素直になれない自分
黒木泰則×ターニャ


「うそ? 初めてだったの?」

いつもの無表情で、ヤスは私から身体を離して言った。

「うん、女の子と付き合ったことないし」
「そ、そうなんだ!?」

酔って、半ば無理やり押し倒したから気付かなかった……。
こんな風に抱かれたことを恥ずかしいと思うなんて、生まれて初めてだ。
ヤスはひょいと起き上がると、シャワー浴びてくるね、とベッドから下りた。

「ちょ、ちょっと! こんな時に女の子を1人にするもんじゃないわよ!」
「そうなの?」

目を見張ってきょとんとした顔つきになる。

「あ、そっか、ごめん」

私の傍に腰を下ろすと頭を抱き寄せて額に唇を当てた。

「もっと、ちゃんとしてよ!」
「だって」

額の上で苦笑いしてるのが聞こえる。穏やかな声で。

「ちゃんとしたキスってやったことないし……」

「もう!」

無理やり首に腕を回して唇を押し当てる。
一瞬腰を引きかけて、それでも私の舌にいくらか答えるように優しく絡ませる。

ヤス……。
ちゃんと分かってる。
押し倒されでもしなければヤスが私を抱くなんてことはないだろうし、
今のキスだって優しいけれど、夢中になって私の全てを貪るわけでもない。
喉の奥に熱い塊がこみ上げる。
にじんだ涙を悟られないように、私はいっそう深くヤスの舌に舌を絡ませた。

私とヤスは、それから幾度か身体を重ねた。

最初はなんだかぎこちなかった愛撫も、何度目かには私を身体の奥から揺さぶるほどになった。

「ねぇ、本当にこの前が初めてだったの?」
「うん。変だったかな?」
「ううん、良かったわ……」
「そう?」
「まだ数回なのに、どうしてこんなに私の身体のことを知ってるの?」
「だって」

少し黙って言いにくそうに私から目をそらし、横顔を見せる。

「な、何よ、ちゃんと言いなさいよ……」

乱れた前髪をそのままに私に顔を寄せると、突然キスをしてきた。
管楽器をしてる人は大抵舌使いが上手でキスも上手いけど、ヤスはこの前が初めてって言ってたのに……。

「ヤス……、ステキ」

吐息と共に瞼を上げると、薄目を開けて私を見るヤスの視線とぶつかった。

「いつも見てるの?」
「うん」

言いながら私の髪をまさぐって、うなじの後ろから生え際をなぞる。
顔が赤くなって甘い息が上がるのも、ちゃんと見ている。

「ヤス……」
「僕は、君を喜ばせるようなテクニックも経験もないし」

下唇を甘く噛みながら、片手でそっと首筋から鎖骨を撫で下ろす。
ソフトに、あくまでも優しく乳房を撫でて、少しためらうように乳首を口に含んだ。

「あ、ぁ……」

壊れ物みたいにそっとそっと私の乳房を扱うのが、とても新鮮で……恥ずかしい。

「こんなに優しくされるの、初めて……」
「君は、とても繊細で綺麗だよ」
「ヤス……」

まるで初めての時みたいに、ううん、それよりもっと緊張していたかもしれない。
声を上げるのさえ恥ずかしくて唇を噛み締めた。

「君の肌がこうやって紅くなって、君が声を上げるのが、すごく嬉しくて」

ヤスが私をぎゅっと抱き締めて、さらに力を込めた。
嬉しくて、つぶった目尻から涙が少しにじんだ。
私も、ぎゅうっとヤスを抱き締めて、そしてもう一度もつれあってベッドに倒れこんだ。

「抱き締めると君は、いつも少し涙ぐむんだ……」

……そうよ、そのくらいヤスが好きよ。

言葉が出なくて、その代わりに涙が後から後から出てきた。

ヤスが、泣き出した私の頭を優しく抱えて、ぽんぽんと軽く叩く。

「僕はさ、以前は君のどこを見ていたんだろうって時々思う」
「なんか派手で、トラとかヒョウの柄の服ばっかり着てて」
「人の顔を見るなり『青緑』とか、憎まれ口ばかり叩いて」

私は涙でグショグショになった顔をヤスの胸に押し付けていた。
ヤスの鼓動が聞こえる。滑らかな肌。

「ねえターニャ?」
「な、何?」
「僕は、君が僕のことを好きだったなんて全然気付かなかった」
「……」

突然、不安になった。
生真面目なヤスは、私との関係を清算しようとしてる?
そうよね、マルレオケだけじゃなくて、これから色んなコンクールに出て活躍が期待されてる人だもの。
だとしたら、私みたいなたいした才能もないロシアの田舎娘と付き合っていたら、これからいろんな差し障りがあるんだわ……。

「ち、違うわ。わたし、ずっと彼氏もいなかったし、だ、誰でも良かったのよ」
「ターニャ?」
「だからヤスは全然気にすることないわよ」

新しい涙が出ないように、ぐっと唇を噛み締めた。泣くのは後でいい、ヤスに気付かれないように。
ヤスは私の頭を軽く叩いていた手を止めた。
それから穏やかな声で言った。

「ターニャ、ちょっと僕の方見てみてよ」

……きっと軽蔑されてる。
心の中を読まれないように、少し蓮っ葉な表情で顔を上げた。

「な、何よ」
「僕が、今どのくらい君のことを見てるか分かる?」
「……知らないわよ」
「嘘をついてることに気付くくらいは見てる」
「……」
「あんなことを言って、後で大泣きしてヤケ食いして5キロくらい増えることも分かるくらいは見てる」
「ちょ、バカじゃないの! 誰があんたなんかに本気になるもんですか!」
「はいはい、青緑だしね」

ヤスが苦笑して、それから真顔になった。

「僕はここんとこずっと君を見てて、色んなことを知ったよ。そして、もっと君のことを知りたいと思うようになったんだ」

あまりのことに、ぽかんとしてヤスの顔を見つめる。いつもの、地味でクソ真面目な顔つきだ。

「……知りたいってどんなこと?」

しばらく見詰め合った後に、私はとうとう耐え切れなくなって小さな声で聞いた。

「……君のひくピアノの音の変化とか、楽しそうに料理するところとかね、憎まれ口を叩いている時の本心とか」
「私、そんなに憎まれ口ばっかりじゃないわ。だいたいヤスはこんな時もクソ真面目過ぎるのよ!」
「ほらね」

ヤスはちょっと笑った。私は恥ずかしさに顔が赤くなる。本当にどうしていつもこうなんだろう、私は。

真面目にならなくちゃいけないのはきっと私の方だ。

「私にはヤスの言いたいことが分からない。ヤスは私のことを知って何がしたいの? ただ知りたいだけなの?」

今度はヤスがぽかんとして私の顔を見つめた。

「ヤスはどうして私のことを知りたいなんて言うの?」
「分からないの?」
「分からないわ……」

私は正直に答えて、必死で頭の中でヤスの言葉を反芻した。

「僕が君のことを知りたいと思うのは、君のことを好きになったからだと思う」

ヤスは少し顔を赤くしてあっさりと言った。
私は再びぽかんとして、しばらくして言葉の意味に気付いた。

「そ、そんなの、知りたいって言葉だけじゃ分かんないわよ……」

言いながら涙があふれてきた。後から後から出てきて止まらない。
ヤスはしゃくりあげる私の両頬を優しく手の平で包み込んで、私の瞳の奥を覗き込んだ。

「ターニャ、他に言うことはないの?」

軽く額をこつんとぶつける。

「……好きよ、大好き。ずっとずっと好き」
「僕もだよ」
「……本当? 信じていいの?」
「僕はこういう時、……こういう経験は初めてだけど、嘘はつけないタチなんだ」
「もう……、やっぱり青緑……ね……」

ヤスに触れられるところ、触れられるところが全部、熱で溶けていくみたい……。
今までヤスに抱かれるときはいつも不安におびえていて、その焦燥感で燃えることはあったけど、
心をゆだねて抱き合うことがこんなに気持ちのいいことだなんて。
羽で触れるような優しい愛撫が、激しくて荒っぽい動作よりも、私の身体を熱くするなんて。

知らず知らずのうちに私は声を上げていた。

「君の肌、すごくきれいだ……」

うすく瞼を上げると、汗が目に沁みた。
ヤスがいとおしいものを見るように私を見つめる。
そのまま深く唇を絡ませあう。はじめは優しかったヤスがいつしか貪るように私の口腔を犯す。
熱を持ったくちびるは顎を伝って胸元へ降りた。
甘く歯を立て、強く肌を吸われるたびに声が上がる……。




ヤスがもどかしそうにゴムをつけて私の中に入ってきた時は、もうそれだけで蕩けそうに熱くなって。
ヤスが私の顔を見ながら、浅く深く中を探るだけで身体の奥底から震えがきた。

「ヤス……、わたし、もう……」

わたしの表情から何か掴んだのか、ヤスの動きに迷いがなくなった。

「……あ! あぁ……っ!」

わたしは後ろ手で糊のきいたシーツを握り締めた。

こんな、すぐに……、わたし………!

薄く目を開くと、心配そうに顔を覗き込んでいるヤスと目が合った。

「ヤス……」
「大丈夫?」
「ええ……」

言いかけて、身体がまだ繋がっていることに気付いて頬が熱くなった。

「わたし、ひとりで……」
「うん、すごくキレイだった」

ヤスがまたゆっくりと身体を揺らし始めた。

「ダメよ、ヤス。私また……」
「どうして? 何度でもいいのに。君の肌が紅潮していくところは本当にキレイだよ。見せたいくらいに」
「ズルイわ、私だってヤスのこと見ていたいのに……」

そう言うと、ヤスはごく浅く腰を動かして、それでも何回かに一度は奥を揺さぶってきた。

一度達した身体の熱はなかなか冷めやらず、私はまた大きな波が近づいてくるのを感じてヤスにしがみついた。

「ヤス……一緒に、お願い……」

ヤスは黙って私の腰を引き寄せると、上からのしかかるように体勢を変えてわたしの奥底を突いた。

「あぁっ……、ん!」

私の足がヤスの肩に上がって、突かれるたびに全てが乱される……。

どこか遠くで甘い旋律が響いている。
それはたちまち大きな波になってわたしの身体を甘く揺さぶって蕩けそうなくらいに乱していく。
こんなに切迫して乱れた呼吸の中で、快楽だけが高らかにその甘い旋律を奏でている……。
そして、わたしの中が全てその甘い旋律でいっぱいになり、わたしを天上へいざなって、そしてはじけた。


四肢がくたりとベッドの海に落ちた。
ヤスが力尽きたように私の上へ倒れて、深い吐息をついた。
私は重い片腕を上げると、ヤスの乱れた黒髪を撫でる。

「どうして……」

ヤスが口の中で呟く。

「え?」
「どうして、こんなに何もかも溶けあったように感じるのに……」

ヤスが私の中から出て行って、私は淋しくて少し鼻を鳴らした。

「君の中はとても熱く溶けて、僕はいつも今度こそひとつになったと思うのに」
「ヤス?」
「終わってみるとやっぱりふたりなんだよね?」

よいしょと身を起こしながらヤスがクソ真面目な顔で言う。

「まぁ、ヤス……」
「だって、君はそう思わない?」

あっけに取られて、後ろ向きになって後始末をしているヤスの背中を見つめる。
戻ってきて私を抱き締めて隣に横になったヤスに、

「ヤスったら……。ふたりに戻らなければまたひとつにはなれないわ。ふたりに戻れるから、また一緒に何度も溶けあえるのよ」

ヤスはちょっと考え込むと、納得したように

「あぁ……」

と、少し笑った。

「やっぱりヤスは、青緑、ね」

私はこれ以上ないくらい「青緑」という言葉を優しく言って、ヤスはそれを感じたのかにっこり笑ってわたしの額にキスをした。






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