××× lesson
進藤一生×香坂たまき


医局のソファで医学誌を読んでいると、正面のテーブルでカルテ整理をしていた彼女が突然体を椅子ごとこちらへ向け問いかけてきた。

「ねえ、あなたっていつもそうだったの?」
「何がだ?」

何の事だかさっぱり分からないと彼女の方へ視線をやる。

「だからね、そんな風にプライベートでも無口でポーカーフェイス。その上返事は、ああとさぁなと
まぁなばっかりで、正論しか言わないし饒舌になるのは仕事の事だけ。ねぇ、奥さんいたんでしょう?
結婚する前だって、彼女の一人や二人は居た筈だわ。」

何故か少し責める様な視線を自分へ向けながらそう言う彼女の脈絡のなさを不思議に思いながらも答える。

「たしかにあまり口数が多い方ではないが・・・、どうしてそんな事をいきなり言い出すんだ?」
「だって、そういう人だって判ってはいても言葉が欲しかったり、きっと寂しいって感じる事もあったんじゃないかと思って。
もっと構って欲しいって、大切な人の傍にいるのに一人でいるみたいに感じちゃったりして…。」

そう言うと彼女は、愁いた微笑みを浮かべて溜息をついた。

その表情の儚なさに一瞬クラリとした感覚に襲われ、慌てて少しからかう様に問いかけてみる。

「どうしたんだ?お前にしては珍しい事言うな。」

そこで漸く自分の放った言葉の持つ意味に気づいたのか、早口に誤魔化す様なセリフを繋げる。

「何でもないのよ。ただ、あなたの相手をするのは色々と大変だったんじゃないかしらと思っただけ。
ああ、でもごめんなさい、私には関係なかったわね。変な事聞いちゃって。ただ、あれよ、何となくそう思っただけ・・・。」

言っているうちに自分が居た堪れなくなったのか、視線を落とし膝の上で指先を弄ぶ様に絡めて、もういいわと呟くと
体を戻しカルテを書くべくペンを握ってしまった。

そんな彼女の素振りは滅多に見られるものではなく、心の奥にある何かを焚きつける。つい構わずにはいられない自分に
少々呆れながら、普段とは違う表情をもう少し見たいと静かにソファから離れた。

「だったら、試してみるか?」

ビクリと肩を跳ね驚きで見開いた目を上げて振返り、何をよ?と言い返す声へ重ねて次の言葉を続けながら、
背後から彼女を囲う形でテーブルに両手をつく。

「俺の相手。」

腕に囲われた事で、思いの他近くにあるお互いの顔に、更に戸惑いを表したその眼は瞬きさえせずこちらを見つめ、
顔を逸らせる事も、何かを言いたそうに息を吸い込んだまま震える唇を開く事も出来ずに固まっている。

あまりに普段の香坂たまきと違う様を、こんなにも簡単に晒してしまう事へ驚きながらも、
それによって自分の中に欲が芽生えるのを自覚して、手遅れになる前に彼女を解放しようと囲いを解き、横に立ち直す。

「ちゃんと呼吸しろ。」

そう言って軽く背中を叩いてやると、フゥっと細い息を吐き出し目蓋を下ろす。
そのままこちらを見る事も何か言う事も無くテーブルの上のカルテへと向き直った彼女と、自分で認識していたよりも深く彼女へと心を
奪われていると唐突に自覚させられた事、それが面白くなくて、彼女の頭を軽く撫で髪を梳いて指先に絡めながら先程から思っている事を
口にしてみた。

「慣れてそうなのにな。そんな反応をいちいちして、今まで良くやってこれたな。」

指先が触れた途端にまた体を硬くしてしまった彼女は、次の瞬間勢い良く立ち上がり、今にも零れそうな程に潤んだ眼で睨み付けてくる。

「慣れてそうって何よ!立ち入った事を聞いて悪かったわ。気を悪くさせたのならごめんなさい。でも、こんなのって・・・あんまりだわ。」

そう掠れた声で言うと医局から出て行こうとする。それを止めるべく細い手首を取り自分の胸元へと引き寄せた。
泣かせてしまった事を後悔し、その涙にまた彼女への想いを増す。

「悪かった。少しからかい過ぎた…。なぁ、何でお前は泣いてるんだ?理由を教えてくれないか?」

もう彼女への愛しさを抑えることは出来ない、そう諦めて、自惚れでは無かろう彼女の気持ちを確認したくて涙を拭ってやりながら
その眼を覗き込むと、更に涙を零す。
嗚咽を漏らさぬ様引き結んだ唇から微かな声で帰ってきたのは、やっとの彼女らしい言葉で苦笑が漏れた。

「お前って呼ばないで…」
「―たまき。」

だから、そう呼ぶ事にした。もう、覚悟を決めた。

その時ガチャリと医局のドアが開いた。

「ああっ、進藤先生!何をやってるんですかっ!!」

矢部が喚いている後ろから、神林先生と太田川があー!と声を上げている。
その後ろから馬場先生が早く入れよと促し、続いて医局長と城島先生が入ってきた。
全員が、彼女を抱き寄せている自分と、その腕の中で涙を零している彼女を交互に見て驚いている。

涙をこれ以上零さぬ様、懸命に堪えている彼女は酷く弱く儚げで、平素との違いに皆も戸惑いつつ、その美しさに捕われた様に見ている。
早く皆の視線の無い所へ彼女を連れ出さなくてはと、独占欲が渦巻く。

嘘が十分に通用する程に涙ぐんで弱々しい彼女を具合が悪い事にして、2人とも上がり時間が
疾うに過ぎているのを良い事に、終電ももう無いし送って帰りますと医局を後にした。

彼女を助手席へと乗せ、車を走らせる。何かを諦めたのか行き先を確認する事も無く、しゅんとしたままシートに凭れている彼女へ
声を掛けようとしたその時、小さな声が許しを請う響きで発せられた。

「貴方の中へ踏み込む様な事聞いて、ごめんなさい・・・。怒ってるのよね?当然だわ。
でも、もうからかうのは止めて。上手くかわせ無いのよ・・・。」

こちらの様子を伺う色を滲ませ怯えを含んだ細い声音と表情で、けれど自分の方を見ないままで言う彼女はまた泣き出してしまいそうだ。

「怒ってない。・・・少し度が過ぎたのは、悪かった。からかっている訳じゃないんだ。」

頭を撫でて、出来る事ならば抱き締めて慰めたいという思いから自然と手が動きそうになる。
過去の自分はやはりそうやって好きな女には触れて、そうする事で相手にも思いを伝える事が出来ていた筈だ。
けれど、少し触れただけで過剰に動揺を見せる彼女をこれ以上を泣かせてしまうのも憚られて、ハンドルを握り直した。

「少し、話をさせてくれないか?」

このまま手放すつもりは無いが、無理矢理になどという趣味も無い。始めから部屋へと連れて帰るつもりだったのだが、
取り合えず、マンションの駐車場へ車を入れた所でそう言うと、その言葉にハッとして辺りを見回した彼女がここは?と問う。

「俺の家だ。安心しろ、お前が嫌がる事はしない。だから、部屋に来てくれないか?」

部屋に入ると彼女をソファへと促し、少し待ってろと言い残しキッチンへ向かう。
マグカップにミルクを注ぎレンジへかけ、エスプレッソマシンのスイッチを入れる。温まったミルクへ砂糖と濃い目のコーヒーを混ぜ、
自分の分はブラックのままでリビングのテーブルの上へ運んだ。

「隣、座っても良いか?」

コクリと頷く彼女を確認して、近過ぎない程度に間を空けて隣へ座る。

「カフェオレにしてみたんだが・・・。嫌いじゃないか?」

カップを手渡しながらそう聞くと、小さく微笑ってありがとうと両手で包み込むように受け取る。
そのままゆっくりと一口飲んだ彼女は、ほんの少し肩の力が抜けた様に見えた。

「おいしい・・・。」

やはり少し柔らいだ表情を向けられ、何だかもうずっと目を合わせてさえ貰えていなかった様な気分でその顔をまじまじと見詰ていると、
見せながらどうしたの?と伺う様に下から目線だけを上に向けられた。

その少し赤みを帯びてしまっている潤んだ瞳で、所謂上目遣いで自分を見上げる彼女は何とも抗い難い衝動を自分に起こさせる。
その勢いに収まりをつける為、深く息を吐くと彼女はまた不安そうな顔をする。きっと自分の気に障る事でもしたのかと思ったのだろう。
そんな少女じみた仕草に苦笑が漏れる。
犬か猫にでもする様にわざとくしゃりと前髪の辺りを乱暴に掴むようにして頭を撫でて、戸惑う彼女を正面から見据えて自分の思いを伝える。

「俺は、おまえが好きだ。」

彼女は目を見開いて、信じられないとでも言いたげだ。

「この状況で、信じられないとか言うんじゃないだろうな?」

また涙を溜めはじめた瞳から一滴零れたそれを親指で拭ってやると、そのまま頬を撫で覗き込む様に顔を近付けて更に言ってやる。

「おまえも俺の事、好きなんだろう?もう素直になれよ。」

「・・・あたしも、好き…。」

そのまま抱き締めるとそう小さく震える声で言い、おずおずと腕を回して背中のシャツを掴み閉じ込めた胸の中で先程までとは違う涙を
流す彼女が愛おしくてたまらない。今すぐにでも彼女の全てを自分の物にしてしまいたいが、そうは行かなさそうな事はもう、分っている。
何だか十代の頃みたいな気分だなんて思っていると、少し緩めた腕の中でシャツを濡らしてごめんなさいと掠れた声で見上げてくる。

「いや、構わない。」

髪を梳いて、もう一度抱き締める。

「何もしない。だから、今日は泊まっていかないか?」

少し間が空いて、小さく頷く彼女に頬が緩む。一度腕にぎゅっと力を込めてから解放してやると、頭を軽く叩く様に撫でる。
どうにも子供扱いしたくなるのだが、意外にも別段嫌がる素振りは無い。

「泣き過ぎて疲れただろ?風呂にでも入ったら少し落着くんじゃないか?用意してくるから待ってろ。」

素直にコクリと頷くのを見て、彼女を手に入れた喜びと何故かこの歳にもなって暫く忍耐が必要になりそうなこの状況の意味する所を
考えながらリビングを後にした。

ペタペタと裸足でリビングへ戻ってきた彼女は、化粧を落しても美しさは変らず、彼女独特の艶かしい空気感や所作はそのままに、
けれどやたらと気の強そうな印象は消え、代わりにあどけない位におっとりとした幼さを湛えていた。
そのアンバランスさの上に、濡れた髪と湯上りのほんのり色づいた素肌と湿度を纏っているせいで、何とも言えない風情を醸し出している。

「ちゃんと温まったか?やっぱり大き過ぎたな、それ。」

自分のスウェットを着た彼女は襟刳りが大きく開いている上にズボンの裾と袖口を折り上げて、ずり落ちてしまいそうなウエストを気にして掴んでいる。

「ダボダボだわ。ねぇ、ドライヤーないかしら?」
「ああ、洗面台の右の棚の二段目に入ってる。おまえ、今日もサンドイッチしか食ってないだろ?こんなものしか無いんだが・・・。

さっき買ってくれば良かったな、そこまで気が回らなかった。」
そうレトルトスープのパッケージを見せると、微笑った彼女が冷蔵庫を指して開けても良い?と聞くので頷くと中を確認しながら言った。

「お米くらい、あるでしょ?お台所、使わせて貰っても良いなら、私に作らせて?」

その間にあなたもお風呂に入ってらっしゃいと、とても自然に言い放つ。思わずこちらも自然に、ならそうさせてもらう等と返事をしたのだが、こいつはこの状況をどこまで分って言っているのかとか、やはりこういった状況に慣れてるのだろうかだとか色々と疑問が浮かぶが、
先程までの様に妙に怯えた素振りでいられても困るので、取り敢えず良しとしておくことにした。

風呂から上がると、ダイニングテーブルの上にはこの短い時間で食事の用意がほぼ調っていた。

「旨そうな匂いだな。何を作ったんだ?」
「お水?ビール?もう少しで出来るから、ちょっと待っててね。」

ビールと答えたら、グラスに注いでくれながらそう言ってアイランド形のキッチンへ戻っていった。
何だか早紀が生きていた頃に戻った様な懐かしい感じがして、またこんな気持ちになれる事なんて無いと思っていたのにと、不思議な程
穏やかに自分の気持ちが変ってゆく事を受け入れている事実に気付いて驚いた。

トマト味のレトルトスープはピラフになり、賞味期限ぎりぎりの牛乳が冷蔵庫の中で萎びていた野菜で出汁を取ったスープに、
つまみ用の残っていたハムとチーズはオムレツへ変ったのに感心をしながら、テーブルへ付き箸を手にすると、どうぞと照れくさそうにして、
自分はちゃんと手を合わせてイタダキマスをする彼女を見ながら、向かい合わせて食事をすると云う事にこんなにも喜びを感じるのかと、
乏しい食材と調味料で見事に美味しい料理を作ってくれた事を含めて思わず感謝の言葉が出た。

「ありがとうな。」

何が?と小首を傾げられ、続ける。

「飯、旨いし。・・・逃げないで、ここに居てくれて。」
「そんなの・・・、私の方こそ泣いちゃったりして、何かすごくみっともない・・・。それに、私も一緒にいたいと思ったから・・・。」

と顔を赤くしながら言う。

「そうか。――今日のおまえは別人みたいだな。」
「仕方ないじゃない・・・。だって、色々急過ぎたって言うか・・・混乱しちゃて。」

等と目を逸らしてモゴモゴと言う姿が可愛らしくて思わず笑ってしまった。
何よ!といつもの調子でこちらを睨み上げて、黙々とスプーンを口に運び始めた彼女を眺めながら、食事を済ませた。

彼の寝室のベッドの端に座って、やっぱりどうして良いか分からない逃げ出したい位の気持ちで動けずにいると、
さっさと毛布の中へ潜り込み自分の横を軽く叩いてこっちへ来いと促す彼がしょうがないなとでも云う様に微笑って言う。

「抱きしめて眠る位、させてくれないか?」

優しい、けれどどこか途方に暮れた様な目で見詰められながら手を引かれ、初めて見たそのちょっと情け無い感じの表情が可愛いかもと
見惚れているうちに気が付いたら抱き込められていた。

「おまえ、耳まで真っ赤だぞ。」

ふっ、と笑って面白そうに言う。

しょうがないじゃない!とか貴方が余裕過ぎる方がどうなの?てゆーか本気で寝るつもりなの?いや、これ以上何かされても
耐えられないから良いんだけど、でも私の事好きなのよね?だとかぐるぐると考えてリアクション出来ずにいると、
米神の辺りから頬を撫でられてすごく優しい声と微笑みで見つめられた。
ああ、この男は何て顔をするのだろう。
お互いに良き同僚以上の好意を内に抱いているのに自分自身のそれにさえ気付かない様お互が努めている。
そんな関係を続けて成就する事など決してないだろうと、けれど諦める事も出来ずにいたその腕に包まれて、不甲斐無い自分に合わせて
くれているに違いない優しさに、感動すら覚える。急激に変り過ぎた状況に溢れ出した幸福感と痛い位どきどきと早鐘を打ち続けている
心臓は間違いなく私の物なのに、これは本当に自分の身に起こっている現実なのだろうかと不安にさえなってきた。

何だか切なくなってきて、どうしよう泣きそうと思ったときには遅かった。
今日はもうずっと混乱している頭は相変わらず上手く働かなくて、感情のコントロールも出来なくて、また涙を流す私に今度こそ
呆れて面倒な女だと思われるのではないかと考えたら、ますます泣けてきてしまった。

「どうした?」

早く、何でもないって笑って言わなくちゃと思ってもどうにもならなくて、でも、でもこれだけは譲れないと、
何がどうとか、それよりも気になる事は沢山ある筈なのにどうしても、それが聴きたかった。

「名前、さっきは呼んでくれたのに・・・。おまえは嫌って、いつも言ってるじゃない。」

顔を見ることも出来ずに、縋る様に彼の胸に擦り寄って駄々を捏ねて強請る声は嗚咽交じりで、もうこれではまるで子供だ。
けれど、自分でも意味が分らない位の、かなりめちゃくちゃな私の言動に嫌な顔もせずに、優しい声をちゃんとくれた。

「おやすみ、たまき。」

涙を拭っておでこにキスをくれて、ゆっくりと優しいリズムで背中をあやす様に撫でてくれるのが心地よくて、そのまま眠りに落ちた。

結局彼の腕に抱かれて眠ったあの日から、もう一週間が経ってしまった。私達の日常は相変わらず忙しく、束の間の休憩を屋上でとっていると彼が隣にやって来て髪を頬を撫でてくれたり、眼が合うと微かに微笑んでくれたりする位でこれといった変化も無いままに
今に至るのだが、それが余計に私を戸惑わせる。ふと仕事が穏やかな時に彼が視界に入るだけで私の心はザワザワと落着かなくなる。

あの日の朝方に家へ帰ってから一人になった事で少し冷静さを取り戻して漸く気が付いたのだが、一緒のベッドで一夜を共にしたにも
係らず、唇にキスさえ貰っていない。あまりに狼狽えている私を思っての結果だとは重々分ってはいるのだが、何だか釈然としない。
それにやたらと女の扱いに慣れているというか、やる事がいちいちスマート過ぎるのだ。無愛想だし取っ付きにくい印象はあるけれど
ちゃんと見ていれば優しい事も頼りになる事も分る。顔だって体格だって声だって結構な男前だからモテるのだろうし、
結婚だってしていたのだからそれなりに気が付くのは分るが、それにしてもと思う。

言われるがままに湯船に浸かりながら、そう云えばメイク落としも化粧水も無いけどどうしようとぼんやり考えていると、
お泊りセット一式をコンビニで買って来てくれたのだ。しかも泣き過ぎて目が腫れると冷却アイマスクまで。
病院に泊り込む事が多いので化粧品一式はロッカーに常備してある為、基本的にバッグの中にはグロスルージュとアトマイザー位しか
普段は入れてない。いきなり素顔を見られるのには少し抵抗があったのだが彼は、美人なのは知っていたけど素顔は可愛いんだな、
なんて事を恥し気も無くサラリと言ってのけた。

彼の態度が大きく変った訳でも口数が増えている訳でもないが、掛けられる言葉や向けられる表情や仕草がいちいち優しくて、
私が過剰な反応をみせるからしないでいてくれるだけで、きっと自然に肩を抱いたりキスをしたりするのが上手で過去の女性達には
そうやってきたのだろう事は伺える節が多々ある。確かに、触れられると緊張してしまうのだが、でも本当はもっと触れて欲しい。

何だかモヤモヤとした気持ちを抱えたまま数日振りに病院の外へ出ると初夏の風が気持ち良かった。久しぶりに明日は丸一日休みだ。
後一時間は電車もあるし、気分転換にたまには歩いて帰ろうといつもならタクシー乗り場のロータリー側へ回るのだが、
そのまま病院を背に駅へ向かい歩き始めた。この一週間は特に忙しかったから、とにかく今日は帰ってさっさと寝てしまおう、
色々と考えるのはその後にしようと半ば思考を放棄してそう決めたその時、携帯が鳴った。
急患だから戻って来いなんて言われるんじゃないわよねなんて思いながらディスプレイを確認せずに着信を取ってしまった私の心臓は
相手の声を聞いたとたん跳ね上がった。

「今、どこだ?」

私の少し後に病院を出たのだと云う彼に捕まって、車の助手席に乗せられて着いた先は私のマンションの前だった。
なんだ、単純に送ってくれただけなのかと少し悲しい気持ちになったけれど、ありがとうと言おうとした私よりも早く彼が口を開いた。

「今日は泊まって行っても良いか?俺の家でも良いんだが・・・、自分の家の方が何かと良いだろう?嫌か?」

何を言われているのか直ぐに理解出来ない位驚いた。だいたい、何かとって、何?と固まっていると更に言う。

「ああ、部屋に入られるのが嫌なら、待ってるから荷物を用意して来れば良い。」
「・・・えっと、選択肢はどっちの家かってトコだけなの?」

すると彼は、ああそうかと云う表情をして、いつの間にシートベルトを外したのか私のシートバックに手を突いて体ごと一気に
近付いてきた。大きな掌で頬を包まれて親指で唇をなぞられ、病院で見せるのとは違う男の顔をして言った。

「一緒に居たいと思うのは俺だけなのか?」
「っ、私も、一緒に居たいけど・・・」
「なら問題ないだろう?大丈夫だ、お前に無理はさせない。だから・・・」

ふわりと唇に彼のそれが重なり、掠めるだけでゆっくりと離れていった。

「コレ位は許して欲しいところだな。」

そう哂うと、呆然としている私を無視して勝手に結論を出した。

「そうだな2,3日分の着替えとか、荷物が多くなっても良いから暫く生活するのに不自由が無い様に要る物全部持って来い。」


彼の部屋のソファの上で後から抱込められて、左手は指を絡める取る形で繋がれて、次々とされる彼の問い掛けにまるで催眠術でも
掛けられているのではないかと思う位素直に答えてしまっている。

「男に言い寄られるのはあり過ぎる位あるだろ。」
「・・・まぁ、それなりに。」
「で、付き合っても良いかなと思って付き合ってみた事も何度かはあるってやつか。」
「ちゃんと好きだと思える人とよ?」
「でも、相手との温度差が埋められないまま、相手は先を急ぐと?」
「だって、皆急にって言うか、凄い勢いで迫ってくるし・・・。本当に忙しいのに次はいつ会えるとか、電話に何で出ないんだとか言うし。
頑張って疲れてても時間作って会いたいって段々思えなくなってくるのよ。」
「キスをした事は?」
「あるわよ?」
「さっきみたいな軽いのじゃなくて、だぞ?」
「・・・あるわ。」
「まぁ、いいか。でも、セックスはした事ない。そうだろ?」
「っ!そ、そうよ・・・。やっぱり、変よねこの歳でなんて。そんな女、面倒だし嫌よね・・・。」
「いや、寧ろ嬉しい。」
「・・・・・・」
「たまき、キスは出来るんだよな?」

名前を呼ばれるのは3度目だわ、と考えている隙に、抱えられて彼の膝の上に向き合う形で乗りげる体制にされ唇を塞がれてしまった。

右手で小さな頭を包んで親指で耳殻をなぞり時折首筋を中指で伝いまた頬を頭を撫でる様に包み、左手は腰に回し体を引き寄せて啄ばむ様に
軽く触れるだけのキスを繰り返す。閉じられた眼を縁取る睫毛は小さく震え遠慮がちに自分の両腕の辺りのシャツを握っている彼女の表情を
眺めながら、その閉じられた唇を舐めてみると驚いたのか目を開け顎を引こうとする。
少し唇を離してやると、眉を下げ潤りとした瞳を揺らしているから、強く目線を捕らえてもう一度ゆっくりと唇全体を覆う形で舐めてやると、
真っ赤になって慌てて目を瞑る。そのまま細い顎に指を宛がい唇を開かせると口腔へと割り入った。
上顎をなぞると肩を竦める様に跳ね上げ、シャツを握る手に力が込められる。舌を絡め取ると閉じられた目が更にぎゅっと瞑る。
歯列をなぞり、深く嬲り舌を軽く吸い上げると、先程から上手く呼吸が出来ていないのに懸命に口付けを受けている彼女を解放してやる。

「舌を入れられた所でいつも逃げてたんだろう?」

くたりと自分の胸元へ凭れた彼女はまだ息も整わず答えないが、それはやはりそう云う事なのだろう。

「まずはキスの練習からだな、たまき。」

顎を掬いこちらを向かせるとそう告げて、また深く唇を犯した。

散々口内を蹂躙し時折苦しいと訴える様に胸を押し戻そうとする彼女を無視して何度も繰り返す内に、少しづつ呼吸の仕方を覚えてきたのか
強張っていた体の力は抜け、自覚はしていないようだが時折甘い吐息が零れる。結局息は上がってしまうままだけれども、
止める事をしなくなったので唇を解いた。

「まぁ、合格だな。」

そう言って頭を撫でてやると、とろりとした目を上げて見つめてくる。その顔がやたらに色っぽくて、抑えが利かなくなると困ると
表情が見えない様に胸に抱き直して髪を梳く。

「なぁ、お前が狼狽えようと、その気があればこう云う機会は沢山あった筈だろう?余程最初の段階ではぐらかしたり逃げ道を作っておか
ないと、相手はその気なんだから男の力と欲に敵う訳もない。結局今まで直ぐに逃げて来たって事は余程何か理由があるんじゃないのか?」

基本的に気の強いと云うか意志が強く目指すべきものに明確に取組む質の彼女が、恋愛事に関してはこうもおっかなびっくりと云う事が
若干府に落ちない。まぁ、大よそ自分の推測通りだと思うのだが、一応確認をしておこうと尋ねる。

「…大切に思ってくれてるって分ってる相手でも、怖くて引いちゃって・・・。最終的には押し切ろうとするし。切欠は乞われてでも、
本気で好きになれると思った人なのよ?でも、気持ちが相手に追い着く前に急がれて・・・。偶々知合いだったってだけで、
私の何を知ってるのかしらって思うろくに話した事も無い人達が言う好きだって言葉と同じなのかなって。こういう事をする為だけが
目的なんじゃないかって疑っちゃうの。外見の嗜好の問題でそれを基準に自分の欲を満たす為の道具なのかなって。だから、皆直ぐに
触れたがるのかなって…。それに興味本位でする事でも、無い筈でしょう?」
「そうか。子供の頃から知らない大人に声を掛けられたり、すれ違い際に色々言われたり何かされそうになったりもして来たんだろ。」

頷く彼女にやはりと思いながら、それにしても根が真面目で臆病で純粋なのだと改めて確信した。

しかし自分でそう仕向けている上で抑えているとはいえ、こうも生殺し状態が続くのは結構堪える。少しずつ開いて染めてゆく愉しみは
あるのだがそろそろ限界だ。それに彼女だって中途半端な状態が続けば、自分に何か足りないのでは等とまた要らぬ不安を募らせるだろう。
忙しい自分達が揃って明日の午後までは休みの今日ならばと半ば作為的にこの状況を作ったのだ。気持ちに嘘は無くとも嵌めているに
違わない自分に、健気な彼女へ多少の申し訳なさを感じつつ、その姿にまた、抑えられない欲望が湧き出る。

「でも、俺の事は受け入れようとしてくれているんだろう?俺は香坂たまきという人間そのもの全てが欲しいと思ってる。
お前も俺の全部を受止めてくれるか?たまき。」
真っ直ぐに見つめてそう言うと、相変わらず潤んだ瞳で、けれどしっかりと見つめ返されコクリと頷くと酷く綺麗な微笑みと共に言った。

「ありがとう。…貴方の全部を下さい。私の全部も貴方が貰って?」

ベッドの中央に彼女を降ろして座らすと頬に目元に額に口付け、左手で彼女の右手の指と交互になる様絡め取り手の甲へも唇を落とす。
その手を頬に寄せ額を合わせて、極近い距離で目を覗き込むと目蓋を下ろすのを見てから、ゆっくりと唇を合わせた。
先刻教えた通りに受止めるのが可愛くて、深く激しく何度も繰り返えして漸く開放してやると、惚けたようになっていて苦笑が漏れる。

「キスだけでそんなんで、大丈夫か?」
「―っはぁ…。がんば、る、から…」
「なら、次に行かせて貰うぞ。」

彼女に無理はさせられないとは云っても最終的にかなりの無理を強いるのだから、と全神経を使って抑制を脳と体に掛けているのに、
無自覚な彼女の仕草に言葉にそれが吹き飛びそうになる。それを隠すかの様に、せめて彼女には余裕があると思わせておきたいと云う
くだらない男のプライドがどうにか勢いを抑える糧となっている。

ワンピースのファスナーを下ろし腕を抜かせ、抱き寄せた腰を浮かして抜き取ると、濃紺のレースに青緑とすみれ色の糸で刺繍を施された
下着が肌の白さを一層引き立ていた。恥ずかしそうに俯いている彼女の髪を右サイドへ纏める様に梳いて、露わになった左耳の後から
首筋を通り鎖骨を指先で辿り、同じ場所を今度は唇を寄せ舌で辿る。肩紐をずらしブラの縁取りに沿って柔らかい肌の上へ指を滑らせ
やはり辿った同じラインを唇で追うとヒクリと肩を強張らせマットへ付いた手を握り締めるのが見えた。
自分の手で軽く掴めてしまう程に細い肩から腕にかけてを下りると微かに震える拳を上から包んで、肩に二の腕にと口付けてゆき
握られたままの手を持上げ薬指の付根辺りにキスをする。

「たまき、顔を上げてくれないか?」

けれど逆に、俯いたまま自分の胸元へ擦り寄ってきてしまった。

「仕方ないな。」

そう背中に腕を回し抱き締めた耳元で言ってやれば、そちら側の肩を竦める。その隙にフックを外し片方のストラップを腕から外して
再度耳元で、ほら、と促すとまた体を捩じらせようとする間にもう片方も腕から外し取り去ってしまう。
すると益々こちらへ身を寄せてくるので、抱き寄せる振りをして腰を上げさせショーツをスルリと剥いだ。
結果的に全てを取り攫われた彼女は更に離れようとはせず、体を隠そうとしている。

「見せてくれないのか?」
「んっ・・・だって、恥ずかしい・・・。」
「これからする事に比べれば、どうって事無いだろ?」
「っ!そう云う事、言わないでよ・・・。」
「本当の事だろう?ほら・・・な?ちゃんと見せてくれ。たまき。」

耳元で低く話されるのが感じるのか、その度に肩を背筋を反応させる。そのタイミングを見計らってベッドへ押し倒した。

肩口をシーツへ押し付けて両手首を頭の上で一纏めにし脚を跨いで上から見下ろすと、困惑した目には涙が溜まっていた。
頬を撫で顎先から喉元を通り左胸を掌で包むと、ひゅっと息を呑む。また頬から順に口付けて包んだままの左胸の膨らみの下から
掬うように舐めると同時に先端を軽く擦ると、息を止めたままくっと喉の奥を鳴らした。
掌を滑らせ臍の周りを撫ぜるとその窪みに唇を寄せてから、一度離してやるとはぁっと大きく息を吐く。

「そんなに緊張するな。苦しいだろう?」
「・・・ど、したら、良いかなんて、分らない・・・」
「なら、こうしよう。」

そう言って唇を掠めてキスを落してから、その小さな口腔に右の人差し指を捩じ込んだ。

「噛んでも構わないからな、ちゃんと呼吸しろ。」

そうして今度は片胸を捏ね、もう一方は先端を口に含み舌で転がしながら口の中も指で弄んだりすると、まだ慣れぬ感覚に背を逸らして
鼻に抜けた吐息を零した。暫く胸元に顔を埋めて執拗に繰り返していると、頭を振って涙を溢れさせくぐもった声で何かを訴える。

「んっ!ふぁ・・・ぁ。んんっぅ、やぁ!」

あまりに必死に嫌々と頭を振るので指を抜いて額に掛かった髪を掻き揚げて撫で、閉じる事が出来なかった口の端から唾液が
零れているのを拭ってやる。

「どうした?」
「指、噛んじゃうの、ダメ・・・。貴方の、手は、人を救う為に、あるのよ・・・。」
「お前が噛む位、大丈夫だぞ?」
「ダメよ。それに、痛いでしょ?」
「全く、こんな時に俺の事なんて気にしなくて良いのに。」

可愛いことを言ってくれるなと、煽られるのを自覚しながらそれではと次の手を考える。

とは言っても、ならば次々と刺激を与えて体に力を入れる事も余所事を考える隙も無くなるまで煽り立ててやるしか無い。
侵食するかの勢いで口腔を貪る様に好き勝手に奪いながら、背筋をなぞり臀部を撫で膝の辺りから内腿をやわやわと擦る。
唇を鎖骨へ胸の突起へと移動させると放たれた唇から甘い声が漏れ始めた。その声を自分で認知したのだろう、困惑した様に眉を顰め
唇を手で押さえてしまうから、その上からキスを落すと距離を詰めたまま手を外させる。
揺れる瞳を見つめながらその指を自分の口に含み、指先を食み、声を我慢するなと教える。

「・・・だって・・・」
「恥ずかしがらなくて良い。俺が聴きたいんだ・・・。」
「・・・でも・・・」
「まあ、いい。どっちにしろ声を気にしてなんていられなくさせてやるから、覚悟しとけよ?」
「っ!!」

シャツを脱ぎ捨てながらそう言って哂うと、言葉も返せず目を見開いたその顔がこれ以上無い位に赤く染まった。

素肌の逞しい胸に抱き締められ、直接触れ合う肌の温かさがこんなにも心地良いものだったのかと思った。
与えられる刺激の全てが私には新しく未知の領域で、ともすると体が逃げるべく動いてしまうのをどうにか耐えているので精一杯だ。
最初は合図の様に指先で触れた所へ唇が辿るのを繰り返されていたのだが、いつまでもそうしていては先に進めないとばかりに弄られはじめ、
予測など出来る訳が無い私は翻弄されるしかない。

彼に触れられる度に背筋を何かが這い上がり、頭と体の奥の方から熱く痺れた様な感覚が湧き起こり、自分の声が知らなかった甘い響きを
含んで唇から零れる。手を押し当て喉の奥に力を込めてどうにか高い声が上がりそうになるのを留めていると、背に腕を回され上体をマット
から少し浮かされた。突然体が浮いたのが怖くて、慌てて彼の首にぎゅっと巻き付くと耳元に熱い吐息が掛かった。
私だけが熱に浮かされている訳じゃないんだと教えてくれている様で少しふんわりとした気分になっている一瞬の間に、腿を撫でていた手が
脚の付け根を辿りその間に滑り込んできた。

「−っゃ・・・」
「まだまだ、だぞ?」

思わず腰を引いて逃げようとすると、強い力で引き寄せられびくともしなかった。
大きな掌でそこ全体を包む様に覆われ、中指でツゥっと一撫でされただけで、背がビクリと跳ねもうずっと温かいものが溢れていたのに
更に零れて彼の手を濡らしてゆくのが分った。

「いっぱい、だな?」

ニヤリと哂う彼は嬉しそうに態と水音を立てて表面を再度撫でる。

濡れると言う事は勿論知ってはいたけれど、まさかこれ程のものかと、あまりに溢れてくるから何時気付かれてしまうのだろうと、
伝い落ちてシーツに染みを作ってしまうのも避けたいしと、無理だと分っていても羞恥心からずっとそう思ってたのに彼の指が動く度に
体は付いて行かない初めての感覚に襲われ、それと同時にまた溢れ出してしまう。

「ぁ・・・ふっっ!・・・や、あ・・・」

前側の突起はたまに掠める位で襞とその周りを弄られ、指が宛がわれると第一関節位までを入れられ、力を抜けと耳元で聞えたと同時に
ゆっくりと指が押し込めれられた。

「やっぱり、きついな。痛くは無いか?」
「んっ。大、丈夫・・・。」

するとくるりと中で一周回されて、先端を押すように捏ねられた。

「ひゃっ、あぁ!−いゃ・・・」

これまで以上の鋭い感覚に襲われて彼にしがみ付く手に力を込めると、くっと喉の奥で哂われたのが耳元で聴こえた。

体の前面が密着する位にしがみ付いてくるのを支えながら、背筋を脇腹を脚を愛撫するのと同時に彼女の中心を弄ぶ。
ビクリビクリと背を跳ね膝を震わせて懸命に受け止めている彼女の中はやはり狭くて、今日それをするのは流石に可哀相かと思っていた
のだが、結局彼女の為にももう少し力が抜けていた方が受け入れ易いのではと、指を抜き背をシーツに戻してやる。
全ての刺激が無くなったからか、荒い呼吸で胸を上下させながらとろりと目を開きこちらの様子を伺ってくる。

臍の辺りを嬲ったり口付けをしたりするだけでも、髪に手を差し込まれて頭を引き上げようとしていた彼女は、また肋骨の下辺り
からお腹を辿り降りた自分を止めようとする。しかし今度はその訴えを無視して、腰骨を軽く噛むと脚を押し広げその間に顔を埋めて
そこを舐め上げた。瞬間、膝を立て閉じようとし腰は逃れようと捩られるのを押さえ込み舌で弄る。

「やぁ!…進、藤せんせっ。やめ、て…んっぅ!や、ゃあっ!」

泣きながら抵抗にもならない位弱い力しか入らないのにも係わらず嫌だと震える彼女に大丈夫だからと短く告げ、赤く膨れたそれを
唇で食んで舌先で転がすと、高い声と共に顎が上がり背を反らせくたりと動かなくなった。

軽く達した事が理解出来ないのか、ぼんやりと目を開いたまま焦点が合っていない。その柔らかな体を抱き締めて頭を撫でると一度離し、
手早くベルトを外し全てを取り払い避妊具を装けてから再度彼女に覆いかぶさると隙間が無い位にぴったりと抱き締めた耳元で告げる。

「いくぞ?ちゃんと掴まっとけ。」

腕の中で小さく頷いた彼女の唇にキスをすると、両膝を大きく割らせてゆっくりと自身を宛がい中へと進む。
眉を寄せ唇を噛み締めて苦しそうに歪められた表情に、それでも先を求める自分の浅ましさを嘲る思いが頭を過ぎるがそのままじわりと
中へ挿れてゆく。相当痛いのだろう、結ばれた唇からは嗚咽に似た声が喉の奥で殺されてくぐもった悲鳴が微かに聞こえる。

「ひっ…痛っーーーんぅ、っ!」

根元まで押し込んだまま少しでも落ち着いて痛みが和らぐまではと、髪を梳き零れた涙を拭い腕に抱いていると掠れた声が放たれた。

「ね、私は大丈夫だから、貴方の良い様に、して?」

辛いだろうに、自分の為に微笑ってそう言ってくれる健気さが堪らない。

「…悪い。もう限界だ。」

さすがに激しく動いたりはしないが、それでも彼女にとっては十分過ぎるスピードで一気に追い上げてゆく。切れてしまうのではと
思う程に奥歯を噛締め引き結ばれた唇を舐めて開かせると、苦痛の中にも悦びを感じる様になってきたのか甘い声が漏れた。
中を抉る様に抜差しをしながら、他の所から与えられる快楽で少しでも痛みが紛れればと敢えて激しく掌で彼方此方の肌を柔らかな胸元を
確かめ、深く彼女の舌を絡め取り覚えたての感覚を強制する。

「ふぁ・・・っんや、あ・・・。んんっ!っあぁーーぁん・・・」

小さな波の様に震える背筋と上がる声の甘さに、自身を締め付ける熱くうねる彼女の内側に、そろそろかと自分も昂りを開放するべく
最奥まで打ち突けながら、耳朶を甘噛みし息を吹き込む様に舌を差し入れ胸の先端を押し捻る。

「ひゃあっっ!ぃやぁ、んーーーっ!!」

彼女の感覚が鋭く反応する所ばかりを一斉に煽ってやると、元から狭い内壁がきつく締上げる様にヒクついて嬌声を高く上げた。
それと同時に自身も欲を放ち、力が抜けてくったりとなっている彼女の中からゆっくりと抜き出した。

はぁはぁと大きく息を繰り返し、涙で滲んだ瞳はぼんやりと空を見つめ全身の肌は桜色に火照っている姿はかなり扇情的で
ついもう一度と思ってしまう自分を戒めて、抱き寄せて囁く。

「…たまき、愛してる。」

瞬間、緊張の糸が切れたのか子供の様にポロポロと涙を流し始めた。小さく零れる嗚咽の合間に一生懸命喋ろうとする様はいたいけだ。

「っぅ、−−あ、たしもっ、す、き。ーんっ、っく…愛し、てる…」

砕けてしまうのではと云う程に強く抱すくめ、泣き続ける彼女をあやす様にしていると暫くして腕の中から寝息が聞え始めた。
酷く無邪気な印象を与えるその寝顔を眺めながら女の貌をしていた彼女を思い出し、抱く程に情が移り愛おしさと所有欲が湧くと云う
自分も例外ではない有り触れた男の性を抜きにしてもその魅力に陥落した己を自覚する。
慣れていない風情とそれに混ざった妖しいまでの艶めかしさだけでも十分にクラクラと眩暈がする程なのに、自分しか知らないのだと、
これから先も自分以外を知る事などさせてはやらないし、もっと悦びを教えて染め上げてやろうと思うと喜悦する。
すっかり深い眠りに就いた彼女の左胸の膨らみの上に紅い所有印を付けると、甘い彼女の匂いと温もりを感じながら目を閉じた。

暑い、そう感じて目が覚めた。酷く喉が渇いてるし何だか狭苦しくてまだ重い瞼をゆっくり開くと、浅黒い男の肌と尖った喉仏が
目の前に現れた。寝起きの頭はぼんやりとしていてよく考えずにそのまま目線を上に上げると、薄っすらと髭が伸び始めた顎先が見えて、
その先には穏やかな表情で眠っている進藤先生の顔があった。
あっ、と思わず声を上げそうになって慌てて口を噤むと、今の自分の状況を漸く思い出した私の心臓はドキドキとスピードを上げてしまい、
彼の体温が高いから暑かった筈なのに、自分の体中が熱を帯びて彼の温度と同化してしまう。
取りあえずこの腕から抜け出さないとどうにかなってしまいそうだし、彼が起きる前に服を着ておきたいのにがっちりと抱き込まれていて
動くと気付かれてしまいそでどうしようと悩んでいると、小さく唸った彼が目覚めたのか身動ぐから咄嗟に眼を瞑って寝てる振りをしてしまった。

程なくして腕が解かれ、彼が起き上がったのが分った。欠伸をして伸びでもしてるのかベッドが軽く軋む。
どうしようと思っていると、ふと閉じた瞼に感じる光に影が差して左耳の下辺りのスプリングがギシリと音を立てた。
額を頬を撫でてくれている彼がふっと微笑った様な気配がした後、唇に柔らかい感触が降ってきたから思わず目を開いてしまった。

「おはよう。」
「・・・おはよう。」

唇はあっさりと離れていったけれど、私の左側に横になって片肘を付き頭を手に乗せてこちらを見下ろす格好で髪を撫でられているから
距離が近いのには変らない上、優しい眼差しを向けてくれてはいるけれど確実に面白がっているのが分る表情を浮かべている。何だか気恥ずかしくて
彼に背を向ける様に身捩ぐと、くっと喉の奥の方で哂われたのと同時に背中からまた抱きすくめられ、頭の上に顎を置く位置で囲われてしまった。

「起きてたろ?」
「・・・」
「何で、そっち向くんだ?」
「・・・だって、何か、照れくさい・・・」
「思い出すか?昨日の事。」

分ってるくせに耳元で聞いてくる彼がそう言いながら左胸を掌で包み首筋に口付けるから、また心臓がドクンと打ち付けて、
ちょっと位反論したいのに何も言えなくなってしまう。

何と返事をしたら良いかも分らないし、ただ包まれているだけとはいえ胸にずっと手を置かれているのは落ち着かなくて自分の胸元へ
目をやると、丁度彼の親指が当たってる辺りに紅い痕が出来ていた。
昨日までは無かった筈だしこんな所ぶつけたりなんてしないから、どうしたのかと思わずそこに指をなぞらせると、彼が耳元で哂った。

「お前が眠ってる間に付けた。」
「・・・えっ?」

付けたって、と云う事は所謂キスマークだと頭が理解するより先に身体を仰向けに返されて、その同じ場所に音を立てて軽くキスを落すと
上体を起こして上から見下ろされる。チュッと可愛らしい音を立てたキスは妙に羞恥心を掻き立てて、いよいよどうして良いか分からない。

「キスマーク。知ってるだろう?」

起き抜けの掠れた声とまだ少し眠そうな表情がやけに色っぽくて、からかう様に唇の端を上げた哂い方や少し意地悪な口調が、
それでも絶対的に愛されてると確信出来る程に私へと向けられている優しさに混ぜられて、悔しい位に彼に捕われている自分を自覚する。
彼の顔を見ているのが耐えられなくて、重い体を起こして彼の首に巻きつくと滲み始めた視界に、幸せ過ぎると泣きたくなるのねと
思いながら、また泣いてるなんて知られたく無いから声が震えない様に気を付けながら言った。

「・・・ずるいわ。貴方ばっかり余裕なんて。」

抱き込めていた温もりがもぞりと動く気配がして目を開くと、先に起きた筈の彼女が赤くなった顔で目を閉じていた。
思わず寝ている振りをしてしまったけれど、今度はどのタイミングで起きたら良いのか分らなくなってしまってるのであろう彼女の目を
開かせるべく、軽くキスをする。予想通りの反応で開かれた目を覗いて朝の挨拶をすると、寝起きのせいか昨日の行為の名残か、
気怠げな声と潤んだ瞳が恥ずかしそうにチラリと向けられ、直ぐに背を向けられてしまった。

キスマークを見付てそれだとは分らなかったのか指でなぞるから教えてやると、更に頬を赤く染める。
この間から仕草の一々が初々しくて、反応も表情も普段の彼女からは想像もつかない位に可愛らしく愛おしさは増すばかりなのに、
まだ何も身に着けていない体を寄せ首元に顔を埋める様に抱き付かれ、俺ばかりが余裕だと拗ねた子供の様な事を甘えた声で言う。

実の所余裕なんて無いのだが、やはりそう思わせていたいと、自分の欲の赴くままでは優しくなんて出来やしないから煽ってくれるなとさえ
願う程に経験値の差など無意味で、寧ろ無意識の彼女の所作の全てが男の性を擽るから質が悪い。
これでは彼女自身も今まで嫌な目にも怖い目にも沢山遭ってきたのだろうが、少なからず相手の男達に同情すら覚える。しかもきっと
あの高飛車な態度でかわされてきたであろう事は明白だから居た堪れない。
暫くは慣れてない風情の彼女をからかい愉しむ事も出来るだろうが、元が勝気で覚えも良い上この艶のある美しさに何時まで優位で
いられるのかと考えてしまうのも事実だ。

取りあえず、いつまでもくっついていられるとそのまま行為を始めてしまいそうなので離れて貰う事にしようと、背に回して支えていた掌を
腰元へ降ろしくびれを撫でると耳元でわざと低めのざらついた声を作る。彼女がこれに弱い事は昨日分った事の一つだ。

「朝から誘ってるのか?」
「え?・・・なっ、そんな訳無いでしょう!」

漸く今の自分の格好に思い至ったのか勢いよく離れて上掛けを引き寄せるのを笑いながら、くしゃくしゃと頭を撫でるとベッドから降り
床に落ちていた自分のシャツを拾い上げ彼女へ放った。

冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取出し幾らか飲んでボトルごと彼女へ渡しシャワー浴びてくると告げると、小さな声で
いってらっしゃいと言われた。何だか胸の辺りがこそばゆい感じがして苦笑と共にあぁとだけ返事を返すと、やっぱり翻弄されているのは
自分の方だと思いながらバスルームに向かった。

シャワーを浴びて着替えた彼女はいつものクールで強気な印象を与えるデザインではなく柔らかい織地の白いAラインのプルオーバーワンピースに
モスグリーンのクシュクシュとしたクロップドパンツ姿でカジュアルなのが新鮮でついじっと見ていると、何?と首を傾げる。

「いや、そーゆう格好も似合うな。まぁ、“香坂先生”には見えないけどな。」
「一応TPOに合わせてるもの。プライベートでまで医者に見えなくて結構よ。」
「そうだな、矢部になんか見せたら大騒ぎしそうだ。違う顔のたまきを俺以外に見せる必要はないしな。」
「・・・貴方って、結構さらっと恥ずかしい事言うわよね・・・。」
「そうか?まぁ俺もTPOで多少性格変えてるからな。」

直ぐに顔が赤くなったり動揺したり瞳を潤ませたりと分りやすい反応ばかりを示す彼女を見ていると、普段の彼女は
どれだけ武装しているのかと思う。もちろん仕事の時と私的な時間では意識せずとも多少の切替が存在するのが社会人の大概だ。
けれど彼女の場合ギャップにも程があるだろうと、その切替ぶりに感心すらする。

大丈夫とは言いつつやはり体がキツイ様子の彼女をソファに座らせて並んでコーヒーを飲みながら、今日これからどうするつもりなのかを聞いてみる。
「明日の朝まで休みだろ。俺は今日の16時から病院に戻るんだが、帰るつもりなのか?」
「ええ、一度帰るわ。着替えたいし、鍵だって、どうするのよ?」
「だから2,3日困らない程度の荷物を持って来いと言ったんだ。鍵は作れば良いし、どうせ一度病院に戻ったら暫く帰れないんだから

お前もここに帰って来るようにすればすれ違いも減るだろう?こっちの方が近いから体力的にも楽だしな。」

「・・・それって、一緒に住むって事?同棲、するの?って言うか、貴方初めからそのつもりだったの?」
「まあ、そんな所だな。別にお前の家を引き払えと言ってる訳じゃない。帰りたい時は帰れば良い。ただ、ここにいても不自由が

無い様にしておけば良いし、家は好きに使ってくれて構わないと言ってるんだ。」

結局一度家へ戻ると言うので、マンションの近くにあるカフェで軽い食事を済ませてから彼女の部屋へ上がり込み
折角車で来ているのだから荷造りしろと急かすと躊躇いがちに口を開いた。

「それは徐々にって云うのじゃ、ダメかしら?貴方にとっては普通なのかも知れないけれど・・・。」
「・・・普通では無い、な。そうだな、悪い少し焦り過ぎた。」

自分でも早急過ぎる事を言ってしまったと、まだ始まったばかりの関係なのにそれだけ離れている時間が歯痒いと感じる自分は
相当彼女に嵌っているのだと自嘲する。けれど彼女は目を瞠り存外だと云う表情で瞬きをして言った。

「焦って、るの?・・・強引なのが貴方の遣り口なんだと思ってたわ。ふふっ!何かちょっと、嬉しい。」

貴方も可愛い所があるのねといつもの少し得意気な笑い方をした彼女はくるりと下から視線を遣す。
その勝気な表情も魅力的だが、それは病院に行けば嫌と云う程にこれからも見られる事に間違いないのだから、やはり惑い揺れる姿を堪能したい。

「朝起きてから今まで3秒以上目を合わせてくれないからな、焦ってる。もう少し慣れて貰わないと困るんだ。だから・・・」

ニヤリと哂ってそう言うと彼女の腕を引いて顎に手を掛けるとその目を捕らえて見詰たままゆっくりと距離を縮めて唇を奪った。

腕を引かれたと思ったら熱の篭った目に捕まって逸らす事が出来ないまま口付けられた。触れるだけのそれは近付いてきた時よりも更に
ゆっくりと離れてゆき、それでも互いの額が合わさるか否かの近さで、その射貫く様な視線は外す事も叶わずに胸の奥の方が痺れる様な
感覚に襲われる。髪を梳いて耳の淵をなぞられると肩が跳ねて、また少し哂われる。再び近付いて来たと思ったら、
キスではなく唇を舐められて、目を瞑ることが出来ないでいた所為で伏せられた睫や濡れた唇から舌がのびてくる様子をまざまざと見てしまった。

聖人君子然とした平素からは、それはもう信じられない位の色気を纏い男の貌で欲情を隠そうともしない彼に、身体の真ん中から全身にズクリと
した熱が拡がり怖い訳では無いのに指先が震え出した。これ以上彼を見ていてはいけないと頭の中で警報が鳴っているのに、目が離せない。
滲み出した視界に、それでも彼の表情だけははっきりと見て取れる。

仕方が無いなとでも云う様に苦笑した彼が大きな掌で目元を覆いスッと瞼を降ろしてくれると、一滴涙が零れ落ちた。
その涙に唇を寄せられあの低い声で名前を呼ばれると背筋を何かが走る様で、消えた視界の変わりに彼の動く気配や声が更に熱を煽る。
昨日のあの波にまた攫われるのかと思ったその時、ふわりと体が浮いて横抱きにされた。

「たまき、昨日の復習だ。」

そう囁くと、ベッドへと運ばれ降ろされると同時に、強く深く口付けられる。

口内を嬲られ頭の中に霞がかかり始める。満足に呼吸が出来なくて息は上がってしまうし、体の力は抜けて思考は溶け始める。
漸く解放されると、肩を腕を脇腹を掌が這い回りあっという間に服も下着も取り攫われてしまった。

「あっ!や・・・」

体を隠そうとしてうつ伏せになると背中を唇が舌が辿り、その度に跳ねてしまう腰を押え付ける様に撫で回されてシーツを握り締めて
上がってしまいそうになる声を堪える。

「声は我慢するなって昨日教えただろう?」
背中から覆い被さる形で彼の唇が耳元に近づいてそう言うと、そのまま抱き起こされ彼の脚の間に抱えられて後ろから唇を奪われる。
その間も胸元に手は回され捏ねられ、唇が外されるともう片方の手は私の中心へと進められた。

「ぁっ…。ん、んぅ…やぁ、っ!」

くちゅりと水音を立てながら、ゆるゆると彼の指がその際を弄ぶ。我慢できなかった声は唇から零れ落ちて、それと比例するかの様に
とろりと溢れ出すそれを絡め取る彼が態と音を響かせるのが恥ずかしさを煽るからか、自分のキャパシティを超えた快楽に対する
生理的なものなのか分からない涙が頬を濡らす。

「や…ね、ぇ、進藤っ先せ…っん、ぁ…も、やあっ…」

力が入らない体は彼に背を預けだらしなく開かれた脚は閉じられず、聞こえてくる自分の嬌声や水音も、どこに触れられても
鋭い反応を隠すことが出来ないこの全てが恥ずかしくて堪らない。なのに昨日知ったばかりの悦びを求める体は与えられ続ける
愛撫にもどかしさを募らせ、早くもっと欲しいと願ってしまう。

「何が、ヤなんだ?本当はもっと、欲しいんだろう?」
「ん、っあ…も、許し、て…。はっあ…ぁんっ!」

「ひっ!んぅー、あっ、あぁ…ぅんんっ…ぁあっ、くぅ!…や、ゃああ!」

仰向けにベッドに戻され胸を舐られながら指を蕩けたそこへ挿れて掻き回され、膨れた先端を摩り上げてはばらばらに中の指を動かし
抉る様に内壁を擦る様にされ、ついに背が大きく反り肌が粟立つと世界が白い光に塗りつぶされた。

そこからは暫く記憶が無い。気が付くとまだ惚けた様な状態の私を腕に抱きしめて髪を撫でてくれていた彼が、
もう病院に行かなければならない時間だと独りごちる様に言った。

「鍵は掛けてポストに入れて置くから、このまま少し休んでろ。」

ついさっきまで酷く情に塗れた顔をしていた男とは思えない程の、まるで風邪で寝込んでいる子供に言い聞かすかの如く優しい
物言いでベッドから抜け出そうとする。その姿をぼんやりと目で追って気が付いた。結局彼の衣服が乱れる事は殆ど無く
私だけが昇らせれてしまったのだと、サディストなのではと疑いたくなる位散々に弄ばれ、あんなに熱を孕んだ貌をしていたのに
きっと私の為を思っての事だと思うと切なくなる。

ベッドから降りようとすると弱い力でシャツの袖を引かれた。まだとろりとした表情の彼女が掠れた声で言う。

「…貴方は、あ、の…どうしたの?その…ちゃんと、気持ち良く、なれなかったでしょ…?」

眉を下げ言い辛そうにしながらも、そう聞いてくる彼女は瞳を揺らして見上げてくる。

「お前な…、そんな事聞くか?分かるだろう?それ位、態々言わせるな…。」

そんな事を真面目に聞かれると、何だかこっちまで恥ずかしくなってくる。大体、初めての彼女に続け様になんて最初から
する気は無かったのだ。それを善がる姿が見たいと我慢が出来なかったのは自分の方なのに、健気な事を言ってくれる。
そう思って苦笑を漏らすと、お前の気にする事じゃないと教えてやる。

「でも…ごめんなさい。…私が、もっと、ちゃんと出来れば貴方にももっと良くなって貰えるのに…」

しゅんとしてしまった彼女を見て、愛しく思うのと同時に少し悪戯心が出てきてしまった。

「じゃあ、俺の事名前で呼んでくれないか?」
「えっ?」
「名前、まさか知らないんじゃないよな?」
「知ってるわよ!でも…」
「いつまでも進藤先生って呼ぶつもりか?たまき。」
「…一生。」
「次からは、そう呼べよ?じゃあ、行って来る。」
「いってらっしゃい、一生。」

照れくさそうに名前を呼んでくれた彼女はあまりに可愛くて、少しずつ自分の染めた色へ変わってゆくであろうと思うと
嬉しくて堪らない。明日の朝病院へ出勤して来た時の彼女はきっと完璧なまでにあの“香坂たまき”だろう。
多分自分の方がいつもの彼女を前にどうしようもなくなってしまうかも知れない。病院では手を出さない様にしなければと
緩む頬を引き締め肝に命じながら彼女のマンションを後にした。






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