為になる事も有る。
ならばそれを区別できるほど器用でない梅子は闇雲にぶつかるしかないではないか。そう思って梅子は突っ走ってきた。

―――たった今までは。

しかし本当にそうだったのだろうか。それは相手をただ踏みつけていただけだったのではないだろうか。

……思えば松岡は、梅子が現れたその時から気を尖らせていた。
きっとその時点ですでに松岡は辛かったのだ。そういう情動をしまい込む事がどれだけ辛いのか梅子には分からない。けれど松岡は梅子の為に堪えてくれた。
松岡の事だからそれは己の内に在るモノを梅子に見せたくなかったという事も有ったろうが、それ以上に巻き込むことを恐れたに違いない。

(なのに私ときたら)

おそらく岡部の言っていた接吻うんぬんは例えだったのだ。相手を慈しめだとか労われだとか、きっとそういう意味だったのだ。
松岡が梅子を労ってくれてたのに対し、梅子は松岡に何をしたろう。
梅子に見せたくないと己が内に仕舞いこんでいたモノを引っ張り出して暴いて。
それでも隠そうとするのを目の前に晒して見せて。
おまけにぐちゃぐちゃに踏みつけた。

(……最低だわ、私)

梅子は松岡を見た。あの身体の大きい松岡が、膝を抱えて頭を伏せ縮こまっている。

(このままにはしておけない)

たしかに松岡の言う通り、身体はきっと一人で処理出来るのだろう。梅子にはあまりよく分からないけれども、多分どうにかなるのだ。
けれど。

(心は)

こんなにも傷ついて壊れそうな松岡の心は。

(放っておけない)

今にも消えそうな松岡を放っておける訳がない。
このままでは松岡は、自分がそういう行為に関わること自体を全て忌避するようになるだろう。
誰もが本来持っているのであろう情動を、過剰に抑えつけ無いモノとしようとするのだろう。

……本来、愛情を確かめ合う為の新しい命を育む為の、とても神聖なことであるはずなのに。

(私が助けないといけないわ)

梅子が来なければ、梅子が余計な事をしなければ、きっと松岡は淡々と研究をしていたのだろうから。
それを壊した梅子には、松岡を救う義務があるのだから。

(それに……)

それに、と梅子は先ほどの出来事を思い出した。無意識に指が唇に触れていた。

(嫌じゃなかった)

―――そう、先ほどは松岡の豹変と起こっている出来事に驚いてしまっただけだったのだ。
くらくらしてふわふわして胸が締め付けられるように苦しくて、けれど決して嫌ではなかった。

(今度はきちんと伝えないと)

梅子は松岡の背後に廻り、その広い背中に身体を預けた。首筋に抱きつき、身をぴたりと寄せる。
松岡がぎくりと身をこわばらせた。
身体を捩って接触を避けようとしていたので、梅子はもっと強く抱きついた。
おそらく松岡は背中で感じている筈である。
あまり他人に自慢できる程のシロモノではないけれど、それでも松岡には決して無い二つの柔らかい膨らみを。
松岡が『男』の部分を梅子に見せてしまったことでこんなにも動揺しているのならば、
梅子も『女』の部分を松岡に見せればいい。梅子は松岡とは違う性別なのだと、分かってもらえばいい。
それが梅子の出した結論だった。

「う―――梅子さん、離れてください」

松岡の上ずった声がしたが梅子は抱きつく腕に力をこめた。

「私が悪いんだから離れません」
「その答えは全く論理的じゃないッ」

松岡の声に焦りが加わった。
いつも論理的で理屈くさい松岡。
何事も理論から入らずにはいられない松岡。
その松岡が理性を失い本能のみで行動した己に気が付いた時、一体どのくらいの恐怖と辛さを味わったのか梅子には分からない。
そしてその分今の松岡は、いつも以上に論理的であろうとしているように思えた。

「私ね、さっきの事本当は嫌じゃなかったの。急だったからちょっと驚いただけ。
なのに私が上手く伝えられなかったから、反対に松岡さんを傷つけることになっちゃった。
ごめんなさいの気持ちを今度はきちんと伝えようと思ったの」

松岡は押し黙った。
きっと、松岡の頭は今猛烈に働いて、梅子の理論を確認しようとしてる。
いつも以上に論理を求めるであろう今の松岡に話を聞いてもらうには、梅子も理論を展開すればいい。

「……梅子さんが言いたい事は、大体解りましたが」

しばらく黙った後に、松岡がぽつんと言った。

「その理屈からどうすれば今の行動に繋がるのか全く解せない」
「じゃあ論理的に答えるわ。どうすれば松岡さんに謝る事が出来るかを考えた結果、やっぱり松岡さんの治験を助けるのが一番だと思ったの」
「―――考える過程に飛躍が見られる。全く論理的じゃないな」
「何で分かんないのよう。だからね、さっきの松岡さんが言った事は正しいと思うの。そういう薬はこれからの日本に必要だと思う。
戦争で亡くなった人よりもっと沢山の赤ちゃんが日本に生まれるべきだわ。だったら実用化を急ぐべきでしょう?
だから松岡さんは治験でデータを取っていたのに結局私が邪魔をして、松岡さんに帰れって言われた。当然よね」
「―――」
「けどね」

松岡が何か言おうとするのを、梅子は遮った。

「松岡さんは一人で大丈夫って言うけれど、それは違うと思うの。だって薬の目的はそこじゃないでしょう?
それじゃきちんと治験のデータを取った事にはならないと思う。ちゃんとその薬で目的を達成できるかを確かめないといけないわ。
だとしたら、やっぱり私が協力しないといけないと思ったの。治験を一緒に完成させることが松岡さんへの謝罪になると思ったの。
医者としてこれからの日本を支える薬の開発を一緒に手伝いたいと思ったの。……私、どこか間違っている?」

とても長い間、松岡は黙っていた。
きっと思考能力を総動員して梅子の言った理屈を考えているのだろうと思った。
松岡が思考している間、梅子は頭を松岡の背に預けていた。
呼吸とともにゆっくりと上下する、広い背中。抱きついているのは梅子の方なのに、包みこまれている気がするのは何故だろう。
松岡と呼吸を合わせてみる。梅子はひどく落ち着き、とても嬉しくなった。

「……梅子さんはの言う事はとても論理的だと思いますが」

長い時間が経って、やがて松岡が口を開く。

「とすると直面せざるを得ない問題が」
「なあに?」

まだ他に問題が何かあるのだろうか。梅子は考えてみたが今以上の問題は思いつかなかった。

「その―――僕は、今まであまりそういう方面を研究した事が無かったものだから」
「どういうこと?」
「つまり―――その、……どうすれば梅子さんが辛くないのかだとか、そういうことが全く分からない」

松岡のひどく深刻な口調に、梅子は吹き出した。
おそらく松岡は梅子の理屈に納得し、沈黙していた時間の後半くらいはそういう事で頭を悩ませていたのだ。

……なんともいつもの松岡らしいではないか。

「笑い事じゃないでしょう」

憮然と言う松岡に、くすくす笑いながら梅子は言った。

「ごめんなさい。けど、私もどうすればいいのかよく分からないからお互い様だわ」
「二人とも分かっていないだなんて、ますます問題なのでは」
「そんな事無いわ。大昔の人はそういうお勉強をする書物なんて無かったんだもの。きっと実践で学んだのよ。そういう人の方が多いんじゃない?
だったら私たちもそうするべきだと思うの。薬を使うであろう人皆が松岡さんみたいにお勉強しようとするとは思えないわ」
「それは……そうなのかもしれませんが……い、いや他にも問題がある。ここには寝具が無い。僕はともかくとして梅子さんを床に寝させる訳には―――」

まだ松岡が理屈を捏ねているのを無視して、梅子は松岡の真正面から抱きつき直した。

「う、め―――」
「どこでも一緒だわ。私たちがしないといけないのは場所の選定じゃなくて、薬の効果を確かめることなんだもの」

梅子に正面から抱きつかれ再び硬直してしまった松岡は、やがておずおずと梅子の背に手を廻した。

「……僕はまた自分を見失って梅子さんを傷つけてしまうかもしれない」
「大丈夫。私が鈍いの松岡さんだって知ってるでしょう?ちょっとやそっとじゃ傷なんて付かないわ。
それに、そういう風にならないように二人で一緒に考えればいいと思うの」

ふわりと松岡が笑ったのが、顔が見えない梅子にも分かった。松岡の笑顔に久々に触れた気がして嬉しくなる。

「やっぱり梅子さんは面白いな」
「そう?」

人の心は難しい。鈍くて不器用な梅子には分からない事ばかりだ。
けれど。

(心が繋がればこんなに暖かい気持ちになるんだもの)

だからこれからも人の心に踏み込んでいこう、と梅子は思う。
そういう医者を、下村梅子は目指そう。
傷つけても。傷ついても。こうして向かい合えば、きっとお互い理解しあえるのだから。


ちなみに、岡部が「新薬の治験」を依頼したのは実は松岡に対してだけであり、松岡と梅子の夜勤日程を岡部はきっちり把握しており、
翌日松岡が気真面目に提出してきた「結果」に岡部は一人こっそりとにやにやする事になるのだが―――、下村梅子と松岡敏夫が知る由も無い。






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