素敵な場所
進藤一生×桜井ゆき


AM:8:00

ゆきが着替えを終え、ロッカーの外へでると、明るい日差しが差し込む喫煙コーナーで
進藤が煙草を吸っているのが見えた。
長身で骨ばった体が逆光でシルエットとなり、その姿を見た瞬間、切なさが体中を駆け抜けた。
…私、ちょっと疲れてるんだ…。
そう自分に言い聞かせる。

もう、気持ちの整理はついていたはずだった。
進藤の事は諦めると、心に誓った筈だった。

もうずっと以前から、憧れにも似た恋心を進藤に抱いていた。
愛する妻を亡くし、絶望の淵にいても医師としての真摯な姿勢を持ちつづける彼に、
尊敬とも憧憬とも言える気持ちを持ちつづけていた。
自分も医療に携わる者として、進藤の姿は常に目標であったし、
自分のモチベーションを保ち続ける為の拠り所でもあった。
しかし、今、進藤には高坂がいる。

『桜井、今あがりか?』

立ちすくむゆきに気づき、進藤が微笑む。
すぐに笑顔をつくり、ゆっくり歩み寄った。

『進藤先生は?まだお家には帰れないんですか?』
『もう4日も帰ってないからな。さすがに今日はもう良いってさ。明日はまるまる休みをくれるそうだ』

煙草の煙を吐きながら光を仰ぐ。その端正な横顔に、油断するとすぐにみとれてしまう。
ゆきはわざと視線をはずしながらふざけた口調で早口で続けた。

『そうですか。それじゃ、ゆっくりお休みになってくださいね。どうせまた帰れない日が続くんですから』
『お前、そんな顔して厳しいこと言うなよ』

進藤の笑顔につい油断してしまう。

『そんな顔って、何なんですか。どうせ私は美人じゃありませんよ〜』

無理にはしゃいで、ふくれっつらになる。

『かわいいってことだよ』

そう言った進藤の表情がふと真顔になって、ゆきの胸が動悸で苦しくなった。
馬鹿みたい…先生の言ったこんな軽い冗談で、すぐに苦しくなる…。
泣きそうな自分を誤魔化す為に、早口で続けた。

『進藤先生、ほんとにゆっくり休んでくださいね。先生、ほんとに激務なんですから。
大体先生は全部ご自分でなさろうとしすぎなんですよ。もっと私達ナースを信用して任せてください。
たまには高坂先生でもお誘いしてゆっくりなさったら如何ですか。それじゃ私はお先に失礼します』

作り笑顔で進藤の横を足早に立ち去ろうとした時、不意に進藤の大きな手がゆきの腕を掴んだ。

『桜井、お前、次の勤務は何時からだ?』
『…?明後日の、お昼からですけど』
『そうか、俺もだ。偶然だな』

進藤の瞳がまっすぐにゆきを捕らえる。

『それじゃ少し付き合わないか?』

探していることにしているものは、伊勢佐木町にはすでになかった。
先週のニュースで、買い付ける医師が多いのも頷ける。
しかも神奈川県また東京都内に勤務する医師たちは大抵この本屋か新宿、御茶ノ水を利用する。
医学書が充実する本屋は案外少ないのだ。
4階の奥の方。分厚い紙の匂いがして、他の売場とは別の空気を放っている。
本当は俺もすぐに買い付けたために、自宅の本棚に置いてある。
しかもここにないのは予想済みで、相模原の大学病院に勤める友人に依頼した。あそこの大学にはここの支店がある。
医学書が充実しているこの本屋は、学生の頃からよく利用している。
取り寄せも可能だと言われたが、丁寧に断った。
持っているものを取り寄せても仕方がない。
香坂先生には、自分がすでに踏んだ手順で手に入れると言い訳して。
しかし、その本なら持ってるから貸すわ、という提案にのることにしたのは、話す口実が欲しかったからだ。
最近感じる切なさを含んだ悲しい空気。
落陽後の冷たい風が、それを際立たせているようにも感じる。
正面からぶつかっていっても、絶対話してはくれない。
しかし、放っておけるはずなどないのだ。

「飯、食べに行きませんか?」

今日の礼と、ずっと忘れていたけれど、屋上にこない理由も聞きたかった。
こうして本屋にまでついてきてくれたってことは、怒らせたわけではなさそうだけれど。

行きたい所がある、と進藤は言って二人は列車に乗った。
行き先も告げぬ進藤に、ゆきは黙ってついて行った。
着いたのは、信州の、ある駅だった。
一時間に一本しかないバスを待つ間、駅の売店でゆきはパンとコーヒーを買ってきて進藤に渡した。

『こんなものしかなかったですけど。先生、昨日の夜に矢部先生が買ってきたお弁当食べたきりでしょ』
『そうだったかな…サンキュ』

進藤がパンを食べるのを、ゆきは嬉しそうに見つめた。こんな事でさえ、彼の為に何かできることが嬉しかった。
見つめ過ぎていたのか視線が合い、慌てて逸らす。進藤が微笑んだのが解った。
バスはむせ返るような緑の山道を奥深くまで進んで行った。途中でまたバスを乗り換え、更に山道を進んでいく。
民家は姿を消し、ただ深い緑と川のせせらぎだけがある。不思議に癒される空気に満ち溢れていた。
バスを終点で降りると、後は山道を歩く。足場の悪い道に何度もつまずき、ゆきはその都度進藤の逞しい腕に支えられた。
そして…。

そこは山深い場所にある湖で、崖の上からは滝が流れ落ちていた。
周囲の多彩な緑が鏡の様な水面に映し出され、息を呑むような美しさだ。
静寂の中にただ滝が流れ落ちる音だけが響き渡り、その水しぶきが汗ばんだゆきの腕や首筋を心地よく冷やしてくれる。
進藤とゆきは、ただ黙ってその空間の中に身を委ねていた。小一時間は経っただろうか。

『ここを桜井に見せたくなった』

不意に進藤がつぶやき、ふたりはみつめあったが、先に視線を逸らしたのは進藤の方だった。

『こんな素敵な場所に来たの、生まれて初めてです。良い思い出になりました。進藤先生、ありがとうございました』

本当に、こんなに気持ちが開放される場所に来たのは初めてだった。今日ここへ来て、自分は進藤をどれ程愛しているかを知った。
憧れでもなく、尊敬でもなく、ただ一人の男として愛している。
そして、こんな美しい景色をふたりで見ることができた。それだけで、もう充分…。

『進藤先生、私、ここへ来て元気になれました。これからまた、新しい気持ちで頑張れそうです』
『そうか…良かったな』

進藤は何時の間にか煙草を吸っている。携帯用の吸殻入れまで持ってきて…。高坂先生、先生に禁煙させてくれないかな。
そんな事を考える自分にクスリと笑った。

下りの山道で急に天気が悪くなった。急いで下山したが悪い予感は当り、バス停に着く頃には本降りになった。
時刻表をみたふたりは愕然とする。最終バスが出てしまっていた。更に悪いことに道の途中で土砂崩れがあり、復旧は明日になるという。
小さな役場のおじさんは、昔ながらの黒電話をチンと音をさせて切り、言った。

『今日はここに泊まってもらうしかないねぇ』

ふたりが案内されたのは、登山客が使うバンガローだった。
ゆきは成り行きとはいえ進藤とふたりでひとつの部屋に泊まることになってしまった事に激しく動揺していた。
約二日分の食料は小さな食料品店で調達してきたが、ずぶぬれの上日帰りのつもりで来たので着替えすらない。

『桜井、とにかく服を脱げ』

絶句したゆきに進藤が慌てて説明する。

『いや、そ、そうじゃなくてとにかく服を乾かさないと体温が奪われる』

いかにも進藤らしい考えに納得し、服を脱ぎバスタオルに包まる。進藤は慌てて乾燥機に自分とゆきの服を放りこむと落ち着き無く動き回った。
予定外の状況に明らかに動揺している。いつも冷静な進藤が慌てている様子に、ゆきは笑いが込み上げてきた。

『うふふふふ』
『なんだ?何がおかしい?』
『だってそんな進藤先生、初めて見ました』
『俺は、こういうのは苦手だ』
『こう言うのって?』

無防備に見つめるゆきをしばらく見つめた後、進藤は目を逸らした。

『先に風呂入って来い。風邪引くぞ』

ふたりがお風呂を済ませても、服はまだ乾かなかった。
ふたりは服を諦めると、それぞれ毛布に包まって簡単な食事を済ませた。
エアコンの調子が悪いのか、夏とはいえ山の冷気がゆきを震えさせる。

『桜井、寒いのか?』
『少し…でも大丈夫です』

そう言うゆきの唇が青ざめているのが、進藤には気になった。
離れて座っていたソファから立ち上がり、ゆきのとなりに座り、手をそっと握る。

『せんせ…?』
『冷たいな』

不意にゆきの毛布の中に自分の体を滑り込ませて来た。

『!?』
『体温が低下した場合他に熱源が無い場合は、こうして人肌で暖めることが一番有効だ。

発展途上の国では、母親がよくこうしているよ』
ゆきは耳まで真っ赤になりながら、黙って身を硬くしていた。少し震えている。

『震えているな…。大丈夫か?』

進藤は毛布の中で、ゆきをしっかり胸に抱いた。毛布の中はふたりとも一糸纏わぬ姿だった。
当然、裸の胸がお互いに触れる。
ゆきは恥ずかしさの中にも、愛する男の胸に裸で抱かれる自分の姿に、体中が熱くなるのを感じる。

『桜井…?』

顔を上げたゆきの、上気した頬とその涙で潤んだ艶やかな瞳に進藤は思わぬ感情の高まりを感じていた。
見かけよりしっかりしたその胸の膨らみと、しっとりと湿度を感じるきめの細かい肌に自分の体が吸いつけられるのを感じる。

思えば、自分は何故今日桜井を誘ったのだろう。

明日の午後になれば、高坂たまきは時間がつくれると言った。彼女と特に男女の関係では無かったが、医局の中には
自分たちを噂する者もいた。自分も彼女も、いわゆる目立つ存在だ。そして、彼女に対して、単なる同僚以上の関心は確かにある。
しかし、今朝、夜勤明けの空が余りにもきれいだったから、そしてあの時桜井を何故だかとても愛しく感じたから…。
妻と一緒に行ったあの場所へ、桜井を連れて行きたいと思った…。

気づけば進藤はゆきにくちづけていた。最初は優しく、しかし次第に深く貪るように進藤の舌はゆきの舌にからまり、
彼女の口腔全てを味わうかのように執拗に愛撫を続ける。息をするのももどかしい程に、お互いを味わい尽くす様に絡み合う。
進藤の大きな手がゆきの豊かな胸を弄り、先端の敏感な部分を刺激しながら揉みしだいていく。
吸い付くようなきめの細かいゆきの肌は汗ばみ、そのねっとりとした質感が進藤の中の男を次第に目覚めさせていった。
進藤は毛布にくるんだままのゆきを寝室へ運んでいく。そしてゆっくりとベッドに寝かせ、何枚も毛布をかけると
自分もその中にもぐりこんだ。
まずはゆきの胸の突起を丹念に舌で刺激する。吸い付きながら舌で転がすと、ゆきの口から可愛い声が漏れる。
右よりも左の方が感じやすい、そう判断して左側を徹底的に責める。ピンと立ったピンク色の突起はやや大ぶりだが
感度は素晴らしく良い。ゆきは快感のさざなみに浮かぶ小船の様に、体を震わせながら寄せては引いていく波の中に漂っている。

『あん・・あん・・進藤せんせ…あ…ん』

胸を口と舌で責めながら、進藤の手はゆきの茂みの一番感じやすい部分にたどり着いていた。メスを握るときと同じ、
決して力んではいけない。優しく繊細に、そのぷっくりとした豆をそっと円を書くように愛撫する。
一瞬で潤いを帯び、滑りが良くなったのか、ゆきの声が艶を帯びてくる。

『あん・・あん・・あん・・あ…進藤せんせ…いい…』

胸の突起は張り詰める様に膨らみ、舌で刺激するだけでビリビリと痺れるような快感をもたらしていた。
そしてゆきのなかに進藤の長い中指がそっと差し込まれ、抜き差しされながらゆきの一番良い角度を探す。
繊細な進藤のセンサーがゆきの喘ぎを聞き分け、ピンポイントで彼女の一番敏感な部分を探し当て、簡単に翻弄していく。
ゆきの切ない瞳と進藤の瞳がぶつかった。

『桜井、いっていいか』

ゆきの返事を待たず進藤が自身を彼女の中にそっと沈める。
せんせい、すき…と微かなゆきのつぶやきを聞いたような気がしたが、中に入った瞬間きゅっと締め付けられて
進藤は低く声をあげた。
ゆきの切ない喘ぎ声と、思ったより締め付けのきついゆきの内で進藤の理性は徐々に剥ぎ取られていく。

『桜井、すごく気持ち良いよ』

進藤の言葉にゆきは微笑む。

『先生が気持ち良くて、私嬉しい…うんっ…あっあんあんあんあんっ』

その可愛らしい言葉に我慢できず、返事の変わりに激しく打ち付ける。しっかりした質感の太ももを抱きかかえて
しっかり奥まで…。

やがて進藤に限界がきた。ゆきに優しくくちづけると

『桜井はここが良いんだろ・・・』

と言わんばかりに左胸の先端を執拗に口と舌で愛撫しながら、最後の力で打ち付ける。
ゆきの白い肌は上気し、切ない喘ぎは進藤の低いうめき声と重なった。

ふたりでぐったりと横たわりながら、体中が汗にまみれていることに気づく。
どちらからともなく笑った。

『あったまったな』
『はい…』
『汗、かかしたな。シャワー浴びるか?』

恥ずかしそうに黙ってゆきが頷くと、進藤がゆきを抱き上げる。
ふたりでたわむれながらひとしきりシャワーを浴びると、それから何度と無く営みが繰り返される。

数時間後、ベッドでは、疲れ果てたのかゆきがすやすやと寝息を立てていた。
夜勤明けなのに、沢山鳴かせたからな…。
進藤は眠っているゆきの前髪を掻き分けた。
透き通るような白い肌はさっきまでの激しい交わりの余韻を残すかのようにほんのり紅づき、
匂い立つような色気を放っていた。

何故こうなったのだろう?
進藤は自問自答してみる。

先週、桜井は突然今の場所からいなくなると言った。
それは婦長からの進言だったが、桜井にとってはこの上も無く良い話だ。
桜井が今まで頑張ってきた事が実りとなり、新しい段階へステップアップできる。
進藤は迷っている彼女をそっけなく突き放した。
結局は自分が決めることだったし、彼女は進藤が止めれば多分行くのをやめていたからだ。

もう、桜井を自由にしなければ、と進藤は思っていた。
思えば、自分が一人で戦っている場所には必ず桜井がいた。
時には影で、時には表立って進藤をかばった。
誰に頼まれたのでもなく、桜井はいつでも進藤の味方だった。
甘えていたのかもしれない、と思う。
いつもひまわりの花のように笑う彼女に。
亡くなった妻を思い出させる、陽だまりのような白衣の天使に。

高坂たまきと自分とはとても似ていると思う。
多分、戦いつづけさまよい続ける過酷な人生を生きるもの同士。
例え一時期離れたとしても、また何処かで出会い、時には男と女として重なるのかもしれない。
とても刹那的な関係だが、自分たちにはそれが似合っている。

だが桜井は違う。
幸福な結婚をし、子供を産み、暖かな団欒と信頼を築いて欲しい。
かつて自分と妻が、そうしたかったように。

もう70時間以上寝ていない。ついに進藤にも体力の限界が来た。

桜井を愛していた。もうずっと前から。
朦朧とする意識の中で、心の声を聞いた気がした。
彼女の暖かい手を握りながら、進藤は深い眠りの中に落ちていった。



次の日の朝。
雨はすっかり上がり、素晴らしいお天気だ。
すっかり身支度を整えたゆきは、進藤の寝顔を見つめていた。
彼女の好きな優しい瞳、知的な唇、額にかかる黒い髪、
広い肩、逞しい胸、そして数々の重症患者を救い、夕べは自分を翻弄し支配した神さまみたいな大きな手。

絶対忘れない。

久々の睡眠のせいか、真だ熟睡中の進藤に軽くくちづける。

ありがとう、先生。

さようなら。

置手紙もせずにゆきはバンガローを後にした。

白衣の天使は少し大人の顔をしていた・・・。






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