白猫の幻覚
横谷ノリヒコ×神崎直


止め処ない接吻を繰り返していた。

――いつからこうしていたのだろうか。
考えを巡らそうにも、熱く溶け合う吐息に気を取られて上手く思い出せない。
それでも、頭の隅に意識を集中させて、記憶の糸の切れ端をなんとか掴む。

確か、行きつけのパン屋に大好物のフランスパンを買いに行ったはずだった。
その帰り、気粉れに立ち寄った公園で野良猫と遊んで時間を潰した。

そう、そこまでは覚えている。でも、それからは――…?

「………んっ…ふ…」
「……ナオ。」

だめだ。
買ったフランスパンの本数から一緒に遊んだ野良猫の毛色まで細かく覚えているのに、
その後の肝心な事が何一つ思い出せない。

(……私…)

「……ナオ。思い出さなくても、いい。」



――どこかで聴いたことのある声。
額をさらさらとくすぐる白銀の髪。
嗅ぎ煙草の香り。
そして、左目の視界に映る、深い青緑色の瞳――

(……ヨ…コヤ…さん…?)

瞼が重い。
全身を駆け巡る心地良い倦怠感に抗えず、そっと意識を手放した。


――どこか遠くで、けものの唸り声のような、音を。
聴 い た。



数刻前。

黄色い水玉模様のワンピースに灰色のカーディガンを羽織った少女――神崎直は、雨の降る街中を歩いていた。
朝から降りしきる陰鬱な雨は、重い湿り気を孕み直の心を取り巻いた。

一年前、ライアーゲーム三回戦を直と秋山は見事に勝ち抜き、ライアーゲームは終わった。
あれから、LGT事務局や谷村が何かしてくる事も無く、直はそれまでの平凡な毎日を取り戻せていた。

――しかし、
秋山に連絡が付かないのが直にとって唯一の不安であった。
あれほどまでに直に力を貸し、共にライアーゲームを勝ち抜いてきた秋山だが、
三回戦が終わってからすぐに海外に渡ってしまい、居場所が掴めずにいる。
電話一本にすら出ない。
携帯の画面に写る秋山深一のアドレスを見て、何度溜息を吐いただろうか。

(秋山さん…早く帰って来ないかな。そしたら、ちゃんと御礼が言えるのに。)

俯き加減で街を歩く直は、目的地であるパン屋が何時の間にか目の前にある事に気が付いた。

好物のフランスパン三本に、焼きたてのまだ温かいクロワッサンを四つ。
大好きなパンを袋いっぱいに買えた事で幾分か気分が軽くなった。

今日は何も予定が無く、このまま家に帰ってただダラダラ過ごすのも勿体ない。
さあどうしようか、と考えても、これと言って行きたい所は無い。映画を観る気分にも、買い物がしたい気分にもなれなかった。
なんとなく、付近の公園に足を運んだ。

屋根付きのベンチに座って、自販機で買ったミルクティーを飲みながらクロワッサンをかじる。

――これだって本当は、秋山と一緒に食べたかった。
今日何度目かの物憂い溜息を吐いた。
折角の焼きたてのクロワッサンも、秋山が居ないだけで美味しさが半減したような気分だった。

ふと、気配を感じてベンチの下に目をやると、真っ白な野良猫が香箱を組んで座っているのが見えた。

「わあ…可愛い。」

何時の間にベンチの下に居たのだろう。公園に来た時は居なかったはずなのに。
白猫は、直と眼が合うと一鳴きして立ち上がり、しなやかにベンチの上に飛び乗り直を見据える。
何時だったか、アニメで見た猫の紳士を彷彿とさせる其の優雅な振る舞いに、思わず見惚れる。
耳の先から尻尾の先端まで汚れひとつないふわふわの白い毛。すらりと伸びた四肢。長い尻尾。
そして、左目は焦げ茶なのに対して右目は宝石のような青緑色をしたオッドアイの猫。
野良猫にしては不思議なほどの美しい相貌であった。

(…あれ?)

この雰囲気、瞳。

「あなた…どこかで…?」
「にゃあ」

白猫が直を見て、嗤ったような気がした。

「…まあ、いっか。コレ食べる?焼きたてなの。おいしいよ。」

直がクロワッサンを一欠千切って差し出すと、白猫は鼻を近付けて匂いを嗅いだ後、ぱくりと丸呑みした。

「ふふっ、お腹空いてたの?じゃあ一緒に食べよう?」

返事代わりに、白猫は口の周りをぺロリと一舐めした。

クロワッサンを二つ分け合ったところで、白猫はいそいそと毛繕いを始めた。

「もう、いらない?」

返事は返ってこない。
くす、と笑って、直は白猫をじっと見つめる。

――本当に綺麗な毛並みの猫だ、と思う。
そっと手を伸ばして背中を撫でると、猫は不意を突かれて一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目を細める。
そのまま、頭や顎を人差し指で優しく撫でた。
頬を撫でると、いっそう気持ちよさげな顔をして、うとうとと頭を上下させる。

「ちょっと待って」

直は鞄をさぐり、ストールを出して丁度良い大きさに畳むと膝の上に乗せた。

「おいで。この上で寝た方が暖かいから。」

ぽんぽんとストールを叩くと、迷う事無く白猫は直の膝に乗って来た。

背中を撫でながら、猫の寝顔を見ていると、つられて眠気が襲ってきた。

――どうせ帰ったって、秋山はいない。
する事なんて、何もない。
だったら、こんな一日の過ごし方だって、あってもいいと思う。

うつらうつらと、ぐるぐると鳴る白猫の喉の音を子守唄に。
直は小さく寝息を立て始めた。

男は困惑していた。
たまたま車で公園の脇を通り掛かったら、公園の中のベンチで見覚えのある女が倒れているのだから。
近くに車を停め、傘を開いてベンチに走り寄る。

――ああ、寝ているだけか。

この数分で更に激しさを増した雨は、もはや土砂降りと言っても過言ではない程の勢いで地面を打つ。
風によって様々に角度を変えて降る雨は、ベンチの上の頼りない屋根だけでは直の全身を防ぎきる事は出来ず、身体をじんわりと濡らしていく。

なぜこんな天気に、こんな場所で眠っていられるのか――。
しかしこのまま放っておく訳にもいかず、男は直の肩を揺すって声をかける。

「カンザキさん。起きて下さい。」
「う……ん?」

肩を揺さ振られて眠りから引き戻された直は、頭上から響く声の主を確かめるべく頭を上げようとする。
しかし未だ睡眠から覚め切らない躰はどうしようもない倦怠感に満ちて動くことをしきりに拒絶していた。

「雨の日の公園で女性一人で居眠りなんて、危ないですよ。」
「…あなたは…?」
「私を忘れましたか?」

男は中腰になって直と視線を合わせる。

漸く覚醒してきた直の目に映ったのは、意外な人物。
真っ白なシャツとズボンに、真っ白な傘。白い髪。
そこには、一年前のライアーゲーム3回戦で秋山と直を苦戦させ、数年前に秋山の母を自殺するまでに追い詰めた張本人――ヨコヤノリヒコが立っていた。

「…ヨコヤさん?なんでこんな所にいるんですか?」
「其れは私がお聞きしたいですねえ。なぜ公園なんかで居眠りを?」
「それは…猫が。」
「猫?」
「猫が、膝の上で寝てくれたから。それ見てたら、私もなんだか眠くなっちゃったんです。」
「猫なんて、何処にもいませんが?」
「え…?」

明らかに当惑した様子の直がパッと膝を見ても、そこにあるのはきちんと折り畳まれたストールだけ。
しかし、今の今まで猫が寝ていた証拠に、ストールにできた窪み部分には、ほんのりと猫の体温の名残が感じられた。
まだ近くにいるのかもしれない、と慌てて立ち上がり辺りを見回すも、あの美しい猫の姿は無い。

「…」
「寝ている間に何処かに行ったんでしょう。猫は自由ですからねえ。」
「そう…ですね…。」
「カンザキさん、それよりあなた、びしょ濡れじゃないですか。」
「え?」

そう言われて初めて、髪が濡れているのに気付いた。髪だけでは無い。
ワンピースもカーディガンも、じっとりと生温い湿り気を帯びていた。その感覚に思わず身震いし、寒気立つ。

「なんで…ちゃんと傘、さしてたのに。」
「そのままだと、風邪をひきますよ。近くに車を停めてあります。家まで送ってさしあげましょう。」
「いえそんな!」
「遠慮はいりません。カンザキさん。貴女は三回戦の時、秋山くんに負けた私を助けて頂きましたからね…。
あの時の事に比べたら、家まで送るくらいさせてくれたっていいでしょう?」
「そんな事…それに、車が濡れちゃいます。」
「いけませんか?」

優しい声色。だがそれとは裏腹に、有無を言わさぬ男の右目は直を捉えて離さない。
今は、大人しく言う事を聞いた方が賢明だろうか。

「分かり…ました。じゃあ、お願いします。」
「では、どうぞ。」

男は、笑って手を差し出した。
鞄を男に預け、傘を開いて男の隣を歩く。
車は公園の入口脇に駐車してあった。やはりと言うべきか、ヨコヤらしい真っ白な高級車。
男に助手席のドアを開けられ、促されるままに座った。

「道案内はお願いしますよ。」
「あ…とりあえず真っ直ぐで。向こうにある信号を左に曲がって下さい。」

男は指示通りに運転する。

「秋山くんは、今何を?」
「今は海外を放浪しているみたいで…全然、連絡がつかないんです。」
「そうですか…私はてっきり、あなたと同居でもしているのかと思いましたよ。」
「な、なんでですか!?」
「それについては、既にお話したはずですよ。カンザキナオさん。」
「え…?」
「ここはどちらに行けば?」
「あ…左、です。」

それから、直の自宅に着くまで道案内以外の会話が交わされる事は無かった。

「あの家です。」

男は玄関の前に車を停め、運転席から降りると助手席のドアを開けて直の手を取り降ろした。

「ありがとうございます。ヨコヤさん。」
「もう公園で居眠りなんて、してはいけませんよ。それでは。」
「あ…、」

運転席に戻っていくヨコヤを見て、直は心の奥の何処かがちくりと痛むのを感じた。


――…秋山はいない。

フクナガにも、エトウにも、ヒロミにも会えない。
いや違う。フクナガ達に会ったところで、秋山が居なければこの寂しさは埋まらない。
所詮、秋山の代わりなんていない。

――でも。
白い髪の紳士なら。
もしかしたらこの寂しさを埋めてくれるだろうか。
もちろん、ヨコヤと秋山が違うのは分かっている。
しかし直はヨコヤに、秋山とは違う、それでいて胸が痛くなるような切ない程の優しさを間違いなく感じた。

秋山は直が困った時、危ない時、泣いている時、いつも傍に居てくれた。
でも、直にもう危機が無いと分かると、満足に礼を言う暇もなく立ち去ってしまうのだった。

そうなると急に、強烈な寂しさに襲われる。
しかも今回はもう一年も連絡が無い。この先、いつまで連絡が取れないんだろうか。
もしかして、ずっと――?

ヨコヤも、これを逃したらこの先もう一生会うことは無いのかもしれない。
秋山の母を追い詰め、秋山をライアーゲームに引きずり込んだ憎むべき相手。


――だが本当は、違うのかもしれない。
ただ素直にその優しさを表に出せないだけで、本当はヨコヤだって、心の優しい人間なのかもしれない――



気がつけば、車のドアに手をつきヨコヤの名を叫んでいた。


「あの、適当に座ってて下さい。散らかってますけど…」
「いえ…それより何故私を?」
「送って下さったんですから、お茶くらい出させて下さい。」
「私を救って頂いた恩返しの一端として、お送りしたまでですよ。
それに御礼をされちゃあ意味がありません。」
「お願いします。私、誰も話し相手がいなくてすごく退屈だったんです。だから…」
「…分かりましたよ、カンザキさん。但し、お茶を飲み終わったらお暇させて頂きますよ。」
「はい!」

直は客用のティーカップに温かいレモンティーを注ぎ、いくつかの茶菓子を添えてヨコヤに差し出す。

「ありがとうございます。カンザキさん、私はお茶を頂いていますから、貴女は早くシャワーでも浴びてきて下さい。
そのままだと風邪をひいてしまいますよ。」
「あ…、でも。」
「ん?」

直は俯きながら、ちらちらとヨコヤを見る。何かを言いたげだが、言いにくそうな表情。
――ああそうか、とヨコヤは納得する。
自分が先程「茶を飲んだら帰る」と言ったから、シャワーを浴びている間に飲みきってしまって、
満足に話が出来ないまま帰るんじゃないかと思っているのか?

ふっと笑みを零し、ティーカップを口に運ぶと一口だけレモンティーを飲む。

「勝手に帰ったりはしませんから、ゆっくり浴びてきなさい。」
「…はい!」

ゆっくりで良い、と言ったばかりなのに、どたばたと忙しなく着替えを取って浴室に入っていく。

全く以って不思議な娘だ、と思う。

『馬鹿正直のナオ――』
いや、初めてあの検査ルームであいまみえた時、単なる馬鹿だとさえ思った。

【誰も得しようとしたりせず、騙し合ったり、傷付けあったりしなければ、みんなが救われるんです!】

だって?ふん、馬鹿馬鹿しい。

世の中は支配する側とされる側の二種類の人間に別れている。
そして、自分は支配する側、カンザキナオはされる側。
支配される側の人間が、何を戯れ事を言うか――と思っていた。

それがどうだ。
秋山と組んでいるとはいえ、今や自分を負かし四回戦に進もうとしている。
あまつさえ、獲得マネーを懐にしまいもせず、敗者の負債を肩代わりまでしていたのだ。

意気揚々とゲームに挑んだ揚句大敗し、その上敵に情けをかけられるとは――

…私は、とんだ負け犬だ。
自嘲気味に笑う。

何故あの娘は、そこまで人を、秋山を信じられるのか。
秋山は仮にも前科者だ。それも天才詐欺師、なんて立派な肩書き付きの。
詐欺師の言う事を、何故信じる?何故信じられる?

そこまで考えて、ハッとした。

――自分だって、秋山を信じたじゃないか。
あの三回戦の最終ゲームの時、秋山の「トランクの中には一億入っている」と言う言葉を藁をも掴むような思いで信じ、自分はダウト一億を宣言した。

そして――その通りだった。
何故あの時秋山を信じたのか。

「人を信じる」という行為は、今まで自分のやってきた事の全てを否定する事を意味していた。
なのに何故。

…いや、考えるだけ無駄だ。
自分とは真逆の人生を、あの娘は辿っているのだ。分かるはずがない。


浴室のドアが開く音がして、ヨコヤはハッとする。
そして冷めかけたレモンティーを一気に飲み干した。

この場に長く居たくない。
このままあの娘と居れば――
きっと、自分が分からなくなる。それがどうしようもなく怖かった。

ガチャリ、と玄関の開く音がした。
まさか、と直は思う。

身体を満足に拭きもせず、バスタオルだけ巻いて浴室から飛び出し、居間に目を向ける。

そこにヨコヤは――居なかった。

「なんで…!?」

バスタオルのまま、玄関まで走って扉を開ける。そこにヨコヤの姿を見つけた。
ヨコヤは傘もささずに雨に打たれつつ、車まで歩いていた。
白いシャツが雨で汚れるのを、まるで気にしていないかのように。

「ヨコヤさん!!」

直もまた、自分の姿を気にせず走り寄った。
そして――その胸に、飛び込んだ。

「カンザキさん!?」
「帰らないって、言ったじゃないですか!なんで帰っちゃうんですか!?なんで…」
「…戻りなさい。そんな格好で。せっかくシャワーを浴びたのに、それじゃ台無しです。」
「嫌!ヨコヤさんが戻ってくれるまで、私も戻りません。」
「…っ、」

まるで聞き分けの無い子供の様だ。
渋々、玄関まで足を向ける。
土砂降りの雨は、その短い間にもぐっしょりと二人の身体を濡らした。
ふらつく直を支え、漸く玄関に入っても、直はヨコヤにしがみついたまま離れようとはしなかった。

やれやれ、と一息付いたヨコヤはゆっくりと直の髪を撫でる。
寒さからか、不安からか、半泣きになりながら小刻みに震える直はさながら小動物のようであった。

「カンザキさん、このままずっとこうしている訳にもいきませんよ?
さあ、もう一度シャワーを浴びてきなさい。」

直はヨコヤの胸に顔を当てたまま、ふるふると顔を横に振る。

「…嫌です。だってシャワーを浴びてたら、その間に帰っちゃうじゃないですか。」
「…はぁ。」

溜め息を付き、とりあえず靴を脱いで浴室まで直を連れていく。
この水の滴るまま、寒い玄関に立ちっぱなしという訳にもいくまい。

しかし浴室まで連れて来たはいいものの、感情の激昂している彼女をどうやって引き剥がせばいいのか。
一息付いて考えていると、自分にしがみついている直の柔らかい胸の膨らみが、自分の腹辺りに当たっているのに気付いた。

――全く、どこまで無防備なんだ。
こんなバスタオル一枚の姿で男にしがみつくなんて。

「カンザキさん。そろそろ離れて頂けませんか?」
「…」

少しの間があってから、無言で直は離れる。
そして、不安げな目付きで男を見上げた。

「ヨコヤさん…」

栗色の髪に縁取られた小さな顔は潤んだ瞳で男を見る。
いっそ扇情的とも言える其の濡れた目に、不覚にも男はどきりと心臓を高鳴らせた。
花びらのようなぷっくりとした唇は震え、
其の躯は雨に濡れて血色の良い肌の色艶をいっそう際立たせていた。

男なら誰しも情欲を掻き立てられる姿に、ヨコヤは戸惑う。

――其の愛らしい唇を、いっそ奪ってしまいたい。
そんな衝動にかられた。

人を疑う事しか出来ない汚れた自分とは正反対の、一切の汚れを持たないまばゆいまでの輝く瞳を持つ少女。
その眼を、身体を、この手で汚してしまいたい。


(――汚れ?)

そして気付く。
ああそうか、自分が清潔なのは――見た目だけだったのだと。

服や靴を無意識のうちに真っ白で揃えてしまったのは、もしかしたら自分の心の隅にある劣等感からくる反動だったのかもしれない。
自分は間違ってなんかいない。汚れてなんかいない。
ずっと、そう言い聞かせてきた。

だが――それももう無駄な事。
男は自分の中の汚れに気付いてしまったから。
そうなったら、いくら外観ばかり気にしたって、本質が汚れているのを知っているから意味が無い。

――自分は汚れきっている。
なのにこの少女は、ヨコヤにとってあまりにも純粋すぎる。
恐怖すら感じる程の無垢な存在。
それを目の前にして、平常心でいられる訳がなかった。

「ヨコヤさん…?」

男の苦しそうな表情を、あどけない顔で見上げる少女。
ごくりと生唾を飲む。


――いや。

ここでこの少女を汚してしまえば、今度こそ秋山は躊躇なく自分を潰すだろう。
母を殺された上に、守るべき少女をまで汚されたとなれば、もう前のような情けをかけられる事はない。

心の中で生まれる強烈な葛藤は、ヨコヤをこれ以上ないほどに苦しませた。

思い詰めたような表情のヨコヤを、直はじっと見詰める。

――なんで、そんなに辛そうな顔をするんですか?
私が困らせてしまったからですか?
私が我が儘を言って、引き止めてしまったから?

そんな顔をするなんて、思っていなかったんです。
こんな事なら、最初から素直に「寂しいから一緒に居てほしい」と伝えるべきだった。
こんな時にいつもの素直な自分が出せないなんて。
お願いだから。
お願いだから、そんなに辛そうな顔をしないで下さい――…

直は目をつむり、ゆっくりと歩み寄ると――再び、ヨコヤの胸に身体を預けた。
片手を背中に回し、男を慈しむように。優しく背をさする。

「……カンザキさん…」

――男の、心臓の鼓動が聞こえる。


「……いけません、カンザキさん。」

気が遠くなりそうなほどの葛藤を意志の力でぐっと押さえ込み、ヨコヤは言う。

「あなたは…今自分が何をしているのか判っているんですか?」
「判っています。」
「でしたら――」

言い掛けたヨコヤの言葉を遮るように。
直は、ヨコヤに体重を預けたまま精一杯の背伸びをして――そして、ヨコヤに口付けた。

「…!!」



――虚ろな意識の中に、直の声が響く。
気が付くと、あの時のように。
三回戦で敗北を突き付けられ、どん底の淵に立たされた時と同じように、床に伏して呆然としていた。

肩に、直が寄り添っていた。
床にだらし無くついた手の上に、そっと直の手が置かれる。

「ヨコヤさん、よく聞いて下さい。秋山さんは……居ないんです。争う相手なんていません。怖がる必要なんてない。だから……」
「だから?」

ヨコヤは顔を上げた。すぐ間近にある直の顔を見る。
その顔は、かつて自分が見下していた馬鹿正直のナオのそれではなかった。

雨に濡れた髪の香りと、甘い吐息がヨコヤの鼻腔をくすぐった。

「私を、抱いて下さい。」

しなやかな肢体が、胸の中に飛び込んできた。
傷付いた小鳥のように。微かに震え、濡れながらに熱を帯びる女の肉体。

もう、ヨコヤに迷いは無かった。

「ん…っ、はぁっ…」

立ったまま浴室の冷たいタイル張りの壁に直を押し付け、乱暴に口付ける。

熱く燃え盛る炎のような衝動にそそのかされた二人は、ただの男と女だった。
それは、かつて巨大マルチ組織のトップに座していた嘘吐き者でもなければ、
騙し合いのゲームに巻き込まれた哀れな正直者でもない。
互いに互いを求め、傷を舐め合う事しか出来ない、哀れな二つの命でしかなかった。


くちゃ、と粘着質な音を立てながら、角度を変え、深さを変え、少女の唇を貪る。

少しの抵抗も無かった。
躯を覆っていたバスタオルを剥ぎ取ると、雨に濡れたスーツの右足を直の脚の間に割り込ませる。

「あぁっ…!」

熱に浮かされた男と女は、お互い貪欲に舌を絡ませる。
浴室全体に反響する淫猥な水音は、火に注がれる油のように、益々二人を燃え上がらせた。

延々と続くかと思われたその口付けは、直の口内を犯しつくしたヨコヤがやっと満足した所で終わった。
口を離すと、互いの唾液が混じり合い、銀色に光って糸をひいた。

「は…っ…」

「本当に……いいんですか?カンザキさん。」

湿った髪を手でくしけずり、耳たぶを食む合間に、ヨコヤが尋ねる。

「私も男です。こうなってしまえば、もう抑えはききませんよ?
優しくなんて出来ないかもしれません。いや、傷付けてしまうかもしれない。
それでも…いいんですか?」
「構いません…それに私だって、こうしたかったんです…
後悔なんてしません……だから。」

吐息混じりの声が、直の咽喉から漏れる。
ヨコヤは、その熱を持った白い咽喉に口付ける。
仰け反る首筋を唇でたどり、そのまま、じわじわと下へ降りてゆく。
鎖骨を過ぎ、柔らかい胸に唇を乗せて舌先でなぞる。

ヨコヤの与える甘い刺激に耐えかねた直は、ついに力を無くしてへたり込んだ。
その躯を支え、耳に息を吹き掛けると、それにさえびくりと反応する。
そのまま耳元で囁く。

「――寝室に行きましょう。ここじゃやりにくいですからね。」

頷くことしかできない直を抱き上げ、寝室のベッドに濡れたままの直を下ろす。
ヨコヤも濡れそぼった服を脱ごうと、シャツのボタンに手をかける。

「そのまま……服を着たまま、して下さい。ヨコヤさん…」

力無く寝そべったままの直が言う。

「何故です?」
「私、ヨコヤさんの白い服が好きなんです…。駄目ですか?」

――皮肉なものだ。
汚れた自分を隠すために着ている白い服を、よりによってこの女が好きだと言う。

「…良いですよ。服を着たままがお好みなら、そうしましょう。」

外しかけたボタンから手を離し、ヨコヤは直に覆い被さった。

手を乳房に這わせ、ふっくらと突き出た乳房の肉を押しさすり、頂点の乳首を指先に挟んで軽く摘む。
直は甘い声を漏らした。
少し強めに摘むと、苦痛に顔を歪める。
そんな表情を見ていると、ヨコヤの中で、どす黒い嗜虐心がのそりと鎌首をもたげて来るのがはっきりと感じられた。

元はといえば、儲けるために人を騙して人生を狂わせ、それでも平然と高笑いをしていた男である。
どちらかといえば、女の苦しむ表情や痛がる表情に情欲をそそられるタイプの人間だった。

不敵に笑ったヨコヤは、掌で直の乳房をすっぽりと覆い、強く揉みしだいた。その合間で薄桃色の乳首を摘み、先程より強めに押し潰す。

「ううっ、ぁ…!」

くぐもった声で痛みを訴える直に益々興奮し、指にかける圧力を大きくすると、それに比例するように直の悲鳴は段々と高くなっていった。
指を離すと、痛々しく充血して熱を帯びている乳頭にねっとりと舌を這わせる。

「あぁっ、いやあ…!」

痛みの余韻に痺れる中、ヌルヌルとした舌で優しく舐められると異常なほどの快感が直を責めた。

歯で乳頭を優しく甘噛みしながら、あいた手は直の脇腹をまさぐり、くびれた腰の曲線を辿って太股から下半身へと手をのばす。

「カンザキさん、これは……何です?」
「いやっ…あ…」

直のそこは既に熱くぬかるみ、粘性の液体をしとどに溢れさせていた。
ぷっくりと膨らんだ小さな陰核や平たい陰唇、膣口から女の頭脳とも言われる子宮に至るまでの全てが熱を持ち、赤く熟れていた。
くちゃ、とその液体を塗りたくるように掻き交ぜると、直は甘く声を漏らす。

「いやらしいですねぇ…こんなに濡らして。いつから期待していたんですか?キスをした時から?それとも、痛くされてよがっていた時からですか?」
「ああ…そんな、期待していたなんて、そんなんじゃ…」
「ふはははっ…馬鹿正直のナオは一体どこにいったんです?あなたはただ私の聞いている事にだけ、馬鹿正直に答えていればいいんですよ。」

熱くたぎるぬかるみに、中指の指先だけを、ゆっくり潜り込ませる。
直は躯を強張らせてギュッと目をつむるが、ヨコヤは微塵もそれに構うことなく、指先を折り曲げて膣の肉壁を引っ掻いた。
指先に、ねっとりと粘度の高い蜜に浸かった小陰唇が、繊細な膣口の粘膜が絡みつき、
ぴくぴくと物欲しげに蠢いていた。

なまめかしい嬌声をあげる直を尻目に、ずぶずぶと奥を掻き分け、ついには根本まで指を挿入した。

「ああーっ…!」

根本まで挿れたとはいえ、指の一本に過剰なまでにびくびくと反応し、膣を締め付ける直に一抹の不安を覚える。

「こんな調子じゃ、私のものはなかなか入りませんよ。カンザキナオさん。」

言うや否や、二本目の指を――薬指を、容赦なく突き立てる。
途端に躯をのけ反らせて反応する直にほくそ笑み、二本の指で激しい抽送を行った。

「いやぁっ!駄目ぇっ、そんな、早く…っ、」
「良い表情ですねえ、カンザキさん。…秋山くんに見せてやりたいくらいですよ。」
「あぁっ!そんな……そんな、あんっ、あきやまさん、だけには…!」

『秋山』という単語に異常なまでに反応し、必死になってかぶりを振る直を、更に追い詰める。
抜き差しを行っていた二本の指を根本までぐっと差し込み、今度は膣壁にこびりついている粘液を掻き出すように、ぐちゅぐちゅと曲げ伸ばしを始めた。
これに直は今までとはうって変わって悲鳴のような声をあげた。

「成る程。こうされるのがイイんですか?カンザキさんは。」
「ああぁあっ!!ち…ちがっ、違います!はあぁっ、んっ…!」
「そんなはしたない声をあげて違うも何もないでしょう。大人しく認めたらどうなんです?」

それに答える余裕も無いままに、直の瑞々しい女性器は、ヨコヤの長い指をしっかりとくわえ込み、 激しい収縮を起こして一度目の快楽の頂点を極めた。

どっと噴き出た直の蜜液は、ヨコヤの手の平までもぐっしょりと濡らした。
肉壁の痙攣が治まり、四肢を投げ出してぐったりするのを見計らい、ヨコヤはずるりと指を引き抜いた。

「…はっ……ぁ…、」

小刻みに荒い呼吸を繰り返し、焦点の合わない目でぼうっとしている直の前に、蜜液でべとべとになった指を見せつけた。
そして彼は、ペロリとそれを舐める。

「良かったですか?カンザキナオさん。ですが――これで終わった訳じゃない。たった一度気を遣ったくらいでぼんやりしていたら、後が持ちませんよ。」


「――く…車で…」
「ん?」
「車で、言っていたあれ……
どういう、意味…なんですか?」
「…?」

――いきなり何を言っているんだ、この娘は。
眉間に皺をよせ、怪訝な顔でヨコヤは首を傾げる。


「なんの…事ですか?」
「ヨコヤ、さんが…私と、秋山さんが、同居しているって、思った……理由…」

途切れ途切れに紡がれる直の言葉を、漸く理解する。

「…ああ、」

確かに、『秋山と同居でもしているのかと思った』とカンザキナオには言ったのは覚えている。しかし、

「…なぜ、今この場で、そんな事が気になるんです?」
「お願い…です。教えて、下さい……」
「……三回戦の時、私があなたにこう言ったのを覚えていますか?」




『秋山くんは、あなたのような人を見捨てて置けないんですよ。
人を信じ、疑う事を知らない。
彼のお母様に似た、あなたを。』



「……!!」

――直の中で、あの時の事が鮮やかに蘇る。
見ず知らずの直に協力してくれた犯罪者。
初めて知らされた秋山の過去。
何も出来なかった自分への苛立ち、もどかしさ。
母を追い詰めたヨコヤさえも赦した、秋山の秘められた深い優しさ。
その全ての記憶が直の奥深くで渦巻き、そして爆ぜた。

……ああ、

「あきやま……さん、」

ぽそりと呟き、みるみると目に涙を溜める直。

――哀れだった。
ヨコヤの中に、初めて芽生える、同情の心。
経験した事の無い、胸を締め付けられるような感覚。

何も言わず、すっと立ち上がり、家の中の全ての明かりを消していった。
部屋の電気から、デジタル時計の発光さえも。
寝室に戻って来たときは、一切の光もない暗闇だった。
何時の間にかすっかり日も暮れていた。夜の静けさに、直のすすり泣く声だけがこだまする。

そして、衣擦れの音さえも立てないように、注意深く服を脱ぎ去り、ゆっくりとベッドに戻る。

躯を折り曲げて、小さく丸まって泣く直の頭を撫で、耳元で囁く。



「――…おい。」
「………?」

できるだけ低く、優しく。


「おい。…カンザキナオ。」



「………あ、

………あ、きやま、さん…?」

「…また、泣いているのか。」
「…え、えへへ。ごめんなさい。」

遠慮気味に胸に擦り寄ってくる直を引き寄せ、抱きしめる。
じかに感じる、肌の温もりに安心感を覚える。
直も同じだった。
そのまま男の胸の上で、ひとしきり泣いた。

「あきやまさん……」

何時までそうしていただろうか。
胸の上で泣き止んだ直が、もぞもぞと躯を動かした。

「秋山さん。」
「…どうした。」
「私、さっきから躯が変なんです。熱くて堪らないんです。ここが…」

そう言って、直は男の手を取り、自らの下腹部に導いた。

「お前…」
「お願いです。もう、我慢できないんです。鎮めて下さい…。
私…秋山さんなら。」

男は、胸に口付けを落とす直の手首を掴み、逆転させ――そして、組み敷いた。

直の女陰は、絶頂の名残がまだ十分に残っており、蜜で溢れ返っていた。

男は、青筋を立てて脈動しそそり立つ陰茎を持って、 淫水でどろどろになった女性器に丸みを帯びた亀頭を擦り付けた。

「ああぁっ!!あきやま…さん…っ!!」

灼熱の杭をぐっと押し込まれ、直は歓喜の叫びを上げた。

狭く、不規則にわななく膣内の締め付けに耐え兼ねた男もまた、低い呻き声を上げる。
時間をかけてゆっくりと押し進み、漸く根本まで飲み込んだ直のそこは、男の陰茎をしっかりと掴んで離さない。

そのまま、男は直が慣れるまで、その場に根付いたように動こうとはしなかった。


「あきやまさん……もう大丈夫。動いて下さい…。」

未だ呼吸の整わない直が言う。

「いいのか?もう少しこのままでいたって、いいんだぞ。」
「いいんです。早く…お願い。」

薄紅色に色付いているであろう直の頬にひとつ口付けを落とし、男は陰茎の抜き差しを始める。

「あっ、あっ、あっ、あぁっ…!!」

男が直の奥深くを突き上げる度に、直の咽喉から独りでに声が漏れる。
火照った躯に嵌まるべきものを嵌められた充実感は、直の意識を高揚させ、恍惚状態へと運んで行く。

すでに痛みは通り越していた。
陰部はただ燃え盛るように熱く、陰茎を押し込まれる度に、膣口が引き攣る少しの違和感のみが残っていた。

男は、あえかな悲鳴を上げる直の白い咽頭――その、細い首元に、がぶりと噛み付いた。

「んっ…!」

強く吸い上げ、痕を残す。
首元に、肩に、胸に。
そのまま、胸の先の乳頭を、口に含んで転がした。

「ああぁっ!!」
「気持ち良いか?良いなら、素直に気を遣ったらいい。」

予期せぬ強い刺激に為す術無く、直の女陰は男の陰茎を根本までずっぽりとくわえ込んだまま、あっけなく二度目の深い絶頂を味わった。

「……くっ…」
ぎゅっ、ぎゅっ、と断続的に陰茎を締め付けてくる膣内に負けじと、未だ絶頂の波の最中にいる直の膣に激しく陰茎を突き立てる。

「……っ…ぁ…!!」

もはや声すら上げられない程の、のたうつような快感に支配され、直はもう何も考えられなかった。

男も、直の性器の蠢動に合わせ、八の字に歪んだ眉の間に深い皺を刻み込ませた。

そして、ふいに気付く。
直の膣の奥深く――最深部と思われる辺りには、肉壁のような起伏が無くつるんと弾力に富んだ器官があって、
男が奥に陰茎を突き挿れる毎に、その器官に鈴口がこりこりと触れる事に。
そして直は、その器官に陰茎によって刺激を受けるたびに、声をわずかばかり大きくするのだった。

――これは…?
男はすぐに、その真ん中の窪んだ、赤血球に似た形の器官の正体に辿り着く。

――子宮。
そうか、成る程。
陰茎を抜き差しし子宮頚口を刺激してやったことで、ほぐれて下りてきたのか。

試しに陰茎をこれ以上ないほどに嵌め、亀頭に感じる球体をごりごりと擦ってやると、
直は甲高いむせび声を上げて、男の胸を押し返して離そうとした。
だが、男は直の躯が訴える本当の望みを素早く察知した。

そして――
今まで以上に強く、熾烈な抽送を子宮目掛けて始めた。

「あ、ああぁぁぁあぁっ!!」

がつがつと子宮頚口を叩き、直の快感を無理矢理に最高潮へと引っ張り上げる。
男も、もう限界が近かった。

直の膣口が収縮を始め、それに呼応するように、膣全体がどくんどくんと心臓のような拍動を起こした。
まるで感電したかのような強いびりびりとした刺激を受けて、直は男にしがみつき、痙攣し、深く深く昇りつめた。

その瞬間、男の陰茎にも凄まじい快感が駆け巡った。
尿道から精巣に至るまでの全てが女の痙攣により圧迫される。
耐え難いほどの激しい射精感に責め苛まれ、男は、咆哮した。

「………ナオ…!!」

そして、熱く煮えたぎる精液を、直の奥深く、子宮へ向けて一滴残らず吐き出したのだった。

陰茎をずるりと引き抜くと、直の上で荒い息を付く。
ふいに、額にひんやりと冷たい感覚がした。
眼を開けると、直が汗でへばり付いた男の髪の毛を、指先で優しく梳っているところであった。
その手が、額から男の輪郭に沿って下降し、掌で男の頬を包んだ。
暗闇の中で、互いの瞳を見詰め合い、二人は、どちらからともなく唇を重ね合わせた。

そして――
暗い海の底に沈んだような深い陶酔の中で、今にも、溶けて無くなりそうな感覚に身悶えしながら、
ヨコヤは無意識のうちに直に向けて呟いた。

それはまるで、懺悔のように。

「――カンザキナオ……私が、悪かった…
なにも、思い出さなくていい。だから……。」



直が意識を手放す直前、その唇が微かに動いたのを、男は見た。


「」


「……!!」

ヨコヤは眼を見開き、悲痛な表情で俯く。
そして、こびりついた口付けの痕を拭い去るように、直の唇を何度も何度もなぞり返した。

目を覚ますと、何時もの見慣れた天井だった。
カーテンの隙間からは暖かい朝日が差し込み、外からは楽しげに唄う鳥の囀りが聞こえる。

――昨日は、何をしていたんだろう。

思い出そうとしても、ずっしりと重い頭痛に阻まれて思い出せなかった。
起き上がり、初めて自分が裸であることに気がついた。

「やだっ、なんで…!」

思わず、頭から布団を被った。

――ふいに、違和感が鼻腔をくすぐった。
嗅ぎ慣れない、それでいて不思議と落ち着く、どこかで記憶に残る香り。

「……?」

布団から顔を出して辺りを見回す
やっぱり、何かがおかしい。
誰かが居たような気配だけが奇妙に残っていて、もどかしい。

ベッドから起き上がり、服を着てキッチンに向かった。
そして、テーブルに客用のティーカップが出ているのに気付く。

「やっぱり…誰か来てたんだ。」

しかし不思議と、部屋に充満する訝しさの原因を突き止めたいとは思わなかった。

懐かしい人に会えたような感覚。
昨日まで重くのしかかっていた不安は嘘のように消え去り、直の心は満足感に満たされていた。

――そういえば、今日は行きつけのパン屋が安売りをする日だったっけ。
広告を引っ張り出すと、確かに今日が安売りの最終日だった。

「いけない!」

いそいそと着替えて、外出の準備を整える。
黄色い水玉模様のワンピースに、灰色のカーディガン。
外は雨が降っていた。
傘を開いて、気分よくパン屋まで歩き出した。

買ったのは、大好物のフランスパン三つに、焼きたてのクロワッサンを四つ。
パン屋を出て、直は少し悩む。
今日は何も予定が無い。
このまま帰って、ずっと家で過ごすのも勿体ない。

何となく、公園に足を向けた――その時、直の正面に猫が立ちはだかった。

烏の濡れ羽色をした、全身真っ黒な猫。
しかし、どこか様子がおかしい。
耳を反り倒し、背を丸め、歯を剥き出しにして唸っている。

何故だか怒っている様だった。

公園へ行くには、ここから行くのが一番近いのに。
一歩踏み出すと、猫は益々牙を剥き、フーッと直に向かって威嚇する。

――困った。
ここ以外の道を通って行こうとすると、大分遠回りになってしまう。

「まあ…パンなら家で食べればいいか。」

無理に公園に寄る必要なんてない。
そう思い直して足を家の方に向けると、低く響いていた猫の唸り声がぴたりと止んだ。

直は振り返り、猫に手を振った。

「またね、猫ちゃん。」

黒猫が尻尾を数回降るのを見て、直は笑って歩き出した。
なぜだか、あの黒猫には以前にも逢ったことのあるような気がした。
同時に、この先またいつか逢うだろうという、確信に近い予感も抱いていた。
――似ていたからかもしれない。
ぶっきらぼうで、最初は冷たいイメージを持つけれど、本当は誰よりも優しい心を持った彼に。

晴れやかな気分に包まれて、直は自宅へと歩いていった。

白い傘をさした男は、誰も居ない公園のベンチに向かって立ち尽くしていた。


あの時。
深い陶酔の中口付けを交わしたあと、直が意識を無くす直前に彼に向けて呟いた言葉をひとり思い返す。





『――ヨコヤさん』





あの言葉に、何か意味はあったのだろうか。
自分は、あの娘のために、何かをしてやれたのだろうか。

降りしきる雨に、未だに根付く罪悪感を、淀んだ心を、悔恨を。
綺麗さっぱりと洗い流してくれる事を願い、傘をたたんで灰色の空を仰いだ。

ふいに、公園のベンチの上に一瞬だけ、自分に似た白猫の幻覚を見たような気がして、笑う。

公園に生い茂る木の梢から落ちた雨水が、男の顔に、涙のような跡を残した。






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