居心地(非エロ)
石田光男×笹本絵里


髪をドライヤーで乾かして部屋に戻ると、石田は缶ビールを片手に胡坐を掻きながら広げた新聞に見入っていた。
湿気を多少含む髪を撫でながら、笹本は少々面白くなく思った。

髪乾かしてきます。
そう告げたのはたった数分前のことだ。10分も経っていない。

警察学校を経て無事に就職をして、SPという職業について思うことは、「容姿にかけられる時間は短ければ短いほどいい」という、なんとも女を捨てた事実だった。
努力と結果は比例する。射撃の実体験からイヤというほど身にしみている。
風呂上りに、30分造顔マッサージをする時間が取れる部類の女性と、自分の肌の質が違う現実に気がついたのは、残念ながらつい最近だ。

学生時代、長かった髪は警察学校に入ってすぐに短くした。髪は、丁寧に扱ってやらないとすぐに痛むデリケートな存在である。乾かす時間よりも睡眠が大事だった結果だ。
パーマをかけたボブヘアというのは、手間のかからない髪型第一位だと美容師が教えてくれた。
洗いざらし、とはいかないが、適度に乾燥をさせてやれば、翌日は最低限のメイクとブローだけで出勤が出来る。
重宝をしている。もっといえば、寝癖がついたまま出勤をしても怒られない男に生まれたかった、と笹本は常々思っている。

とにかく、だ。
そんな、煩わしい「女性である」業を行っている最中に、男である石田は自分だけビールを飲んでくつろいでいるわけである。これは大変面白くない。ただの八つ当たりだが面白くない。
すぐなんだから、待っていてくれてもいいのに。

一緒にビールのプルタブを開けたかった。ただそれだけ。
どうにも子供っぽい我がままだ。まあ、心底どうでもいいよな、と笹本はリビングのドアを閉めながら思った。

「石田さん」
「んー?」

新聞から顔を上げないまま石田が返事をよこす。さらに面白くない気分に拍車がかかる。
石田の真横に佇んで、その右手から缶を奪って煽った。残り半分だったビールを、腰に手をあてたスタイルで飲み干してしまう。

「飲んじゃいました。つい」

どうだ、と言わんばかりに意地悪い笑顔で石田を見下ろせば、彼はそうかとだけ言っていつも通りに物静かに頷くと、すぐに新聞へ視線を落とす。

「もともとお前のだしなぁ」

前傾姿勢のせいで低い声が更に低くくぐもって聞こえた。それ自体は耳触りがいい。

笹本は石田が好きだ。自分でもどうかしてる、と思うぐらい好きだ。
ちょっと駆け引きよろしくクールな振舞いを試みたくても、石田の後ろ頭を見かけただけで笑みがこぼれるほどの自分には到底無理だった。
たぶん、石田は少々うざったく感じているかもしれないけれどとにかく好きで好きで仕方ない。

だけど石田はそうじゃない。
石田は大人だ。余裕がある。石田とは絶対に喧嘩にならない。笹本が急に怒り出しても、石田は苦笑を浮かべながら容易くすべてを包み込んでしまう。
ときどき、ほんとうにときどきだけど、その優しさに苛立ちを覚えることがある。

感情のままに酷いわがままを言ってしまっても、石田は怒ったりしない。
道端で「今すぐにここでキスしてください」とぽろりと言ってしまった時も(今思い出すと死にたくなるほど恥ずかしい。飲みすぎていたのだ)、
「後でな」と笑いながら笹本の頭をふわりと撫でてから肩を叩いて歩き出し、ことを丸く治めてしまった。
家について石田の優しいキスを受けるころには、なぜ自分があんなにも腹を立てていたのかすっかり思い出せなくなっていた。繋いだ手が暖かすぎたせいだ。

「何でそんなに優しいんですか?あたし、物凄いわがまま言ってますよ。ちゃんと怒ってください」

そう聞いたことがある。
そのときも石田は、ちょっと目をしばたかせた後にまた頭を撫でて、そんなたいしたわがままでもないからなぁ、と穏やかに言い放ったのだ。

前の奥さんはあたしより酷いわがままを言う人だったのか?
うっかり滑らせそうになり、慌てて口をつぐんだ。
バツイチである現実を誰よりもデメリットに捕らえているのは他ならぬ石田だからだ。

「お前、ほんとにいいのか」

時折、思い出したように尋ねられる。

「関鯖が見つかったらそっち行けばいいんだぞ」

その優しさにどれほど傷つけられているか、石田は知らないだろう。
石田は悪くない。笹本が勝手に傷ついているだけだ。ここで激昂しては、石田の思う壺だし、何の解決にもならない。
真剣なまなざしで、睨むように石田を見据えながら頭を振る。

「石田さんじゃないと、いやです」

よく言えた、あたし。
そう心の中で己を褒めると同時に石田は、そうかと笑ってキスをくれる。優しくて、残酷なキスを。

笹本は、絶対に石田と同じ場所には立てない。それが歯がゆい。悔しい。
どうしたら追いつけるの。
そればかりを考える。
もしくは、どうしたら石田が同じ場所に降りてきてくれるのかを。

今日も今日とて、構って欲しくて、石田にこちらを向いてほしくて、自分だけをその瞳に映して欲しくて笹本は、新聞の上にぺたんと腰を下ろした。

ようやく石田が、笹本をきちんと視界に入れる。見つめられて、ただそれだけで信じられないほど胸が高鳴る。
重症だ。笑い出したくなる。
ありえないだろ。
一人ごちながら、にっこりと微笑んだ。

「……汚れるぞ?」
「そうですね」

軽く頷いて、胡坐をかいた石田の膝の上に乗り上げた。

「お」

腰に足を回して、ぺたんと座り込んでしまう。首に両腕を回し、身体を密着させる。
首の付け根に鼻を埋めた。石田の香りがする、と嬉しくなった。

「どうした?」

穏やかに問いながら、石田の両腕が背中に回る。
大きな身体、大きな胸、大きなてのひらと、スイートな体温。安心する。

もしも前世というものがあるならば、自分はその時、石田の娘だったのではないだろうか。余りの居心地のよさにそんなことを考えた。

「石田さん」

ん、と言いながら、石田にぽん、と背中を叩かれて胸が熱くなる。なぜか鼻の奥がつんと痛む。泣き出しそうに、幸せだ。
いま、この時、愛する石田と一緒にいられる時間以上の幸せなんてない。
そこまで考えて、はたと気が付く。
こんな、乙女回路自分に備わっていたか。どうも調子が悪い。

「石田さん」

首に回した両腕に、ぐっと力をこめる。石田がまた、背を叩いてくれる。

「ビール、飲みます?」
「いや?」
「意地悪してごめんなさい」
「なにが?」
「……判んないんだったらいいです」

ふうん。気のない返事の後に石田のてのひらが後頭部を撫でる。

「ちゃんと乾かしてないな」

だめじゃないか、とまるで子供を叱る口調だ。
笹本は喉の奥で小さく笑った。こういう風にたしなめる様に叱られるのが、実は好きだ。

「だって早く戻ってきたかったから」

自分の肩に当たっている石田の喉が震えた。


石田は大きい。石田は暖かい。安堵と幸福の象徴だ。張り詰めていた神経が緩む。
普段他人を守ってばかりいる自分が、石田のそばではただ守られていればいい。
同時に、石田さんを守るのはあたしだけの仕事だ、と強く思う。
穏やかで、優しい気持ちになれる。彼の影響だ。

ゆらり、と石田の身体がゆりかごのように揺れた。

「……石田さん」
「笹本……寝るのか?寝るならちゃんとベッドで、」
「ううん、まだ寝ません。あとちょっと……」

暖かさに動きが鈍くなってきた頭とくちびるでなんとか言葉を紡ぎながら、しがみつくように首に回した腕に力をこめた。
苦笑のように息を漏らした石田に、また背をゆるく叩かれる。

そう言えば、キスがしたかったんだ。その先も。
石田から手を伸ばしてくることはめったにない。そんな年でもないからなあ、と申し訳なさそうに言う。
実を言えば物足りなく思う時もある。現に前回ちゃんと身体を重ねたのは、1か月ほど前のこと。

だけどあまりに居心地がよくて、セックスをするのとこのまま眠ってしまうのと、どちらが幸せかなと考えながら、笹本は意識をまどろませた。






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