〜revenge〜
進藤一生×香坂たまき


〜revenge〜1部 再会

「愛してる…」

そう呟いて、そのまま小さな寝息を立てる彼の腕の中で、再会したあの日のことを思い出していた。
あの時はまだ、こんな関係に収まるなんて想像もしていなかったけど、そうなってしまってからはそれが当たり前で至極自然な今の関係を少し恐いと思う時がある…。
そんな時はいつも、あの日の彼の言葉を思い出す…。



成田へ降り立つ飛行機の中で懐かしい風景を眺め、やっと研究の拠点を日本に移せることに安堵しながら、どこか満たされない気持ちを感じていた。
医者としての地位も名声も手に入れた。その実績や経験は充分に私の新しい生活を満たしてくれるはずなのに…。

…たぶん、あの人のせいね…。

シカゴ行き、背中を押してくれたのが彼じゃなかったらこんな思いもしなかったかも…。
そんな恨みがましいことまで考えている自分に気が付いて、少し笑った。

もう忘れなきゃ…。
そう思う度に、忘れられない人の影を背負って生きている自分に嫌気がさす。

シカゴで出会いがなかったわけではない、「たまきは恋に臆病だね」なんて、青い目をした年下の男に言われてもドキッともしなかったんだから、女として終わっちゃってるのかもしれない。
「仕事が恋人」とは言ってみても結局は言い訳で30も後半にさしかかって、いい人がいないって現実はちょっと寂しい。

日本に帰ればまた会える…そう思っていたのは、もう遠い昔で2度目のシカゴ行きの直後に、彼は港北医大から姿を消した。そのまま消息はわからなかった。
人づてに海外へ行ったと聞いた時は、まさか私の所へ?なんて、バカな妄想もしてみたけど、結局7年もの間、彼が何処で何をしているのか知る術がなかった。

『縁がなかった』と言ってしまえばそれで終わりだけど、何時か何処かで会えるかもしれないという期待が心の隅にいつもあった。
何よりも彼が背中を押してくれたから今の私がいる。
その成果を彼に見て欲しかったし、彼にはそれを見届ける責任があると思っていた。
私の人生を変えた男として「よくやった」って一言でも良いから言って欲しい。彼にはそれを言わなきゃいけない義務があると今でも思っている。

長い時間だけが過ぎたのに、心の中ではまだ彼を思っている…。
こうやって、会いたい理由を彼のお節介のせいにして何時までも彼を思っている。
恋なのかな…、そんなことわかり切ってるのに何度も自分に問いかけて空しくなる。

着陸する飛行機の振動で、頭によぎった思いをかき消す。
小さなため息をついて窓の外を見ていた。

悪天候のせいで5時間遅れで着いた空港の到着ロビー。
ごった返す人波を縫いながら、スーツケースを転がしタクシー乗り場へ向かって歩いていた。

飛行機が遅れたせいで今夜はベッドさえ確保できないかも…、そう思うと誰もいない新居へ帰るのが空しくなった。
もうホテルにでも泊まっちゃおうかな…。
そんなことを考えていると、目の端に懐かしいシルエットを見た気がした。
またバカな幻想だと思ったけど、確認せずにはいられなかった。

立ち止まって視線を動かす。
サングラス姿のすらっとした長身の男…。

似てる…だけよね…。

そう思って、視線を戻した瞬間「香坂」と懐かしい声に呼ばれた気がした。
もう一度、視線を動かす。
「進藤先生?」
つぶやきが洩れる。

サングラス越しに男の視線を感じる。やっぱり彼だ…。

「進藤先生」

無意識に彼の名前を呼んでいた。
幻想では無いことを確認したかったのかもしれない…。その確認はすぐに取れた。
彼も私の名前を呼んだから「香坂」と…。

駆け寄って抱きつきたい衝動を押さえながら、彼の方へ歩みを進めた。彼も同じように私の方へ近づいてくる。あんなに会いたいと願った人なのに、心臓の鼓動が不安を掻き立てる。
どんどん距離は縮まり抱きしめられてもおかしくないギリギリの境界線でお互い立ち止まる。

「やっぱり、あなただったのね」

懐かしい無表情がサングラスを外しながら「ああ」とだけ答えた。
視線が直に合うのが恐かった。変わらない声音も不安を増幅させる。

「懐かしいわ。こんなところで会うなんて偶然ね」

そう言うと、私は視線を外して髪をかき上げながら次の言葉を考えていた…何を話せばいい…?

「元気そうだな、シカゴからの帰りか?」

少し微笑んで私を見ている彼と目が合う。

「ええ、あなたは?」

本当はもっと話したいことがあった。それなりに実績を残して来たこととか…、もうずっと日本にいることとか…でも、見つめられたままでは、聞かれたことに返事をするのが精一杯だった。

「俺はアフリカからだ。お前がシカゴへ立った後、国際人道支援医師団に誘われてな」

その答えに少しドキッとした。そんな危険な所に行っていたんだという事実が恐かった。そして今こうやって再会できた奇跡にただならぬ運命を感じていた。もう目が離せなくなってた…。
小さな微笑みを作って「あなたらしいわね」と、つぶやくことすら恐かった。『また、行っちゃうの?』という言葉が口をついて出そうで、ただ見つめるだけしかできないでいた。

すっと視線を逸らされ、はっとした。

「…真っ黒に日焼けしてて、一瞬あなただとは気が付かなかったわ」

何か言わなきゃ…、そう思って出た言葉は運命的な出会いには似つかわしくないもので、私はそのまま腕時計へ視線を落とした。

「待たせてる人がいるんだろ?早く行った方が良い」

そんな彼らしい反応に、変わってないのね…と安堵した。
あえて私は『あなたはどうなの?』と聞き返すことはなかった。
大切な人がいればこの人はアフリカなんかに行くわけがない。私は彼がそんな男だと知っていた。
そして、まだチャンスはあるかも?なんて淡い期待を描く自分に笑いながら、彼の目を見て

「いないわよ、そんな人…。」と答えた。

答えた後に自分の勝手な妄想が恥ずかしくなって視線を逸らした。

視線を逸らした先にあったのは、赤い空だった。もう夕方か…

「飛行機が5時間も遅れちゃって、予定が狂ったわ」

不意に出た言葉だった。

隣に視線を移すと彼も同じ空を見ていた。

「横浜まで帰るのか?」

そう聞かれて答えに困った。

もう少し、あなたといたい…。それが言えたらどんなに楽だろう…。

また、時計を見るふりをして「…そうね」とだけ答える。

やっぱり、あなたともう少しだけいたい…。

そんな気持ちが大きくなって、小さなつぶやきがこぼれてしまった。

「あなたは、これからどうするの?」と。

彼は少し困ったような表情で、何かを考えているようだった。

「実はまだ、住む家が決まってないんだ」

そう照れくさそうに話して「今日は近場のホテルを探そうと思ってる」と笑った。

彼の言った言葉の意味を考えていた。
『家が決まってない』ってことはしばらくは日本にいるってことよね?
そう思うと、次に会う約束を取り付けなくちゃ…と、必死に言葉を探していた。
探していた言葉が見つかる前に、彼がこう言った。

「時間があるなら、飯でもどうだ?」

ドキッと心臓が鳴る。なんて言えばいい…?

無意識にまた時計を見て、今度はきちんと時間を確認できた。18:49…。
何にもない新居になんか帰っても空しい時間だけが流れるのはわかってる…
それなら…

「この時間じゃ、今日はもう何もできないわ。荷物も整理できなかったし…一晩付き合って…よ」

覚悟の上で、言ったことだったが言い終わる前に後悔していた。残酷な返事が返ってくるかもしれないという不安でたまらなくなる。

ふふっと彼が笑う気配がした。

「香坂…」

呼ばれて顔を上げる。

苦笑いで彼はこう続けた「…俺だって男なんだぞ」と。
そんなことはわかってる、だから返事がこわかった…。視線を逸らす…。

「そ、そんな意味で言ったんじゃ…」

そう言いかけて、彼の言葉が遮った。

「よし、まずは寝床の確保からだ。…どうする?」
「え?」…どういう意味…??
「俺ひとりだと、カプセルでいいんだが…、お前はそういうわけにはいかないだろ?」

そこには懐かしい微笑みがあった。またドキっと心臓が鳴る。聞こえそうでこわい…。
私はうなずいた…。

彼が『インフォメーション』の方へ顎をしゃくるのが見えた。
そのまま無言で歩き出す彼の横に並んで歩き出す。そっと横顔を盗み見た。そこには、ずっと好きだった男がいる…。それなのに遠い存在な気がして、ゆっくり目をそらした。

近隣のホテルの空き状況を検索してもらうと、彼が「どこにするんだ?」と聞いた。
任せる…。と言いたいところだったけど「日航」を指で指した。
それから「サンセットラウンジでデートね」と、付け加えると、また、心臓が鳴る。

彼は苦笑して「おまえ、人道支援医師の給料を知ってるのか?」と言った。
「デートは居酒屋で十分だろ…」と、今度は口の端を持ち上げて笑った。

手早くシングルを2部屋予約してくれて、付け加えるようにサンセットラウンジのディナーを予約する。その光景をみていると、この男はどこまで完璧なんだろうと思う。

そう思うと、なんだか可笑しくなって私は小声で笑った。
それに気が付いた彼が「なんだ?」って表情で私を見ている。

「あなたのおごりでしょうね?」

表情が緩む、たぶん私はいたずらっぽく微笑んでいるのだろう。
彼は照れた微笑みで「もちろんだ」と、うなずいた。


タクシー乗り場へ向かおうと、並んで歩き始めると、彼が私のスーツケースに視線を落とすのがわかった。何も言わずに手渡すと、指先が触れあった…。ドキッと心臓が鳴る。今日、何回目だろう…。

「…あなたがデートに誘ったんだから、当然でしょ」

彼は微笑むと、あきれたような感じで「おまえが誘ったんだろ…」と呟いた。

「相変わらず、扱いづらい女だな」

そんな皮肉を言いながら彼は笑っていた。懐かしい笑顔だった。

「うるさい」

私は、わざとすました声で答えた。
彼はまた、笑う。この人はこんなに表情を変える人だったかな…?と遠い記憶を引き出そうとしてやめた。

あの頃に戻れた気がして、感情を抑え込むのが辛い。

好き…。

今そう言ったら受け止めてくれるんじゃないか…。
そんな気持ちになって、もう、何も言えなかった。


〜revenge〜2部 告白

ホテルに着くと、それぞれチエックインの手続きをした。

チェックインを済ませると、彼は私のカードキイを盗み見て、小柄なベルボーイくんから私のスーツケースを「結構だ…」と、無表情に奪ってエレベータへ向かう。
自分の仕事を取り上げられた、ベルボーイくんは肩をすくめ、私を見て微笑んだ。
私も微笑みを返し、彼の背中を追った。


部屋は隣り同士だった。
彼は私の部屋の前にスーツケースを置くと、腕時計を見た。

「まだ時間があるな…」呟いて、私を見る。
「1時間したら迎えに行く」

そう言うと、隣の部屋へ消えて行った。
消えたと思ったら、ひょこっと首だけ出して

「退屈だったら俺の部屋へ来い」と、言ってまた消えた。

彼は彼なりに気を遣ってるんだろう。
私はその光景を、苦笑しながら見ていた。


部屋へ入ると、夕日がキレイだった。隣の部屋で彼も同じ風景をみてるのかな…。そう思うと、なんだか寂しいような気持ちになった。すぐそばにいるのに、やっぱり手の届かない人に思えて涙ぐみそうになった。
好きだと言ってしまえば、もうあの頃のようにつき合えないかもしれない。
でも、言わなければ、結局は一緒なのだ。何も変わらない。
もうこんなチャンスもないかもしれない…。いや、きっと最初で最後だ。
用がなければ会うこともないし、会う為の用事なんて今の私たちにはない。
たんなる元同僚で、繋がりは医者ってだけの関係だ。
もう、今日しかないと思った。
言ってダメだとしても、状況は言わなかった場合と大差ない。毎日繰り返される日常に戻るだけ…。

もう、終わりにしなきゃ…。今日で、終わりよ。

私は、心の中で呟いていた。

結果なんてどうでも良かった。長患いした分、腹が据わってたのかもしれない。
彼がうまくとどめを刺してくれれば、また昔の私に戻れると思った。
そして、人生の分岐点に、現れる彼の存在を少し恨んでいた。


備え付けの姿見に私が映る。黒のスカートに黒のジャケット。
刺し色の真っ赤なスタッズベルトがハードなイメージ。女らしくない…。
それでも、女という生き物は、どんなときでも鏡に映ると『オンナ』になる。
私は苦笑しながら、バッグから化粧ポーチを、スーツケースから新しいインナーを取り出した。
身支度が整うと、そのまま彼の部屋へは行かず、彼が迎えに来るのをベッドに座って待っていた。

何かを深く考えることもなく、だた空の色が赤から黒へ変わるのを部屋の明かりも付けずに見ていた。

迎えに来てくれた彼は、さっきまでの白いTシャツに黒のパンツ姿だったそれに黒のジャケットを羽織って少しはにかんで「待ったか?」と聞いた。

私はそれを無視した。

「エスコートして」

そう言って、彼の腕に私の腕を巻き込んだ。
彼は何とも表現しがたい顔をして苦笑する。
そんな彼の目の奥に不安が見えたようで、私は少し後悔していた。



店で通された席は、中央のテーブル席。少し落ち着かなかった。

再会をワインで乾杯し、これまでのことを報告した。
彼は私の話を、「そうか」「それで?」と相づちを合わせるのに忙しそうだったが、それでも、食事が運ばれてくると器用なナイフ捌きで食べるのが面白くて、私は一方的に話を続けた。

「あなたは、そうか、それで?、しか言わないのね」
「俺の話は食事中にできるような話じゃないからな」

彼はククっと鼻を鳴らして、複雑な表情で笑う。

「そのメス捌きを見たら想像できるわよ」

私は彼の手元を指さして、冗談ぽく微笑んだ。

「…お前だって、そうだろ」

彼は彼で、軽くうなずき、喉仏を上下させながら笑っている。
なんとも皮肉そうな顔つきをして、彼も私の手元を指した。
微笑みが絡み合って、心臓が鳴った。


食事が終わると、彼が「少し飲むか?」と聞くので、黙って頷いた。
彼はウエイターを呼び寄せる。
バルヴェニーのロックを頼んで「お前は?」と私に視線を移す。
私は 「それでいいわ」とだけ、答えた。
彼は注文を終えると、窓際のカウンター席への移動を申し出た。私はその光景を黙って見つめ、了解を得た彼が促すままに、一番奥の窓際へ移動した。


座るとすぐにグラスが運ばれてきた。
すでに少し酔ってるのに、ウイスキーはさすがにキツイかと思ったけど、甘い香りと蜂蜜のような風味が心地よかった。
目の前のガラスの向こうには、キレイに輝く夜景が広がっているのに、私はガラスにうっすらと姿を映す彼の輪郭だけをこっそり盗み見ていた。

「夜景、キレイね」

何気なく出た言葉。
彼は外を眺めながら「そうだな」と小さくつぶやく。
ガラスに映る彼の視線が、そっと私のそれに重なり合った。

静かに時が流れる…。

私は部屋で考えていたことを思い出していた。
彼の握ったグラスの中で氷が傾いてカランと音を立てる。
彼はその手元に視線を移す。

私はそれをガラスに映し見ながら、今なのかな…。と思った。

「好き、だったのよ」

唐突に発せられた言葉に、彼は少し驚いたような表情で視線を戻した。
笑いながら『冗談よ』と言いたかったけど、できそうにない。
もう、自分の気持ちを抑えられない…、だから、目が合う前に視線を逸らした。

私は下を向いたまま、酔っぱらいの戯言だと彼が笑い飛ばしてくれるのを、待った。
待っていたけど、彼は何も言わずに外を見ているようだった。
居たたまれなくなって、私はつぶやきをもらした。

「馬鹿、みたいね」

「…もう、遅いのか?」

意味がわからなかった…。
彼の言った言葉の意味が、即座に理解できずに、何も言えなくなった。

「俺は今でも、お前が好きだ」

まだ、彼の言っている意味がわからない。ただ、視線だけは彼を探していた。

ガラスに映る彼は、何かを静かに話していた。それはたぶん告白だったと思う。でも、その時の私には彼の言う言葉が、私の告白として聞こえていた。
私も気づいていた。彼が私を好きでいたことを…。
それでも、私は奪えなかった。あの時の彼は亡くなった奥さんの亡霊を背負って生きていると思っていたから。でも、それは逃げ、だった。
彼が背負っているものなんか本当は関係ないのに、心が触れあうたびに、彼の優しさや深さを知って、いつか、彼の背負うものをまざまざと見せられた時、私はきっと怖じ気づく。
いや、勝手に私と彼の亡くなった奥さんを天秤に掛けていたのは、私自身だった。心のどこかで、彼はそんな男じゃないと知っていたのに…。
だから、私はそんな男とは幸せになれないと思い込もうとしていた…。
彼はいつも真っ直ぐに向き合ってくれるから、それが恐かった。
いつか、自分を見透かされるかも、と思うと、素直に彼の気持ちを受け止められずにいた。
離れてしまえば、忘れると思っていた気持ちは、今日まで薄れることはなかったのに…。

彼の言葉は、私の告白をなぞるようだった。

憑き物でも落ちたように、心が凪ぎ、自然と目頭が熱くなる。
私はきっと涙を流しているんだろう…。

そっと、彼の手が私の手を包んだ。あたたかかった。

彼が、もう一度「遅すぎたか…?」 とつぶやく。

ガラスに映るお互いの視線が、重なり合っていた。
彼は切ない表情で「…遅すぎたな…」と、視線を逸らせながら静かにささやいた。
彼の握られた手に力が入る。

彼が、また何かを背負っているのが伝わった。

肩を強く抱き寄せられた。

私は、彼の鼓動を聞きながら、「待ってたのよ…」とささやいた。

「俺は、またお前を待たせてしまう…」

それは、絞り出すような、苦痛な声音だった。

「もう、待つのには慣れたわ…」

もう逃げ出せない、と思った。だから、そう答えた。
今なら、彼と向き合えると思った。

「香坂…」

抱き寄せられる肩が、痛かった。
彼の抱える闇が、彼の鼓動と共に感じられた気がして、切なかった。

「…どれくらい、待てばいい?」

「…俺が死ぬまでか…、ほんの少しか…」

それは、残酷な答えだった。それでも、私は冷静だった。

ガラスに映る彼を目で追いながら、小さく微笑んで言った。

「…本当に、女を待たせるのが好きなのね」

私はそっと、彼の頬に手を這わせ、彼の唇に唇を合わせた。
彼の頬は濡れていた。

彼は無言で、その光景をガラスに映し見ている。
その、行為は彼をもっと追いつめるのかもしれないと…、不安になったが、ガラス越しに目が合うと、微笑みを返してくれた。

その日、私は初めて彼の弱さを見た気がした。


〜revenge〜3部 慕情

強く抱き寄せられた肩が、やんわりと開放される。

「香坂…、続きは部屋で話そう…」

私は黙ってうなずいた…。
彼も小さくいなずいて、私の髪を指で優しく梳いた。

「あとは、お前が決めればいい…」

優しい声だった。
ガラスに映る彼の顔も、優しく微笑んでいた。

手を引かれて店を出た。
部屋へ戻るエレベータの中で、彼は私を強く抱きしめた。
私は力強い腕の中で、彼の鼓動を聞いていた。
この奥にどんな闇が待っているのだろう…、そう考えると恐くてたまらなかった。
震えそうな身体を彼に預けるように、彼の背中に腕を回した。
さらに強く抱きしめられる。

身体が密着して、硬直した。同時にこのままひとつになってしまいたいと思った。

「…香坂…」

彼は彼自身の熱に気づかぬ振りをした。
切ない声で私を呼び、ゆっくりと身体を離した。

本当はもっと彼の腕の中にいたかったのに、彼はそれを許してくれなかった。
空しい感情がわき上がる。
彼がこのまま私を奪ってくれないのが、たまらなく悲しかった。

彼と視線を合わせるのが恐くて、うつむいたまま何も言えない。
そっと彼の手が私の手に絡むのがわかった…。
同時に彼の悲しみが伝わってくるようで、たまらず振り解こうとした。
でも、彼はそれを逃がさず、しっかりと握りしめる。

「逃げないでくれ…香坂」

彼の切ない声が、二人だけの小さな空間に響く。

私は、彼を見た。その悲痛な表情に、頬が硬直した。

もう、何も答えられない…。
…本当に受け止められるのか…、彼の闇はどれほど深く、私を、私たちを包むだろう…。

そんな、不安だけが心を満たした。

沈黙の時間はそう長くは続かなかった。

エレベータの機械音が到着のベルを鳴らし、止まる。
ドアが開き、私は彼に手を引かれ部屋へを続く廊下をうつむいたまま歩いた。
彼は深いため息をついて、静かに聞いた。

「後悔してるか…?」
「…わからない、…でも…」
「…でも?」

彼が私に視線を落とすのを感じて、言葉に詰まった。
ただ、彼と一緒にいたい。
待てと言うなら、待つ。どんなに長い時間でも、たぶん、待てると思う…。
時間や距離じゃなく、心が通いあうだけで、それだけでいい…。
これからの人生、彼がそばにいて欲しいことだけは、変わらないと思う…。

だから…、それはきっと後悔なんてしてないって、こと…。
なのに、曖昧な返事をした。

「…わからない…の」

彼は、掠れた声で「そうか…」とつぶやいた。

彼の部屋に通されて、ベッドに促された。黙って座る。
彼は備え付けのテーブルセットのイスだけを、片手で抱え上げ私の前に置いた。
置いて、少し考えたような表情をして、背を向けると冷蔵庫からミネラルウォータのペットボトルを2本取り出す。

その後ろ姿に彼の疲労が見えて、また不安が増した。
ろくに眠れていないのだろう…。痩せた首筋が痛々しい…。

彼が振り返る。
黙って私に近づいて、手に握られたペットボトルの1本を私に手渡した。

「…ありがと…」

私はそれを受け取って、彼を見上げた。

イスの背もたれに手をかけて、少し微笑んで私を見下ろしている。
私も微笑み返した。そして静かに彼の告白を待った…。
彼は私の前に座り、私の顔を覗き込むように背を丸めた。

目が合う。口許に微かな笑みを浮かべ、彼の手が私の髪を優しく撫でる。

「…香坂、会いたかった…」

感情のそのままが、零れたような言葉だった。

ドキッと胸が鳴った。今日、何度も感じたそれ、ではなく修羅場で感じる何とも言えない締め付けられるような感覚で、身体が震えた。

彼はその震えを感じ取ったようで、すぐに髪を撫でる手を引っ込め、視線を外した。
下唇を噛むような仕草で少し沈黙する。そして、彼は独り言のようにつぶやいた。

「俺は今日、お前に再会したことを後悔しているんだ…。…もう、お前が、好きだと言った瞬間から、俺ひとりじゃ抱えきれなくなってしまった…」

彼は深くため息をつき、盗み見るように私の方を確認して悲しそうな目をした。

「…なぜ、今日なんだろうな…」

切ない微笑みが零れる。私は何も言わずに彼の口許の動きだけに視線を集中した。

「…結論から、だな」

そう言うと、ポケットに手を入れて何かをつかみ取った。手に握られているそれを、私の前に差し出す。

「…お前なら、わかるだろ」

私は彼の手の中にあるものを見た。3錠の薬…。3TC、ビラセプト、AZT…

「…抗ウイルス薬…ね」
「HIVの、な」

彼は私の言えなかった言葉を付け足した。

「針刺し…?」
「…ああ、しくじった。俺のミスだ…」
「傷は?」
「深くない、その後の処置も完璧だ…」

その返事を聞いて、胸の不安がすっと、晴れる気がした。
私は心の中で小さくため息をついて苦笑した。

「それなら、ほぼ感染はないわ」

「…でも、ゼロじゃない」

彼はきっぱりと言い切る。確かにゼロではない、でも…大丈夫だと…思った。
もし万が一、感染していたとしても、私は彼のそばにいる…。そんな曖昧な決意が心の底に根をおろす。

「感染のリスクは、0.5%以下…よ」

「そうだ、でも…、ゼロじゃない、ゼロじゃないんだ…、香坂…」

彼らしい反応だった。だだをこねる子供のような彼の表情を、可愛いと思った。

「あなたがそんなに心配性だとは思わなかったわ…」

彼は事実を、不安を、ありのままに伝えたのに、私は彼のそれをわざと無視した。
真っ直ぐに受け止めても、彼の不安は拭いきれない。当事者だけが味わう、その闇を本人以外の誰もが理解できるわけがない。だから、私は
彼は切ない表情を拭い、憮然とした目で私を見ている。

私は、微笑みを作りながら、彼の頬に左手を伸ばした。

「薬、いつまで飲み続けるの?」
「あと、2週間」

彼は表情を変えずに、視線を逸らした。
私はそれを目で追いながら、苦笑してその時に感じた素直な気持ちだけを、言葉にした。

「そう…。それなら2週間後には、あなた、私のモノになるわよ」

彼は視線を戻して、ため息まじりにつぶやく。無表情に睨みを利かせて、懐かしい仕草を作った。

「感染、してなきゃな…」

私は少し息が止まって、その仕草を愛おしいと思った。
器用に生きられない彼の、素直な気持ちが手に取るようにわかる。

「…してないわ」
「…医者の言うセリフじゃないな」
「そうね」

少し安堵の表情を見せて、彼はククっと喉の奥を鳴らして笑った。

「…お前がこんなに冷静に受け入れてくれるとは、正直思わなかった」
「あなたが逆の立場でも、私にそうしたでしょう?」
「さあな」

彼は少しだけ、立ち直ったふりをして、笑う。

「したわよ、覚えてる?私も同じミスをしてクリミアコンゴ出血熱の疑いで隔離された時。あなた、根拠のない自信たっぷりに、私を励ましたわ…」

彼は深く息を吸って、少し複雑な表情をすると、弱く小さく声を荒げた。

「俺は感染してないなんて、はっきり言ってないだろう?」

それが照れなのか、拗ねているのかわからなかった。もしかしたら、本当に怒りを言葉にしたのかもしれない。でも、それならそれで良い。ひとりで抱え込むことが辛いなら、八つ当たりだってしてもいい。彼が、すべてを預けてくれることに、意味があると思った。

私は少し意地悪な口調で、彼に言った。

「あなたが、子供みたいに、だだをこねるからでしょ」

彼は複雑な表情のまま、言葉を呑み込んだ。

彼の頬に添えた私の手が、彼のこめかみを通りくせっ毛の黒髪を梳く。優しく胸に抱き寄せてみる。
右手に握られたペットボトルが水滴を作って、手首を伝う…冷たかった。
それを、ベッドのわきに転がして、両手で彼を抱きしめた。
窮屈そうに、丸めた背をもっと小さくして、身体を預けてくる彼の髪を宥めるように撫でた。

小さくため息を洩らして、彼はささやく。

「俺は、事実を言っているんだ」
「…そうね」

そのまま黙ってしまった彼を、彼の髪をやんわりと私の手が弄ぶ。

「…何が、恐いの?」

彼は左右に首を振って、私の手から開放され、ゆるゆると上体を立て直した。
苦い顔をして、厳しい眼差しを私に送った。

「恐いんじゃない、…苦しいんだ…」

私の手が彼の手を取って、優しく包んだ。乾いて、冷たい。痛いほどの緊張が伝わってくる。

「寂しいのよ。あなたは、寂しいから人にお節介をやきたくなる…。
そうすることでしか、人との関わりをもてない…。
でも、今回はあなた自身が、その対象になった…。
…だから、どうして良いかわからないんでしょう?
だから…、苦しいんでしょ…?…私が…、私が、いるじゃない。
もう、ひとりじゃないわ…」

最後の言葉を言うのに少し躊躇した。私がそばにいることで、もっと彼を傷つけるのはわかっていたから…。それでも、気持ちを伝えてしまったからには、もう離れる気はなかった。どんな結果であれ、私は彼と彼の人生を生きる。…曖昧だった決意が、明白なものになった。

包んだ彼の手が震えていた。

「お前を、傷つける…」

弱く細い、声だった。

その言葉が、心に染みて、すべてを分かち合えたような気分になった。
彼も、きっとそうなのだろう、優しく私を見つめていた。
私は小さくうなずき、彼に微笑みを返す。

「好きよ…」

彼は視線をそらさず、まっすぐにうなずく。

「俺も、だ。香坂。…愛してる」

私はその言葉に、素直に照れた。嬉しかった。最上級の笑顔を作って彼に言った。

「ずるい!先に、言うなんて、ずるいわよ」

彼は一瞬、困った顔をして、笑った。声を上げて笑っていた。
それはやっと甘えられる相手をみつけた、子供のような表情だった。

「悪かったな」

彼は、握られた薬をポケットにしまい、ペットボトルをベッドへ放った。
空いた手で、私を抱きしめて、子供にするように頭を撫でた。

「さっきの言葉は撤回するから、お前から先に言えよ」

耳元で囁かれるそれに、私は笑った。クスクスとお互い笑いながら、お互いの体温を感じていた。
柔らかな、空気が私たちを満たす。

「さぁ、言えよ」

からかうような口調で、彼がまた囁く。

「ばか…」

私は彼の背中に腕を回しながら、頬が熱くなるのを感じていた。彼に気づかれないように、彼の肩に顔を押しつけた。懐かしい香りを胸一杯に吸い込んでみる。そして…

「…愛してる」

吐息のような囁きを、彼に返した。

きつく抱きしめられて、ベッドへ押し倒された。
彼を見上げた瞬間、唇を塞がれた。舌先が少しだけ絡む。優しいキスだった。
彼が離れる瞬間、ちょっとだけ切なかった。

「恐いか?」

彼は私を見下ろしながら、やっぱり切ない表情をしていた。
私は左右に首を振って、彼を抱きしめた。

「恐くない」

そう呟いて、彼の唇にそっと触れた。
彼は一瞬、躊躇して身体を固くしたが、触れあうと深く求めてきた。
ねっとりと絡み合う感覚に、心が満たされる。彼の体温が気持ちよかった…。
何度も、何度も、確かめ合うように求め合って、微笑み合った。
そこに言葉はいらなかった。

その日、私たちは空が白くなるまで、キスを交わした。
まどろみの中で、夢中になってた。夢と現実の境がわからなくなった頃、彼は子供のように身体を丸くして眠った。私の体温を、腕の中で感じて安心している表情だった。

私は彼の髪を梳きながら、額にキスをする。そのまま、彼の浅い寝息が、深くなるまで、彼の寝顔をみていた。

私はそっと、ベッドから抜け出すと備え付けのメモ用紙に、覚えたばかりの住所を書いて彼の枕元に置いた。

そのまま黙って部屋を出て、自分の部屋に戻り、身支度を整えるとホテルを後にした。それで良いと思った。答えは彼にしか出せない。

私には彼を縛り付けておくことができないのは、わかっていたし、それがお互いのためだととも思った。

心だけが通じあった。

彼の言うように、また待つ日々がくるのなら、それで良い。
思いだけは、通じ合ったのだから…。彼が答えを出す日を待てばいい。今までとは違う切なさが込み上げる。

待ってるわ…。

心の中でつぶやいて、彼の心が私の心と同調した瞬間を思いだそうとしていた。
涙が零れそうになって、諦めた。
その時の私には、彼を信じること、しかできなかった。






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