悪戯好きの猫は戯れる
秋山深一×エリー


考えてみれば、ここ最近の生活は彼女中心に過ごしていた訳で。
一人でこの一人暮らしには大きすぎる間取りのマンションの一室にある、これまた二人どころか四人で寝れそうな巨大なツインベットに寝転んでみた所で。
このもやもやした感情を払拭する事は無理だ。
秋山は着がえる事も億劫なのか、寝巻きのままベットに身を預けている。
ヒマだ。呟いた言葉が部屋に空しく響いて、秋山は忌々しげもう一度呟いた。

「ヒマだ」

いつも彼の周りをせわしなく動き回る神埼直は、現在外出中だ。
どうも、大学の友人と遊びに行った様子だ。秋山が起きた時には彼女の姿は見えなかった。
その代わりにテーブルの上には一枚のメモが残されていた。そのメモの内容を読んだ秋山は、面白く無さそうにメモを丸め、ゴミ箱へ投げ捨てる。
ふん、と不機嫌な表情のままソファに座る。待てども待てどもブラックのコーヒーは出てこない。
そんな自分にげんなりして、秋山は重い足取りで寝室へと戻る。
彼女がいないだけで、何もやる気が起きなかった。重症だ、と自覚している辺り、手遅れだと想う。
そうこうしている内に、時刻は午後一時を回った。
体は素直で、空腹を訴えかけてくる。しかし全く持って料理を作る気分じゃない。というか、何かを食べる気分じゃない。
このまま彼女が帰ってくるまで眠り続けるのも悪くないか、と全てを放棄して秋山はもぞもぞと動いてシーツにくるまる。
ああ、もうどうにでもなれ。二十六にもなって、と言われても仕方ない普段の彼らしくない行動。
すぐに眠気はやって来た。

どれくらい寝ていただろうか。時間の感覚がなくなっている。時計に目を向けると二時十分前になっていた。
上体を起こし、辺りを見渡す。もちろん彼女の姿はない。
いい加減着替えるかと思い立ち上がる。
目覚めのコーヒーを飲もうとリビングに向かい、ふと、人の気配に気付く。

「おはようございます」

響いく凛とした声に、秋山は硬直する。一体何故、どうして、というかどうやって。
ソファに優雅に座り、直のティーカップに半分ほど入っている、恐らく自分で入れたであろう紅茶を音もなく飲みながら、彼女はさも平然と言う。

「お茶に致しますか?それともコーヒーでしょうか?」
「え、あ、ああ……コーヒーで」
「お砂糖やミルクの数はいかがなさいますか?」
「いや、ブラックでいい」

ふわり、と微笑むと彼女はキッチンへと向かう。秋山は一旦落ち着くために、先程まで彼女が座っていたソファに腰掛け、煙草を一本咥える。
火をつけ、煙を吐き出すと少し頭の中がクリアになる。と、まるで見計らったかのように彼女がコーヒーを運んできた。
秋山の前にカップを置くと、秋山のテーブルを挟んで反対側に、向かい合うように彼女が座る。
コーヒーを一口飲み込むと、秋山は口を開いた。

「……何故アンタがここにいる」
「特に意味などありません」

余裕綽々、とでも言わんばかりの彼女、エリーの返答。予想外の答えに、秋山は眉間にシワを刻み込む。
そもそも、どうやってこの家まで侵入してきたのか。ここのマンションは全室オートロックのはずだ。

「世の中には、知らない方が幸せな事もあります」

まるで秋山の考えを超能力で読んだかのように、エリーはさらりと答えた。秋山の表情はさらに不機嫌さを増す。
こいつは苦手だ。何か腹の中に持ってるくせに、まるで能面見たい表情で淡々と行動する。予測のつかない直とは対極の、予測出来る答えが多すぎて捉え切れない、そんな印象だ。
何よりも、全てこの女の手の平の上で踊らされている感じが腹立つ。
だが当のエリーはまったく意に関せず、いつものクールな表情を崩す事無く秋山に尋ねる。

「もう、昼食はお済になられましたか?」

質問の意図がわからず、秋山は疑いの視線をエリーに向ける。
エリーは口元に笑みを浮かべると、さらに秋山を混乱させる。

「よろしければ、私がお作りしますが」



本当に、これは何なんだ。秋山は眼前に広がる光景に、眩暈を覚える。
まず大皿に盛られたカルボナーラ。鶏肉を適当な大きさで焼き、それを小さく刻んで豆腐と色彩豊かな野菜と混ぜ合わせ、ゴマドレッシングで和えたサラダ。
極めつけはどこから持って来たのか、綺麗な葡萄色の赤ワイン。冷えたグラスを手渡され、なみなみと注がれていく。
だが一番の違和感は、直の可愛らしいクマがプリントされたエプロンを着たエリー本人だ。
そのエリーが瞬く間に作った、何とも豪勢な昼食に秋山は絶句する。ホント勘弁して欲しい。あれか、新しい嫌がらせだろうか。

「いただきます」
「あ、い、いただきます」

どうにも調子が狂いっぱなしだ。律儀に手を合わせてそんな事を言う彼女につられて秋山も手を合わせる。
黙々と進む食事。その一挙手一投足の動きが優雅で、秋山は上手くカルボナーラをフォークに巻きつけられない。
何なんだ、本当に。今日何度目かの自問自答に答なんてモチロン出る訳なく、食事は無音で進行中。
しかし、空腹だったのも相まって、とても美味しい。パスタもサラダもワインも、今まで食べた中でも確実に上位に入る味だ。
恐ろしい。もう苦手だとかそういう枠を超越した。多分勝てない気がしてきた。
普段の自分なら勝てない相手の存在なんて、認めない。別に、自分が一番じゃないと気がすまない、どこかのキノコじゃないが、自分もかなりの負けず嫌いだと自負している。
それでも、目の前でソースなんて一滴も飛ばす事無く、黙々とパスタとサラダを食していくこの女性だけは、勝ち負け以前に、勝負したくなかった。
多分、踊らされていい様に使われて結局バカを見そうだ。勝てない試合にわざわざ醜態を晒すほど、自分はバカじゃない。

「……アンタ、料理できるんだ」
「人並みには」

これは人並みとは言わないだろ。そう内心つっこみつつ、秋山も黙々と胃袋を満たしていく。
彼女は充分自分の胃袋を満たしたのか、今は少しずつワインで喉を潤している。

「……で、本当に何しに来たんだ」

秋山は先程の問いをもう一度投げかけた。エリーはいつもの無表情で答えた。

「先程も申し上げたように、特に意味などありません」

そう言ってエリーは微笑んだ。その笑みはとても綺麗で艶やかで。いつもとは違う顔に、秋山は思わず見惚れてしまう。
そんな秋山の表情に気付いたのか、またいつもの冷淡な能面顔に戻る。

「何か?」
「……ホント、アンタってずるいと思う」

昼食も終わり、何をするでもなくただ二人でくつろぐ。といってもエリーは律儀に洗い物をしている。
秋山はずっとソワソワしていた。いつもいるべき人がおらず、普段滅多に会う事のない人が平然といる。
この異常とも呼べる状況に、秋山は説明できない焦りを感じていた。それは直に対する罪悪感からくるものなのか。ただ単にエリーが苦手だからか。
いずれにせよ、落ち着かない。煙草がみるみるうちに減っていく。
五本目の煙草を灰皿に押し付け揉み消すと、秋山はソファに寝転がった。
ソファは秋山が足を伸ばしても一人分余裕に座れるペースがあるほど大きく、秋山は心地良さに少しまどろむ。現実逃避。
キッチンから、洗い物が終わったのか蛇口を閉める音が聞こえた。
足音が近づいてくる。ゆっくりと瞼を上げる。が、視界にはエリーの姿は見えない。

「そう言えば」
「うわッ!?」

突然眼前にエリーの無表情が現れ、秋山は驚いて思わず飛び上がりそうになる。
覆い被さるようにして秋山の顔を覗き込むエリーの表情は、どこまでも無表情だ。
機械みたいな冷たさや、氷のような拒絶もない、無。

「神崎様は?」
「……出かけてる。いい加減どいてくれないか」
「嫌だ……と言ったら?」

悪戯好きのシャム猫みたいなあどけない笑顔を浮かべるエリーに、秋山は溜息一つ返した。本当、絶対分かってやっていると思う。
秋山は上体を起こし、肘掛にもたれるように座りなおす。するとエリーもするすると擦り寄ってくる。
いっそ猫なら思いっきり可愛がれただろう。だが相手は人間で、ましてや女性なのだ。
この状況、他ならぬ彼女に見られれば面倒になるに決っている。
それも分かって、この目の前の女性は普段見れないような妖艶な笑みを浮かべながら擦り寄ってくるのか。
小悪魔、何てレベルを遥かに通り越して悪女だ。勘弁して欲しい。
気を紛らわせる為に、テーブルに置いていた煙草を一本咥え、火をつけた。
吐き出す紫煙にもまるで気にする事無く、エリーは近づく。
目と目が合い、吸い込まれそうになる。冷たいだけかと思っていた瞳はどこまでも澄んでいて、それでいて妖しくギラついている。
と、そこで秋山は気付いた。

「……もしかして、酔ってる?」
「酔っていません」

否定するものの、充分アルコールの匂いが秋山の鼻腔を刺激している。つけている香水の匂いと相まって、酷く劣情を駆り立てる匂いになっている。
逃げるように煙草に口付ける秋山を凝視していたエリーは、ふと視線を煙草に移した。

「一本、もらっても?」
「ん?ああ、どうぞ」
「では、遠慮なく」

そう言ってエリーは掠め取るように秋山が口付けていた煙草を奪い、そのまま咥えた。
呆然とする秋山に、エリーは紫煙を吐き出しながら言う。

「不味いですね」
「あ……そう」
「でも」
「……何」
「あなたの味がします」

知っているのか、と突っ込んだら教えてくれますか?と返す辺り、やっぱり只者じゃない。
というか、苦手だ。
何だって自分の周りの女性はこうも扱いにくいのだろう。
自分の予想を上回る天然娘に、自分の予想通りに踊らせる悪女。ろくな女性はいないのか。

「……アンタってそんなに意地が悪かったっけ?」
「さぁ……どうでしょう?」

余裕。あくまでもはぐらかし、こちらに主導権を与えない。
エリーの白く美しい指と、その処女雪のような白をより際立たせる、紅く彩られた爪が秋山の輪郭をなぞる。
意味ありげな動き。しかし何の意味も孕まぬ遊戯。まるで魅了されたかのように秋山の視線はエリーの瞳から逃れられない。
呼吸音すら疎ましい、張り詰めた空気。咥えていた煙草の紫煙を吸い込むと、ゆっくり、ゆっくりと吐き出す。
否、それはまるで自身の内側に宿る劣情が煙と共に零れているかのようだ。その表情がとてつもなく似合っている。
誘っているのか。顔の輪郭をなぞっていた爪先はそのまま首を伝い、秋山のシャツのボタンへと辿り着く。
ピタリ、と止まる指。漂う淫靡と緊張が混ざり合った言い様のない雰囲気。鼻腔を通って脳を刺激する女の匂い。
どれかが欠ければ全てのバランスが崩れそうで、しかしこの状態を維持する事など到底不可能。
久々に味わう女の醍醐味に全身が震える。だが、理性は愛しの姫の泣き腫らす顔をビジョンとして見せる。
生き地獄だ。真綿で首を締められるなんてものじゃない。じっくりと、楽しむように少しずつ解剖されていく最悪な気分だ。

「……離れろ。冗談じゃすまない」
「冗談でなければ、よろしいのですか?」
「そういう意味じゃない。とにかく、離れてくれ」
「ならば、このナイフで私の喉を貫いてください」

突如握らされた大振りのナイフに、秋山は青ざめる。
エリーは、秋山に握らせたナイフの切っ先を自分の喉に押し当て、にこりと微笑む。

「どうぞ、ご遠慮なく」
「……今後絶対にアンタには酒を飲ませない」
「ふふっ。貴方は優しく、身内にとても甘い。その完全の内にある不完全に、私は魅入らせられるのでしょう」

エリーの言葉の真意が計りかねず、秋山は首を捻った。

「私は、貴方が思うほど完璧ではありません。むしろ、何も出来ない不出来な女です」

秋山の手からナイフを取ると、まるで手品のようにナイフは姿を消した。

「神崎様のような、愚直で一点の曇りも無い、無垢で美しい人間ではありません」
「……彼女は特別だ」
「ですが、それでも……それでも、酷く彼女が羨ましく、時に疎ましく思えるのです」

煙草が弧を描き灰皿へと吸い込まれていく。秋山の胸に置かれた手が、酷く熱い。
空いたもう一方の手は秋山の手と重なり、指が絡まる。その表情とは真逆に、とても人間味の帯びた掌の温度。

「欲してしまうのです。彼女の後姿を追うその視線も、髪を梳くその指も、彼女を惑わすその声も、全て」
「……知らなかった。俺ってモテるんだ」
「ええ、とても。それ故に、苦労もなされるのでしょう?……女の怖さを、思い知りなさい」

最早、言葉で正しさを繕う事など無理だった。

重なった唇から、甘い声が漏れる。舌と舌が絡まり、淫猥な音を上げ、何度も激しく顔の位置を変える。
離れては重なり、無色透明の唾液の糸を引いて離れては、収まりきらぬ欲情が再びお互いの唇を貪る。
とても荒々しくて、どこまでも淫様で、まるで相手の感情など関係無いと言わんばかりの、獣同士のキス。
明りが落とされた無音のリビングに響く、二人の息遣いと衣擦れ音。
もうお互い、拒む事を忘れた。お互いの立場を忘れた。取り巻く世界を忘れた。今行っている行為に全てを見出している。
後悔など、後ですればいい。懺悔など、後ですればいい。今重要なのはこの快楽と、この感触。
一つ、また一つと秋山のシャツのボタンが外されていく。はだけたシャツから覗く胸板に、エリーは感情の赴くまま舌を這わせる。
秋山の手がエリーの頭を押さえつけるが、邪魔だと言わんばかりに払いのけられる。

「つッ!?」

鎖骨辺りに、赤い印が刻まれる。首筋、肩、いたるところを彼女の唇が犯す。
愛撫と呼ぶにはあまりにも愛のない、一時の感情に身を任せた遊戯。
忌々しさと欲望が混じり合った感情が、秋山の中で蠢く。ドロドロと、酷く憂鬱にさせる、醜い感情。
女に組み敷かれるという現実も、彼にとっては面白くない。
ただ体はエリーの唇を、舌を、匂いをよこせと訴えかけてくる。そんな自分自身に一番腹が立つ。
本当、この女は苦手だ。



気がつけば、時刻は五時三十分。
セックスは無し。前戯も無し。オーラルセックスをした訳でもない。
ただただ、求めるがままにキスをした。非常に腹立たしい事に、秋山の今までで五本の指に入るほど上手いキスだった。

「さて、それではそろそろ失礼します」

乱れた衣類を正すと、何の感想もなく、普段の通りの無感動な表情を浮かべながらエリーは言った。

「二度と来ないでくれ」

本音だと思う。しかし、どこか建前っぽいニュアンスで吐き出された言葉に、エリーは首を振る。

「また、いずれ。その時まで、これはお預かりしています」

エリーへ顔を向けた秋山の表情が強張る。エリーが持っていたのは、まだ新しい煙草の箱と、お気に入りのジッポ。
そのジッポで勝手に封を開けた箱から一本煙草を取り出すと、火をつける。

「では、またいずれ」

紫煙を吐き出すと、満足げに微笑む。踵を返し、廊下へと消える。
ドアが開かれ、静かに閉まるのを確認すると、秋山は悪態をついた。
今日は最後の最後まで、やられっぱなしだ。

風呂から上がるのと、神埼直が帰ってくるのは同時だった。
慌てた様子でブーツを脱ごうとする直に、ため息混じりに落ち着け、と言う。
照れ笑いを浮かべながらブーツを脱ぐと、ただ今です、と笑った。

「ああ、お帰り」
「えへへ。先に帰ってきちゃいました」
「何で?」
「何でって……んー……その、秋山さん、の顔が見たかったから……です」

どんどん尻すぼみになっていく直の言葉に、秋山は柔らかな笑みを浮かべる。
自然に直の髪を梳く。その行動を、直も当然のように受け入れる。

「俺も、会いたかった」

笑顔を向けられ、直は赤面した。不意打ちは卑怯だ。

「あ、夕食はもう済ましました?」
「いや、まだ」
「なら何か作ります!」
「あーうん。よろしく」
「何が食べたいですか?」
「何でもいい」
「んー……じゃあ、パスタが余ってたと思うんで、カルボナーラとかどうですか?」
「……いや、カルボナーラは当分、遠慮しておく」



夜風が頬を撫ぜる。吸いなれない煙草を燻らせながら、空に映える綺麗な満月を眺める。
吐き出す紫煙が今日の事を思い出させる。
ドアが開けられる音がして、エリーは振り向いた。立っていたのは組織の男。まだ入ってきたばかりの、新人だろう。顔に緊張が見て取れる。
物珍しげな視線をエリーに投げかけている。

「お呼びです」
「分かりました。すぐに参ります」
「……煙草、お吸いになられるんですね」
「ええ……たまに、口元が寂しくなるので」
「……では、失礼します」

深く追求する事無く、男は部屋から姿を消す。香る独特の匂いにかすかに胸を締め付けられる。
そんな未練がましい感情を押し殺すかのように煙草を灰皿に押し付けると、エリーは腰掛けていたベットから立ち上がる。
満月を見上げ、数秒考えるように瞼を閉じる。だがすぐに瞼を開くと歩き出す。
悪戯好きの猫に化ける夢のような時間は、終わりを告げる。






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