言いようのない悲しさ(非エロ)
上田次郎×山田奈緒子


「疲れた・・・」

奈緒子は部屋に入るなり、鞄を投げ出し畳にどさっと座りこんだ。


新しく決まったばかりのバイトは、今日あっさりクビになった。
いつものパン屋に行ったのに、今日に限ってパンの耳が余ってなかった。
おまけに帰り道で夕立にあって、傘なんて持っているわけもなく、服も髪もびしょ濡れになった。
そしてアパートに帰れば、−これはいつものことだが−大家さんとジャーミーくんに家賃を催促された。

あらゆる困難をくぐり抜け、漸く部屋に辿り着いたのだ。


・・・ついてない。


「パンチ、パーマ!」
せめてもの癒しを得ようとハムスターに呼び掛けてみるが、いつもせわしなく動き回っている小動物さえ
2匹丸まって仲良く眠り、反応しない。

「・・・・・・」


奈緒子は机に頭をもたげた。

外ではまだ雨が降り続いている。

「あーあ・・・」

―ふと、頭の片隅にあの男の顔が浮かんだ。

そういえば。
ここのところ、会っていない気がする。

いつも突然部屋に現われては、勝手にお茶を入れたり洗濯物を取り込んでいたりする、でかいだけが取り柄のあの男。
前に会ったのは・・・1か月前?いや、もっと前か?
いつも面倒くさい事件を抱えて奈緒子の前に現れるくせに、ときどきこうしてぱったりと姿を見せなくなったりする。

別にいいけど。

会わないほうが、変な村に連れていかれて、変な事件に巻き込まれたりしなくてすむし。


でも。

私と会わない間、あのでかい男はどうしてるんだろう。
一応大学の先生だから、授業したり(そんなとこ想像できないけど)、
テストの採点をしたり、たまには学生と飲みに行ったりして、
女子学生におだてられてデレデレしたり―

私の知らない場所で。
私の知らない人と会って。
私の知らない顔で笑って―

「って何で私がバカ上田のこと考えなきゃいけない!」

思わずがばっと跳ね起きて叫んだ。

別に上田がどこでどうしていようと関係ないじゃないか。
バカで臆病で巨根で童貞でゾウリムシの40男のことなんか―


ふいに、言いようのない悲しさがこみあげた。


上田は、会わない間、こんなふうに私のことを思い出したりするだろうか。
授業をしているとき。採点をしているとき。調べ物をしているとき。
家にひとりでいるとき。
わけもなく寂しくなったとき。

少しでも、会いたいなんて―・・・



「〜〜〜に゛ゃーーーーっ!!」

急に恥ずかしくなって頭を振った。
違う。別に上田に会いたいとかじゃない。ただなんとなく頭に浮かんだだけで。
来てほしいとか、そんなことじゃない。来たって迷惑なだけだ。いつも。いつだって。

「ああもうバカ!バカ上田!」
「誰がバカだ」

聞きなれた、しかし久しぶりに聞く低い声。
ぎょっとして振り向くと、上田が暖簾の間から顔を出して立っていた。

「う、上田!・・・さん」

上田は無言でずかずか上がりこむと、奈緒子の真横にどっかと腰を下ろした。

「あのな・・・いいか」

神妙な顔をして口を開く。

「はい?」
「俺を愛してはいけない」
「はい!?愛してませんけど」

なんだか前にも同じやりとりをしたような気がする。

「今、俺の名前を呼んでたじゃないか」
「バカ上田って言ったんです。悪口言ったんですよ」
「俺がいないのにか?つまりは俺のことを考えてたんだろうが」
「違うバカ!」
「バカバカ言うな!いいか、バカって言う奴がバカなんだぞ。大体、日本科学技術大学教授で

次期ノーベル賞候補の俺をバカ呼ばわりする君の―」

急に言葉が途切れた。

「・・・you、泣いて」
「泣いてない!」

上田が言い終わらないうちに遮った。
慌てて顔を下に向けて視線をそらしたが、顔がかあっと赤くなるのがわかる。

「おい」

もう顔を上げられない。

いつも鈍感で肝心なことに気づかないくせに、ほんのちょっと滲んだ涙に目ざとく気づくなんて。

「・・・どうした」

どうもこうもない。
恥ずかしい。
消えたい。
ばかうえだ。

「・・・何だよ、びしょ濡れじゃないか」

今頃気づきやがって。普通もっと早く気づくだろ。

「おい・・・山田」

大きな手がおずおずと肩に触れた。

「どうした」

同じことを2回聞く。

「上田さん・・・ずるいですよ」

何もかもついてなくて、心細い日に来るなんて。
上田さんのことを思い出していた、その時に来るなんて。

「ずるい?・・・どこが」

「全部ですよ!ぜんぶ!」

顔を上げたら、思いがけず近くで目が合った。
両方の肩に手が置かれる。

「全然論理的じゃないな」
「うるさ・・・」

反論の言葉の途中で涙が零れた。
同時に、上半身をぐいっと引き寄せられて―

「な」

何すんだバカ上田―

いつもだったらそう言っているだろう。
でも今は無理だった。

突き飛ばすタイミングを失って、奈緒子は上田の腕の中でじっとかたまっていた。
肩と背中に、上田の大きな手の感覚。
必然的に顔を押しつけた胸はかたくてあたたかくて―そして早鐘を打っている。

「な・・・ななななななななななな泣くんじゃない、you」

どもりすぎだろ。

「お・・・俺が。聞いてやる。・・・何でも」

ぎゅう、と強く抱きしめられる。

「だから・・・だから泣くな」

恥ずかしいこと言いやがって。
でも、そんな恥ずかしいことを言われて・・・なんか・・・嬉しくなってる私も・・・
相当恥ずかしい・・・かも。

やり場のなかった両手を上田の胸元に置く。

「上田さん」
「・・・ん?」
「私―」

会いたかったんです。上田さんに。

「なんなんだ。早く言えよ」

心配そうな、落ち着かない声。

「うん・・・」

言えるわけないじゃん、バカ。

そーっと顔を離して、上田を見上げた。
でかい目を見開いて、戸惑ったような緊張したような表情を浮かべている。

「上田さんは・・・何しに来たんですか」
「んっ!?」
「何か理由があって来たんじゃないんですか、また変な事件とか」
「いや・・・俺はそんな・・・今日は―・・・って何で俺が逆に質問されてるんだ!今はyouの・・・」
「私は大丈夫です」

そう言って体を離した。

「大丈夫って、何があったかも聞いてな」
「上田さんが来たから―もう大丈夫ですよ」
「え」

上田の動揺した顔を見て、漸く気持ちが落ち着いた。

「おい。何だよ。どういう意味―」

あたふたしている上田を無視して立ち上がる。

「上田さん、シャワー貸してください」
「は!?」
「さっき雨に降られて・・・今日、銭湯も休みだし」

それを聞いた上田は途端にいつもの調子になる。

「はっ、何だよ、だからそんなびしょ濡れなのか。全く下らない理由で・・・
大体、外出するなら事前に天気予報を見ておくとか傘を携帯するとか、
youには身を守るための力がどこまでも欠如して」
「いいから早く行くぞ上田!」

「で?なんで上田さんうちに来たんですか」

上田のマンションでシャワーを浴びて、ついでにトクウエ寿司を奢らせたあとでもう一度聞いてみた。

「・・・別に」

上田はテレビを見たまま無愛想に答える。

「どうせまた、自称霊能力者が現れたとか」
「いや・・・」
「またおだてられて変な依頼引き受けたんだろ」
「違う・・・」
「じゃあ何しに来たんだお前」
「・・・理由がないと駄目なのか」
「え」

「い・・・いいい一か月以上会ってなかったじゃないか」

早口でそう言うと、向こうをむいて不自然にリモコンを探しはじめた。

でも・・・上田め。
耳、真っ赤だぞ。

「上田さん、リモコンこっちですよ」
「うぉう!?」
「時代劇スペシャル見ましょう」
「そんなもの放送してないだろ」
「やってますよ。スカッとパーマネントTVで」
「・・・スカパーのことか?スカイパーフェクトTVだ!わざとやってるだろ」
「えへへへ!」


何もかもついてない日だった。
まあ・・・最後だけは、そうでもなかったかもしれないけど。






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