辛かった
上條恭介×美樹さやか


黄昏の放つ光が、のっぺりとした殺風景な病室を赤く照らす。
ここに入院してから見慣れた風景であったはずなのに、彼――上條恭介には、それがとても綺麗なものに見えた。
そう感じられるのは、

「――カッコ良かったよ、恭介」

自分が伏せるベッドの横で微笑む、彼女――美樹さやかがいるからだろうか。
屋上で、家族と、そして彼女と共に開いたささやかな演奏会。
それらが一通り終わって、二人で病室に戻ってきたのだ。

『バイオリンを捨てろ』とまで宣告された、大事故。
その傷から、彼の腕は一晩で、奇跡のように完治した。
それは、本当に、本当に魔法のようで。

何よりも、それを自分の事の様に喜ぶさやかが、嬉しく、また照れくさく、くすぐったかった。
だから、

「ありがとう、さやか」

ただただ、感謝を口にする。
だって、それはそれだけ自分を慮ってくれている、という証左なのだから。

「いーのいーの、恭介が元気でいてくれれば、あたしはそれだけで嬉しいし――あ、眩しいよね。カーテン閉めなきゃ」

ひらひらと手を振りながら笑って立ち上がると、彼女は椅子から立ち上がり――

「わわっ!」

足を滑らせると、そのままこちらの胸の中へつんのめった。





「――――」
「――――」

目と目が合い、視線が交差する。
吐息が交じり合い、鼻腔をくすぐるの香りはまるで甘い毒のよう。
ぎゅ、と知らずのうちにさやかの肩を抱いた腕に力が篭る。
もう動かないとかつては諦めていた、その腕で。
そのままゆっくりと、彼女の顔に自らの顔を近づける。或いは、近づいたのは彼女の方だったのかもしれないけれど。
そして、

「ん――――」

唇を重ねた。
そのまま数呼吸、唾液だけでなく呼気すら交換しあい、しかしやがて、ゆっくりと離れていく。
彼女の貌を見る。

とろん、と潤んだ瞳。
小刻みに震えながら、目尻が下がった眉。
心地よい熱を発しながら、上気した頬。

ひょっとしたら、自分も同じ顔をしているのかもしれないと思うと、少しだけ可笑しくて――
――ずきりと、胸が痛んだ。

(ああ――)

心の中で、ゆっくりとかぶりを振る。
わかってはいた。わかってはいたのだ。彼女の甲斐甲斐しさが。優しさが。
とても嬉しかった。とても心地よかった。だからこそ――
だからこそ、それが……ざくりと、自分の心を抉り、刻んでいるということに。

「……さやか」
「……ん。何?」

情欲の毒に半ば侵されてはいても、それでも彼女はいつもと変わらずに優しかった。
僕の話を聞いたら、彼女は泣くだろうか。それとも怒るだろうか。或いは軽蔑するかな?
ずっと自分に問いて来た答えは、いよいよ出ないままだ。

(でも――)

言わなければならない。
じゃないと、僕は――彼女と一緒に、笑えない。

「大事な話があるんだ」

それだけで、彼女はこちらを見つめてくる。
真剣な目だった。

「きっと、君が聞いて楽しい話じゃないと思う。……でも」

一息。

「聞いて欲しいんだ、さやか」
「……いいよ。なに」



「……僕は、自分から事故に遭ったんだ」



「――――!」

彼女の瞳が、驚愕で大きく見開かれる。
その様子に、びくりと反射的に身体が強張った。
だが。
それでも、言わなければならないのだ。
石のように重くなった肺を奮い立たせながら、口を開く。

「『天才的な少年バイオリニスト』。『類稀な音楽家としての素質』。……最初は嬉しく、誇らしかったんだ。けれど、」

ゆっくりとかぶりを振る。

「……いつしか、それら全てが僕にとって重苦しくのしかかってきていた」

息を吐き、

「逃げ出したかったんだ。周囲の期待から。自分はそんなに優れた人間じゃない、って事から」

そして、

「……だから、僕は――」

咳き込んだ。……なんて無様だ、嗚咽で声が震えている。

「……なんで」
「……さやか?」
「なんで、今になって言うつもりになったの? それを」

さやかの反応は、予想したものとは些か違っていた。
瞳にはこちらを糾弾する怒気もなく、慟哭する涙も無く。
ただ、真剣な光だけを宿して、恭介の視線を真正面から受け止めている。

「……辛かったんだ」

彼女の背中に回した自分の手を、ぎゅっ、と強く握る。

「こんな、自分勝手な理由で自分の腕を駄目にしたっていうのに、たったの一晩でもう元通りになってしまって」

指先から手首へ、手首から肘へ、肘から肩へ。

「神様っていうのが本当にいたのなら、逃げた僕を責めている気がして……辛かった」

肩に力を込めると、自然と抱き寄せる形になった。

「何より、さやか。このままじゃ、君の優しさに正面から受け止めることができない。……そう、思ったんだ。……本当に最低だ、僕は。いっそ、死んでしまえばよかったのに」
「……恭介」

血を吐くように、搾り出すように懺悔を口にして、恭介は唇を歪める。
さやかの目には、その表情は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
それは、まるで自らにザクザクとナイフを突き立てているかのようで。

「……わかっただろう? さやか。僕は……君が思っているような人間じゃないんだ。僕は、臆病者で、弱虫で……卑怯者だ」
「恭介ッ!!」

叫んだ。
……これ以上、耐え切れなかったから。

「……ごめん。喋りすぎたよ」
「馬鹿っ! そんな愚痴のひとつやふたつ、いくらでも聞いてあげるわよ! でも……でも、死んだ方がよかったなんて言うのは絶対に許さない!!」

心の底に浮かぶのは、あの人だ。
どこまでも強く、華やかで、優しく――そして無惨にその命を散らした、あの人。

「逃げるななんて言わない! 泣くななんて言わない! そんなことで恭介を嫌ったりなんてあたしは絶対にしない!! ――だけど、だけど! 辛かったなら、あたしにはちゃんと愚痴をこぼしてよ!」
「………」
「そして……全部吐き出して少しでも楽になったなら、いつもの恭介に戻っ、て……」

嗚咽混じりに、さやかは恭介の胸元をぎゅっと握り締めた。

「いいのかい? ……僕は、最低な奴だ」
「最低だったとしても、あたしを好きでいてくれる。あたしには、それだけで十分」
「僕は、君の気持ちを重荷と思ってしまったんだよ?」
「そんな時くらい、誰にだってあるわよ。……それに」

預けた身体を離す。お互いの顔は、涙と鼻水で酷いものだ。

「恭介、自分で言ってるほど酷い奴じゃないよ、きっと。だって――」

ゆっくりと顔を上げる。そしてそのまま、

「だって、あたしは恭介が好きだし――恭介がホントに酷い男なら、あたしが好きになるわけがないもんね」

近づく彼に、そっと自分の唇を重ねた。






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