涙を停止させるための方法論(非エロ)
松岡敏夫×梅子


目の前にうず高く積まれた資料に、下村梅子は目を丸くした。

「で、これが糖尿病患者が脳軟化症を起こした場合におけるストレスの影響を考察した論文、と」

最後にやたらと分厚いドイツ語論文を積み重ね、松岡敏夫は満足そうな顔をした。
梅子が資料室に行くなり、待ち構えていたらしい松岡が嬉々として一つずつ積み上げた資料は一尺ほどの高さになっている。

「あのう松岡さん、これは」
「見ての通り、脳軟化症に関する資料を可能な限りかき集めたんだが。……要らなかったかな」

恐る恐る尋ねた梅子に、松岡は不思議そうな顔をする。もっと喜ぶと思ったのだろう。

「ううん、ありがとう。けどお父さんの担当は私じゃないから、私が治療法を勉強しても仕方がないわ」

梅子は病室の父の姿を思った。家族として医者として何か父の役に立ちたい事は確かだが、医師としてまだ未熟な梅子に出来る事は少ない。
もっと経験も知識も豊富な先生に任せた方が、結局は父の為なのだ。

「それは違うな」

俯く梅子に、松岡が鋭い声を出した。

「君が担当医じゃないからと言って何もできないと思うのは間違いじゃないだろうか。患者の回復に家族の支えが必須なのは君だって知っている筈だ」
「そんなの分かっているわ」

梅子は唇を尖らせた。身近な者の愛情が病人にどんな好影響を及ぼすのか。梅子は何回も目の当たりにしたのだ。「家族の支え」はとても大切だ。
けれど、梅子は只の家族ではない。医者なのだ。なのに何もできない自分が、とても歯がゆい。

「分かっていないな。君は医者なのだから単なる家族としてだけではな無く医者としてのアプローチを試みるべきだ。
 主治医じゃ無くたって出来る事がある―――それに」

人の感情を全く理解できない割に梅子の心の核心を松岡は突く。松岡は言葉を切って梅子の目を覗き込んだ。

「梅子さんは蒲田で開業したかったんだろう?父親が倒れたから開業自体を止めましたというんじゃ蒲田の人達はどうなる。
 そんな程度の甘い気持ちで開業を考えていたのなら蒲田の人達に失礼なのではないだろうか」

松岡の言葉はあくまで論理的で辛辣だ。梅子は痛いところを突かれ言葉が出なかった。

「それに下村先生にも失礼だ。このまま君が開業を諦めたら下村先生は娘の夢を諦めさせるために言葉で話し合うのではなく、
 都合よく倒れる事で娘の口を封じたという卑怯者になってしまうだろう」

梅子は下を向き唇を噛んだ。常に正しい松岡の言葉は、とても痛い。そこには理論のみが存在し情の入る余地は無い。
耳に優しい言葉も心に優しい言葉も、松岡の中には存在しない。

「だからこそ、下村先生の回復に君は全力を注ぐべきだ。
 僕は論理的ではないと思うけれど、君が父親が回復しなければ開業を考える気にもなれないと言うのならば、
 一刻も早く下村先生に回復していただいて、それからじっくりと開業について下村先生と考える事が出来るよう努力しなくては。
 それこそが下村先生と蒲田の人達の為に、医者としての君が出来ることだと僕は思う」

松岡は滔々と語る。
何も言えず俯く梅子に、松岡は少しだけ口調を和らげた。

「それに、この資料を君一人で解析しろとは言っていない。僕も協力しよう。僕だって下村先生に早く治って欲しいと思っている」

(―――ああ、そうか)

梅子は急に目の前の堅物を理解した。
多分松岡は、彼なりに梅子を励ましているのだ。そして梅子が夢を叶える事が出来るようにと考えてくれているのだ。
なんて下手な励まし方だろう。
なんて不器用な応援なのだろう。
けれどそれが松岡だ。
周囲がどれだけ浮足立っても、周囲がどれだけ方向を見失っても、松岡はきっと揺るぎなく松岡なのだ。
梅子が妙に安心したその途端に、何故だか目から大粒の涙が落ちた。

「そ―――その涙はつまり、僕の口調が君を責めているように聞こえたということだろうか」

松岡がうろたえた声を出す。そういえば、松岡の前でこうやって涙を流すのは初めてだ。

「ううん、違う……と思います」
「思いますと言われても困るな。はっきりしてくれなければ。不本意ながら君を責めていると思われたのならば、謝らなければいけない。
 しかし他の要因ならば僕に謝る必要性は生じないじゃないか」
「だって、理由が分からないから」

多分、色々な要因が関わっているのだ。
父が倒れた心細さと。
なのに医者として何もできない情けなさと。
やっと見えたと思った夢を、けれど諦めると決めてしまった悲しさと。
松岡の相変わらずの変人ぶりが可笑しいのと、揺るがずそこに居てくれることへの安心感と。
全てがごちゃごちゃになり、何故泣いているのか自分にもよく分からない。

「分からないのか……なら仕方がないな……」

松岡は言葉通り受け取ったようだ。居心地が悪そうにする松岡が少し面白かったけれど、それでも涙は止まらない。
そわそわとしながらも何かを考えていた松岡は何かを思いついた顔をし、それからしばし周囲を落ち着かない動きで歩き回った挙句に梅子の眼前に立った。

「松岡さん?どうし……」

梅子の疑問を、珍しく松岡は無視した。梅子の背中に腕を回すと、ぎこちなく胸に抱き寄せる。
びっくりして梅子が身を固くすると、松岡もぎくりと身体を強張らせた。

「い、以前恋愛映画を研究していた時に」

梅子ではなく明後日の方向を見ている松岡の声は、心なしか上ずっている。

「泣いている女を男が抱擁して泣きやませるという事がよく有った。最初は抱擁されたぐらいで泣きやむのは非論理的だと思ったけれど、
 よく考えてみれば抱擁により与えられる安心感が泣いている原因だった精神的素因を解消したのかもしれないと思った。
 それに、心理学的に見れば包み込まれることにより母体回帰したかのような安定を得られるという事ではないかと―――」

あまり論理的とは言えない事を早口で言う松岡の動揺が手に取るようで、梅子は吹き出した。

「松岡さん、暖かい」
「熱とは筋肉が産生しているのだから、筋肉量が多ければ熱量も増える。梅子さんより僕の方が筋肉量が多いのだから暖かくて当然じゃないかな」

松岡がいつもの気真面目な声を出した。
変わらぬ彼に妙に安心した梅子の緊張が解けたのが伝わったのか、松岡も少し動揺が収まったようだ。
梅子は松岡の胸に耳を付けた。松岡は一瞬びくりとして、それでも梅子のしたいようにさせてくれた。
とくとくと規則正しい音がした。
松岡が命を紡ぐ音だ。
今は分厚く暖かだけれど、ほんの数年前まで松岡のココは結核に冒されていたのだ。

……なんだか、とても泣きたくなった。

「梅子さん」

より一層激しく涙が出てきた梅子に再び動揺したらしい松岡は、困ったような声を出した。

「はい」
「梅子さんが泣きやむどころかより一層泣いているという事は僕の抱擁のやり方に問題があるのでしょうか」
「そうは……思えませんけど」
「いえ、きっとそうです。僕の抱擁が下手だから梅子さんが安心感を得られず涙が止まらないに違いない」
「抱擁に上手いとか下手とかあるの?」
「あるのでしょう。こうなったら何が何でも梅子さんを泣きやませてみせる」

何故か闘争心に火が付いたらしい松岡は、梅子を抱きしめ直した。
梅子の頭を胸に抱え、反対側の身体を抱く腕に力を込める。
梅子の身体は松岡にぴったりとくっついた。松岡の息を肌で感じるほどだ。
先ほどの柔らかい抱擁と違い、とても力強い。……それはもう、骨がきしむくらいに。

「……松岡さん」
「涙は止まりましたか」
「痛い、です」
「―――えッ」

物凄く意外そうな声を出して松岡は腕の力を弱めた。松岡の中では完璧な力具合だったらしい。
心地よい強さになって、梅子は再び松岡の胸に耳をくっつけた。

「加減が難しいな……それともこの場合は抱擁では駄目なのか……他の方法なんてあるだろうか」

松岡がぶつぶつと思案する声を、梅子は遠く聞く。
梅子は松岡の胸の音を聞いていた。
とくとくとく。とても心地のいい音。
梅子達医者は、ただ目の前に居る人のこの音を続けさせるために存在しているのだ。
入院患者の。父の。蒲田の人達の。

―――全ての生ける人達の、この愛おしい音を聞くために。
梅子の目からまた涙が溢れてきたことに気が付いたらしい松岡は、困った顔で思案を続けていた。
松岡が何かを思いついた顔をした途端、その心臓がどくんと大きく跳ねた。

「松岡さん?どうしたの?」
「い、いや、なんでもない」

顔を覗き込んだ梅子からあからさまに目を逸らして松岡は呟く。しかしその鼓動は早さを増すばかりで、今や早鐘を打つようだ。

「嘘なんて言わないで。なんでもないって顔じゃないもの」
「……恋愛映画の研究をしていた時に」

ちょっと怒った顔をしてみせると、松岡はしぶしぶ口を開く。

「男が接吻して泣きやませる映画も有った事を思い出した」
「―――」
「し、しかし考えてみれば」

何か言おうとした梅子を遮り、松岡は早口で続けた。

「外国人にとって接吻は挨拶なんだから、接吻で泣きやませるということは日本人でいえば挨拶して泣きやませる事に相当する。
 ならば僕が梅子さんに挨拶をすれば泣きやむのかと言うとそれは疑問だが、かといって文化の違う日本にそのまま接吻を持ちこんで良いモノなのかどうか。
 むしろ日本の場合弱みに付け込んで不埒な好意をしたいだけだと思われる可能性も有り―――」

松岡は再び上ずってしまった声で破綻気味の論理を展開する。
きっと自分が思いついてしまった事に相当の動揺をしているのだ。治まる気配の無い鼓動の強さと速さがそれを示している。

「良いですよ」
「え?」

論理の構築に必死になっていた松岡は、梅子の声を聞き逃したようだった。

「良いですよ、接吻を試してみて」
「う、梅子さん、それは」
「だって、私の涙が止まるかもしれないじゃないですか。私だって何で泣いているんだかよく分からないんだもの。
 何が効くのか分からないわ。分からない以上は試してみるべきだと思うの。松岡さんは何が何でも私の涙を止めてくれるんでしょう?」

梅子の言葉に、松岡は壁を睨んで考え込んだ。こういう顔は難しい論文を考察している時と変わらない。

「なるほど、確かに一理ある。―――ならばさっそく試してみましょう」

松岡は真顔で頷いた。
理屈が全ての松岡は、理屈が通っていると思えば切り替えは早いのだ。

長身の松岡は少し身を屈め、梅子と顔の高さを合わせた。
とても緊張した顔をしていて、梅子もなんだか緊張してくる。
松岡は慎重に一瞬だけ唇を合わせ、素早く離れて梅子の様子を窺う顔をした。

「どうでしょうか」
「ううん……」
「駄目ですか」
「駄目みたい」
「おかしいな……」

松岡は顔をひねる。どうしても解けない難問と闘っているような顔だ。
梅子は二人で観た恋愛映画を思い出してみた。何か参考になる事は無いだろうか。

「松岡さん、外国の恋愛映画の接吻って大体もっと長いでしょう?今のは一瞬だったからいけないのかも」
「時間か。それは考慮していなかった」

梅子の提案に松岡は頷く。しかしすぐに首をひねった。

「長いと言ってもどのくらいなのかな。そういう数字は収集していないからよく分からない」
「ええと」

梅子もそんな事を気にした事は無い。というか接吻場面は恥ずかしいので大体まともに見ていない。

「涙が止まるまで、で良いんじゃないでしょうか」
「―――なるほど、合理的です」

思いついた事を言っただけだったのだけれど、松岡は嬉しそうに笑った。きっと理に叶っているのが嬉しいのだ。
松岡は真剣な顔に戻ると、梅子の顎をそうっと持ち上げる。

「私、映画のように目を瞑った方がいいですか?」
「僕はどちらでも。梅子さんの好きなように」

梅子は目を閉じてみた。なるべく映画に近い方がこの涙も止まるかもしれない。
目を閉じると何故だかわからないが急に緊張してきた。暗闇は人を緊張させるのかもしれない。
強張って梅子が変な顔になっているのか松岡が少し笑う気配がして、やがて梅子の唇に松岡のそれが丁寧に重なった。
優しくて、暖かくて、なのに何故か胸が苦しい。本当にこんなことで涙が止まるのだろうか。

一秒。
また一秒。
何秒経っただろう。
やがて梅子の背中に回った手が小刻みに震えている事に気が付いた時、梅子より松岡の方が遥かに緊張していることに気が付いた。

(優しい人なんだ)

誰もが認める変人で。
理屈馬鹿で。
研究馬鹿で。
人の気持ちの全く分からない。
なのに、梅子を理解しようとそして梅子の為にと全力で努力をしてくれる人。
現れ方が物凄く分かりにくいけれど、他人の為に努力と苦労を出来る人は間違いなく優しい人だ。
松岡敏夫は、優しい人なのだ。
梅子はなんだか嬉しくなって、松岡がこれだけ努力をしてくれているのだから自分も映画にように松岡の首に手をまわしてみようと思った。

―――が、手が掛かるその瞬間に松岡があッと呟いて梅子から離れた。

「止まりましたよ梅子さんッ」
「……そうですか」
「あれ、何を怒っているんですか?ようやく涙が止まったのに」
「何でも有りませんッ」

頬を膨らませている梅子を見て、松岡は全く解せないという顔をした。
梅子は分かるまで教えてやらないつもりである。多分ずっと分からないのだろうけれど。
やがて重大な事を思いついたという顔をして松岡は梅子の顔を覗き込んだ。

「それより梅子さん、今後他人の前で泣くのは勧められないな」
「どういうことです?」
「梅子さんが泣くたびに泣きやませるために男に接吻されるのは、なんとなくいかがなものかと。―――ああいや、僕も含めて、ですが」

膨れ面を作っていたはずの梅子は真面目な松岡の言葉に吹き出した。

「分かりました、今後は人前で泣かないようにします。……もし泣くときは松岡さんの前にしておきます」
「はい―――えッ」
「なんでもないですよ」

梅子は動揺しっぱなしの松岡がおかしくてくすくす笑った。
梅子がようやく笑ったのが嬉しかったのか、やっぱり梅子さんは面白いなと松岡も笑った。

やっぱり蒲田で医院を開こう、と梅子は思った。
尊い命の音を紡ぐため目の前の人を救うため他人への努力を惜しまない、そういう優しい医者に下村梅子はなるのだから。






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