my cinderella
進藤一生×香坂たまき


春は冬よりも太陽が眩しく感じる。夏よりはずっとやわらかだけれど。
ずっと室内にいたからだろうか、その光で少し目が痛い。
空はどうして青いのか。
こどもの頃からの疑問は、高校時代にあっさりと解決された。
空気の分子による光の周波数の拡散と人間の目の感度がつくりだす、どこまでも続く青。
時間帯によって変化する青。

屋上の扉が開くと、どうしてもそちらに意識がいってしまう。
現われた人物は、さっき初療室で隣にならんだ人物だった。
待っていた白衣ではなく、青い術着。
こちらに一度視線を向けるが、すぐに別方向に歩いていってしまう。
最近屋上で香坂先生に会えない。
シカゴから帰ってきてしばらくはここで会えていたのに。
医局にいなければ大抵はここにいたはずなのに。
そのかわりによく見かけるのは進藤先生だ。
思わずため息が出てしまう。

先週進藤先生がまたここで働き始めて、救命科は昔のメンバーに戻った。
帰国後第一外科で働くはずだった香坂先生は、あの地震以来救命にいる。
それまで救命にきてくれていた先生は、疲労で体調を崩したとかでまた第一外科に。救命を辞めていく先生のいつものいいわけ。
研修制度のせいで新人も寄り付かない。外科も深刻らしいけれど。
眼科と耳鼻科と麻酔科が人気らしい。
逃げやがって、と思う。

「サボりか」

いつのまにか隣に来ていた人物からは、いつもと同じタバコの匂いがする。

「昼飯です」

この人の纏う空気は人を緊張させる。

「研修が終わってからが大変なのはわかってるだろ」

医学部の募集人数は増加傾向にあるけれど、4月に入学する学生が現場で使えるようになるには15年以上かかる。
俺だってまだ全然だめだ。
毎年約8000人が医学部に進学するのにもかかわらず、医師不足は解消されそうにない。

「すみません」

言った頃にはすでにドア近くにいた。おそらく聞こえていないだろう。
ドアが閉まってようやく肩の力が抜けた。
避けられているのだろうか、香坂先生に。
何かしたのなら謝らなければ。
元々あまり一緒にいることはなかったから、屋上での時間は貴重だった。

外からは救急車のサイレンが聞こえる。
この病院にくるのだから、おそらく三次だ。
次にここに来るときには空は青ではなくなっているだろう。
もう一度青を見てから、重い鉄のドアに向かった。

進藤先生が帰ってきた。
屋上で野菜サンドを食べているときのこと。
屋上のドアが開いたとき、また矢部くんかと思った。

「久しぶりだな」

少し痩せた、記憶のなかにあるのとは少々違った印象。
それでも煙草を取り出す姿は変わらない。
低い声も、鋭い目も、少し猫背なところも同じなのに、わずかな変化に悲しくなる。

「私はかなり前に帰国していたんだけど、入れ違いだったみたいね」

この病院に戻ってきたとき、ずっと探していた姿はなくなっていた。
今みたいに屋上で食事をしているとき。
そういえば進藤先生今どこにいるのかな、という矢部くんの言葉。NPO団体に参加したと聞いたのは、あのときが初めてだった。

「矢部くんから聞いたわ、大変だったみたいね」

あの時に思い知ったのだ。
進藤先生の人生に、私が入り込む場所はない。
屋上から出ていくときに香坂と呼ぶ声が聞こえたけれど、なかったことにしてそのまま扉を閉めた。
それ以来屋上には行っていない。
無意識に避けてしまっている。
自分のなかにある感情を消してしまいたかった。
一人になればいつも考えてしまっていたが、二人でいたあとの一人の痛みよりは大分軽い気がした。

夜の地下は静かだ。
昼間の放射線科受付は各診療科からの患者で賑わっているし、地上から掘り下げてある中庭に入る日光が大窓から入っていて明るいのに、そのすべてが消えている。
廊下は蛍光灯の光があるのにもかかわらず、CT室前の待合室は真っ暗だ。

どうして太田川は自販機のアイスなんて食べたくなったのか。
コンビニでもいいじゃないか、と思う。
セブンティーンアイスのキャラメルなんとかとかいう、いかにも甘そうな名前の。
俺も甘いものは大好きだけれど、喉が渇く甘さは苦手だ。
早く戻ろうと、キャラメルなんとかと自分用にぶどうシャーベットを買ったときだった。

携帯使用許可エリアのソファー、ちょうど中庭が見える大窓の目の前の場所に香坂先生を見つけた。
思わず小走りになったが、ちょうど表情を確認できたときに速度を緩めてしまった。
あまりにも悲しい表情をしていたから。

「香坂先生」

やさしく声をかけたつもりなのに、思いの外大きく響く。
少し驚いたように、矢部くんとつぶやく声はようやく耳に入るくらいだった。

「最近はここにいたんですか?」

一応確認を入れて、隣に座る。
陽のあたらないソファーはひやりとする。
自分の問いに首を横に振って答えたときには普段の香坂先生の顔に戻っていた。

「あ、甘いもの食べませんか?」

持っていた2つのアイスを差し出すと、ありがとうといってぶどうシャーベットを受け取った。

「ここ、夜は静かね」

キャラメルなんとかは甘い。やっぱり喉が渇く。

「不気味ですよね、俺苦手です」

パッケージをよく見るとキャラメルプリンと書いてある。
甘いものと甘いものの組み合わせ。
どちらか片方でも飲み物がほしくなりそうだ。渋い緑茶とか。

「おばけ屋敷とかで逃げ出しそうよね、矢部くん」

さらさらした黒髪は明るいところだと赤く見える。
さりげなく見えた横顔は、確かに笑っているのだけど悲しさを含んでいて、見とれてしまう。
どうして、何があって。
こんな暗いところに一人で。
聞いてしまいたいけれど、きっと話してくれない。

「矢部くん?」

名前を呼ばれてはっとする。

「あ、あの、」

香坂先生は怪訝そうな顔でこちらを見ている。
何話してたっけ、せっかく会えたのに、やばい、聞いてなかった。

「相談したいことがあるんですけど」

たぶん、話していた内容とは全然つながっていない。
とっさにでた言葉。

「私に?」

きれいに整えられた眉がひそめられる。
何いきなり、とでも言いたそうに。

「心臓のことなんですけど、赤ちゃんの心臓のことで、空いてるときでいいので」

出した言葉は引っ込められない。押し通すしかない。
自分の間抜けな声が響いた後の沈黙に、少し緊張する。
ああ、どうしよう。

「あとでローテーション確認してみるわ」

まさかの返答だった。
アイスありがとうと言って立ち去る後ろ姿を見てうかれていた。
医局に戻ったらすぐに確認しなければ。
心の中で太田川に感謝した。
アイスと、あと渋い緑茶もつけようと思う。
しかし、医局には100g4000円の高いものがあるのを思い出し、結局買ったのは烏龍茶だった。

センター南駅近くのタリーズについた時には矢部くんまだいなかった。
病院を出る間際に連絡をいれたのだから当然のことだ。矢部くんは自宅から来るのだ。
普段は受けないような誘いを受けたのは、たぶん気を晴らしたかったからだ。
なのに、外に出ても考えることは変わらない。
つい先程の出来事が頭のなかの大部分を占めている。
医局に戻ったとき、そこには進藤先生しかいなかった。
一瞬、ドアのところで戸惑ったが、開けてしまったものは仕方なかった。

「最近、どうしたんだ」

できるだけ急ごうと、荷物をまとめている時だった。

「何かあったのか」

進藤先生に縋ったあの日と同じ、隣のデスク。
近すぎる距離に、逃げたくなる。

「何もないわよ」

冷静さを保つのが辛かった。
視線を痛いほどに感じる。
おそらくあの日と同じ表情をしているだろう。

「少し疲れてるだけよ」

どうせなら突き放してもらいたい。優しさが辛かった。

「ちゃんと休めよ」

一瞬、でもしっかりと頭にのった手のひらの重さは、今でも残っている。その部分だけ熱を持って。
そのまま医局を出ていった後ろ姿も、自分の心臓が立てる音も消えてくれそうにない。

大きな手だった。
もう少し触れていてほしかったという思いには気付かないふりをする。
どんなに思っても、どんなに一緒にいたくても、あの人の心の中には私は入り込めない。
日本を出るなんて聞いていなかった。
私は進藤先生にとってその程度の人間なのだ。

カウンターの近くに矢部くんがいる。
ブラックデニムにエンジニアブーツ、少しくたびれた軽めの革のジャケットを羽織った後ろ姿は、どうみても学生だ。

今考えていた人物と正反対な姿。

こちらに気付くと、スティックシュガーを2本をとり、紙コップに水を入れててこちらに歩いてくる。

「ずいぶん早かったわね」

ふわふわの泡がたつマグカップにスティックシュガーを2本楽しそうに入れる姿は、弟のように感じる。

「俺、日吉と綱島の間に住んでるんです」

ここまで15分くらいだろうか。
ずいぶんと便利な場所にすんでいるものだ。

「学生の時から?」
「いえ、実家は川崎の方なのでしばらくはそっちに住んでたんですけど、5年で実習ばかりになってからは新羽でしたね」

どこの医学部でもだいたい5年次から臨床実習中心になる。
朝早くから夜遅くまで。
その時期になりようやく自動車通学が許可され、校内の駐車場が利用できるようになる。
それ以前から近所の月極駐車場を利用する学生もいたが。

「で、相談って何?」

いかにも甘そうなカフェラテを啜りながら幼児拡張型心筋症と単一冠動脈の合併症の話を切り出す。時々水を飲みながら。
先日行われた都内の国立大学での術例だった。
救命にいては滅多にふれることのない症例。このような患者は第一外科が受け持つ。

「それなら、詳しくのってる資料が出てるわ」

伊勢佐木町までいけば手に入るだろう。
最近、心臓血管系科目ではその話題でもちきりだ。

「バチスタか移植かについても興味があるんでしょ?」

幼児の移植については日本では法的に認められていない。
大抵の患者は渡米することになる。
莫大な資金と時間がかかるため、受けられるのはわずかだが。
バチスタも成長に耐えられるのか、また術後3ヵ月の生存率が低いために悩むところも多々ある。
今回のケースはまた別だけれど。

矢部くんが甘いカフェラテを飲み終わるのを待ち、まだ明るい外に出た。

入ったのは、海鮮居酒屋だった。
こういう店は学生以来あまり来る機会はなかったけれど、かといって嫌いでもない。
矢部くんは香坂先生がここにいると違和感がありますとか言っていたけれど。
逆に矢部くんには似合うと思った。学生的な雰囲気が。
近くにいる学生グループの中にいても違和感がない。
同じ大学出身ということもあり、話の内容は主に学生時代のことだった。
私立の医学部には太田川さんのような開業医の家の子が多いこと。
3年次から急に忙しくなること。
5年次からは実習の合間にする国家試験の勉強に忙しくなり、別れるカップルが多いということ。
必修のフランス語とドイツ語はやはり矢部くんも苦手だったらしい。
昔はラテン語だったらしいという話をしたら、ずるいと言っていた。

「そういえば」

中ジョッキを置く音が響く。
急に真面目な顔になったものだから、つられて私もウーロンハイのグラスを置いてしまう。

「俺、いつもふられる側なんですよ」

何を言いだすかと思えば。
なんとなく想像はつく。理由まで。
おそらく“友達としては好きなんだけどね”または“男としてみることができない”だろう。

「喧嘩は苦手なんですけど、何かあったときに守れるように筋トレもしてるのに」

通りすがりの店員にミルクティーハイを頼みながら筋トレとかいう姿に少々アンバランスさを感じる。

「好きな人には尽くすタイプなんだけどなあ」

絶対幸せにするのに、とこぼしながら紙ナプキンを三角に畳みはじめる。
さっきから三角が4つできている。癖なのだろうか。
子供じみた行動に思わず笑ってしまう。

「あ、笑った」

本人は真剣に悩んでいるのだろう。少し不貞腐れたようにこちらを見ている。
でも、正直いうと羨ましい。
私は、そんなふうに思われたことはあったのだろうか。

「私も矢部くんみたいな人を好きになればよかったわ」

言ってしまった言葉に自分で驚いた。
きょとんとした顔でこちらを見ている。

「あ、違うの。私が好きになる人とはいつもだめなのよ。結局いつも適当な男ばっかり。気楽だけどね、長続きはしないけど」

なんで自分の過去の恋愛なんて語っちゃってるんだろう。

「本当にいつもよ、だめってわかってるのに。何も言わないで消えたくせに急に戻ってきて中途半端に優しくされて」

もうずっと頭にちらついて離れない人物。
こんなこと言ったってどうにもならないのに。
全部お酒とあの人のせいにしてしまいたかった。私の問題なのに。

「もう放っといてほしいのに。期待するようなことされて、いちいち舞い上がって」
「香坂先生」

はっとして見ると、微笑んだ矢部くんの顔が映る。

「泣いちゃっていいですよ。俺、時間たくさんあるので」

差し出されたのは紙ナプキンの束だった。
矢部くんなりの、少しズレた気遣いが純粋にうれしかった。

1DKのマンションは、中途半端にミッドセンチュリーな空間にしてある。
暖かな間接照明に、イームズのクリアテーブル。
部屋に不釣り合いな大きな本棚と散らかったデスクのせいで、チェアとソファーは購入できなかった。
低いベッドの上には茶色いカバー。
完璧ソファーがわりになってしまっているそれにどっかりと腰を下ろすと、いい具合に体が沈み込む。
ヘッドホンをはめ、リモコンのボタンを押す。
横浜のドン・キホーテの福引きで当選した有線の無料取り付け工事はかなりラッキーだと思ったのに、結構当たりはでていたらしかった。
チャンネルはいつもB-56にしてある。J-R&Bチャンネル。
J-R&Bといいながら、CHEMISTRYやゴスペラーズまで流れる。

結局、新横浜で降りるまで香坂先生は泣かなかった。
だからそういうことは矢部くんを大人だと思ってる女の子に言いなさい、と返された。
よりによってハンカチを忘れた。
差出したのは間抜けな紙ナプキンの束。
泣かしてやることすらできないなんて、残ったのは自分の無力さだけだった。

“好きな人は絶対幸せにするのに”

自分の言葉は嘘になってしまいそうだ。
釘を刺された気がする。
きっと、香坂先生には、大切に思ってる人がいる。
そして、その人に振り回されている。
なんとなくわかってしまった。

“何も言わないで消えたくせに急に戻ってきて”

ずっと前に屋上で、進藤先生の不在の話をしたとき、知らなかったような顔をしていた。
詳しく聞いてこなかったために知っているものだと思ったけれど、一瞬の違和感はよく覚えている。
それから、屋上で会えなくなりはじめた時期。
全部がつながった。
ほどよく酔った頭の中には、シンプルなトラックのせた切なげな歌詞が響いている。
スネアのリムタップ、ピアノ、ベース、アコースティックギターの4つが奏でる悲しいトラック。
Teddy Rileyが認めた日本人の歌声。

“好きな人は絶対幸せにするのに”

自分で言ったことは嘘にしていいのだろうか。
医師を志望した理由は、苦しんでいる人間を助けたいからだった。
入試の時の二次試験は圧迫面接で、面接官には鼻で笑われてしまったけれど、今でもそれは変わらない。
好きな人が苦しんでいるときに助けられないなんて、なんとも情けない話だと思う。
医師としてではなく一人の男として、何とかしたいと思った。
リモコンに手を伸ばし、A-26、A-25と回していき、結局一番明るい歌が聞こえてきたオリコンチャートでボタンを押すのを止めた。



午後の医局には矢部くんと進藤先生と太田川さんがいた。
矢部くんに声をかけると3人とも反応する。
太田川さんからは最近よく矢部くんの話を聞く。
ちょっとした愚痴が多いが、わかりやすい子だと思う。
申し訳なく思いながらも、矢部くんを使われていない外来診察室へとつれていった。

「これ、昨日の本」

まずは約束していた本を渡す。
ケーシーを着ていても、やっぱり矢部くんは学生みたいに見える。

「香坂先生、昨日のことなんですけど」

昨日、私はとんでもないことを言ってしまったような気がする。

「今までどうやって諦めてきたかわからないですけど」

あれだけ飲んでいたから記憶にないことを期待していたが、どうやらしっかり覚えているようだった。

「現状打破は自分でするものですよ」

現状打破。恋愛に関して取り組んだことがなかった。

「あのね、簡単にできたら苦労しないの」
「今回はどうなんですか?」

そこまで話した記憶はない。
飲み過ぎたのは私の方だったのかもしれない。

「今回って…、ねえ、昨日言ったこと忘れてもらえないかしら?」

どこまで話したかわからないことを覚えてもらっていられても困る。
矢部くんだからと何も考えずに飲んでいた私の自業自得かもしれないが。

「どうなるにしろ、決着はつけなきゃ辛いです」

私の依頼を無視して真剣に言うと、椅子から立ち上がってしまう。

「ちょっと、聞いてるの?」
「本ありがとうございます」

どうやら忘れないつもりらしい。
引き止めようと私も立ち上がったとき、ちょうどドアの前で振り返ると、信じられないようなことを言った。

「やっぱり今片思い中なんですね、頑張ってくださいね」

楽しそうに笑いながら外来診察室を出ていく。

“やっぱり”って…。

どうやらはめられたらしい。
矢部くんにだまされるなんて。
それ以前にそんなにわかりやすいのだろうか。
しばらく医局には戻りたくないと思い、資料室にこもることにした。



屋上に出ると先客がいた。
風で煙草の匂いがこちらまで流れてくる。
ドアを開ける音に反応したのかちらりとこちらをみたが、また都筑区の街並に視線を戻してしまう。
ベンチに座ったときだった。
小さくだけれど、はっきりとため息が聞こえた。
もしかして。
声をかけようとしたときにはすでにドアに向かって歩きだしていた。

「進藤先生」

呼び掛けに振り返ることはなかった。
もしかして、同じ人を待っていたのではないのだろうか。
さっき香坂医局を出るときに感じた視線も、今のため息も、確信は持てないけれど、でも、もしかしたら。
なんだ、うまくいきそうじゃないか。
ならどうして悲しませるような真似するんだよ。
嫉妬と悲しさが40%ずつと、喜びが20%くらい。
でも、喜びが80%と嫉妬と悲しさが10%ずつということにする。

「何ぼーっとしてるの?」

いつのまにか太田川が隣に座っていた。パックのいちごミルクを持って。

「なあ、」

太田川はもつ飲食物はいつもうまそうに見える。
高いものも、やすいものも、うれしそうに口にする。

「もし、太田川が俺のこと好きだとして」
「ちょっ、何言ってるの!?」

そんな大きな声ださなくても。
大きな目をめいいっぱい開いている。
表情のよく変わる子だ。

「もしだよ、もし」

そんなに嫌かな、この例え。

「それで俺も太田川のこと好きだとしてさ、でも」

ピンクのパックが落ちる。
変なこと言わないでよ、と叫ぶと、スタスタと歩いていってしまう。変なやつ。
そんなにあからさまに嫌がられるとさすがにきつい。
まだ話の途中なのに。
足元に倒れたパックからはいちごミルクの甘い匂いが漂う。
片付けるのはどうやら俺らしい。
新しいものを買っていかなければ。金欠なのに。
しかし、もう少しだけ甘い香りがする風を感じていることにする。



何もない休日は、だらだらと過ぎていく。
いつもの起床時間に一度目を覚ますものの、カーテンから陽が差し込む中で再び目を閉じ、昼頃までそのままだ。
その後コーヒーを飲み、のんびりとテレビをみながら掃除やら洗濯やらをしていると、終わる頃には夕方になっている。
平日には無駄に感じる行為も、休日に限っては特別だ。
軽めの羽毛布団を深く被り、夢と現実の間を彷徨っているところ、携帯の着信音が聞こえた。
矢部淳平と表示されている。

「あ、すみません、寝てましたか?」
「そんなわけないじゃない、もう7時半なんだから」

“まだ”7時半なのに。

「ごめんなさい、まだ寝てていいですよ、また後でかけ直しますから」
「だから起きてるってば」

“まだ”布団の中だけど。

耳元から聞こえる声は明らかに焦っている。
どうやら夜に本を返してくれるらしい。
睡眠時間を少しだけ削ることになる。
アラームを10時にセットし、再び布団に深く潜り込んだ。



中庭は屋上とは違ってにぎやかだ。
患者が唯一出れるのは中庭で、2年前から屋上は禁止されている。
飛び降りる人間がいるからだ。
馬場先生いわく、助かるかどうかのラインは5階あたりらしい。

病院は閉鎖的だ。
大学生のとき、高校時代の友人に学内を案内したことがある。
靖国神社近くの理系の大学にはキャンパスがなく、道路に沿って校舎がならんでいるという。
開放的だな、と言われた。
そうは思わなかった。
キャンパス内にある建造物は研究施設などすべて生命に関係するもので、併設されている病院では病気と戦っている人がいるのだ。
重苦しく感じていた。
少し強めのこの春風も、少し暖かくなった日差しも、建物内にいては感じることができない。
病むだろうなあ、と思う。
患者さんはもちろん、今の香坂先生も。
電話をかけたとき、眠そうな声が聞こえた。
絶対寝ていたのに、起きていたとかいうものだからおかしかった。
この貴重な声もその他のプライベートな姿も、俺は感じることはないだろうと考えると少し切なくなる。
でも、閉鎖的な感覚から少しでも外に出せるのなら。
今屋上に、あの人はいるだろうか。いつもの待ち人ではない、青い術着。
ねばってみようと思う。
煙草を吸いにあらわれるまで。



昼と違い夕方の空気はまだかなり冷たい。
ついていないことに、雨まで降りだしてきていた。
この季節の変わり目独特の、冷たい雨。
地下鉄ですぐだからと、帰宅ついでに本を届けてくれるという。
遠回りになるのに。
昼間の気温からまさかこんなに寒くなるとは思ってもいなかった上、近所だからと薄着できてしまったことに後悔する。
改札に、見慣れた人物をみつける。
黒いスーツに黒いシャツ、広い肩幅。
待ち人のものではない姿に動揺を隠せない。
しかもこちらに歩いてくる。

「待ったか?」

なぜ、進藤先生が。
見上げた瞳は私を映している。

「夜勤代わるかわりにこれを頼まれた」

つい先日貸した本だった。矢部くんが持ってくるはずの。
こういうことだったのか、やたらと今日にこだわった理由は。
病院でもいいと言ったのに。
寒いな、と言って肩に掛けられた男性もののジャケットからは煙草の匂いがして、一気に緊張が高まる。

「コーヒーくらい飲んでいく?」

なんとか出した言葉は、“現状打破は自分でするものですよ”という矢部くんの言葉を思い出した結果だった。
“どうなるにしろ、決着はつけなきゃ辛いです”学生みたいなくせに一人前だった言葉に、素直に従うことにした。

室内にはコーヒーの香りが充満している。
暖房も入れて温かいコーヒーも入れたはずなのに、冷えきってしまった体の温度はなかなか上がりそうにない。
さらにこの気まずい空気。
何を話していいのかも、進藤先生が何を考えているのかもわからず、ただただ時間だけが過ぎていく。
まだ自宅に着いて10分くらいしかたっていないはずなのに、沈黙のせいで時間がずいぶんと長く感じられる。

「寒いわね」

エアコンのリモコンを取りに立ちあがったときだった。
ゆっくりと近づいてきたかと思うと、急に腕を引かれた。

「どういうつもり?」

抱き締められた体温はとても温かくて、涙があふれそうになる。
感情を抑えるのは今までのことで慣れたつもりだったのに。

「寒いんだろ」

耳元で聞く大好きな声。
でも、今は、

「お願いだから離して」

これ以上このままでいるのは耐えられない。
後になって辛さに耐えられなくなりそうだから。

身体が軽くなり、離してくれると思ったときだった。
一瞬だけ、唇にキスを落とされると、先程よりも腕の力が強くなる。

「冷たいな」

もう無理だった。
どうしてこんなことをするのか、じゃあ何でどうでもいいかのような扱いをしたのか、理解できないことだらけで頭がおかしくなりそうだった。

「どうしてこんなことするの?」

なんとか出した声の震えを抑えることはできずに、この男の前ではただの女でしかいられなくなっていた。

「何も言ないでいなくなって、間接的に不在を知って、私がどんな思いでいたと思ってるのよ」

今までの辛さも、悩んだ時間も、この男は何も知らない。
普通を装っていても、優しくされるたびにいつも泣きそうだった。涙を拭ってくれる指は温かい。
進藤先生が何を考えているか全然わからない。

「お前は」

ようやく見上げた進藤先生の顔は、どこか哀しげに見える。

「惚れてる人間に死ぬかもしれないなんて言えるのか?」

言っていることを理解するのに少し長くかかった。

「本当はずっと会いたかったんだ」

それなら早く言ってくれればよかったのに。
ずっとずっと一方通行だと思っていた。
自分のなかの思いなんて消してしまいたいと思っていた。

「生きててくれてよかった」

触れた唇は温かくて、自分の涙の味がした。

倒れこんだシングルサイズのベッドは、少し狭いかもしれない。
繰り返される長い口付けに、息は完全にあがっていた。
暗やみのなかに二人の荒い呼吸音がとぎれとぎれに響いている。
身体のあらゆるところにキスを落とされるたびに、それだけで反応してしまう。
吐き出す息はひどく熱を持っている。
広い背中にしがみつくように腕を回すと、しっかりとした肩甲骨がわかる。
直に感じる体温は、あたたかいというよりもあつい。
胸に下りてきた唇に、堪らずに声をおさえようとした手はベッドに押さえ付けられてしまった。
先端をねっとりと舐め回されると、どうしても声はおさえられない。

ちょっ…と、まって」

沸き上がる羞恥に、身体中がさらに熱をもつ。

「だめだ」

舌で愛撫を受けていた部分に吐息がかかると、思わず身体が上にあがるが、がっちりと肩をつかまれ逃げさせてはくれない。

舌はそのままに、その手は徐々に身体のラインをたしかめるように下へとおりていく。
腿から足の付け根に手が上がると、身体を捩ってしまう。
それでもかまわずに触れるか触れないかのかすかな動きを続ける手に、膝が立ってしまう。
一瞬、舌と押さえ付けられていた手が離れたときに最後の下着ははぎ取られてしまった。
指が侵入するのと同時に、もう片方の先端に舌が触れるとびくりと身体が跳ねる。

「…や…っ」

つい先程まで愛撫を受けていた先端で感じる空気は唾液のせいで冷たく感じる。
もう片方は微かに舐められるのと下から弾かれるのを繰り返され、下では内部をかき回されると、頭がおかしくなってしまいそうだ。
今私をおかしくしている人物は、進藤先生なのだ。
それが羞恥が沸き上がるのを助長していた。
ようやく胸が解放されると、唇を塞がれる。
奥の方まで貪られるようにされ、軽い酸欠を起こした脳内にまで、内部の刺激が伝わるようだった。
どういうわけか、ぼーっとした頭のなかに水音がはっきりと響く。
解放されると同時に舌での愛撫は耳に移る。
自分で乱した進藤先生の髪が頬にあたりくすぐったい。
さらに下部の愛撫はそれまでは触れることのなかった敏感な部分にへと移行し、呼吸を整える間もなく高い声があがる。
どうしようもないくらいの下部への刺激と、耳にかかるあつい吐息に耐えられそうにはなかった。

「…っ…しんど…っ、せんせっ」

懇願の意味をこめて、なんとか名前を呼ぶと、両方の愛撫が止んだ。
こんなに情けない状態の中で見つめられると、目を逸らしたくなる。
額に軽くキスを落とされると、それまでにはない質量のものが侵入してきた。
動かれるたびに溶けてしまいそうで、必死に背中にしがみつく。

「あ、…やっ…っ」

自分自身のことなのに制御することは出来ずに、快楽の波にのまれていく。
どうしても止まらない声の合間に、自分の声ではない、くっ、という喉からの響きを聞いた。
おそるおそる目を開くと、眉がしかめられ、額にはうっすらと汗をかいているのがみえる。
私をおかしくしているのは進藤先生で、その進藤先生をこんなにしているのは私なのだ。
自分で締め付けるのを感じ、動きが加速する。

愛する人に抱かれる感覚は幸せで、このままでいたいと思った。
ずっとずっと。
内部が痙攣するのと同時に、あついものが放たれたのがわかった。



さっきから太田川は機嫌よさそうにアイスを食ってる。
今度はブルーベリーチーズケーキだ。
地下まで俺が買いに行ったもの。

「矢部くんのも買ってこればよかったのに」
「金欠なんだよ」

コンビニなら105円で済むのに、自販機だと120円。15円は今の俺には貴重なのに。
キャラメルプリンのときは香坂先生に会った。
今回は地下に下りても誰もいなかった。
あたりまえだ。
今ごろ2人でどうにかなってる。
自分が仕向けたことに少し後悔しつつも、明日は笑顔でいることをどこか願っている自分がおかしい。

「太田川」

何?と向けられた顔は明るい。
さほど温度差はないはずなのに、地下よりも医局の方が暖かく感じるのはそのせいかもしれない。

「俺、失恋したんだよ」

今度あがった声は“えぇ!?”だった。

「ふられちゃったの!?あ、でもいつものことでしょ、元気出して」
「いつものことは余計だよ」

アイス食べる?だとか、次は私が何か買うからだとか、一人で騒いでいる。
俺はなんとか大丈夫そうだ。
俺を励まそうと悩みつつ必死で喋り掛けている姿をかわいいと思ったのは、まだ本人には言わないでおくことにする。



唇に温かい感触があり目を開くと、あまりの顔の近さに驚いた。

「悪い、起こしたか」

カーテンの隙間から見える空はまだ青くて、だいたいの時刻を知らせている。まだ起きるには早い。

「気にしないで」

厚い胸板に顔を埋めると、進藤先生の匂いがする。
動かした足に触れるシーツの冷たさから現実であることを知ると、満たされた気持ちになる。

「矢部にはやられたな」

本当に、呆れるべきなのか感謝するべきなのかよくわからない。

「あなたが指導医だったからじゃない?」

一度目のシカゴ行きの際、似たような形で進藤先生はチャンスを作ってくれた。

「ずいぶん矢部と仲良いんだな」
「ねえ、どうして矢部くんの話ばかりするのよ」

確かに矢部くんのおかげだが、こんな時にその話ばかりだなんて。
苦笑を浮かべた顔は、進藤先生に似合わず少しこどもっぽい。

「好きな人といるときに別の男の話はしたくないわ」

こうやってしか“好き”とは言えないけれど、それはお互い様だと思う。

「嫉妬深かったのね」

強くなった抱き締めてくれる腕の力と、近くで聞こえる心音と一瞬だけ笑いの交じった呼吸を感じながら目を閉じる。
病院についたら矢部にカフェオレを入れてあげなければならない。お砂糖をたっぷり入れて。
しかし、それまではすぐ近くにいる男のことだけを考えることにした。






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