松岡敏夫×梅子
![]() 松岡敏夫が明日からは一人で書いてくださいと言いだしたのは、論文作成が終盤に差し掛かった時だった。 「ええ?困ります」 下村梅子は論文を書く手を止めた。 梅子に論文指南をしてくれている松岡は急に妙な事を言いだすことがあった。 それは松岡自身の中ではきちんと成立している理論なのだろうけれど、他人には理解できない事が多い。 「困りますと言われてももう決めましたので」 「決めたって言われても困ります」 梅子は食い下がる。正直言ってここまでの松岡の協力は大きいものだったし、一人で論文を完成させられるとは思えない。 「我儘な人だなあ」 「どっちが我儘ですか!論文終わるまで見てくださる約束でしょう?」 解せないという顔をする松岡に、梅子は唇を尖らせた。 「もう終わりでしょう?あとは今までの序論各論を踏まえて総論を書くだけじゃないですか。簡単です」 「松岡さんには簡単でも私にはそうじゃないんです。せめて、どうして明日からは駄目なのか教えてくれませんか」 「それは、先ほど僕が梅子さんに接吻したいと思ってしまったからです」 松岡の言葉の意味が一瞬頭に入らず、梅子は首をかしげた。少し考えて、やがて目を見張る。 「えぇぇ?」 「分からないでしょう?僕も何故そんなことが頭を過ぎったのかよく分からないんです」 松岡は気真面目に頭を傾げた。実験の結果が思わしくなかったかのような顔をして眉根を寄せる。 「接吻は恋愛関係にある交際中の男女がするものでしょう?僕と梅子さんは違います。だから僕の頭にそんなことが浮かぶ方がおかしい。 おかしいから先ほどから理由を考えているのですがどうにも結論が出ません。理由が分からない以上、明日からは会わない方がいいのではと」 「で、でも……」 なぜ松岡の脳内にそんな驚くべき事が浮かんだのか。松岡の頭の中は梅子には不明である。 不明ではあるが、そんなよく分からない事で論文指導を投げ出されてしまう方が梅子には問題だった。 「でも、今は思っていないんでしょう?」 何とか松岡を翻意させるべく梅子は食い下がる。松岡は暫し天井を睨み、そうですと答えた。 「なら、過ぎてしまった事は良いじゃないですか」 「よくありません。僕の疑問が全く解消されていない」 「私の論文だって全く終わっていません」 「分からない人だなあ。先ほどの理由が解明しないまま指導を続けて、また僕が接吻したくなってしまったらどうするんですか。 梅子さんは僕に接吻されても良いのですか」 「だ―――駄目ですッ」 「でしょう?」 (しまった……) 梅子は頭を抱えたくなった。松岡はだから言ったでしょうという顔をしている。このままでは一人で投げだされてしまうのは確実だ。 必死に考えを巡らせて、やがて梅子はあることを思いついた。 「きっと人間って時々よく分からない事を考えるんだ思います。私だって先生のお髭を引っ張ってみたいと思った事はあります。 けど、やってみた事は有りません。思う事と実際にやる事は別ですから。きっと松岡さんも同じですよ」 「……髭を引っ張るのと接吻するのは同じ扱いでいいのでしょうか」 必死の梅子に松岡は首を傾げる。 もうひと押しだ。理論で納得してくれれば松岡は容易に自分の考えを変えてくれる。 「同じです。それとも松岡さんは接吻したいと思ったら誰にでもしているんですか?」 「失敬な!僕が接吻したいと思ったのは梅子さんだけですし、実行だってしていません」 「ほら、同じじゃないですか」 「―――確かに」 松岡は虚を突かれたという顔をした。天井を睨み、考えを纏めているようだ。 「なるほど、梅子さんの言う事も一理ある」 「でしょう?」 「しかし、他に新たな疑問も生じました。何故梅子さんは僕に指導を続けさせたいのですか? 総論を纏めるくらいなら僕のような上気道の専門じゃなくても出来ますよ」 松岡の言葉に梅子は目を瞬く。もっともな疑問だ。 「何故って……私は松岡さんに教えてもらいたかったから」 「ですから、それは何故ですか?何か僕でなければいけない理由があるのですか」 そう言われると何故だろう。梅子は自分の心を探る。 どうして他の人を頼る事を思い浮かばず、松岡が居なくなったら困ると思っていたのか。 上気道の専門家だからか。違う要因が有るのか。 何度考えても思いつかず、梅子は煩悶してしまった。 「……まあ、お互い明日にしましょうか」 梅子が頭を抱えて唸っているのを見かねたのか、松岡が優しい声を出した。 「それぞれの疑問を今日は持ち帰って、明日解答を披露すればいい。互いの疑問が解決すれば梅子さんも僕も論文に集中できるでしょう」 「はいッ」 どうやら松岡は明日も来てくれるようだ。この調子だと論文の最後まで見てくれそうである。 嬉しくなってえへへと笑うと、疑問ばかりなのに笑うなんて梅子さんは変な人ですねと松岡も笑った。 結局一晩考えても結論が出なかった二人は翌日山倉と弥生にそれぞれ相談し、それはもうニヤニヤされる羽目になるのだが――― それは、また別の話である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |