支配者 続き
横谷ノリヒコ×神崎直


ゆっくりと近づいてくるヨコヤを、ただただ見上げる事しか出来ない。
体の震えが止まらない。何も考えられない。雰囲気に飲み込まれる。
怖い。今まで味わった恐怖とはまったく毛色の違う、畏怖。
誰か、助けて。誰か。誰か、お願い、助けて。誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か、

(助けて……秋山、さん)

声にならない切望。目に見える絶望。
直の瞳からは涙が零れ、呼吸も荒くなる。
恐怖が、彼女の心を蝕んでいく。

「怖い、ですか?」

どこか含みのあるヨコヤの口調に、直は頷いた。
怖くて怖くて仕方ない。だって、傍に、いつもいてくれる、彼、は、いなくて。

「ほら、彼に助けを求めればいいでしょう?あなたの願いを、彼は叶えてくれるはずですよ?」

意地の悪い薄ら笑いを浮かべながらヨコヤは言った。その口調はどこまでも弱者をなぶるような、卑劣なもので。
ぞわり、と背筋を悪寒が走り抜ける。酷く侮蔑的なその視線に、気分を害す。
それでもヨコヤはにやにやと、まるで新しい玩具を与えられた少年のような、愉快でたまらない表情で歩を進める。
へたりこんでいる直を見下すように、ヨコヤは直の前に立つ。
自らが、支配者だと言わんばかりに。

「本当はこのまま彼の見えないところで、と思ったんですが……気が変わりました」

ぐい、と乱暴に腕を引っ張られ、直は小さな悲鳴を上げる。
そのままヨコヤは直を引きずると、机に仰向けになるように押し倒した。
ヨコヤの手が、スイッチへと伸びる。

「さぁ、思う存分……いい声で鳴いてくださいよ?」

ヨコヤが言っている意味が分からず、ただその口調から読み取るに、とても気持ちの悪い事を言われたのだと感じ取る。
どうして、秋山さんじゃ無いんだろう。
こんな状況下で直は、場違いな事を考えていた。
この触れてくる指も、眼前に広がる顔も、私を呼ぶ声も。
全部が全部、望んではいない物なのに。
全ての動きがコマ送りのようにスローに流れていく。近づいてくるヨコヤの顔。鎖骨を撫でる指。
こんなもの、いらないのから。だから、ねぇ。

(秋山さん……秋山さん秋山さん秋山さんあきやまさ)

パコーンッ!と、突然部屋に、不釣合いな甲高い音が響いた。
と同時にヨコヤの体が横に揺らぐ。ヨコヤの肩越しに見えたその顔は、

「それ以上、検査官に触れるのを禁止いたします」

凛とした、よく通る声に、直は全身の力が抜けていくのを感じた。
望んでいた人物ではなかったが、少なくとも心許せる人物であった彼女の顔をみて、思わず涙が零れる。
何故か右手に緑色をした薄っぺらいスリッパを持ち、威厳と気品を漂わせた雰囲気を漂わせる彼女、エリーはヨコヤの肩を掴むと、乱暴に席に座らせた。
その気高き瞳に孕む怒りの色に、ヨコヤは口元を歪める。

「何か、ルール違反でもしましたか?」
「これは密輸ゲームです。密輸人が検査官に触れるのは、ルール上違反です」
「おや、おや、おや?そんなルール、聞いてませ」
「ルール上、違反です。貴方達がしているのはライアーゲーム。騙し合い、化かし合いによって雌雄を決するゲーム。
力に屈せる事は、例えどのような勝負の方法であろうとも、違反です」
「随分と、肩入れをするんですねぇ?」

そのヨコヤの物言いに、エリーの眼光が一気に鋭くなる。
しゅ、と空気を裂く音が聞こえたかと思うと、ヨコヤの、まさに字の如く眼前に、エリーの赤いマニキュアが施された爪が、今にも突き刺さんとしていた。

「何の、マネですか?」

流石のヨコヤも不機嫌に顔を顰める。

「もし、貴方がこれ以上力を振るうと言うのなら、私は全力で持って貴方を、力によって排除する。
その事を、お忘れなきよう」

チッ、とヨコヤは忌々しげに舌打ちした。と同時にエリーは手を引く。
そのまま、その手で直を立ち上がらせる。まだ呆けている直に少し頭を下げ一礼すると、エリーは静かに部屋の隅に立ち、まるで睨みつけるような厳しい視線で二人を、否、ヨコヤを見ている。
その視線にヨコヤは軽く肩をすくめると、それならば、と自身が持って来たケースを指差す。

「ゲームに戻りましょうか。この中にいくら入ってい」
「ダ、ダウト一億!」

ヨコヤが言い終わらないうちに、直の少し震えた声が響いた。
顔を歪めたヨコヤを無視して、慌しい手つきで直はケースを開く。
そこには、ぎっしりと一万円札が詰まっていた。その額、一億円。
信じられない、とでも言いたげな表情のヨコヤに、精一杯強い口調で、直は高らかに宣言する。

「秋山さんは、いつも泣いてばかりいる私を助けてくれます。優しくしてくれます。勇気付けてくれます。
私に足りない物を、いつもいつもくれます。そんな、そんな格好良くていつも誇りを持って戦う秋山さんは、絶対、絶対に!
あなたなんかに、負けません!」

口元に手を当てる。口角が吊り上がるのを必死で抑えようとするが、何の効果も無い。
ああもう本当に、どうしてくれよう。
この渦巻く感情を上手く処理できず、ただ秋山はモニター画面を見つめていた。
彼女の声が、いつまでも耳に響いて離れない。
熱く、たぎっていたどす黒い感情が、一気に浄化されていく。
また、彼女に救われた。

「……落ち着いたか?」

フクナガの気遣うような声が聞こえて、秋山は小さく頷いた。

「その、取り乱したりして、すまなかった」
「や、別にいいんだけど。その、お前の気持ちも分からなくも無いしねー」
「……お前と意見が合うとは思いもしなかったよ」
「それはこっちの台詞だ……ま、無事でよかったよかった」

うんうん、と一人頷くフクナガを横目に、秋山はもう一度モニターへ視線を向ける。
彼女が、戻ってくる。



ドアが開くと、秋山を除く三人が出迎えてくれた。
大丈夫?だとか頑張ったな!とか。その温かい言葉に、直はその場にへたりこむ。

「ちょ、直ちゃん、大丈夫!?」
「あ、何だか安心しちゃって……ごめんなさい」
「何であんたが謝るのよ」
「そうそう。直ちゃん頑張ったよ」

ありがとうございます、と頭を下げる。ふと、そこに一番会いたかった人物が見えず、直の表情が怪訝なものに変わる。
と、突然現れた秋山は、有無を言わせず直を抱きかかえると、一番奥のソファに放り投げた。
そのまま三人に顔を向けると、いつものどこか意地の悪い笑みを浮かべながら言った。

「ちょっと、二人で話すから」

邪魔するなよ、と言って秋山は顔を直へと向けた。

「秋山さん……あの」
「悪かった。アンタを行かせるべきじゃなかった」
「いえ、そんな!」

謝ろうとする直に気にするな、と言うと秋山は微笑んだ。
優しく、直の頭を撫でる。さらさらの髪が、秋山の掌と戯れる。

「私、やっぱり馬鹿なのかもしれません」

突然の直の一言に、秋山は目を見開いた。

「ヨコヤさんに襲われそうになったとき、私何故か、本当自分でも何でなのかよく分からないんですけど、
秋山さんなら良かったのに、て思ったんです」
「……は?」
「指とかが触れてきたとき、すごくすごく嫌でした。秋山さんに触れられるのはすごい嬉しいのに。
私って、やっぱり馬鹿ですか?」

どこか興奮気味に話す直に、秋山は盛大なため息をついた。まるで心配していたのが馬鹿みたいじゃないか。
というか、本当にどこまで無防備なのか。一度教えてやった方がいいのかもしれない。

「やっぱり、君は底無しの馬鹿だな」
「うっ……や、やっぱりそうですか……」
「ま、だからもう俺の傍から離れるな」
「あ、は、はい!……それって、ライアーゲームが終わった後も、ですか?」
「ん?……好きに考えたらいいよ」

はい、と彼女の大きめな声が聞こえて、ずいぶん元気そうなその声に安堵の息を漏らす。
なら次は、やられた分、やり返さなければな、と秋山はほくそ笑む。
百倍返しが、彼の基本なのだ。

「ねぇ、あの二人、どう思う?」
「は?どうって?」

アソウの突然の質問に、フクナガは質問で返した。

「付き合ってると思う?」
「あーんー……ないな」
「え、何で?」
「いや、付き合っていない、て言うのは正しくないか。今はまだ、付き合っていない」
「あーなるほどね。案外二人とも奥手だったりして」
「さーねー興味無いなー。ま、でもいいんじゃないの?そこは二人が決める事だろうし」
「何よーつまんないわねーキノコのくせに!」
「キノコって言うんじゃねぇ!」

フクナガの表情に思わず笑い出してしまったアソウだが、すぐに表情を引き締めなおした。

「ね、例えばさ」
「……あん?」
「もし、あのヨコヤがあんたに、さっきのオオノにしたみたい誘ったら、その誘いに乗った?」

至極真摯な視線でそう問い掛けてくるアソウに、一瞬考えるポーズをして、でもすぐにフクナガは答えた。

「乗るわけ無いじゃーん!」
「……え、嘘ッ!?」
「当たり前だろー?俺は人を使うのは好きだけど、使われるのは好きじゃないんでね」
「ふーん……中々カッコイイじゃん」
「ハァン?当然だろ!この俺が!あんな白髪如きに!使われるかっつーの!」

よく分からないポーズで力説され、アソウはアホっぽいと笑った。

「ま、何にしても、だ。今は勝つのが最優先事項ッつーわけよ。だから!次は!
この俺が!あの白髪を!欺いてやるって事よ!」
「よっ!カッコイイぞ松茸!」
「何せ王道にしてキノコの中の王様だからなッてだからキノコで例えんじゃねェェェェェェ!」

げらげら指を差して笑うアソウに悪態をつくと、ふん、とフクナガは検査ルームへと向かう。
その後姿に、アソウのどこか真剣味の帯びた声が投げかけられた。

「フクナガッ!」
「あーん?なんッスか?」
「絶対、絶対勝とうな!」

その問いに、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべ、親指を立ててフクナガは答える。

「とーうぜんだろ!ビジンは黙って俺の活躍を見てればいいんだよ!」
「え、な、ば、馬鹿にしてんの!?」
「あー?ああ、美人って?いや、別に。本当にそう思っただけだしぃ?」
「ッ!?」
「ま、俺の好みじゃないけどねぇー」

そう言い残し、嫌味ったらしい笑い声を響かせながらフクナガはドアの向うへと消えた。
ドアを見つめたまま、少し顔を朱に染めたアソウが、一人胸の内で呟く。

(死ねキノコ!バーカバーカ!)(……ま、でも、本当に勝ってきたら、カッコイイって言ってやるよ)


■番外編
モニターの前で、形の良い唇をきゅっと噛み締めたエリーたんが、その凛とした漆黒の瞳に怒りの炎をたぎらせてヨコヤを睨みつけていた。
男の手が、まだ幼さを残す少女の肌に触れる。

「……なんてことを…」

ヨコヤの暴挙に堪えきれず、短く呻いたエリーたんはカツとヒールを鳴らした。
その音を耳聡く聞きとった金歯がニヤニヤといやらしい笑みをエリーたんに向ける。と、その淀んだ瞳に写るのは、モニターの前から立ち去るエリーたん。

「…ちょっ、おい!何処に行くんだ?」
「…………」
「そんなに見ているのが辛いのか?」

金歯は苦笑混じりに問い掛けて、此処は通さないとばかりに通路の壁に足を投げ出した。

「…退きなさい」

命令に慣れた口調で、金歯を睨みつけるエリーたん。
金歯は飄々とした態度でエリーたんを見上げ、キラーンとその自慢の前歯を黄金色に光らせた。

「……通れるものなら、通れば?」

その挑発に、エリーたんの秀麗な眉がひくりと歪んだ。
金歯の足はモニター室の狭い通路をしっかりと塞いでいて、彼を強制的に退かさなければ其処を通れそうもない。
急がなければ、あの無垢な少女が…。
エリーたんの鋭い眼差しが更に鋭さを増して、大して長くもない金歯の脚を睨み据えた。
しかし、その目の端であるものを捕えると、エリーたんは皮肉に口角を持ち上げた。

「……ちょうどいい」

嘲笑と共に吐いた息と、同時に動いた鍛えた身体。
瞬間、金歯の視界が反転した。気付いたら、床に倒れ、天井を見上げていた。
身体を支えていた軸足を彼女に足払いされたのだ。
釈然としない脳の隅で、足の先がスースーすることに気付いた。
爪先を見ると、黒い靴下が目に写る。…スリッパがない。

「……借りるわよ」

見上げた先には、さっきまで自分が履いていた緑色のスリッパを手に持つエリーたんの姿。
床に転がった男を一瞥して、エリーたんは颯爽と歩く。
検査室へと急ぐヒールの音を聞きながら、金歯はぽつりと呟いた。

「…あの鉄面皮があんなに焦るなんてな。可愛いところもあるんじゃないか…」






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