HYPNOTIC POISON‐another side‐
進藤一生×香坂たまき


濡れているときは強く感じるのに、乾いたとたんに微かなものになってしまう香りは、普段好んで使用するものと似ている。
イギリスのメーカーのものなのが意外だった。
この種の香りは、1時間も経てば消えてなくなってしまう。
シャワーを浴びてすぐにベッドに潜り込む人はその香りに包まれて眠ることも出来るし、出かける前の人に対してはその後につける香りの邪魔にもならない。
ホテル向けだな、と思う。そして女性的だ。

距離に気を付けて、コットンに香りを吹き掛ける瞬間、緊張に少し手が震えた。
甘ったるい香りが周囲に広がる。
そして、それを一度空気に潜らせてから耳裏にもっていく。温度の高い場所に。
母のやり方だ。
特別な日だけに使用する、父からの贈り物だという少々強めの香水をそうやってつけるのを、幼い頃から眺めていた。
いつか私も大切な人からの香りを纏って出かけるんだ、と夢見ながら。
赤い丸みを帯びたボトルのこの香水は、自分で購入したものだった。
美容部員に勧められた時は興味を持てなかったが、時間の経過とともに、ビターチョコレートを連想させるアーモンドの香りがバニラに溶けていくような香りが忘れられず、後日同じデパートに向かった。
自分がこの香りを纏うのを想像することは難しく、使用するのは予定の無い休日のみだったが。
今回、初めて人と会うときに使う気になったのは、彼の中に同僚ではない香坂たまきを残しておきたかったからなのかもしれない。
自分自身の行動をおかしいと思ってしまう。
期待はあまりしないように、服装はいつもとかわらないように心がけたはずなのに。
もしかしたらあの時と同じように別の人がいるのかもしれない。
ミネラルウォーターを一口飲んで頭を冷やし、部屋を後にした。

みなとみらいを一望できるバーは、どこか暖かい雰囲気をもっている。
駅から近く、高級感を感じないホテルにあるにもかかわらず、このバーだけ異空間に感じる。

「荷物はもう送ったのか?」

酒で火照った耳のなかにやけに冷たく響く。このあたたかみのある照明と甘い音楽の中で。

「ええ。家を引き払うときに全部送ったわ」

私は、シカゴに行かなければならないのだ。
これから救わなきゃならない人の為に。何よりも私自身の為に。
心地よい空間から、一気に現実に引き戻された気がした。
わかっていても、わかりたくなかった現実に。
雨に濡れてぼんやりと光る景色は、現実のものには見えなかった。
あと少しだけ、その中で生きていたいと思った。
見たい夢を見ているときは幸せだ。
しかしその分、目覚めたときの落胆は大きい。
カフェで彼の姿を見つけたとき、少し安心した。
最後に、彼に会えてよかった。
これでアメリカに行っても平気でやっていける。
それと同時に、不安もよぎる。
一人の時間をどう過ごしていけばいいのか。
あの数ヵ月間、思い出した瞬間も多かったから。
限られた時間のせいで、自分の思いを曝け出すことが怖かった。
彼を見れない原因だった。
自分自身に呆れる。
私が自分で、この時間に終わりを告げなきゃならないと思った。
夢を見る時間が延びるほど、目覚めた瞬間の落胆は大きくなる。
一つ息をついたあとだった。
思わず呼吸がとまる。
窓にうつる彼の瞳に、すべて見抜かれてしまうような気がした。

「香坂」

どこか熱を含んだ声に、身体が硬直する。
頭のなかに自分の心臓の音が鳴り響き、思うように呼吸ができない。

「ちゃんと俺を見ろ」

自分の意志ではなく、操られているようだった。
窓ガラスに移るものではない、隣の男を見る。
見たことのない、進藤一生という男がそこにはいた。
射ぬくように見つめられると、もう目はそらせない。

「シカゴには行くな」

完全に、捕えられてしまった。
―ねえ、教えて、あなたは今夜寂しがっているのかしら―
知っている曲ほど耳によく入る。
若い女性が甘く歌い上げるElvis Presleyのカバーは、いつまでも耳に残っていた。

部屋の構造や、そこから見える景色はなにもわからない。
時々かかる息の近さや高い温度、身体にかかる重み、唇と口の中に感じる熱しか認識できていない。
全身の力が抜け、意識が遠退いてしまうようだった。
一瞬身体が軽くなったとき、手に感じる薄い布を反射的に握る。置いていかないで、とでも言うように。
熱が耳に移動すると、ぞくりと身体が震えた。
低く甘い声で合間に呼ばれる自分自身の名前が、それとともにかかる吐息が、やけに熱を持っていて、そこにいるのが彼だとわからせる。
逃げようとしても逃がしてくれない。
逃げられないとわかっていて、捕まってしまったのは私だ。
熱が移動するたびに、時々感じる甘い痛みに、身体中が震える。
足を動かすと触れるシーツの冷たささえも、それを助長しているように感じられた。
身体に触れられるたびに呼吸が荒くなる。
自分が何を言っているのかはわからない。
聞こえてくるのは別の誰かの声のようなのに、震えているのは自分の声帯だ。
どこか別の世界に引きずられていきそうになり、すがりつくように腕をまわした背中にはもうあの薄い布は無かった。
引き締まっていて、薄く汗ばむ広い背中に爪をたて、必死にしがみつく。
身体を揺さ振られ中をかき回される感覚に、身体にかかる熱に。

ミネラルウォーターを取りに行ったとき、部屋の惨状をみて驚いた。
服はベッドのまわりに散乱していたし、傘は畳まれることなく部屋の入り口に倒れていて、備え付けの冷蔵庫の前には彼のジャケットが放り投げられていた。
こんなにも焦っていたのかと、小さくため息をついた。
部屋の天上付近から流れる冷たい風が、身体を冷ましていく。
手早く片付け、彼の眠るベッドに入り込むと、熱が少し残っていた。
目に入ったデジタル時計には、23:58と表示されている。
時間はとてもいじわるだ。
退屈なときはゆっくりと流れるのに、幸せなときはいそいで過ぎ去ってしまう。
そろそろ夢から覚めなければならない。
近くに感じる高めの体温とも、もうすぐさよならだ。
これから、ここからは見えない高層ビルのあの部屋にもどって、一人で眠らなければならないのだ。
ぞっとするが、それが現実だ。いつまでも夢のなかにいてはならないのだ。
ミネラルウォーターを飲み込んだ瞬間、高い温度に包み込まれた。
彼が起きたのだ。
夢の中に引きずり込まれそうになるのを堪える。

「ジャケット、そこに落ちてたわ」

自分を落ち着かせるように、もう一口冷たい液体を飲み込む。

「もう掛けといたから大丈夫」

大丈夫、声は震えなかった。
次は、ありがとうと言わなければいけない。
いままでありがとう。今日一緒にいてくれてありがとう。幸せだったわ。
全部、普段の自分には考えられない言葉たちだけれど、今は夢のなかだ。言えるはずだ。
しかし、背中が彼の胸板に押しつけられる力は強くなる。
口の中に流し込まれた水はぬるかった。
発言をすべて許さないかのように、背中は胸板に張りつけられたまま唇は塞がれ、暖かい手は冷たい身体を這っていく。
また、捕まってしまったのだ。
再びベッドに倒れたとき、逃げられないことを悟る。
強引な行動とは裏腹に、彼の瞳はどこか寂しげに見えた。
先程の熱や射ぬくような強さは無かった。
この人が、こんな表情をするなんて。
こういうときであっても人を逃がさない瞳には、涙こそあふれていないものの、深いところで泣いているように思えた。
沸き起こる切なさに、心臓が締め付けられる感覚がおこる。
逃げられないのではなく、置いていけない。
キスは、自分から求めた。
馬鹿だと思いながらも、そうしたかった。
再び夢のなかに溺れていった。

心臓はまた大きく音をたてる。
一度目と違い、彼にはどこか余裕を感じる。私はこんなに緊張しているのに。
キスを落とされるたび、冷房に冷やされた身体は再び熱をもっていく。

「い…や、…っ…」

下の方からから聞こえてくる水音に羞恥がわきあがる。
いくらやめてとかまってとか言っても、頭を押さえ付けてもむしろ逆効果のようだった。
どこか余韻を持たせつつ激しく動く舌に、またじわりと熱が広がっていく。
たまらず、彼の頭から手を離し、シーツを思い切り掴んだ。
その瞬間、

「やっ…、」

こんな高い声がまだでるかと自分自身で驚くような声をあげ、びくりと身体が跳ねた。
彼にいいようにされている。
勝手に身体が反応するのを止めることもできずに、ただただされるがままになっている。

「あ…っ」

鼻も口も塞がれていないのに、呼吸がうまくできない。
意識がとびそうになる度に、そこへの刺激は止み、そのかわり別の場所へのゆるゆるとした刺激が引き戻す。
このままではどうかしてしまいそうだった。
もう、たぶん、このホテルに入る前から彼の知っている香坂たまきではなくなってしまっているが、これ以上は私も知らない香坂たまきになってしまいそうだ。
彼の唇に自分から吸い付いてしまった。
息が続くかぎり、必死に舌を絡ませる。
どうやったら彼のようにできるのだろう。
脳の奥が溶けてしまうような、それだけで全身の力が抜けてしまうようなキスは。
下腹部に、重みが加わると、腰のあたりから骨を伝い、足の先まで震えが走る。
身体を揺さ振られると、早々に彼を締め付ける感覚に襲われてしまう。

「…やっ、ま…っ、て…っ」

何度待ってと言っても動きがゆるむことはない。
深く深く動いていくたびに、意志とは反対にそこに力がこもってしまう。
つながった部分を中心に、そこから熱が広がって溶けていってしまうような、そんな感覚が広がる。
懇願するようにうっすらと目を開き、彼の顔をみる。
こういうときに男の人の顔を覗くのは、初めてだった。
ときどき眉がしかめられ、苦しそうに荒い呼吸を繰り返し、切羽詰まったように自分の名前を呼んでいる。
呼び名は同じはずなのに、特別なものに聞こえてくる。

「…しん、ど…うっ、せん、せ…っ」

たまらず自分も彼を呼ぶが、うまく口から出てこない。
情けない高い声で、どうしても母音がうまく発音できない。
そうすると額に、目蓋に、触れるだけの軽いキスが降ってくる。
そうして一瞬息を止めるたびに、彼の呼吸が荒くなっていくのがわかる。
必死にさせてるのは自分だと思うと、妙に切なくなって、涙がこぼれる。
そのたびにまた、軽いキスをしてくれる。気遣うように。

「………っ」

一つだけ言わないように気を付けていた言葉が口から出そうになり、あわてて唇を噛む。

「…うっ、…あっ」

それでも口にうまく力は入らず、新しい空気を求めて勝手に開く。
自分のことを客観的にみても、主観的にみても、辿り着く結論はいつも一定のことに随分前から気付いていた。
こんな姿をみて、素直に好きと言いたい衝動に駆られる。
彼にとっては目の前の女のただのうわごとですむかもしれないが、それを言ってしまっては最後に本当深いところで自分が壊れてしまいそうだった。
第一、最も必要のない言葉だと思う。
シカゴに一緒に連れていってしまいたいと思った。
このままずっと一緒にいてほしいと思った。
ずっと、ずっと。
全部、可能のような気がした。
理解できなかったはずの、男に溺れていく人たちの心情が、少しだけわかった気がした。

進藤先生はいつまでも私を離そうとはしなかった。
目が覚めたときからずっとこのままだ。
チェックアウトの時間まで、あと2時間半。もうそろそろ支度をはじめなければならない。

「バスタブにお湯をはってくるだけよ」

もう3度目だ。

「すぐ戻ってくるわ」

抱き締める力が強くなる。
苦笑するしかない。

「じゃあ、あなたが行ってきて。待ってるから」

ようやく離してくれると、不機嫌そうな顔で私を睨んでからベッドを出ていった。
これからどうなってしまうのだろうか。
私はちゃんとシカゴで暮らしていけるのか、急に不安になる。
見たことのない進藤一生が、私を支配していく。
チェックアウトするのが嫌だった。
もう自分から現実に戻るのは不可能かもしれない。
二人でいるときは気にも止めなかったのに、残されたベッドがやけに広く思えた。

出発の日は、やけに晴れた日だった。
見送りがついている人を見ると、少し心細く感じてしまう。

チェックアウト後も結局は離れられず、昨日待ち合わせをしたカフェでブランチをとった後、部屋まで彼を連れてきてしまった。
明るいうちから抱き合うのは、学生以来だった気がする。
照明をおとしても明るい中での行為は、幾つになっても苦手なものだった。
夕方に入るお風呂は、小さい頃から好きだ。
汗だく帰ってきた夏休みのプールの後、一日中寝て過ごした日に気が向く時間、好きな人との夜のデートの前。
日常から外れた気がして、特別に思えた。
―あなたの口からカプチーノなんて言葉が出るとは思わなかったわ。
狭いバスタブで、後ろに彼の高めの体温を感じる。
―アメリカンは苦手なんだ。
お湯の温度のほうが高いはずなのに、どうして体温のほうが暖かく感じるのだろう。
―アメリカのコーヒーショップだからって、アメリカンコーヒーとは限らないわよ。
紫色のバスソルトからは、イギリスのメーカーのシャンプーたちとは違う香りがする。
―気持ちの問題だ。
首筋はどうも苦手らしい。
やわらかい唇があたるとぞくぞくとした感覚が背中を走りぬけていく。
何度同じところに跡をつけたがるんだろう。この人は。
こんな子供じみた真似する人だとは思わなかったし、許してしまう私自身もどこか不思議だ。
―わざわざエスプレッソショット追加するのに?
耳元に、笑いが混じった息がかかる。
身体を捻ってキスを求めると、彼も答えてくれた。
それでもなかなか離れられず、私たちはずっと一緒にシーツに包まっていた。
イギリスのシャンプーの香りが消えてもずっと。
会話はほとんど覚えていない。
印象に残っているのはあの香水と、バーで流れていた音楽の話くらいだった。
人によって印象に残る音楽は違う。
彼が言っていたものは、むこうについたら聴いてみようと思った。
カナダ生まれのジャズシンガー。
アルバムは一度借りたことがある程度だった。

私たちが離れたのは、結局、夜になってからだった。
夜勤だという彼を見送る別れは、あっさりとしたものだった。
いってくる。
いってらっしゃい。
ただいま、おかえりなさい、の用意されていない挨拶。
別れを悲観して泣くことも、きつく抱き合うこともなかった。
二人では少し狭く感じた部屋は、少しだけ広いただの空間になってしまっていた。
しわになったシーツはそのままに、まだ少しあたたかいベッドの中に潜り込んだ。
少しだけ涙が出たが、手足の怠さと寝不足のせいで眠りにつくのは早かった。

携帯を取り出すと、句読点含め7文字の言葉に、まだ覚えていない英語と数字を打ち込んだ。
通信を切ると同時に電源も落とす。
このメールを見るのはいつになるだろう。
今頃きっと仕事だ。また厳しいことでも言ってるのだろうか。
アナウンスでは、搭乗予定の便の名前が流れている。
一つ息をついてから、搭乗口へと向かった。






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